第五章 調査その一
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煌月とルナアリスは一度厨房に寄ってから客室へ移動した。目的は厨房にあったビニールの使い捨て手袋だ。清掃用具一式の中にあったのを昨日佐倉が見つけていて、下手に指紋を付けない為にと提案してくれたのだ。
宝条を除く七人はホール内で脱出口の探索を開始した。散開して壁や床を触っている。その様子を横目に煌月とルナアリスは階段を上っていく。
歩きながら煌月は頭の中で情報を整理する。
これで全員の部屋割りが分かった。被害者はホール側から見て左側で四名、右側で二名名。左側に偏っていて、三人横並びの所がある。羽田さんは八番の部屋だから、部屋から出た所で鉢合わせして殺されたと考えられるな。
北野さんと甲斐さんは同じ高校に通う者同士で面識があるが、他の被害者四人とは互いに面識と関係性は無い筈だ。今のところ動機が見えてこない。
そして問題は五カ所の密室。施錠された部屋の中で殺されていてた。窓の外は奈落の谷だから、そこから簡単に出入りは出来ないだろう。
頭の中で状況を整理し問題点を洗い出す。それを元に捜査方針を定める。
六人の死が今も留まる廊下と左右対称の客室。
――死の匂いがする。あの日に嗅いだのと同じ、失われた命の残り香がここに六つ。
あの日というのは初めて死体をすぐ傍で直視した日の事だ。警察に協力した二つ目の事件が殺人事件だった。事件現場に招かれて、そこに女性の死体が横になっていた。
死体が放つ独特の異臭ではない。死と死者の気配が言葉に出来ない匂いのように感じた。それは死体に出会う度に感じ続けて、今日この時も変わりはない。変わりがないからいつも通り。
「さあ行こう。最初は十番の部屋だ。瀬尾田さんの部屋から始めましょう」
「オッケィ。よーしやるぞ!」
踏み出す二人の足に躊躇いは一欠けらもない。十番の部屋、殺された瀬尾田の部屋の前に立つ。
蹴破ったドアを横目に煌月は室内へ足を踏み入れる。脱出口探索組に負けないやる気を見せる天才少女が軽い足取りで続く。
「この部屋は施錠されていた。入り口はこの一カ所だけ。窓は一般的な体格の人なら大人でも通ることが出来る。しかし窓の外は深い谷。他の部屋と同じならば、窓自体が人が通れるほど開かない」
「窓から出入りが不可能だとしたら、犯人はこのドアから出て密室にしたと考えられるね」
「そう考えていいと思いますが、一応先に窓から調べてみます」
全開のドアに背を向けて部屋の奥へ。死体を気にしながらカーテンを全開にした。波打つようなカーテンに遮られていた外からの光が、室内を幾らか明るく照らす。
「今回のケースだと、何らかの方法で出入り不可能と思われる窓から侵入する。もしくは何らかの方法で外から鍵を掛ける、だよね」
真剣な表情で窓を見ながらルナアリスが意見を出した。
「そうですね。まず分かることは、この窓からの出入りは無いということですね」
煌月が指差した先に視線を向けてから、「そうなの?」と期待の眼差しを煌月に向けるルナアリス。
「窓は左側が五、六センチ位しか開かないうえに右側が嵌め殺しになっています。窓に関してはどこの部屋も同じみたいですね。窓の近くに溜まってる埃の様子を見るに、人が出入りした痕跡がありません」
煌月は窓の中央に付いているスライド錠を外して開けた後、窓枠の付近に素早く視線を走らせている。その視線の先には薄く積もった埃が自然のまま残っている。
「なるほどね。……ちょっと待って。秘密の抜け道の可能性はないのかなぁ」
煌月はサイズが合っていないビニール手袋を嵌めた両手を見ながら、
「そうですねぇ。秘密の抜け道がある可能性は無視してしまってもいいかと」
「その根拠は何?」
黒髪を揺らして見上げる。
「そもそも客室は谷に迫り出す形になっています。さっき大宮さんの部屋から外を見た所だと、どうも床下には大人が通れるスペースは無さそうです。精々配管回りの分だけでしょうね。
壁は両端に別の部屋がありますし、部屋の形状から考えると両端の壁に廊下側から、つまり隣の部屋を通らずに出入りできるスペースがあるとは考えにくいです。あるとすれば天井からですが、やはり天井部分も人が通れる程のスペースは無さそうです。屋外に出て真上を移動するパターンもありますが、それなら室内や天井の汚れ等を調べれば大体分かります。見たところ天井にそれらしい痕跡や切れ目のような線はありません」
身長が二メートルを超えている煌月は天井付近まで頭頂部が近づく。なので天井に何らかの痕跡があるかどうかを調べやすい。天井にそれらしい痕跡は見当たらないことはすぐに分かった。
「やはりドアから侵入したのでしょう。死体の状況から考えてみても、ドアから侵入したとして矛盾する事はありません」
「死体の状況……状況……あっ分かった! 刺さった矢の羽が付いている側がドアの方を向いてる。右半身に刺さっているし、この刺さり方はドアの方から発射されたんだ!」
頭にタオルが掛けられている瀬尾田の死体を見たルナアリスは、すぐに正解を見つけた。
「そうです。ドアから入って弓かクロスボウ、狙いやすさと威力を考えるとクロスボウですかね」
「なるほど。それなら廊下から鍵を開け閉めした方法を調べるべきだね」
煌月は大きく頷いて、蹴破ったドアを調べる為に大股で入り口へ移動。そのすぐ後ろをルナアリスが跳ねる様に追う。
煌月の無表情の中に鋭い眼光が姿を現した。
「ドアから鍵を開けて侵入。矢を撃ち込んで殺害した後に退出。外からドアの鍵を掛ければ犯行は完了。で、問題はこのドア」
ハンドルレバータイプのドアノブ。デッドボルトの根本付近の破損。ドア付近の天井に着けられたライトが、弱々しいながらもドアを照らしていた。
「鍵の形状は兎も角、裏からサムターンで施錠できるタイプか。デッドボルトの状態からこの鍵は施錠状態だったとみて間違いない。それと補助錠。これも破損しているな」
補助錠はスライド式で本体がドアに付いている。壁に付いていたであろう、コの字の金具は留め具が、乱暴に引き抜かれたように外れて床に転がっている。窓に付いていたのとほぼ同じ仕組みのものだ。
「蹴破る前は補助錠も施錠状態だったようです。でなければこんな風に壊れる訳がない。つまり、二つの鍵でこのドアが施錠されていたということ。ちなみにこの部屋の鍵は室内のテーブルの上に置いてありました」
厨房で証拠品の保存に使えると、チャック付きのビニール袋を持ってきていた。それにこの部屋の鍵を入れる。
「ドアにはこれといっておかしな点が無いように見える。廊下側から見てもセイレーンの絵以外は普通のドア」
試しにサムターンを回してみると、歪んでいるのか金属同士が擦れるような、金属音が発せられた。一応まだ回る。補助錠は本体は無事だったのか、動かしてみると滑らかにスライドした。
なんだ? 妙な感じがする……。壊れたからか……いや違うか……。
煌月は何度か左右にスライドさせたが、これといって変わった所は無さそうである。
左手を口元に当てて考えるがすぐに答えは出てこない。入り口を塞ぐような位置で立ち続けていると、足元から幼い助手の声が届く。
「ドアの下の方を調べてみたけど特に不審な点はなさそうだよ。古典的な手だけれど糸を使う方法を考えてみたんだ。でも枠の部分にゴムが付いていて、糸が通れる隙間が無いみたいなんだよね。横からも通せる隙間は無いみたい」
煌月はしゃがみ込んで枠の部分に触れる。薄暗いので分かりにくいが黒っぽい色のゴムがあるのが分かる。
「確かに。ここには
煌月はゆっくりと立ち上がりドアの上部、天井に接しているドアの部分を確認。
「それに上の方も同じく糸を通せる隙間がないような構造ですね。糸が無理ならば当然ドアの鍵を外から中へ送り込むのも無理です。殆ど密閉状態ですね。防音性を高くする為でもあるかもしれません」
犯人はこの部屋に侵入して犯行を行った。瀬尾田さんが寝る前に施錠したかどうかは定かではないが、当然犯人は施錠されていた時のことを考えていた筈。つまり外から鍵と補助錠を開け閉め出来る方法を犯人は用意していた。それが分からなければ犯人を有罪にはできない。
煌月はドアの端から隅々まで目視で確認する。同時に周りの壁も確認する。何か手掛かりがないかと神経を集中させる。
「郵便物を入れる投入口とかがあれば、そこから糸なり針金なりで操作出来そうなんだけどなぁ。ドア自体が一枚の板みたいになっているから、隙間が無いとこの方法は無理だね」
ルナアリスは立ち上がって、指先で小さな唇を何度も小さく叩いた。
「そうですね。トリックは不明ですが、犯人がこの城を熟知している人間と見て間違いないでしょう。鍵の事は詳しくありませんが、ここの鍵は特殊なタイプなのでマスターキーは存在しない可能性が高いと思います」
「ピッキングも難しいかもだしね」
「仮にマスターキーが存在していても、補助錠が外から操作出来なければこんな状況にならない。トリックの全容解明には至りませんがね」
元々補助錠は防犯性を高める目的で付けるものだ。故に外から開けられないような構造であるのは当然の事である。なのにこのドアはその常識に反している。
「ちょっとこれは一旦後回しにしましょう。次は死体を詳しく調べてみます」
左手を口元に当てて足元のルナアリスに声を掛ける。
「そうだね。何か手掛かりがあるかもしれないね」
小さな頭を大きく縦に振った。
探偵と助手はベッドの上に横たわる瀬尾田の元へと向かった。物言わぬ彼は顔にタオルを被せられている。掛け布団も死体発見時は掛かったままだった。
「発見時に死後硬直と死斑を素早く調べた所、瀬尾田さんの死亡時刻は日付が変わった深夜二時以降。これは他の犠牲者五人とほぼ同じです。同じ時間帯に続けざまにやられたのでしょう。殺害後移動させた形跡は無し」
「ドアから侵入して一発、だね」
刺さった矢の刺さり方はドアの方から飛来したと考えて矛盾が無い角度だ。煌月は慎重に掛け布団を捲った。二人の注目が死体に集まる。
「ん? これは……」
死体のシャツを捲り刺さった矢を調べると一点に目が留まった。
「何か発見があった?」
ルナアリスの質問に煌月は間髪入れずに、
「ここ見えますか? 矢が刺さった部分の近くが変色しています。普通の傷ではこうはならない筈です。もしかすると矢に強力な毒が塗られていた痕跡かもしれない」
左手の人差し指が指した部分にルナアリスは顔を近づけた。
「ホントだ。確かに変色してる。毒を塗られていたのなら確実に命を奪う為にだよね」
「でしょうね。司法解剖をしないと分かりませんが、刺さった位置を見ると急所は外れていると思います。にもかかわらず殆ど藻掻いたような痕跡が無いので、即死かそれに近い程の極短時間で死ぬ程の強力な毒物だったのかもしれません」
煌月は手帳に新たに判明した情報を書き込んでいく。
「命中すれば必殺。犯人は確実に仕留めたかったんだね」
「でしょうね。用意周到です」
「その凶器探しもやらなきゃだね」
「それなんですが……犯人がまだ持っているとは限らないんですよね。もう処分した可能性が高い。こんな閉鎖された場所では隠し場所も限られている。特にクロスボウならそれなりの大きさがあるから隠すのは難しいでしょう。
殺人事件は次の日の朝には間違いなく発覚します。羽田さんは室内ではなく廊下で殺されていた訳ですからね。そうなれば私が事件を嗅ぎまわる事は予想できる」
ルナアリスは指先で小さな唇を何度も小さく叩きながら、
「そうか……そうだよね。自己紹介の時に白髪探偵の話をしたから全員が知ってる。その煌月さんに現物が見つかったらアウトだ」
「ええ。窓から谷底に放り投げるだけで簡単で確実に処分できますから、恐らく犯人は元々そのつもりだった可能性が高い。窓も何らかの方法で十分な程開けられるようになっているかもしれません。何処の部屋から放り投げたかは見当がついています」
煌月は窓を見遣る。少し開いたカーテンの間から陽の光が差し込んでいる。暗めの部屋に差すその光はどこか寂しそうだ。
その後死体と室内を一通り調べたが特に不審な点は見つからなかった。
「他にこれといった発見はないようですし、次の部屋に行きましょうか」
二人は十番の部屋を後にした。煌月は少し考えたが、腕時計で時間を確認してから手帳に捜査状況を書き込んだ。そして十番の部屋を施錠した。
ビニール袋から取り出した鍵を差し込み回すと、若干不快な音がしたが鍵は回ってデッドボルトが顔を出した。鍵は間違いなくこの部屋の鍵である。
鍵をビニール袋に戻した後、反対側の二番の部屋へと足を運ぶ。ここは北野が使っていた部屋だ。
「ルナアリスちゃんは大丈夫ですか?」
「大丈夫、行こう」
小さい才女は力強い表情で煌月を見上げた。
二番の部屋に入ると煌月はまずカーテンを全開にした。間取りや調度品は他の部屋と同じ。私物が入っているリュックはベッドの横の床に置いてある。テーブルの上には空き缶の他、煎餅の空き袋と個包装のチョコレートの袋が放置されていた。
「窓の埃の様子から見て窓からの侵入はないようですね。窓の開き方も同じです」
外からの光を頼りに視線を走らせる。
「ここもドアから侵入して犯行を行ったようです」
死体は部屋の中央に転がっていた。ブランケットが掛けられている。煌月がブランケットを捲ると、北野はお腹を庇うような姿勢で絶命し横たわっていた。
「瀬尾田さんと違って北野さんは起きていたみたいだね。侵入してきた犯人に気がついて起たところを襲われた」
「そのようですね」
煌月は死体の近くでしゃがんだ。ルナアリスも続いて両膝を付いた。
「彼も毒を塗られた矢で殺されたようです」
瀬尾田と同じく矢が刺さった所の皮膚が変色している。
「死体を動かした形跡は無いし特におかしな点はなさそうだ。起きていたのならダイイングメッセージがあるかもと思ったが、それらしいものは無いようです」
彼は消えていく意識の中で何を思ったのだろうか? 少なくとも幸福な気分ではなかった事は間違いない。
「考えてみれば咄嗟にダイイングメッセージを残せる人って凄いよね」
「ある種の執念でしょう。犯人に対する最後の反撃です。殺人事件に関わっていると時々あるんですよ。被害者の執念が形になって残るケースが」
煌月が引き受ける案件は殺人事件が大半だ。それは犯人との戦いと言えるが、視点を変えれば死者とそれを取り巻く環境と向き合い続けることでもある。煌月はそれを面倒だと感じはしない。だがやりがいがあるとか、そういうポジティブな感情で関わっているという事でもない。
「犯人が侵入して、毒が塗られた矢を撃ち込んで立ち去った。そう考えて矛盾する点は無いでしょう。ルナアリスちゃんは何か気なる点はありますか?
「うーん……死体に特に気になる点は見当たらないかな」
矢を受けたところ以外は特に外傷は無く、苦しんで藻掻いたような形跡が僅かに残っていたくらい。不審な点はなさそうである。
「となるとここの問題はドアの開錠方法と施錠方法ですね」
この部屋もドアには鍵が掛かっていて、蹴破って入った。窓から出入りした形跡が無い密室である。
ブランケットを死体に掛けなおしてからドアまで移動して調べてみる。ドアの構造は二番の部屋と同じだ。形状と色は勿論のこと、補助錠の位置も同じだ。この補助錠は蹴破る時に掛かっていたようで、二番の部屋と似たような壊れ方をしている。沓摺りにゴムが付いていて糸等を通せる隙間が無いのも同じ。
暫く調べたが結果は収穫は無かった。
「どういうトリックを使ったんだろ?」
首を傾げるルナアリス。煌月は無表情で左手を口元に当てている。
「瀬尾田さんと同様にこの部屋の鍵は室内のテーブルの上にあった。外から施錠して中に送り込んだとは考えられないのも同じ。ドアの鍵と補助錠を外から操作したとしか考えられないが……」
この犯行は行き当たりばったりで衝動的に及んだ訳じゃない。計画的な犯行だ。事前に用意する時間は十分にあった。咄嗟に思いつくような簡単な方法ではないとは思うが……。
「……おや?」
煌月は破損した補助錠を操作した。何度もスライドさせてみる。
「これもなんだか……」
ルナアリスは唇に人差し指の先端を触れさせながら煌月を注視していた。
「補助錠に何か仕掛けがあった?」
「これといったものは無さそうですが、向かいのドアの補助錠も同じ感じがしたんですよね。何故だ……?」
何かが違っているような。破損したからというのとは違う、そんな気がする。
煌月は暫く補助錠をスライドさせ続けた。
「ちょっとここはこれまでにして次に行きましょうか」
「うん分かった」
二番の部屋を後にする二人。室内から回収した鍵がこの部屋の鍵である事を確認した後に、廊下の奥へと移動。鍵に描かれていたのは蒲公英(たんぽぽ)だ。
「次は羽田さんの死体を調べます。気になる点があるんです」
「それ、もしかして刺さってる矢の本数の事?」
「そうです。羽田さんだけ矢が二本刺さっているもので」
廊下の最奥、突き当りの壁に寄りかかる姿勢で、羽田は息絶えていた。彼に被せられたブランケットをどかしてから二人は羽田の正面にしゃがんだ。
羽田は昨日と同じ服装で息絶えている。眼鏡はすぐ近くの床に落ちていた。床に絨毯が敷かれているので、その眼鏡は破損を免れたようだ。
煌月はビニール手袋を大きい手に嵌め直してから、
「では調べてみますか」と無表情の顔を死体に向けた。
上着を慎重に捲り矢が刺さった部分を確認する。右胸に一本、左半身の下腹部に一本刺さっている。上着を貫いて下腹部に刺さった矢の周辺には、赤黒い血が固まっている。
「成る程、矢が二本刺さっていた理由はこれか。ここ、見えますか?」
煌月が指を指したのは右胸に刺さっている矢の方だ。
「見える。刺さった部分が変色しているね。もう一本の方は変色していないのに」
「そうです。恐らく一本目の矢に毒が塗られていなかったのでしょうね。下腹部に刺さった矢は位置的に急所は外れているようです。それですぐに死ななかったから、二本目を撃ち込んだと思われます」
「確かにそうかも。でもどうして一本目に毒が塗られていなかったんだろう?」
「推測ですが、単純に塗り忘れた矢があったのではないでしょうか。犯人が多めに矢を用意していたのなら、塗り忘れた矢が混じってしまった事に気が付かなかった可能性はあるかと」
ルナアリスは納得したように小さな頭を何度も縦に振った。
「ちょっと私のスマホで撮影したいのですが頼めますか?」
左手で上着を掴んだまま右手でポケットからスマホを取り出し、ルナアリスに差し出す。
「撮影する役ね、まっかせてよ」
スマホのロックを慣れた手付きで解除し、ビニール手袋を脱いだ小さな手に渡す。
「オッケィ、横で撮るね」
「お願いします」
ルナアリスがレンズを刺さった矢に向けてシャッターを押す。
「よし、他の部分も見てみましょうか。」
上着を戻し頭部から下へと順番に調べていく。乱暴に扱わず慎重に少しづつ動かしながら手掛かりを探す。
「頭部に外傷無し、ここも一応撮ってください。足元に気を付けて」
再びシャッターを押した。シャッター音が少しだけ廊下に響いた。
「どうも矢以外の外傷はなさそうですね。毒を使っているのなら無用な攻撃をする必要は無いので、別に不自然ではありません」
「そうだよね。反撃を受けるリスクを避けて確実に殺害する為に、毒物と飛び道具を使ったみたいだよね」
「ですね。毒の入手先等の気になる点はありますが……」
羽田の腰から下半身へと調査の手を動かそうとしたその時、煌月の目が留まった。
「薄暗いのと色合いで見づらいですが、羽田さんのお尻の所の絨毯に少しですが血痕がありますね」
「……確かに付いてるね。でもこれって不自然じゃないかなぁ? 羽田さんは壁にもたれかかっているよね。腰とかお尻をケガして出血したとは思えないよ。犯人は不必要な攻撃はしなかったと思うし……」
煌月はルナアリスの意見に対して黙っている。血痕が見つかった場所の周囲を調べはじめた。
「確かにその辺りから出血した訳ではありませんね。しかし血が固まる前にここの上に座り込む形になったのは間違いないようです。と、いうことは」
「ということは?」
期待を込めた眼差しが煌月の無表情な顔に向けられた。煌月は羽田がもたれかかっている壁を調べた後、力無く投げ出されていた羽田の両手を調べた。
「背後の壁の下の方に僅かですが血痕があります。それと右手人差し指の部分、擦れたような血痕の跡があります」
ルナアリスもそれらの痕跡を確認し、煌月に促されてスマホで撮影した。
「これは想像ですけどね。毒が塗られていなかった一本目を撃ち込まれた羽田さんは、一度犯人に背を向けたのではないでしょうか。そして壁際で倒れ込んだ際に壁の下の方を血の付いた手で触れた。強力な毒で死ぬと思っていれば、犯人は暫くその様子を窺っていたのでしょう。その後で羽田さんは壁に寄りかかる体勢になり、中々死なない彼に二本目を撃ち込んだ。それなら床に垂れた血痕の上に座り込む形になってもおかしくないです」
ルナアリスは少し考える仕草をしてから、
「成る程、それなら説明がつくね」
幼い顔が明るくなった。煌月は無表情のまま一度だけ頷いた。そしてゆっくりと体勢を変える。
「本当は下手に動かすのは良くないんですが、気になることがあるので少しずらしてみます。ルナアリスちゃん、壁の方を確認してみてください」
「わかった」と短く返事をして、横から覗き込むように壁を確認した。そしてすぐに声を上げた。
「背中の後ろに手帳が落ちてる。羽田さんが使ってたやつ!」
「ビニール手袋を嵌めなおして回収してくれますか」
「うん、ちょっと待って」
ルナアリスが素早く回収を行う。それを確認した煌月は死体を優しく戻した。
「あれっ? これって偶然なのかなぁ?」
「何かありましたか?」
「うん、この表紙なんだけど。ここに『RAKOIBEN』ってあるでしょ。多分メーカーの名前だと思うんだけど、『K』のアルファベットにだけ血がベットリ付いているんだよ」
手帳の表紙を煌月が見やすいように掲げた。
「……確かに手帳自体に幾らか血は付いていますが、明らかに『K』だけ血を沢山付けたように見えますね。右手の人差し指の血痕とあわせると、羽田さんが咄嗟にやった可能性は高いです。手帳を背中に隠したとも考えられますし」
「もしかしてこれ、ダイイングメッセージじゃないかな?」
「私もそう思います。正面から攻撃されたのだから犯人の顔を見た筈です。名前をそのまま書くと犯人に処分されるし、その余裕もなかったでしょう。だから犯人に知られないように『K』にだけ血を付けた」
煌月は相変わらず無表情のままだったが、ルナアリスは希望を見つけたかのように表情を明るくした。
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