第37話 天使
割り当てられた部屋の中、降りしきる雨の音を聞きながら木の板をなぞる。
時間になれば呼ぶから部屋にいてくれとローザに言われ、待っているわけだが……することが何もない。
窓から景色を見てみても、何やら忙しそうに住民達が動いていることくらいしか分からない。
ナイフの手入れも終わった。
何かないかと部屋を物色していたところ、見つけたのがこの木の板だ。
正確には、文字を彫られた木の板か。
つらつらと、天使がもたらした奇跡について書かれている。
やれ手を振っただけで暗雲を払っただの、恵の雨をもたらしただの、そういった奇跡の数々が仰々しい言葉遣いで細かく彫られている。
まさか、これが各部屋に置かれているのだろうか。一体、これを彫った者は何を考えながら彫ったのだろう。誇りにでも思っていたのだろうか。
長ったらしい物語も読み終え、窓の外は暗くなり始めている。
誰かが二階に上がってきた気配を感じ、木板を元の場所に戻した。
二度のノックの後に、落ち着いたローザの声が聞こえる。
「お時間です」
「ええ、向かいます」
扉を開け、ローザに続いて階段を降りる。
玄関扉の前でハイリが待っていた。
「教祖様の元へは私が案内しますね」
微笑んだハイリが玄関の扉を開ける。
依然として雨は降り続いている。
ローザはハイリに頭を下げると、階段を上がっていった。
外に出て扉を閉めたハイリは大きな傘をさすと、私を中へと招き入れる。
「では、向かいましょう」
もう外は暗いというのに、フードを被った数人の住民が辺りをうろついている。
「あれは?」
「見回りを行っています。天使様の涙が降り続いている間は、辺りの魔力濃度も乱れますから」
「そうなんですか」
目に魔力を集める。
どうやら水の魔力が少し多いようだ。
だが、見回りを行う程には見えない。
セキヤならもっと詳しく分かったのだろうか。
「待っている間、窓から景色を見ていました。雨の中でも忙しそうにしている人々がいましたが、それは?」
「捧げ物の準備でしょう。祭典には必須ですからね。いつ祭典が行われるかは分かりませんから、少しでも早く準備しようと急いでいるのです」
捧げ物か。
見るに、住民達はそう裕福な暮らしはしていないように見える。
服も粗末なもので、痩せこけた者が多い。
そんな中で捧げ物を準備するというのは、中々酷なことに思える。
「天使様の恩恵を受けるには、捧げ物が必須ですから」
「なるほど……」
一体どのような捧げ物をするのだろうか。
この集落で調達できるものは限られていそうだ。
そう考えている内にハイリが足を止める。
「あちらが教会です」
教会というよりは、屋根も壁も真っ白に塗られた家のように見える。
それでも整えられた庭や門があり、集落にある他の家々と比べると雲泥の差だ。
黒い服を着た二人の門番が頭を下げる。
片方は昨日相談者が長蛇の列を成していた神父キュリオだ。
彼は私をじっと見つめ、目を逸らした。
門を通り過ぎ、傘を閉じたハイリは扉を開けた。
「どうぞ」
ホールには動物の木彫りや、色鮮やかな壺が置かれている。
あれらも捧げ物の内なのだろうか? それとも元からある調度品なのだろうか。
傘を吊るした彼女は、ホールの奥へと進んでいく。
「こちらで教祖様がお待ちです」
細かな模様が彫られた両開きの扉に手をかけた彼女は、音を立てないようにゆっくりと開けた。
磨かれた石の床に白く長い絨毯が敷かれている。
彫刻を乗せた白い石柱が両端に立ち並んでいた。
その先で、椅子に座る一人の子供と傍に立つ大男が私を待っている。
ハイリに促されるまま奥へと進む。
膝に手を置いてお行儀よく座っている、白い衣を着た子供。その髪は、ヴェノーチェカを象徴する色彩をもっていた。
ふわりとした肩ほどの銀髪に、水色の髪が二房。
目元に巻かれた白い布の向こうには、きっと赤い瞳が隠されているのだろう。
隣に立つ茶髪の大男は、柔らかい笑みで私を見つめている。彼の服は門番をしていた神父と似ているが、明らかに質のいい生地を使っていた。
「旅人をお連れいたしました」
「下がっていなさい」
大男はゆっくりとした声でハイリに命令した。
ハイリは頭を下げると、部屋を出る。
「お会いできて光栄です。私はドグマ、教祖として天使様にお仕えしております」
胸に手を当てたドグマはゆっくりと、軽く頭を下げた。
彼が教祖であれば、やはり椅子に座っている……明らかにヴェノーチェカの血を引いている子供が天使役なのだろう。
「ねえドグマ、細かいことは無しにしよう。直接ボクが話すよ」
鈴のような声がする。
唇の端を吊り上げた子供は、両腕を広げた。
「ボクはイディア。この集落を守護する天使。この集落に置いて絶対の存在。君の名前は?」
「私はゼロといいます」
「君の話を聞いた時、ボクは確信したんだ。君はボクの家族だって」
私も確信していた。
まさか他に生き残りがいるとは思わなかったが。
「私もですよ。貴方の出自を聞いても?」
「出自? そんなこと知ってどうするの? ボクのも君のもどうだっていいし、知らないよ」
イディアは口を下げて退屈そうに言った。
深掘りはできそうにない。だが、いいだろう。
元より話してもらえるとも思っていないのだから。
大方、誰かが隠し子でも作っていたに違いない。
「まあいいや。それで提案なんだけど、君も天使として楽しんでみない?」
どうやら自分が天使ではないことを隠す気はないようだ。
一体どうやってここで天使としての地位を確立させたのかは知らないが、二人で甘い蜜を啜ってきたのだろう。
住民達は痩せこけていたが、二人は健康体そのものといった風貌だ。
だとしても……なぜ私を誘う?
いくら親族だとしても、誘う理由になるのだろうか。
そこが分からない。
「私が天使として、ですか」
「そう。そして他の三人は贄にするんだ」
贄。
やはり、そういうことだったのか。
どうやら私の仮説はあまり間違っていなかったらしい。
「贄ですか?」
「つまり好きにしていいオモチャだよ。魅力的だよね」
さて、ここからどうするべきだろうか。
見た限り、イディアは私が断るとは思っていないようだ。
なら、私が取るべき行動は決まっている。
「祭典の日に贄を取るのですよね?」
「そうだよ。よく分かったね?」
「勘ですよ。それで、その祭典の日はいつに?」
「明日。明日になれば、神父が贄を連れてくるんだ」
思ったよりも時間がない。
いっそ、ここで彼らを無力化するか?
いや、その前に声を上げられでもしたら……リスクが高い。
「分かりました。なら、私が直接連れてきますよ」
「君が? その必要はないよ」
「私がやりたいんです」
言葉を間違えてはいけない。
きっと彼には、この方向性が丁度いいはずだ。
「私が天使になる初舞台なのでしょう? もっと楽しい方がいいじゃないですか」
「ふうん……その方が君は楽しめるんだ?」
イディアは口元に指を当て、虚空を眺めた。
その口元が吊り上がる。
「そうだね、楽しいのは大事……いいよ、明日になったら連れてきて」
イディアは椅子に背を預け、指を組んだ。
納得された、か?
「では、私はこれで」
「うん。また明日ね」
軽い調子で手を振る彼に背を向ける。
ひとまずは、これでいい。
さあ、彼らを連れて逃げなければ。
雨だろうと気にしていられない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
客人が去った扉を見つめていたドグマは、イディアの両肩に手を乗せた。
先程までの柔和な顔とは違う、無骨な男の表情だ。
「良かったのか? あのまま行かせて。天使を偽った者として処分する予定で……」
「あのね、ドグマ。ボク、気が変わったんだぁ」
「気が変わった?」
目を覆う白布を取ったイディアは、赤い瞳でドグマを見つめる。
「ボク、お兄ちゃんが欲しくなっちゃった」
「……俺は用済みか?」
ドグマはイディアを抱きしめる。腕が震えているのを見て、イディアは笑った。
肩にうずめられたドグマの頭を、イディアの小さな手がそっと撫でる。
「そんな捨てられた亜人みたいな声しないで。ボクがドグマを捨てるわけないでしょ?」
「イディア……」
「どうしたの、疲れちゃった? 教祖サマごっこも大変だね」
顔を上げたドグマの頬に小さな手が触れる。頬を撫でた手は輪郭を伝い、顎の下をくすぐった。
「それで、ボクの願いは叶えてくれるの?」
「俺が君の望みを叶えなかったことがあったか?」
キョトンとしたイディアは破顔してドグマの首に腕を回す。
「あははっ、愚問だったかぁ。ごめんね、ドグマ」
「謝ることはない。君の望みは……彼を身内として扱い、他を贄に。それで間違いないか?」
「せいかーい!」
ドグマが小さな体を抱き上げる。
まるで御伽話に出てくるお姫様と騎士のようだった。
でも、騙されてはいけない。
誰が何と言おうと、彼らは悪魔とその従者でしかないのだから。
「でも、ボク達でやることは何もないよ」
「それは……」
イディアの細い指が、ドグマの唇に触れる。
「言っておくけど、ドグマが思ってることは違うからね。二度も言わせないで」
イディアはくすくすと笑う。
きっと信者達が見ても、天使の微笑みだとは言わないだろう。
「お兄ちゃんも言ってたでしょ? あんなにもボクに似てるんだ。ボクと同じくらい、楽しいコトが好きに決まってる!」
「君が、そう言うなら……」
「だからボク達は待つだけでいいんだよ、ドグマ。今までボクが間違えたことなんてないでしょ?」
イディアはドグマの耳元に顔を近づけ……ああ、これ以上見る必要もないだろう。
時は満ちつつある。彼らの独裁は終わりを迎える。
私が裁くのだ。聖女たる私が。
「ああでも、ネズミちゃんはそろそろ捕まえちゃっていいよ。コソコソするばっかりで、全然面白くないんだもん」
微かに聞こえた声に、ぞわりと背中が粟立った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
バサバサと黒い影が飛び立つ。
暗い中、裏口を通って集落を出た俺はローザさんに連れられて森を歩いていた。
彼女の母親がここにいるのだという。体調を崩しているからと言われ、荷物も持ってきたが……いくら俺でも、おかしな話だと分かる。
ただ、彼女の言葉を嘘だとも思いたくなくてついてきた。
「それで、君の母親はどこに?」
少しの疑惑を持ちながら問いかける。
「……いません」
振り返った彼女の髪を冷たい風が揺らした。
想定内で……でも、聞きたくない言葉だった。
「母はもう、いません。どこにも」
「……なんだって?」
どこにも? どこにもいないというのは、どういうことだ。
いや、分かっている。それが意味することが何なのかは分かっているが、ならなぜ彼女は嘘をついた?
「あの日、母は私に薬を飲ませました。茹で上がったような頭から、段々と熱が引いていったのを覚えています」
雨の音が続く中で、彼女は静かに語り始めた。
「きっと、貴方からもらった薬だったのでしょう。患者である私に直接会わせられないと言っても、とてもよく話を聞いてくれて、副作用が少なくなるようにわざわざ薬を調合してくれたと。素晴らしい薬師様だと、そう言っていました」
その話は覚えている。
前にここを訪れた時に世話係としてついていたサルビアさん。
彼女は心ここに在らずといった様子で……だから声をかけた。それが始まりだった。
娘が高熱を出しているのだと聞いて、俺は調薬した。
「代金もいらない、元気になるのならそれでいいと言ってくれた彼のために、恩返しをしたいと。置いていく私をどうか許してと、母は言いました」
「……待ってくれ、話が見えない」
「貴方が贄にならないように、母は貴方を逃したんだと思います」
「待ってくれと言っているじゃないか、なあ……」
声が震える。
読めた。読めてしまった。
彼女が続ける言葉が。
「代わりの贄には母が選ばれました。母は本来にえになるべきだった客人を逃した張本人。当然の結果と言えます」
「は……はは……」
顔を覆う。
思い出すのは彼女の……サルビアさんの顔だ。
贄だって? そんなもの、俺は何も知らなかった。
何も悟らせないようにと、笑顔で俺を送り出した彼女の決意はどれほどの物だったのだろう。
「どうして……俺が関わった良い人達は皆、望まない死を迎えるんだ」
「……貴方から見て、母は良い人でしたか」
「当然だろう! あんなに子供思いの母親だ。一生懸命に思い出しながら、病状を伝えてくれた。細かすぎるくらいの俺の質問に、ちゃんと答えてくれた……君を救うために」
深く頭を下げる。
俺が謝ったところで、どうにもならない。それは分かっている。
ただ、謝らずにはいられない。
「申し訳なかった。君から、彼女を奪ってしまって」
「……作り話だと思わないんですか」
「あの人の娘さんだろう、君は。なら、こんな嘘をつくはずもない」
これまで明るい表情を見せてこなかった彼女は、初めて口元を綻ばせた。
「どうやら、私の母は見る目があったみたいです。たしかに貴方は、良い薬師様みたいですから」
彼女は目を閉じる。次に開いた時、その目は決意で満ちていた。
「だから私も、貴方を救いたいと思ったんです」
芯が通った声だ。
彼女の思いはとてもありがたいものだった。
しかし、ここには俺と彼女しかいない。
宿に残してきた彼らは……どうなるのだろうか。
「……他の、三人は」
ローザさんは目を伏せ、言葉を詰まらせた。
「ごめんなさい。私では、貴方一人を連れ出すので精一杯で……ただでさえ、私は目をつけられていましたから」
「なら、今からでもっ」
彼らを放っておくわけにはいかない。
彼女の手から離れた傘が地面に落ちる。
戻ろうと振り返った俺の前に走り立った彼女は、両手を広げて道を塞いだ。
「駄目です! 今頃、貴方を連れ出したことはバレているはず……今戻ったら、貴方まで」
互いに見つめ合う。
雨音だけが響く中、彼女は両腕を下ろして俯いた。
「ごめんなさい。私は母ほど良い人ではないから……全員を助けるという選択肢を、選べませんでした」
……彼らの腕はよく知っている。
もしかしたら、無事に逃げ出せるかもしれない。
なら、今俺がするべきことは一つだろう。
「君も、一緒に逃げよう」
差し伸べた手が取られることはなかった。
彼女は目を閉じて、首を振る。
「それはできません」
「そんな、どうして……!?」
胸に手を当てた彼女は、仕方ないとでも言うような微笑みを浮かべていた。
「こんなところにキュリオ様を置いて行けません。ね、分かるでしょう?」
「そしたら君まで」
「いいんです」
重ねられた声に口をつぐむ。
彼女の頬が濡れる。それが雨なのか、涙なのか、俺には分からなかった。
「私は貴方を救いたかった。でも、それと同じくらい彼のことを放っておけないんです。信者達から絶大な信頼を得ている彼は、私以上に目をつけられているから……私が戻らなければ、彼まで贄にされてしまうかもしれない」
俺は何も言えなかった。
だからと言って、君が犠牲になる必要はないだろう、だとか。
ゼロ君達ならどうにかしてくれるかもしれないという他力本願な考えだとか。
いくつも頭に浮かんだ言葉は、彼女の目を前にして口に出すことはできなかった。
「じゃあね、薬師様」
彼女は悲しいほど明るい笑顔で背を向ける。
俺はただ、その背中を見つめていることしかできなかった。
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