第5話 おまじない
白と黒、そしてグレー。モノトーンで揃えた部屋の中、ドキドキと高鳴る胸の鼓動を抑えていた。
奮発して買ったベッドに腰掛けるゼロ君は、ぼんやりとカーペットを見つめている。その姿は美しくて、まるで精巧な人形みたいだった。
「ゼロ君がアタシの家にいるなんて……夢だったりしないよね? 現実だよねっ?」
立ち上がったアタシはくるくると回って、ゼロ君の左隣に座る。
手を重ねてみても、ゼロ君はぼんやりとしたまま動かない。でも、アタシはどうすればいいかを知っている。
「ゼロ君、アタシを見て」
そう言うだけで、ゼロ君は顔をこっちに向けた。赤い瞳にアタシの顔が映る。
ゼロ君の目に映るアタシは自分でも笑ってしまうくらい幸せそうな顔をしていて、今幸せなんだと改めて感じた。
「あの人が言った通りだ……本当に、名前を呼んでもらうだけでアタシの思い通りになるなんて」
言い表しようのない感情が込み上げて、体が震える。これは歓喜? それとも恐怖? 分からない。でも、そんなことはどうでもいい気がした。
白い机の上には、ゼロ君のことを記録した数枚の資料が置かれている。あの人から聞いた情報をまとめたもの。そして、その隣には紫色の香水瓶が並んでいる。
「やっぱり、あの香水の力なのかな。絶対につけるようにって言ってたし……」
視線を戻すと、ゼロ君と目が合った。ずっとアタシのことを見ていたらしい。
ドキリと跳ねた心臓を鎮めて、ゼロ君の頬に手を滑らせる。
「アタシね、アナタのことは色々知ってるんだよ。ある人に教えてもらったの」
そっとゼロ君の手をとって、そのまま指を絡める。ああ、まるで恋人みたいだ。
ゼロ君の綺麗で細い手は、こうして合わせてみると自分の手よりも大きい。男の子の手だ。そう思うと、ふふっと笑いが溢れた。
「こうすればアナタと一緒にいられるって教えてくれたのもその人なんだ。願いが叶う『おまじない』なんだって」
最初は信じられなかった。でも、あの人が教えてくれたゼロ君の情報は嘘のものには思えなくて。そして、信じた。
今は信じて良かったと心から思う。
(だって、そのおかげでゼロ君の隣にいられるんだもん)
ぽかぽかと体が熱くなる。
何を話そうか。それとも、何か作ってあげようか。もしかしたらお腹が空いているかもしれない。
ちらりとゼロ君の顔を見る。ずっとアタシを見つめているままで、ちっとも動かない。
少し、背中が冷たくなった。
「ねえ、聞こえてる?」
ぼんやりとしているゼロ君は、こくりと頷いた。
ほっと息を吐くと、体から余分な力が抜ける。
絡めていた指をほどいて天井を見上げる。吊り下げられた照明の魔道具が淡く光っていた。
「緊張してる? やっぱりまだ慣れないってことなのかな……アタシも少し緊張してるし」
ゼロ君はじっとアタシを見つめたまま黙っている。
ほんの少し。ほんの少しだけ怖くなったアタシは、見なくていいよとゼロ君に言った。
アタシを見つめていた赤い目が、再びカーペットを映す。
ぼんやりと床を見つめる彼は、本当に人形のように見えた。
「アタシね、アナタに幸せになってほしいの。アナタが今までどんなに苦しい思いをしてきたか、全部知ってるから……これが、アタシの『お礼』だよ」
あの人に会った時のことを思い出す。ゼロ君について教えてもらった時のことを。
金髪の綺麗な女の人。ピンク色の目が少し怖くて、でも目が離せない人。ゼロ君がいなかったら、好きになっていたかもしれない人。
「何年も何年も閉じ込められて、逃げ出した後は何年も何年もさまよって……やっとこの町まで来れたんだって、教えてもらったの」
ゼロ君をぎゅっと抱きしめる。
もう怖くないって、分かってもらえるように。
「でも、もう大丈夫だよ。これからはアタシとここで暮らすの。もう何も怖いことなんて、ないんだよ」
これだけ話をしていても、ゼロ君は嫌な顔ひとつせずに聞いてくれる。ほうっと息を吐く。
やっぱり素敵な人だ。あの人はゼロ君の怖いところをいくつも言っていたけれど、きっとそれも仕方なくやったことに違いない。
だって、ゼロ君はこんなにも綺麗で優しい人なんだから。
「アタシね、愛っていうものを貰ったことがないの。アタシ自身もね、アタシのことが好きじゃなくって」
ゼロ君の胸に頭をあずける。とくん、とくんと聞こえる鼓動が愛おしい。
「だからね、誰かを愛してみようって思ったの。そしたらアタシも愛してもらえるかもって……」
思い出すのは孤児院での日々だった。
自立できるまでの十数年間、ただ住むところと食事をもらえるだけの施設。誰かに褒めてもらえたこともなければ、誰かと遊んだ記憶もない。
大人達は皆、毎日のようにこう言っていた。
『君達は恵まれている。この町で生きていけるというのは、とても恵まれたことなんだ。幸せなことなんだよ』
でも、足りない。何かがどうしても足りなく感じて、どうしようもなく渇いて。それが愛だと分かったとき……アタシはどうしてもそれが欲しくて、たまらなくなった。
「アタシが誰かを好きになってもね……皆、すぐにアタシのことが嫌いになっちゃうんだって。何がいけなかったのか分からなくて、色々と頑張ってみたんだ」
ゼロ君の背中に回した手に力がこもる。
伝わる温もりが、少しだけアタシの心を鎮めてくれた。
「頑張ってみたんだけどね……全部全部、ダメだったの。それでアタシ、思ったんだ。自分自身を愛せないのに、誰かを愛して愛されるなんて無理なのかなって」
一週間前、好きな人に拒絶されたことは簡単に思い出せる。
またダメだった。そう思いながら歩いた帰り道で、ゼロ君に出会った。風で飛ばされたアタシの帽子を取ってくれた、優しくてキレイな人。
「誰かから優しくしてもらうのもね、本当に……本当に久しぶりなの。アナタはアタシの帽子を取ってくれて、嫌な顔もせずに渡してくれて……そのときに、きっとこれが運命なんだって思ったんだ」
そう言いきった後で、頬が熱くなる。
少し、恥ずかしいことを言っちゃったかもしれない。そもそも、勢いに任せて抱きしめてしまったけど、これもかなり恥ずかしい。
慌ててゼロ君から体を離したアタシは、両手を握った。
あれ、これももしかしてかなり恥ずかしいことなんじゃ?
ぐるぐると目が回りそうだった。
「で、でも。運命ってステキな響きだと思わない? ああいう出会いを運命って言うんだって本にも書いてあったの。あの人だって、そうに違いないって言ってくれたし……!」
思いつくままに言葉を連ねる。自分でも何を言っているのか分からなくなりそうになった。
ふと、ゼロ君の左耳に光るものを見つけた。銀色のイヤーカフ。あの人の話にもあった、イヤなモノ。
「そうだ……ゼロ君をここに呼んだら、外してあげようと思ってたの。こんなもの、いらないでしょ?」
ゼロ君の左耳からイヤーカフを優しく外す。立ち上がって窓を開けたら、手のひらで輝くそれを思い切り放り投げた。
弧を描いて落ちていくそれは植え込みの茂みに消えていく。
ああ、スッキリした。口角が上がっていくのを感じる。
「デザインは悪くなかったけど……あれは『鎖』だって、あの人が言ってたんだもんね」
ゼロ君の前にしゃがんで、目線を合わせる。
その左耳には何もつけられていない。満足感が胸を満たした。
「アナタに鎖は似合わないの。だからね、自由にしていいんだよ」
どうか安心してほしい。そう願いながら微笑みかける。
でも、ゼロ君はずっと床を見たまま動かない。
その視線の先にはアタシがいるのに、見られていない。何かを見ているようで、何も見ていないんだ。
そう感じた途端、じとりと嫌な汗が背中を伝った気がした。
「ね、ねえ。怒ってない……? 怒ってない、よね? ごめんね、アタシ少し強引だったよね! で、でも、ちゃんとアナタのために頑張るから……!」
必死にそう言ってみても、ゼロ君は何も変わらない。
本当に……本当に、人形みたい。
少し気味悪さを感じて、ぶんぶんと首を振る。
(アタシ、今なんてことを考えちゃったの? ゼロ君に失礼だよ……)
それに、ゼロ君は生きた人間だ。鼓動も肌の温もりも感じたんだから、それは間違いないはずだった。
「そう……そうだよ。怒ってなんてないよ。だってアタシはアナタのためを思ってるんだもん。そうだよね、ゼロ君?」
返事はない。
「ねえ、そうだって言ってよ」
「そうだ」
返ってきた声は、ひどく淡々としていて。
受け入れ難い声に、アタシは首を振って肩を掴んだ。
「違う。違うよ。ゼロ君はそんな言葉遣いじゃない。もっと丁寧なの……そうですねって、言ってよ」
「そうですね」
唇が震える。返事はやっぱり淡々としていて、ただアタシが言った通りに返すだけだった。
立ち上がり、動かないゼロ君を見下ろす。
「どうして……? アタシ、ちゃんと言う通りに頑張ったよ? もらった香水もつけたし、あの赤髪の人がいない時に会いに行ったよ? 名前だって呼んでもらったのに……これでアタシの思い通りになるって、言ったのに」
一週間前。家に帰ってから、ゼロ君との出会いを思い出してため息をついていた時……何の前触れもなく、あの人は現れた。
金髪の彼女は、アタシに色々なことを教えてくれた。ゼロ君に関する情報から、願いが叶う『おまじない』まで。
思い出す。その時に彼女が言っていた言葉を。
『この香水をつけて会いに行ってごらん。そしてお前の名を呼ばせるんだ。望みを言えば、お前の言う通りになるだろうな』
「言う通りになるって……望みを言えばって、アタシが言った通りにしかゼロ君は動けないってこと……?」
今までのやり取りを思い返す。
こっちを見てと言えば視線を向けてくれた。聞こえているかと尋ねれば、頷いてくれた。言った通りの返事をしてくれた。でも、他の言葉には何も反応していない。自発的には動いてくれない。
まるで、冷たい水を浴びせかけられたような気分だった。
「ち、違う。違うの……アタシ、そんなつもりじゃ……っ」
震える手を握りしめて後ずさる。目が痛い。鼻の奥がツンとして、熱い雫が頬を伝った。
「こんなのアタシの望みじゃない……! で、でも、この『おまじない』を解いたら、きっとアナタはアタシのこと……き、嫌いに……っ!」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、ふと思い出した言葉があった。
彼女はまだ何かを言っていた。紫の香水瓶。その中身を想い人に直接かければ、よりいい結果になるだろうと。
ふらつく足で、机に向かう。手に取った紫の香水瓶はひんやりとしていて、ごくりと唾を飲み込んだ。
その噴射口をゼロ君に向ける。震える手で、ポンプのボールを摘んだ。
「これをゼロ君にかければ……本当に、本当に、いい結果になるんだよね? 信じても……いいんだよね?」
あと少しでも力をこめれば、香水がゼロ君に降りかかる。でも、アタシはボールを摘む手に力をこめられずにいた。
きっと、あの人が言っていることは本当なんだろうと思う。でも、アタシの頭が悪いせいでゼロ君に酷いことをしてしまった。
もし、これもアタシが思っているような結果にならなかったら?
(そもそも、アタシが思う『いい結果』って……何?)
それさえも分かっていないのに、本当にかけてもいいのかどうか。
迷って、迷って、迷い続けた。どれだけ時間が経ったかも分からない。五分か、それとも十分か。もっと経っているかもしれない。
「ごめんなさい、ゼロ君。やっぱり、アタシ――」
そう呟いて手を下ろそうとした時。
バン! と大きな音が扉から聞こえた。
瞬間、強張った指はボールを強く押し込み、香水がゼロ君に降り注ぐ。
あ。
喉の奥から声が漏れた直後、鍵をかけていたはずの扉が強い音と共に開いた。
そして、ぐわんと頭が揺れる。
蹴り飛ばされたんだ。
そう気づいたのは、壁に打ち付けられた体が床に転がった後だった。背中と頭が酷く痛い。頭を押さえながら、痛む体を起こす。
視界に映るのはカーペットの上に転がった香水瓶と、見慣れない靴。
「辿り着けないとでも思った?」
低い声だ。
顔を上げると同時に、黒い銃口が突きつけられた。
呼吸が荒くなる。
(何が……何が起きてるの? どうして、この人がここに)
アタシを見つめる赤髪の男の人は鋭い目をしていて、息もできなくなる。
「ゼロに何をした? 俺もさ、酷いマネはしたくないんだよね。手短に教えてくれた方が互いのためだと思うけど?」
「ぁ……あ、アタシ……ちが、違うの」
うまく言葉にできない。震える唇は思い通りに声を出してくれないし、そもそも何を言えばいいのかも分からなくなった。
恐怖。ただそれだけが頭を埋め尽くしている。
「何が違うって? 早く言って。それとも肩を吹っ飛ばされる方がいい?」
ぐり、と銃口が肩に押しつけられる。ガタガタと震える体が傾き、床に倒れ込んだ。意識が遠のいていく。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……あちゃあ、やり過ぎたかも。駄目だね、俺。もっと冷静にならなきゃ」
ため息をついて、銃をジャケットの裏に戻す。
「ヴィルト、ロープちょうだい」
廊下に向かい、部屋の外で待たせていたヴィルトからロープを受け取る。
勝手に動けないよう犯人の女を縛り、床に転がした。
「ゼロ、大丈夫?」
ベッドに座っているゼロの元へ駆け寄る。
覗き込んだ顔は、今の出来事を何も感じていないかのようだった。ただぼんやりと、どこか遠くを見つめている。
「ゼロ?」
顔の前で手を振ってみても、何の反応もない。
見たところ、精神に何らかの干渉を受けているようだった。
(この部屋に魔道具でも置かれているのかな……)
ぐるりと部屋を見渡す。不審なところは特にない。
隅々まで調べてみても、怪しいものはなかった。
……机の上の資料と、床に転がる香水瓶を除いては。
「なんでこんな物が……」
ゼロの身長から体重、簡単な経歴。ざっと見た限り、間違いはないように見える。
どうやって知ったのか。それとも、ゼロから直接聞き出したのか。インクの乾き具合を見るに、それはなさそうだが。
どちらにせよ、残しておく意味はない。
資料を全て掴み取った俺は、その手に魔力を集中させる。
ぐしゃりと形を曲げた数枚の紙が、手から発された炎によって灰となった。
他には何もない。怪しい香水瓶には触れないことにして、ゼロを抱き抱える。
まずは治療だ。ゼロの軽い体を抱き上げ、ヴィルトが待つ廊下へと運んだ。
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