第2話 厄介事
駆け寄ってきた女は、私の手にある帽子を見ると頭を下げた。
長い前髪をピンで止めた彼女から、淡い花の香りが漂う。
「ご、ごめんなさい! それ、アタシの帽子でっ」
顔を上げた彼女は、紫色の目で私をじっと見つめた。そして、一言も話さなくなる。
その理由は分かりきっていた。単純明快、私に見惚れているのだろう。現に、女の頬はわずかに赤らんでいる。
そしてこういう場合、大抵はロクな結果にならない。早々に立ち去るに限るものだ。
「どうぞ」
早く終わらせたかった私は最低限の言葉と共に帽子を差し出した。受け取った彼女は帽子をぎゅっと抱きしめて、熱っぽい視線を向けてくる。
(あ、これは厄介なことになるな)
直感にも似たそれが脳を過り、早々に後悔する。
女は少し目を逸らすと、口元を引き結んで私を見上げた。
隣からヴィルトの気配がなくなる。ヴィルトが向かった方向を見ようとする前に、女が口を開いた。
「あ、あの……ありがとう。その、名前を教えてくれないかな」
「いえ、名乗るほどのことはしていませんので」
本当にしていない。
ただ風が吹いて、目の前に飛んできたものを反射的に掴んだだけだ。それが偶然帽子だったというだけの話だった。
けれども、目の前の女は引き下がろうとしない。
「お礼がしたいの! ねえ、お願い。名前だけでいいからっ」
残念なことに、辺りにはまだまだ人が多い。
大通りは安全だが、こういう場合にはやや面倒だ。できるだけ穏便な方法を選ばざるを得なくなる。
これがその辺りの細道で、あまり人がいなければ、多少乱暴な方法も取れるのだが。
セキヤもそう思っているのか、それとも単に警戒しているのか、少しばかり険しい目で彼女を見ている。
「私、急いでいるので……」
「なら、お礼は今度にするからっ」
ああ、鬱陶しい。
もし私が思っているとおり、私に見惚れているのだとしたら、私の都合を優先させてほしい。
そう思いながら、どう断ったものかと考えを巡らせる。
いっそのこと、横をすり抜けて逃げ切ってしまおうかとも思う。しかし、それはできない。
先程、後ろの方へヴィルトが向かっていた。そして、嫌な気配もしていた。正直なところ、嫌な予感しかない。
そしてそれは現実になった。
背後から、ドサリと何かが落ちる音がした。
バッと振り返った先では、道を行き交う人々の足元にスケッチブックと紙袋が落ちている。
(まったく、貴方という人は!)
何故こうも自ら面倒ごとに突っ込むのか。
振り返った一瞬角から見えたのは、ヴィルトが着ている服の特徴的な袖と手甲だ。
「緊急事態なので失礼します」
口早に告げて、彼女の返事を待たないままに持っていた紙袋をセキヤに押し付ける。
「おっと」
紙袋を受け取ったセキヤが少しよろめいた。
しかし、気にしている暇はない。早く追いかけなければ。
そう足を踏み出した時、くいっと後ろに引っ張られる。
振り返れば、女が私の袖を掴んでいた。
「離してください。本当に急いでいるんです」
「あっ、ご、ごめんなさい! アタシ、つい……」
彼女はすぐに手を離し、両手を振って謝った。
これで引き下がっていなければ振り払っていたところだ。
「あの、ごめんなさい。本当に……」
女が再び謝ろうとした時には、私の足は動いていた。
ヴィルトは何かと目をつけられられる。
背の高さもそうだが、この辺りでは見かけない民族的な衣装、そして彼が度々やらかす『おまじない』もそうだ。
(ああ、まったく気が抜けない……!)
眉間に皺が寄る。
たしかに、目立つからと一度着替えさせた時、体調を崩したことを理由に衣装を着続けることを許容したのは私だ。セキヤも同意した。
とはいえ、どうしてこうも彼は自ら危険に陥ろうとするのか。無意識でこれなのだから、目も当てられない。
紙袋から転がったリンゴを避けて角を曲がる。
あれらはセキヤが拾ってくれるだろう。私が気にする必要はない。
そして、そうかからない内にヴィルトの元に辿り着いた。
ヴィルトはリーダーらしき大男と、その取り巻きらしき三人の男に囲まれている。見るからに『らしさ』を感じる風貌だ。
「アニキィ、ソイツが例の魔法使いっすかァ?」
「おうよ。青い髪、紫の目、青い妙な服……間違いねぇ」
男達とはまだ距離がある。金髪の取り巻きとリーダーの大男のやりとりが微かに聞こえる。察するに、ヴィルトを売り払おうと考えているタイプなのだろう。
魔法を使える者は珍しい。中でも、彼のように治癒の力となれば尚更だ。
「売っ払った後は宴だ。思う存分飲んでいいぜ」
取り巻き達が沸き立つ中、リーダーの大男が得意気な顔をする。
囲まれているヴィルトの頬は赤く、殴るか蹴るかでもされたのだろうと分かった。
速度を上げた私は、腹の立つ横顔目掛けて飛び掛かる。
メキョリ。
ここまで近付いて、ようやく私の存在に気づいたリーダーは振り返ったが、もう遅かった。
片眉を上げた男の顔面に、靴がめり込む。
取り巻き達は状況を飲み込めていないのか、ぽかんと口を開けていた。
そのまま吹き飛ばされた男は、壁に打ち付けられて地面に倒れ込む。
ぐしゃりと崩れた体を見ていた取り巻きの一人が、慌てて駆け寄った。
「あ、兄貴! 大丈夫ですかい、兄貴!!」
「テメェッ! 何しやがるッ!」
緑髪の取り巻きがリーダーの体を揺さぶっている。
その前で、茶髪の取り巻きが拳を握って私を睨みつけていた。金髪の取り巻きと並び、じりじりと距離を詰めてくる。
(まったく話にならない)
ため息をついた私は、ゆっくりと首を横に振った。
「こちらのセリフですよ。私の友人に手を出した以上、放ってはおけませんので」
男達はギリギリと歯を食い縛り、青筋を立てた。
まったくもって単純な奴らだ。
「コイツッ……やっちまえ!!」
金髪の取り巻きの怒号を合図に、茶髪の取り巻きが走り出した。二人揃って私に殴りかかってくる。
結論を言ってしまえば、肩慣らしにもならなかった。
茶髪の男から飛んできた拳は遅すぎて、見るまでもなく避けられる。
バランスを崩した男の腕を掴み、投げ飛ばしてやればそれでおしまいだ。
金髪の男はこうなることを想像もしていなかったらしい。
怯みながらも勢いのまま止まらなかった拳を避け、腹に拳を叩きこんだ。
呻き声をあげた男の頭を蹴り飛ばし、起きあがろうとしていた茶髪の男には横っ腹に蹴りを入れてやる。
男達は潰れたカエルのような声をあげ、揃って地面に伏したまま震えるだけとなった。
「この程度ですか」
パンパンと手を叩いて汚れを落とす。左袖に隠しているナイフを使うまでもない。単調でつまらないとさえ言える戦いだった。
いや、戦いというのもはばかられる。
「大丈夫ですか」
座り込んだままのヴィルトに近づくと、彼は頷いて私を見上げた。
私を見る目が、大きく見開かれる。その目に映るものを理解していながら、私はただヴィルトの様子を見ていた。
震える指で私の後ろを指すと同時に、背後から男の声が聞こえる。
「よくも兄貴を……!」
リーダーの大男を見ていた緑髪の取り巻きだろう。
走り出す気配と同時に、パシュッと空気が抜けたような音がした。
「うぐっ……」
ドシャリ。
呻き声と共に、崩れ落ちる音がする。
振り向けば、ナイフを握りしめた男が地面に倒れていた。その太ももからはどくどくと血が溢れ出している。
「ちょっと、最後まで気を抜いちゃダメだよ」
私が通ってきた道から、ゆっくりと近づいてくる足音。
聞き慣れた声に、私は息を吐くように小さく笑って言葉を返す。
「私は気がついていましたよ」
目を向ければ、三つもの紙袋を抱えたセキヤが困ったように笑いながらこちらへと歩いてきていた。右手には黒い銃が握られている。取り付けられたシリンダーの中で、緑色の液体が揺れた。
「だろうとは思ったけどさ、心配なんだよね。本気も出してないでしょ」
セキヤは銃をズボンのポケットに差し込みながら私の隣へと歩み寄る。
彼がこちらへ向かっている気配は感じていた。だからこそ、対処するまでもないと分かりきっていた。
セキヤが撃ち損ねることなどない。それは今までの経験でよく分かっている。
「これを使うまでもないですよ」
私は左手をひらひらと振る。
この程度であれば造作もないことは彼も知っている筈だ。けれども、頬を掻く彼の笑顔は子供を見つめるかのようなそれだった。
「精神干渉系の魔道具を持ってたら大変なことになってたかもしれないんだからさ。苦手でしょ?」
「……まあ、相手をする手間は省けましたから。それについては感謝します」
言葉が詰まって、わざとらしく話をズラしてしまった。
たしかに、私は精神に干渉されるタイプの魔道具に弱い。一度、それで痛い目を見たこともあった。
セキヤは自分の耳をトントンと指先で叩く。
「気をつけてね。俺があげたソレだって万能なわけじゃないんだから」
「小型のものにしか効かない、でしょう? 分かっていますよ」
そう呟きながら、そっと左耳に触れる。
そこにはセキヤからもらったイヤーカフをつけている。
シンプルな銀色のボディに、赤い魔石が嵌め込まれた小型の魔道具だ。同じように懐に収まるような小型の魔道具に対して、精神干渉を拒む効果がある。
これ以上セキヤに言われたくなかった私は、小さく咳払いをして腕を組み直した。倒れている男達を指差してセキヤに問いかける。
「処分しますか?」
「うーん、放っておいてもいいんじゃない? ここまでやったら、流石に手出ししてこないだろうしさ」
「そうですか」
そう呟いて、目を閉じる。
たしかに、これほど痛い目に遭わせておけば復讐などと馬鹿な考えも持たないだろう。
彼らは平和な町に飽きてきたか、片鱗だけを知って憧れた程度の者達のように思う。
目を開けた時、リーダーの男と取り巻き達は既にいなくなっていた。
「よし、じゃあ帰ろうか」
「……そうですね」
頷くと、セキヤは抱えていた紙袋の一つとスケッチブックをヴィルトに差し出した。
「ヴィルト、こっち持ってくれる? あとスケッチブックも」
ヴィルトがスケッチブックと紙袋を受け取った時、セキヤはヴィルトの頬が赤くなっていることに気付いたようで、目を丸くして肩を跳ねさせた。
「って、その頬どうしたの!? 大丈夫?」
慌てるセキヤに、ヴィルトは頬を押さえて頷く。
痛くないはずがないだろうに。我慢しているのだろうか。
「帰ったら冷そう。あまり酷くならないといいけど……治癒、自分にも使えたらよかったのにね」
ヴィルトは目を逸らして頷いた。
彼の治癒の力は、何故か自分自身には使えないという制約がある。
私が扱える闇属性の魔法にもいくつかの制限があるからそういうものなのかもしれないが、なんとも難儀なものだ。
ヴィルトはじっと道の先を見つめている。
セキヤはヴィルトの肩に手を置いた。
「心配することないよ。手を出してきたのはあいつらなんだから」
セキヤの隣に歩み寄り、彼が抱えている紙袋の一つを取る。
抱える紙袋が減った彼は、ズボンに差していた銃をジャケットの裏に戻した。
ヴィルトがこんな目に遭った理由には大方見当がついていた。
「あのリーダーが病人のフリでもしていたのでしょう?」
じっとヴィルトを見つめれば、少しの間をおいて頷いた。
思うに、彼から見ても不自然な歩き方でもしていたのだろう。
よろけながら歩いて、それを心配したヴィルトが近づいたところで引きずりこむ。
体格の割に力がないうえに気が弱いところがある彼なら、咄嗟に抵抗しようとしたとしてもそのまま引っ張られてしまうことも頷ける。
「貴方の呆れるほど深い慈悲は美徳でもありますが、度を越えれば欠点でしかありません」
ため息をつき、元来た道へと足を向ける。
これ以上ここに居ても何もいいことはない。それどころか、更なる面倒事を引き寄せかねない。
「行きますよ」
歩き始めると、私に続く足音が聞こえる。
後ろで、セキヤの小さな声が聞こえた。
「ゼロも心配してるんだよ」
……コメントは控えることにした。
大通りに戻った後は、できるだけ早く帰ろうと足を早めた。
もたもたしていると、同じようなことが起きるような気がしたからだ。
しかし、ふとセキヤが足を止める気配がして振り返る。
セキヤが見つめる先では、二人の獣人がキョロキョロと辺りを見渡していた。
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