タナトスに奪われる

あんとん

待ち人の記憶




彼の帰るところはいつも私のところだった。特に約束しているわけでもなくてただの友人としての付き合いだったけれど、彼は何があっても私のところへ帰ってきたし、私も彼のお土産話をするときの笑い顔が一等好きだった。危ないからと旅には一度も連れて行ってはくれなかったけど、またここに帰ってくると言ってあの時も彼は魔法陣を足元に開いたのだ。




「焼きたてのバウムクーヘンを食べたことはある?」

「魔法陣を封筒の中に入れておいたからよかったら遊びにおいで」

「いつでも歓迎するよ」

数年越しに手元に届いたやけに古びた手紙の文字はどこか懐かしい温かさと驚きを私にもたらした。差出人の名前を確認し、手紙を読み返す。安心感と共に湧いてきた帰ってこないのはどう言うことだとかいうほんの少しの怒りは喉奥に飲み込んだ。

手紙と共に添えられた魔法陣の使用期限は今日。机にそっと置き、招かれるための準備をする。髪にはジャスミンの花の髪飾りを、服はお気に入りの緑のワンピース。キャメルの可愛いパンプスを出し、いつものストールを羽織る。数年ぶりに会えるのだから1番良い姿でいたい、この気持ちはわがままだろうか。手土産に紅茶とはちみつをカゴに入れ、鏡の前で一回転をし、おかしいところはないかと確認する。何もおかしなことはない。強いて言うならば心だけがおかしなほどに弾んでいた。

そのままカゴを持って机に置いた陣に手を触れると、陣に描かれた紋章が光り目の前が光に包まれた。



足が地面についた感触で目を開けた。部屋なのだろうか。奥に変な機械が見える。騙されたんじゃないかと今更ながら不安になっていると、「来てくれたんだね、ありがとう」と後ろから声がしたと思ったら思いっきり抱きしめられた。嬉しかったけれど苦しくて背中をひかえめに叩き、従順に解放してくれた彼に手土産を渡すと嬉しそうに笑いながら彼は私の手を取って奥の部屋へ連れて行ってくれた。そこには件のバウムクーヘンの機械と思しきものとキッチン、机と椅子が置かれていた。彼は私を椅子に座らせると「今から焼くから待っていて」と言ってキッチンの奥に行ってしまった。


くる、くる、と何本もの棒が熱されながら回されている。椅子に座ってそれを眺めている私の横で彼は機嫌良くその棒にボウルいっぱいの生地を塗り続けていた。手を動かしながら彼はゆっくりと会えなかった間の旅の話をしてくれた。アザミ高原の原住民の話からお菓子の街のお祭りの話、深海の心霊の話、どれも楽しくて美しい話ばかりだったけど、何よりも話している時の顔が酷く懐かしくて嬉しい。お互い近況を話しながらはちみつ入りの紅茶を飲んで彼の手元でバウムクーヘンができていくのを見守る。私は久方ぶりの彼と過ごす幸福を味わっていた。


だがそれは長くは続かなかった。

「これが焼けたらお別れだ」と彼は急に言ってきた。

「…どうして?」

咄嗟に返した声の震えは彼にバレてしまっただろうか。

「君には自由に生きてほしいんだ」

「僕は君に幸せになって欲しいから」

寂しそうな顔で手を動かしながらそう言った彼はこちらを見て微笑んだ。

「私はあなたを待っていてはいけないの?」

そう私が聞くと彼は静かに首を振って答えた。「君には君の人生がある」

機械を回す手を止めて彼は言った。


だから僕のことは忘れてほしいんだ



「…あなたを待つのは苦じゃなかったし、それが私の友人としての特権だと思っていたけれど、もしかして迷惑だった?」

「そんなわけない!」

「ならどうして」

「…僕はもう君と一緒にいてあげられないから」

もう、この世にいないから。彼はそう言うと苦しそうに笑った。

目の前にいるのに?いないなんてそんなこと、そんなことないでしょうと笑おうとしたその時、気がついてしまった、否、目に入ってしまった。

彼の足は半透明に変わっていた。先程まで実態があったはずの足の部分に地面が透けているのだ。絶句した私を見て彼は機械のハンドルをまた回しながら話し出した。

もう1年前にはこの世にはいなかったこと。最後にどうしても私に会いたかったけど自分ではもう動けなかったから無理を言って今まで魔法陣を作ってくれていた人に代わりに私への手紙を送ってもらったこと。

この部屋はその人が用意してくれたこと。ぼろぼろと涙を流しながら彼は言葉を紡いだ。「たくさんのこの世の理を歪ませてでも君に会いたかったのは僕のエゴだ。」そう彼が言った刹那、バウムクーヘンの生地がボウルからなくなり綺麗な狐色の幹が出来上がった。それと共にじわじわと彼の体は明らかに消えていっていた。

「せっかくだ。焼きたてを食べてごらん」

彼はそう言って棒から幹を取り外し、切って私の口元に一口分差し出した。言いたいことは山ほどあったけれどニコニコしながらこっちを見てくるものだから慌てて口を開ける。そっと口に入れられたそれはとても熱かったが、甘くて泣きそうなほどに優しい味だった。

「おいしい…」

そう私が呟くと彼は嬉しそうに笑って言った。

「旅先で食べさせてもらった時に感動してね、どうしても出来立てを食べて欲しくて君をここに呼んだんだ。本当は機械ごと持って帰れたらよかったんだけど、もう、僕には時間がなかったから」


喜ぶ顔が見れてよかった。そう言う彼はもう上半身しか残っていなかった。

思わず飛びついてぎゅっと抱きしめる。なんで、どうして。どうにも悔しくて涙が溢れ出てくる。背中に渡された手はそっと抱きしめ返してくれた。

「トリウィア、笑って」


君が望んでくれるのなら、来世でまた会おう


そう言って彼は消えていった。1人残された部屋に残ったのは出来立てのバウムクーヘンといつのまにか用意された魔法陣。

そっと魔法陣に手を触れるとド壁にドアが現れた。と同時にそっとドアが開き、中から箱を持った男性が顔を見せた。

「貴方がトリウィアさんですね?私は魔法商店の主人アンクと申します。」

私が驚いているのを察したのかアンクは微笑みながら「カルムさんから頼まれているのです。『貴方を家に送り届けてほしい』と」

同時に持っていた箱を机に置き、

「それから、この箱には彼の亡骸が入っています。よろしければ持って帰ってください。貴方の近くで眠れるのなら彼もきっと喜ぶことでしょう」と続けた。持って帰らない理由はない。ぼんやりとさっきまであったことを反芻していると、いつのまにか長かったバウムクーヘンも綺麗に切られ包装されて机に並んでいた。生前に彼がお世話になっていたのに何もお礼をしないのは失礼だと思い、持ってきていた未開封の紅茶とバウムクーヘンを渡した。最初はそれは悪いと返されたが幸せの記憶のお裾分けだと言うとはにかみ笑いで受け取ってくれた。改めてお礼を言って新たに用意された大きめの絨毯の大きさの魔法陣の上に立つ。おそらく手紙に入っていた小さな魔法陣は相当わがままを言って用意してもらったのだろう。だが文句ひとつも言わないで静かに私を見送ってくれたアンクの心遣いが嬉しかった。



気がつくと、もう誰も帰ってくることのない自分の家の中に立っていた。カゴの中には大量のバウムクーヘンと彼だったはずの身体。彼の精神は死の神にでも捕らわれてしまったのだろうか。だが身体は彼の帰るべきところに数年越しに帰ってきた。多分、これから私が何年生きようと私は彼の望んだように彼を忘れることはない。そして私も死の神の元へ行ったとしたら彼の手を引いて今度は私も一緒に旅をしたいと思う。彼の眠る箱の前にまだほの温かいバウムクーヘンを置き、紅茶を淹れる。もしかしたら、これは恋だったのかもしれないねと箱に話しかけつつバウムクーヘンを切って口に運んだ。



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