脳髄蕩けるほどの糖蜜

石田空

 私が今日もゼミに向かうと、ゼミ棟の一室を開けようとしたら、鍵がかかっていた。

 どうしようと思っていたら、ガチャンガチャンと中から音が響いた。


「それじゃあまた!」

「またね」


 明らかに服が乱れた男子学生が、そのままドタドタと走って行った。私はそれを見送ってから、部屋を見る。

 そこでは服が全く乱れることなく、いかにも「私はなにも知りません」という顔をした美人がいた。

 ダークベリーの唇に、真っ黒なボブカット、レンガ色のワンピースで、全体的に昭和ロマンを思わせた。

 この間は平成レトロとばかりに、髪を金髪に伸ばして肩パット入ったワンピースを着ていたと思うし、その前はやけに露出して、髪をアップにまとめていたのに。

 同じゼミの春海はるみは、関わる男が変わるたびに、化粧も服装も体型も、ころっと変わってしまっていた。映画俳優の中には、役柄に合わせて体型も髪型もころころ変わる人はいるし、歌手の中にも出てくるたびに化粧も服も変わっているせいでほぼ別人に見える人だっているけれど、彼女はどうしてこうも変わるんだろう。

 しばらく彼女を眺めていたけれど、その内青臭いにおいが篭もっているのに気付き、顔をしかめて窓を開けた。

 インカレに出場する部の、走り込みの声が響いてくる。


「こんなところでさかるのやめたら? そのうちゼミの先生にクビにされるよ?」


 ゼミを追い出されたら卒業できないだろうにと、暗に釘を刺すものの、春海はクスクスと笑うばかりだった。彼女は時々、同い年とは思えないほど老獪な笑みを見せてくる。


「いいの。サービスだから」

「サービスって……」

「先生、寝取られ趣味があるから、見せつけたほうが盛り上がるのよ」


 唐突な告白に、私は噴き出した。

 ……このゼミに入っているというのに、今更うちの先生をどんな顔で見ろというのさ。


「……さっき出て行った子は知ってるの?」

「さあ? でもこの格好も髪型も、それに合わせた化粧も服も、全部先生の趣味なんだけど」


 春海はくつりと笑った。


「それで気付かないんだったら、本当におめでたいんだわ」


 その笑みは他の人がしたら毒々しいだろうに、彼女がしたら神々しく見えるのはなぜだろうか。


****


 デニムにトレーナー。鞄は大きめ。私の格好は基本的に男子大学生とほぼ変わらない。

 化粧はバイト先の制服が汚れない程度に薄く、髪はひとつに結んでいた。

 大学に行きたくて行った訳でなく、地元だと大卒でなかったら就職先がほぼないという困った状態だったがために、選択肢がなかったのだ。それでも大学に入った以上は真面目に勉強しようと、できる限り真面目に授業を選んで履修し、放課後は図書館で勉強するかバイトに行くかと、ごくごく真面目で面白みのない大学生活を送っていると思う。

 初めて出会った春海は、入学式になぜか振り袖を着て登場して、周りを唖然とさせていた。

 たしかに大学の入学式案内には正装で来るべしと書いてあった。さすがにデニムにシャツなんて格好では駄目だろうと、入学式と就活用にスーツを買った私からしてみれば、彼女は訳がわからなく見えて口を開けていた。

 そもそも振り袖なんて、今時は成人式でしか着ないし、多くても身内の式や正月くらいのものだろう。

 普通であったら「世間知らず」「考えなし」と陰口をたたかれ、あっという間に大学で浮いた存在になったのだろうけれど、彼女は有無を言わせない神々しさを、そのときから持っていた。

 彼女の近くに着席していた私は、彼女が身じろぎするたびにシャランシャランと音を奏でる簪の音を聞いていた。

 この場違いな彼女と長い付き合いになるなんて、当時の私は思ってもいなかったのだ。

 春海は入学式振り袖騒動であっという間に有名人になり、告白されるようになった。そのときから、彼女は毎月彼氏が変わっていた。

 最初に必修授業で出会った彼女は、やたらとふんわりとしたワンピースを着ていたというのに、彼氏ができた途端にデニムに幾何学ラインのトレーナー姿に切り替わり、髪だってストレートだったのが巻きはじめて驚いた。

 彼女は彼氏が変わるたびに、化粧も髪型も服装さえも変えてしまう性分だったのだ。

 たまたま必修で隣同士になったとき、「ごめんね、シャーペン持ってる?」と尋ねられて、私は少し驚いた。

 彼女が持ってきた鞄は小さく、レポート用紙はもちろんのこと、筆記用具ひとつ入らなそうな大きさであった。入るとしたら、財布とスマホ、化粧ポーチくらいのものだろうか。

 今時授業が手書きのことは少なく、タッチパネルで打ち込んだり、パソコンを持ち込む子だっているのに、なにを考えているんだろうと思わず目を剥いた。


「……スマホで写真撮ったらいいんじゃないの?」

「あー……でも先生にスマホ禁止って怒られたの」


 春海はぷくっと膨れて告げた。


「変なの。タッチパネルやパソコンとスマホって変わらなくない? どっちも文明機器じゃない」

「あー……」


 一応シャーペンとレポート用紙を貸してあげたけれど、彼女はこの授業が身についたんだろうか。私は単純に授業の内容を手で書いたほうが覚えやすいからそれでいいんだけれど、彼女が覚えられるかどうかは未知数だ。

 私は首をひたすら捻りながら、彼女と初めてしゃべったのだった。


****


「今時いたんだねえ……あなた色に染まりますってタイプの人」


 バイト先でなにげなく彼女の話題を向けたら、一緒にバイトしている主婦に笑われてしまった。


「そうなんですか?」

「平成の頃にはまだいたけどねえ。あの時代目力って感じで目を盛るのが流行っていたけれど、その化粧がくどくて濃いって好きな人から言われた途端に、盛るのを止めたとかよくあったよ」


 そう言って教えてくれた歌手の名前は、私でも知っている人だった。


「なるほど……」

「今は自分の好き最優先で、そこまで彼氏好みの化粧する子なんていないけどねえ」


 私は春海のことを思った。

 どうして彼女はそこまで化けるのか、どうして彼女はそこまで毎月彼氏が変わるのか。彼女のことはちっとも知らないし理解もできないけれど、私の関心を少しだけ広げてくれたのはたしかだった。


****


 ゼミの先生と付き合っていると知り、私はげんなりしながらもゼミには通っていた。卒業論文は見てもらわないと困るから。

 不倫じゃないし、彼氏公認の浮気だったら、私もなにも言えないしなあ。人の趣味なんてわかったもんじゃない。

 そうげんなりした気分で部屋の戸を開けようとしたら、そのときは鍵がかかっていなかった。


「こんにちは」


 そう春海に声をかけられて……私は固まってしまった。

 量販店で売っているデニム。靴屋のセールで買ったスニーカー。どこで買ったのかもうよく覚えていないトレーナー。大きいからという理由で揃えたリュック。

 そして髪の毛をひとつに結んでいる薄化粧は、どこからどう見ても私の格好であった。双子コーデ、という奴である。


「なんで?」

「今の彼氏がこれがいいって言うから」


 そんな馬鹿な、と私は思う。

 全員ではないだろうが、男子大学生の趣味ってわかりやすい女の子だ。そのわかりやすさというのはお色気とか庇護欲とかは人それぞれだろうが、少なくとも私みたいな男か女かよくわからない格好を好きっていう人はあまりいない。

 私は心臓がバクバクした。

 春海が今付き合っている人って誰なんだろう。月イチで変わるせいで、私も今の彼氏を確認していなかった。

 もうゼミでなにをやったのかも覚えていなく、大学を出たこと以外、記憶になかった。


****


 私と春海が双子コーデをしたことは、気付けば大学内でそこそこ広まってしまっていた。

 同じ学年の同じ授業を取っている子が、心配して声をかけてくる。


「大丈夫? 春海さん、あんまり評判よくないけど」

「いやあ……なんでだろうね?」

「ねえ……最近春海さん、全然彼氏と一緒にいるところ見ないけど」

「うん……」


 私は春海の行動が理解できず、ただただ困惑していた。

 そんな中、食堂で定食を頼んだものの、席が空いていないことに気付いて途方に暮れていた。

 既に買った以上はなんとしても食べたいけれど、外で食べるには定食は膝に乗せては食べられない。困って席をぐるぐると回っていたら、「よかったらここで食べる?」と声をかけられた。

 パリッとしたシャツに、変色したダメージデニム。私と似たような格好にもかかわらず、あきらかに向こうのほうが体型がよく脚も長くて様になっている。なによりも髪がスポーツモヒカンという奴か、きちんと髪をワックスでセットしているあたり私なんかよりよっぽど身だしなみに気を遣っているのを窺わせる男子だった。

 彼の席はちょうどふたり用で、向かい側が空いていた。

 私は「ありがとうございます」と彼の向かい側に座ると、彼はにこやかに笑っていた。向こうが頼んだのは親子丼で、ご飯は大盛りだった。細いのにきちんと食欲は男子なんだな。

 私が割り箸を割って食べはじめた定食に「最近よく噂になってるね、双子コーデの君」と言われ、思わず箸が止まった。

 ……全く知らない男子にまで知れ渡っていたか。


「……彼女と同じゼミで、気まずくなりたくないんでその辺で」

「いやいや。春海さんはカメレオンって評判だから驚いてね。よりによって、君と双子コーデしてきたから驚いたんだよ」


 そこで私は見知らぬ男子を見た。そして春海の今までの彼氏遍歴を思い出す。

 彼女は今まで、彼氏に合わせて服も化粧も髪型すらも変えていたけれど、肝心の彼氏の顔は全く思い出せないのだ。

 それは春海の変貌振りにびっくりしたのか、それとも彼氏は彼女にとってのオブジェだったのか。

 そして見知らぬ男子はというと、よくよく見たら顔がかなり整っているのだ。こちらをちらちらと羨ましそうな顔で見つめてくる女子がいたりするくらいには、イケメンという部類だろう。

 まさかと思うけれど、彼は私のことを知っていて、私を見ていたら春海が気付いて彼に合わせて私と双子コーデになったんだろうか。

 私は定食の味噌汁をすする。

 ……今初めて会ったのだから、彼が私のことを好きというのはなしだろう。だから、このことは今度、春海に会ったら教えてあげよう。

 それから彼とは適当に話を合わせて別れた。

 あれだけ不気味に思っていた双子コーデの謎が解けたと思ってすっきりしていた……はずだった。


****


 次の日、その日は午後からの授業のため、家でたまった洗濯物を洗って部屋中に干していたところで、チャイムが鳴った。


「はい」

「すみません、警察です」

「はい?」


 魚眼レンズを見ても、近所の交番で見かける制服姿の人だった。私は驚いて出て行く。


「なにかありましたか?」

「すみません。この男性を知りませんか?」


 出された写真は、昨日食堂で会ったはずの男子だった。私は口を開けるものの、素直に「名前は知りません」とだけ告げる。


「だとしたら、顔は知っているんですね?」

「昨日食堂で見た……だけです」

「ありがとうございます」


 他にも何個か質問され、しどろもどろで答えたものの、なにもわからず、呆然と警察が帰るのを見送っていた。

 いったいなんだったんだ。ぼんやりしながら大学に出かけ、警察が来た理由を知った。


「彼、殺されたんだって」

「春海さん、そのせいで事情聴取受けてるって」


 それに私は肩を跳ねさせた。

 大学で上がる噂を繋げ合わせると、概ねこうだった。昨日の夜、春海さんがあの問題の男子に襲われたのを、彼女はびっくりして揉み合いになり、打ちどころが悪くそのまま彼が死んでしまったらしい。彼女は現行犯で一旦捕まり、事情聴取を受けているものの、どう考えても彼女が襲われたのが原因だから、正当防衛が認められそうだと。


「……いつかは事件になると思ってたけどね」

「ね。春海さん、誰とでも寝るって思われているから」


 女子たちの話が耳を通っていく。

 日頃の行い。言ってしまえばそれだけで切り捨てられる話だけれど。どうして警察は私のところに来たのだろう。

 一瞬頭に浮かんだ「まさか」と、人がひとり死んだ事実。

 私はとうとうその日は授業に出ることができず、休んでしまった。


****


 バイト先に「体調を崩しました」と電話をしたら、バイト仲間の主婦に「ひとり暮らしでも野菜は摂らないと」と言われた。摂れるものなら摂りたい。

 私が寝込んでいる間に、とうとう地元でもニュースが流れたけれど、概ね大学の美人過ぎる女学生がストーカーに殺されかけたのを返り討ちした、という話でまとまりそうだった。

 でも、本当にそれだけの話だったんだろうか?

 私がひとりで寝込んでいると、チャイムが鳴った。このまま居留守を決め込もうと思ったけれど、魚眼レンズの向こうの意外な人に驚いてしまった。

 枯葉色のワンピースに、ボブカット。もうすっかり私とは違う姿に変身を遂げていた春海だった。

 思わず私は玄関に飛び出す。


「どうしたの……?」

「追い出されると思ったわ。お別れを言いに来たの。入って大丈夫?」

「どうぞ」


 春海に出せるようなものってあったかなと、無料でもらったカップを持ってくると「すぐ帰るからいいよ」と手を振られた。それでも彼女の持ってきているケーキ屋さんの箱を見たらなにも出さないのもお愛想なしだからと、無理矢理インスタントコーヒーを差し出した。


「ニュース見たけど……」

「うん。正当防衛って認められて釈放された」

「……ニュースになる前、私のところに警察が来てたけど」

「そうね、あなたのストーカーだったから、あなたの格好をしていた私を間違って襲ったんじゃないかと確認したかったんじゃない?」

「……はあ?」


 あの食堂でしゃべっただけで接点のない男子を思い出す。春海はクスクスと笑う。


「あなた、人の視線に鈍感だから。私は奇異の目で見られるのに慣れているから、異様な視線には敏感なのよ」

「……いつから?」

「そうね、私たちが一緒のゼミになった頃くらいじゃないかしら?」


 そんな前からと、ぞわりとする。

 でも思い返せども思い返せども、彼との接点が見当たらない。


「……あの人、誰だったの?」

「あの人そもそも学生ですらないわ。大学の清掃員。仕事が終わったから制服を脱いでいただけ」

「あ……」


 大学の清掃員が制服を脱いで大学の中にいたら、もうその人が何者かわからない。最近は個人情報保護法のせいで、カードがなかったら入れない部屋も多い代わりに、顔つきネームドカードをぶら下げる習慣もなくなってしまったのだから。

 春海はにっこりとする。


「最初はまた私のことを好きな人かと思って泳がせていたの。私に告白する人たち、皆変わった人から」

「それ、春海が言うの……」

「でも私のこと、あの人スルーするのよ? なら誰見ているんだろうと思っていたら、私とたまたま近くにいたあなたを見ていたの。最初は『ふうん』と思っていたんだけれど、あなたが捨てたペットボトルやら、ゴミやらを集めはじめたときから、あ、これは放置したらヤバイ奴だと思いはじめてね」

「……それ、私にもうちょっと早くに知らせてくれたら、大事には」

「無理よ。ストーカーってね、人の嫌がることしているって自覚のある人はまずストーカーにならないの。ストーカーには道理が通じないから」


 彼女はあまりにも悟りきった口調できっぱりと言った。


「だから、あなたと同じ格好をして、同じ化粧をして、釣ってみることにしたの。私が変装をしても、誰もが私がまた好きな人が変わったとしか思わないじゃない」

「……ま、まあね」

「あなたに接触したのを確認して、いよいよこれはまずいなと思って、彼が仕事終わるのを確認してから、見えるように歩いて行ったの」

「……それ、あなたが危ないじゃない」

「そうね。普通だったらね。私みたいに、ストーカー慣れしてないとね。まっ、殺しちゃったのは初めてだったけど、案の定正当防衛は認められた」


 ……つまりはあれだ。私がストーカーに狙われているのに気付いた。でも下手に動いたら彼を逆上させて襲われる危険が遭ったから泳がせた。私と同じような格好をしても誰も気にしないことをいいことに、私が狙われるタイミングを計っていた。

 そのタイミングが来たから、彼に近付いて正当防衛に見せかけて殺した……いや、これは本当に正当防衛だったんだろう。

 警察が来ていたのは、私と春海、彼の関係を確認するためだろう。指紋やらなにやらを取られなかったのは、多分彼の殺された現場自体には、春海のものしかなかったから。


「でもさすがにやり過ぎちゃったから、親に怒られて家に帰ることになったの。以上。だからお別れに来た」

「……でも、どうして私のところに来たの? どうして私を助けてくれたの?」

「だって。あなたはどんな格好をした私も奇異の目で見なかったじゃない。それにあなたはなんにも頓着しないから、あなたの好みにはなれないわ」


 最後に見た彼女は、極上の笑みだった。


「要は恋敵を消しちゃったのよ」


<了>

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