35、あるじさま、いちゃいちゃ

 夜風が頬を撫でて、後ろへと吹き抜けていく。

 自分を抱く力強い腕の中で、桜子は心地よい緊張を感じていた。


(すごいっ、空を飛んでいる……‼) 

 京也に抱きかかえられて、建物の外側を飛んでいる。初めての体験だ。


「こらぁ、どこに連れていくのよぉ。非行息子ぉ~、これ飛行とかけているのだけど」

「部屋に送るだけです」


 背後からの声に不愛想な言葉を返して、京也は建物の側面にそって優雅に飛翔した。あっという間に部屋の外側に着く。部屋の外側の窓から中が見えて、新鮮な気持ちになる。

 さて、窓はどう開けるのか、と見ているとウサ子が顔を見せた。


「お待たせいたしました。お部屋の準備は整ってございます」

 桜子の部屋の内部に移動したらしきウサ子は、内側から窓を開けて深々とお辞儀をした。


「お部屋に失礼するよ、桜子さん」

「はい」 

 窓から部屋の内部に入るのも、初めてだ。まるで物語の中に出てくる怪盗にでもなった気分!


「驚かせてすまない、怖がらせてしまっただろうか」

 

 反省の声色を響かせる京也に、桜子は首を横に振った。

 

「あっ、いえ……空を飛ぶのも、窓から自分の部屋に入るのも、新鮮でわくわくしました」

 

 京也は「そうか」と息を吐いた。安心した様子だ。


 この美しい青年が悲しそうだったり心配そうだと、自分も落ち着かない。

 嬉しそうだったり安心した様子だと、自分もほっとする。

 桜子は、そんな自分を自覚した。


「ご褒美がまだだった」

 

 美しい紫の瞳には、何年も求め続けた運命の番を目の前にした喜びと渇望があった。


 京也の右手がゆっくりと上昇し、優しく桜子の頬を撫でる。頬から耳へと移動した手が耳たぶを掠めて、耳の下へと指先をずらしていく。触れた場所から、甘く痺れるような熱が広がる。

 

(あ……)

 

 京也の整った顔が近づいて来る。

 鼻先を吐息が切なく掠めて、桜子はぎゅっと目を瞑った。

 直後、唇に羽毛が触れたみたいなキスが落とされた。

 

 初めての口付けに桜子が真っ赤になっていると、京也は夢見るような笑顔で。

「可愛い」

 と言って、至高の宝物を扱うように桜子を抱っこした。


 京也は抱っこしたがりだ。桜子がそう思っていると、京也は寝台に向かった。熱に浮かされたように独り言をつぶやきながら。

 

「俺のなんだ。誰にも触らせないんだ」

 

 ちょっと様子がおかしい気がする。桜子は身を強張らせた。

 

「……っ!? 京也様……京也様……!?」

「ン……」

 

 京也は機嫌のよい猛獣のように喉を鳴らし、桜子を大切に寝台に横たえた。そして、自らも隣に滑り込み、腕をまわして桜子を抱きしめた。


「きゃ……」

「おやすみ、桜子……さん」


 むにゃむにゃと寝惚けているような声が言って、すやぁ、と寝息が聞こえてくるまでには、それほどの時間を必要としなかった。


「えっ、あ……」


 ……眠っている。

 桜子はそれに気付いて、全身の力を抜いた。


 さぞ疲れていて、眠かったのだろう――すぐ近くで穏やかな寝息をたてる寝顔は無防備で、規則正しい心音を立てる体はあたたかで、異性の雄々しさを感じさせつつも、安心感がある。


(運命、というのはわからないけど、その相手が私で……嬉しい)


 こんなに大切にしてもらえて、幸せで、いいのだろうかと思ってしまう。

  

(――ありがとうございます)

 桜子はその夜、運命に感謝した。


(ところで、この格好――、一晩中……?)

 熟睡している京也の隣で、桜子は困ってしまう。


「も、もみじちゃーん?」

 起こさないようにと小声でささやけば、もみじは声を殺すようにして笑っている。

「た、たすけてぇ……?」 


「あるじさま、いちゃいちゃ」

「……‼」

「じゃましない……もみじ、くうき」


 もみじはそれきり黙り込んでしまった。

 

(い、いちゃいちゃ……っ!)

  

 心臓がどきどきと高鳴ってしまう。音で京也が起きてしまわないか、心配してしまうほど。

 

 そっと様子を見てみるが、胸板や肩が呼吸に会わせておだやかに上下していて、起きる気配はない。

 眠る目元に黒髪がかかっている。無防備な感じだ。

 

 髪に触れてみたい、という衝動が、ふと胸に湧く。


(はしたないかしら。す、少しだけ……だめかしら)

  

 指先をそーっと近づけて、触れる。

 さら、という極上の髪の触り心地がした。


(わ、わぁっ)


 触ってしまった!

 ときめきが高まって、頬がけてしまいそうなくらい熱くなる。

 いけないことをしてしまった、という罪の意識みたいなものが湧いてくる。


(わ、私も寝てしまおう……!)

 

 ぎゅっと目を閉じて、眠ろうとする。

 とくん、とくんと鼓動が聞こえる。すう、すうと呼吸の音が聞こえる。


(私――こんな風に大切に抱きしめられて眠る夜がくるなんて、思わなかった)

 

 眠りに落ちるまではかなりの時間を必要としたけれど、京也と寄り添う桜子の胸には恍惚とした幸福感があった。

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