ジロー

アン

第1話 孤独死

 推定死亡日2018年12月1日。

 あなたが死んだと思われる日から早一か月が経とうとしています。「推定死亡日」なんてそんな仰々しい言葉が付くと、私は何だかあなたの死が途轍もなく滑稽で、新鮮味を欠いた安っぽい恋愛ドラマのように思えます。他にたとえるなら何でしょう。自嘲と悲哀に満ちた長々しい友人代表結婚スピーチのような、焼き肉屋でビールと肉をつまみながら「私は普段はヴィーガンなのよ」とどこか誇らしげに後輩を怯ませる女のような、そういった私を苛立たせる余分な何かがあなたの死にピタリと貼りついていました。ただ、こうして比喩を並び立てることにより、あなたの枯れた命の行く手をごまかしたところでどうしようもありません。わかっています。私が今更どう足掻いたところで何も変わらない。あなたは死んだのです。完全に。それも、一か月も前に。この事実についてあなた自身はお空の上でどれ程正しく理解できているのでしょうか。

 あなたの訃報をケースワーカーから知らされた時「ついにこの時が来たか」という言葉とあなたの微笑み顔が同時にふわりと、それでいてとてもクリアに私の脳裏に浮かびました。その知らせが届いたのは、あなたの推定死亡日から二日後の月曜日の朝でした。あなたが最期にどのような身体の痛みを訴え、何を求め、何に絶望し、誰を思ったのか。悟りを開いたのか否か。その実情は、当時も今も、誰一人として知り得ないことです。事実として残っているのは、あなたがメゾン・ド・クルエンという呼吸もままならないような寂れたアパートの一室で、二十七度に設定した暖房の温風をまともに受けながら、恐らく直前までは簡易ベッドの縁に腰かけていたであろう体勢で死んでいたということだけです。両脚を床の上に冷やりと下ろし、両腕を一直線に布団の上に広げ、ただ天井を一心に見つめて。そして、言うまでもなく、孤独死でした。あなたの予言通りでしたね。当然の結果、なるべくしてなった結末。自業自得、同情の余地なし。あなたに携わってきた多くの人間は皆口を揃えてそう言うでしょう。でも、それがあなたの歩んできた人生なのですから、そう言われてもぐうの音も出ないはずです。

 しかし、わかりますか。私は自分でも信じられない程あなたの死を悼みました。絶望すら感じていた。ねえ、どうしてだと思いますか。それはあなたが血の繋がりを持つ実の父親だからであり、私が血の繋がりを持つ実の娘だからですか。これまでたくさん嫌な思いをしてきたはずなのに、私はあなたを思えば思う程、あなたの死を受け入れられなかったのです。でも、不思議なことに、泣けなかった。笑うことはできたのに涙の一粒も出ませんでした。私が泣けばあなたは閻魔様から死人の認定を受けてしまう、そんな気がしたのかもしれません。だから、頑として泣かないようにした。必死でした。だって、そんな事をしたら私の負けですから。私は薄暗い闇の中でこんな子供じみた妄想にしばらくの間取りつかれていました。わかりますか。あなたは死んでからも継続して私を苦しめたのですよ。同じ血が流れているというだけで、私の心を鷲掴みにして放さず、骨になっても尚ひたすらに私の耳に唇をべたりと貼りつけ声をかけてきた。何度も何度も私の名前を呼んだ。でも私はこれが愛だなんて思いません。名前を呼ぶことなんて籠の中の鳥でもできることですから。でも、そうですね、あなたを責めてばかりいるのもいささか気が引けます。この一か月の間中ずっと、私の身体を絞め上げてきたこの薄暗い闇の正体は、たぶん直接的にはあなた自身ではありません。あれはきっとあなたの遺体が安置されていた場所そのものなのです。すでに死んでいたあなたにはそこがどこなのか見当もつかないでしょうから教えてあげます。

 まず、言わずもがなそこは病院ではありませんでした。ああ、そういえば、生前あなたは死に直結するような体の不調に気付きながらも、治療はおろか病院に行くことさえも拒絶していたそうですね。しかも、娘の私に己の悲惨な状態を決して知らせようとしなかったとか。このことはケースワーカーの泉さんから教えてもらいました。それは、推定死亡日の前日の金曜の事でした。

「恐れ入ります。私、ケースワーカーの泉と申します。お父様のことでお電話させていただきました、はい。お父様、お体の具合があまりよろしくないようです。食事もまともにとっていませんし、歩行も困難なご様子です。こちらとしましても、病院に行くことを何度も勧めてはおりますが、本人は断固拒否をされております、はい。では、ご家族の方にご連絡をさせていただきますと申し上げても、近くに娘は住んでいるが知らせないでほしい、の一点張りでした。しかし、やはり、そうですね。『念のために』ということで、お父様から直接こちらのお電話番号をうかがった次第でございます、はい。最近では割と頻繁にお父様のお宅に伺っておりますが、今のこのお体の具合では少し心配ですので、また休み明けの月曜日にも訪問するつもりでおります、はい」と泉さんはまるで独り言のように穏やかな口調で私に言いました。彼はきっとあなたと同じくらいの年齢で、でもあなたとは違ってしっかりとした頭を持つ男性なのだろうという印象を受けました。その泉さんの醸し出す柔和な空気に促されるように、私はその直後にあなたに一度電話を入れました。でも、その時あなたは「来年の六月には生活が整うだろう」といつもの様に底の浅い考えに満ちた弱々しい口調で、そのお気楽な未来を想定していました。ただ、あの時にはもう相当体が苦しかったのでしょう。いつもの様に私に対して金の無心はしませんでしたね。あなた自身、もう生きている間に金を使うことなどないとわかっていたのだと思います。そして、それは現実となった。このような事でしかあなたの安否を判断できなかった私の冷徹さを許して下さい。

 話がだいぶ逸れてしまいましたね。あなたの遺体が安置されていた場所、それは警察署でした。あなたがまだ若い頃に交通事故やら飲みの席でのトラブルやらで何かとお世話になったというあの警察署です。この警察署の敷地内の一角に古びた物置小屋があります。それは、警察署の正面から覗き込んでも見えません。建物の裏側にぐるりと回りこまないとそこには辿り着かないのです。その小屋は、無造作に保管された数台の巡回用自転車の背後にひっそりとたたずんでいました。普段は人が案内をされることのないみすぼらしい小屋です。六畳程の広さの小屋の中には、簡易的な寝台が一つ、多くのガラクタに囲まれるようにして部屋の中央にぽつんと置いてありました。その上にあなたは半透明のビニール袋に包まれ、さらにその上から黒い寝袋のようなものに入れられた状態で寝かされていました。立ち会った警察官は遺体に向かって形式的に軽く手を合わせると、にたりとした卑しい表情を浮かべながら私に言いました。

「暖房の風がまともに当たっていた割には思ったより腐敗は進んでいなかったんですよ。ただ運転免許証の顔とは風貌がかなり違っていたのでね。なので、念のため、ご本人かどうかの確認をしていただきたくて。そうじゃないとこの先の手順が踏めないんです」

 それはまるで「不法投棄された粗大ゴミを処理するのは色々と面倒なんだよ」と言わんばかりの態度でした。その言葉に私は大きな戸惑いを覚えました。なぜなら、目の前に横たわっているこの人間を私は到底自分の父親だとは思えなかったからです。元気のない灰色に傷んだ髪、半開きの両目、むき出しの歯。その姿はまさに苦しみの権化そのものでした。それは、私の知る人間ではないようでした。少なくとも、私の記憶の片隅にある顔と一致しませんでした。あなたはいつも笑顔でしわくちゃな顔をしていましたから、こんな恐ろしい顔ができるはずないのです。それは安らかな死に顔とはお世辞にも言えませんでした。警察官は二度、お父さんのジローさんで間違いないですかと私に尋ねました。二度目は明らかに苛立っていました。警察官からしてみれば、この物置小屋の中で寝ている男の身元確認など一分もあれば終わるものだと思っていたのでしょう。でも、私としても知らぬ顔を父親ですとは言えないわけです。この苦しい境地を救ったのは、私に同行していた母の一言でした。

「間違いない。このまつ毛の生え方は、パパよ」それはささやくような声でした。そして母は、今度ははっきりと警察官に顔を向けて言いました。

「彼で間違いありません」

 元妻である母の言葉を保証すべく私は頷きました。「父です。間違いありません」でも、そう言ってしまうと今度はなぜだか笑いがこみ上げてきました。変に女優めいた私はそれをかみ殺すのに苦労しました。その後、警察署内で諸々の手続きを済ますと、私達はハンバーグを食べに行きました。わさびマヨネーズがかかったあの鉄板焼ハンバーグのお店です。私達はいつも通り楽しくおいしく食べました。そうやって私と母は二人して悲しみとは別の方向に顔を向ける努力をしたのです。ああ、なぜ私が母と警察署に行くことになったのかその経緯もあなたは気になるでしょうからついでにここに記しておきます。

 十二月三日、まず最初に泉さんから電話がありました。しかし、私はその時インフルエンザの予防接種の為に病院にいたのでその電話にはすぐに気が付きませんでした。泉さんからの不在着信と留守番電話を確認したのは、病院の外に出て携帯電話のサイレントモードを解除する時でした。留守番電話の再生ボタンを押す直前に私は「ああ、そうか」とあなたの訃報を漠然と予期しました。

「今、お父様のお宅に伺いましたところ、お父様、亡くなっておりました。私は今、警察に電話をし、外に出て玄関ドアの前で待機しているところです、はい。この留守番電話をお聞きになりましたら、一度ご連絡ください」小さな機械の中で泉さんは前回と同様、落ち着いた様子で私にそう語りかけました。

 私はすぐに電話を折り返すことはしませんでした。自分の精神が落ち着いているのか興奮状態でいるのかわからなかったからです。だから、私はとにかく運転に集中し、自宅に戻る事だけを考えました。そして、無事に自宅アパートに戻ると私は心底ほっとしました。家の中に入り、玄関ドアが完全に閉まった瞬間に私はタガが外れたように泣き崩れるだろう、運転中はそんなドラマのワンシーンのようなものも少しは想像したのですが、残念ながらそんな陳腐な物語はどこにもありませんでした。そこにいたのは面白味のないいつもの私でした。しかし、だからと言ってそのまま普段の生活を送ることもできません。私はまず母に電話をかけました。母には前回泉さんから電話があった後に話をしてあったので、母は静かにあなたの訃報を受け入れました。母は私を気遣い「これからそっちに向かうわね」とだけ言うとすぐに電話を切りました。あなたが散々苦労をかけてきた母は今再婚しています。しかし、若く楽しい時代を夫婦として共有していたあなたという存在を、真のところで、嫌うことはありませんでした。それはすべての人間が死ぬまでに得られるとは限らない他者から贈られる幸福の一つだと思います。母はこれを「情」の一言で片づけていましたが。

 手紙というのは、中々話がまとまらないものですね。どうしてこんな読まれることのない手紙を私は書き始めてしまったのでしょう。わかりません。何を伝えたいのか、何のための行為なのか。わからない。でも、まだ書きたいんです、ひたすらに。あなたと話がしたい。そんな感じです。

 とりあえず、今日のところはここまでにします。新しい年はまだ始まったばかりですから。

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