第8話 かけがえのない君との時間
半分拉致されて連れて来られた音楽室には誰もおらず、がらんとした部屋の中にはグランドピアノが独り佇み、カーテンの隙間から差し込んだ夕日に照らされて鍵盤から光を反射させていた。
「うちの吹奏楽部って大体講堂に行って練習してるから、音楽室は先生もいなくなって空になるって誰かが言ってたんだ。だから、ちょうどいいかなって。」
楽器ってかなり高額なものもあるのに、そんな無防備でいいのか先生……とも思ったけど、今回はそんなずぼらさが都合良かったので気にしないでおく。
「ほら、ここにピアノが1台あります。そして、ピアニストも1人います。」
先生の心配をしているうちに、勝手に盛り上がった山石君が早速ピアノを弾かせにかかってくる。
「ちょっと待って。ピアノは本当に何年も弾いてないし、人前で弾くなんてそれこそおこがましいというか、ていうか、絶対弾けないよ……」
「森野さん、この世に絶対と言えるのは、人はみんな死ぬってことくらいだよ。大丈夫、森野さんは弾ける。そもそも僕は森野さんが弾いてくれなきゃ帰らないくらいのつもりで来てるから。」
私好みにプロデュースした可愛らしい眼鏡男子が、満面の笑みで崖から突き落とそうとしてくる。この子は人の嫌がることをして喜ぶサイコパスなんじゃないかな。
「でも、曲だってほとんど覚えてないし、運指だって練習が……」
「大丈夫。今は難しいことは考えないで。体が、指が、必ず覚えてるから。ささ、座ってみて。」
困惑している間にピアノの前に連れられ、椅子に座らされる。山石君はその横にどこからともなく持ってきたパイプ椅子を置き、それに腰掛ける。そして、何の迷いもなく目を輝かせながら、私にその視線を一心に向けていた。ここまで無遠慮にプレッシャーをかけてくる人は初めてだ。
でも、そのおかげでだんだんとピアノに向き合う覚悟が決まってきた。
「……もし、失敗しても笑わないでよ。」
「もちろん。失敗も負けることと一緒、成長のためのサプリさ。」
「……意味分かんない。」
こっちは音が出せるか不安で震度3かってくらい手が震えてるのに、わくわくした気持ちを隠しもせずに隣で座られると、気負っているのがばかばかしくなってきた。弾けないって言ってる人にどうしてそんなに真っ直ぐ期待のまなざしを向けられるんだろう。きっととち狂ってるんだな。
山石くんのきらきらした目を見ながら思い出す。私が最初にこんな目をして弾いた曲ってなんだったっけ……そうだ、小っちゃい頃大好きだったあの曲だ。
静かに目をつぶり、ゆっくりと鍵盤に指を乗せる。幼い頃、楽しく弾いていたあの時の自分の姿を想像する。あの頃は指を動かしたら音が出るだけで楽しかったっけ。楽しそうに演奏している小さな自分の表情を思い浮かべた時、さっきまで見ていた山石君の表情が割り込んできた。そして、その顔にふっと笑みがこぼれた瞬間、指の力が抜けて鍵盤の上をすとんと落ちていった。
最初のドの音が緩んだ音楽室の空気をポーンと引き締めたと思ったら、指が勝手に次々と音をつむぎ出していた。曲が進むにつれて興が乗ると、左手も加わってどんどんアレンジが増えていく。時々ミスタッチもするけど、そんなの気にならないくらいのめり込んで弾いていた。
最後の1音を弾き終えて我に返ると、たった1人の観客がスタンディングオベーションをして拍手してくれていた。
「この曲知ってる。きらきら星だっけ?最初は可愛らしい選曲だと思ってたけど、後半はさすがだったね。聞いたことない曲みたいだった。」
「……ほとんど無意識だったんだけど、指が、覚えてたみたい……」
指から広がった心地よい痺れが全身を覆う。久しぶりに味わうその感覚に胸の奥がじわりと熱くなるのを感じる。
「やっぱり言ったとおりだった。弾けたでしょ。」
「……別に、たまたま今日が弾けるようになるタイミングだっただけでしょ。」
「そうだね。僕はそのタイミングに運よく居合わせたラッキーボーイだ。」
「もう!そんな返しをされると私がすごい嫌な子みたいじゃない……ありがと。」
「ふふっ、どういたしまして!いやぁ、いいものが聞けたしそろそろ帰ろうか。」
こうして、音楽室に忍び入ったことを見つからないように静かに校舎から逃げ帰ったのだった。
はたから見ると、なんてことない1日の平凡な放課後の他愛もない時間だったのかもしれない。だけど、きっと私はこの日のことを一生忘れない。大切な男の子と自分について真正面から語り合い、ピアニストとして新たな幕開けを迎えることができたこの日のことを。
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