17. アッシュ作『迎えにきた母』
タイトル『迎えにきた母』
「あっ!」と声をあげて、妹が森の方へとかけていった。
かけているうちに、靴が脱げて飛んでしまって、ぼくからは、足が切れてしまったように見えた。かけよると、妹は声をあげて泣きだした。ひざ小僧がすりむけていて、見つめているうちに、血がにじんできた。血をみることが苦手なぼくは、口のなかに鉄の味が広がる気分になり、思わず目をそむけてしまいそうになった。
手当てをするためのものなんて、ひとつもない。お父さんを呼んでこよう。そう思って走ろうとすると、妹はぼくの服をぐいっと
そのうちに陽が暮れはじめた。目の前の森は黒ずんでいって、冷たい空気を吸いこみはじめた。妹は、あの怪物の口の中みたいなところに、なんで飛びこもうとしたのだろう。聞いてみようにも、妹はいま、泣いていてそれどころではない。ひざ小僧の痛みではなく、夜を目の前に、ぼくとふたりきりでいることが怖くなって、泣いているらしい。わめき立てるのではなく、すすり泣いている。
なぜ、お父さんはぼくたちを探しにこないのだろうと、ぼくもまた悲しくなり、いまにも妹と一緒に泣くかもしれなかった。ひとの声はせず、虫の音ばかりが響いている。もうここで、死んでしまうのではないかという恐怖に、身を固められて動けなくなってしまった。そのときだった。
「お母さん!」
妹は森の方へと叫んだ。
振り返ってみたが、そこにはだれもいない。奇妙な雰囲気をした森だけが、まるでぼくたちを吸い寄せようとするかのように、黙ってこちらを静観しているようだ。
そこでふと、ぼくにお母さんがいたかどうかが、不思議なことに分からなくなった。当たり前のことのように感じられなくなった。というより、糸の束が切れてしまったかのように、するするとお母さんとの記憶が抜け落ちていくような気がしたのだ。
ぼくは一本の糸をがっしりと掴もうと手をのばした。…………
夏の陽はゆっくりと流れゆく雲を照らして、地上を長くかげらせたかと思うと、
お父さんと妹が、庭で水遊びをしているのを横目でみながら、ぼくは学校からだされた宿題をしている。「今日の分の宿題が終わったら遊んでいい」と、お母さんから言われていた。妹は三十分ほど前に宿題を終わらせてしまったのに、ぼくはまだ台所の机で、泣きそうになりながら、ノートにペンを落とせずにいた。
ぼくは、算数が苦手だった。足し算や引き算はできるけれど、かけ算になってから、少しずつ同級生たちから後れをとるようになった。だからこうして、難しい問題を目の前にすると、どこからどう手をつけて良いのか分からず、泣きべそをかいてしまうのだ。
すると、シャツを濡らしたお父さんが窓から顔をのぞかせて、
「見せてみろ、教えてあげるから」
と、ひそひそ声でぼくを呼んだ。
そのときお母さんは、取り込んだ洗濯物を畳んでいるところだった。
ぼくはノートを持って窓の方へといき図形の問題を見せると、お父さんは「どれどれ」としばらく考えたあと、「これはね、こう解くんだ」と言って、ペンを取った。
しかしそのとき、「こら!」とお母さんの声が聞こえてきて、ぼくたちは、驚きの声をもらした。エプロンを後ろで結びながら、台所へ入ってきたお母さんは、
「ひとりでやりなさい。お父さん、手伝わないでちょうだい。この子のためになりません」
と、くもった表情でぼくたちを叱った。
そのとき妹が、お父さんの白色のTシャツをぐいぐいと引っ張って、「はやく、みずかけっこをしようよお」と、すがってきたせいで、お父さんは「ごめんな」とだけ言い残して去ってしまった。また、ふたりの楽しそうな声が聞こえてきた。ぼくのペンは、ほんのりと水気をふくんでいた。
その日、ぼくはお父さんたちと遊ぶことができず、寝る前までずっと難しい問題とにらめっこさせられた。
妹が寝てしまったあと、こっそりとお父さんたちの部屋へ行った。部屋にいるのがお父さんだけならば、代わりに問題を解いてもらえる。
しかし反対に、お母さんしかいなかった。ぼくは、しぶしぶ自分の部屋へ引き返そうとした。すると、名前を呼ばれた。
「見せてみなさい。一緒に考えてあげるから」
ドアの向こうから、そんな優しい言葉が聞こえてきた。
「分からないことは、悪いことではないの。でも、分からないからって、考えるのを止めちゃいけないの」
と、お母さんは、ぼくの頭を
ぼくは妹の手をぎゅっと握って、森の方へと歩いていった。暗くて静かで、かすかに聞こえる虫の音が、うめき声のように響くこともあるけれど、この奥にはきっと、輝かしいぼくたちの帰るべき場所があるのだと、信じることができる。
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