ほろ苦い思い出のエッセイ集

広田ただし

第1話 サヨナラのない別離

 仕方がないことだけど、年齢を重ねるごとに「別離」も積み重なってくる。酒を酌み交わして笑顔でサヨナラできた別離も多いが、思ってもいなかった突然の別離も少なくない。

       ◇

 この夏、友人ががんで亡くなった。

発見からわずか2年という早さだった。まだ四十代の彼はさぞかし人生に未練が残ったことだろう。仕事で知り合い、年に何度かは顔を合わせて飲みにも行った。まだまだやりたいことがある、と電話で言っていたので訃報を聞いた時にはただただ無念だった。

 彼のやり残したことは何だったのだろう、生きている間に力になれることはなかったのか、と考えていたらふと思い出した。彼との会話の所々に未来の彼が顔を出していたことを。何気なく聞き流していたがもっと聞いてあげればよかったのかな。物理的な力になれなくても彼の未来を言葉にする手伝いくらいはできただろうに。

 最後の電話で彼は「人生の終盤で〇〇さんに出会えたことに感謝しています」と言った。いやいやそんな感謝されるようなことをしたかいな、と思ったが深くは聞かなかった。その電話のちょうど一か月後に彼は逝ってしまったので結局彼の人生に私がどんな役割を果たせたのかはわからないままになった。

体調がよくなったらぜひ一緒においしいものを食べに行きたい、との彼の最後のお願いを叶えることはできなくなった。サヨナラのない無言の旅立ちを思い出にせざるを得ない別離だった。

       ◇

二十歳台前半、私は靴下工場で靴下編機に囲まれて仕事をしていた。何百台もの編機が出す轟音の圧力と、機械油をたっぷり吸った重たい空気の中で。

ある夏の日、編機の列の裏側に先ほど交代した早番の班の女の子が立っているのに気が付いた。顔は知っているし何度か言葉を交わしたこともあるが特別仲がいいという訳ではなかったので、なにか業務関係の連絡でもあるのかなと思ったが、

「ねぇ、井上陽水のチエちゃんって曲知ってる?」

彼女がやや大きめの声で聞いてきた。

あぁ知ってるよ。と答えたら機械と機械の間から茶封筒を差し出してきた。かろうじて油がついてない指でつまんで受け取り、裏表を確認している間に彼女は走り去った。その場で中を確認しようとしたら油まみれになってしまうので、ポケットに押し込んで寮に帰ってから確認することにした。

 ラブレターでないことは茶色の事務用封筒だったことから推測はついていた。中には太田裕美のコンサートチケットが一枚。なんだよ陽水のライブじゃないのかよ、いや突っ込みどころはそこじゃない。俺が太田裕美のファンだってどうして知った、いやそこでもない。

 封筒とチケットと湧き上がる疑問を前にして考えた、この主語も動詞もないメッセージに対してどう行動するか、まあ考える前から答えは決まっていた。仮に同僚の悪戯だとしても太田裕美を鑑賞できるのであれば嘲笑など屁でもない、おつりがくるってもんだ。まあ一応悪友の顔を発見した時のためにいろいろ言い訳を用意しながら会場の京都円山音楽堂へ向かった。封筒を受け取った週の土曜日だ。

 円山音楽堂は八坂神社から円山公園を抜け、高台寺方面に向かう途中にあるけっこうでかい野外音楽堂だ。青色のベンチが半円形に並ぶ斜面の底にステージがある。ゆっくりと斜面を下り指定された席に着くと隣にはすでに彼女が座っていた。特に休日用の表情は持ち合わせていないらしい。いつもの仕事中と変わらない表情と口調で

「私、太田裕美のファンなの」

疑問が一つ解けた。

私はあまり他人のことに関心がないので、どうして、とか なぜ、とか他人の行動や考えに質問をするのが得意ではない。結局それ以外の謎は解明できないままコンサートに没頭した。

 その夜、女子寮まで送っていき直前の横道で分かれた後、時間つぶしにタバコに火をつけた。女子寮生はいろいろな噂が立つのを嫌い、男と二人では寮の前にはいかないという暗黙のルールがあったためだ。近くにある街灯のくっきりした光柱の中をタバコの煙が波打ち渦巻いて闇に消えていくのをぼんやり眺めながら、次は私が誘うべきなんだろうか、陽水のライブでもいいのか、などと考えていた。もう一度会いたいと思い始めていた。

 翌週、彼女は会社を辞めた。

サヨナラも言わずに。


ひとつ分かったのは井上陽水のチエちゃんという曲の歌詞が

「夏の日にあの娘は行ってしまった

誰にもさよなら言わないままで

誰にも見送られずに」

というものだったので、茶封筒を差し出してきたときすでに黙ってサヨナラすることを決めていたんだろう。

会社を辞めるから一日だけ付き合って、と言ってくれればいいのにそうしなかった理由は何だろう。また会えると思っていたのに突然サヨナラになってしまい心の収まりが悪い別離となった。

       ◇

思えば「出会えたことに感謝しています」という彼の電話は少し奇妙なものだった。やりたいことがまだまだある、一緒に食事に行きたい、といったやや前向きの話に続けて唐突に「人生の終盤で〇〇さんに出会えたことに感謝しています」と言ったことだ。なぜそこでその言葉が出たのか。

おそらく彼はもう自分の時間がそう長く残っていないことを悟ったのだろう。「出会えたことに感謝」より「人生の終盤」に注意するべきだった。

彼は私に「ありがとう、サヨナラ」と告げるために電話をくれたのだろう。「人生の終盤」なんて四十代の人が使うことは普通はないはずだから。他人のことに関心がないからその時点で私は何も気づいてあげることができなかったが、ようやく分かったよ。君はちゃんと思い出をサヨナラで閉じてくれたんだね。ありがとう、サヨナラ。

       ◇

サヨナラを言わずに去った彼女から手紙が来たのは夏の終り頃だった。

お見合いで結婚が決まっていたこと、両親や親せきもすごく喜んでくれ、何の不満もない相手だったこと、実家を出て靴下工場で過ごしたこの数年はとても楽しかったこと、との書き出しに続き

「ただ、会社を辞めて実家に帰る日が近づいてくるにつれ、なにかに焦れるように胸がざわついて、このまま敷かれたレールを走るだけでほんとうに私は幸せなのか、自信がなくなり悩んでいました。家族や親せきの幸せが自分の幸せだとずっと思っていたけど、それだけではこの先自分の心が持ちこたえられそうにないと思いあの計画を立てました。

あなたを、いつも遠くから見ていました。隣に座りたいとか二人だけで遊びに行きたいとかそんなことは考えてなかった、ただ私と違い自由奔放なふるまいのあなたを見ていることが楽しかったの。一日だけあなたの時間が欲しい。私の人生のために、これから平穏で平和な人生を歩むために。

自分勝手な望みだということは充分分かっていたけどとても止められない衝動でした。

コンサートチケットをいつ渡すか、どうやって渡すか、なんて言えばいいのかいろいろ考えたけど、いざ渡すときには緊張して何も言えなかった。でも受け取ってくれてありがとう。

チケットを渡したあと自分でも驚くほど心が落ち着いたのが分かった。受け取ってくれた、それだけで計画は成功したように感じ、当日来てくれるかどうかは気にならなくなっていました。そもそもあなたが当日来てくれる可能性はかなり低いだろうと思っていたし。

土曜日は空いてない、太田裕美には興味ない、そもそも私に興味ない、来ない理由はたくさんあった。でもチケットを渡したときに結果が出てほしくはなかったの。土曜日を思い出にしたかったから。

当日、空いたままの隣の席にはぬいぐるみでも置こうかと考えていた時、ベンチの間を下りてくるあなたが見えた。どっちでもよかったはずなのに緊張で頭の中が真っ白になってしまったわ。理由を聞かれたら正直に話すつもりでした。それであなたが怒って帰っても仕方ないと思っていた。でもあなたは何も聞かなかったし、ずっと前からの友達のように接してくれた。

あの一日は、たった一歩だけど私がレールから外れることができた勇気の記念であり、親にも言えない私だけの秘密になり、私だけの宝物になりました。ありがとう私のわがままに付き合ってくれて。

さようならは言いません。あの一日をさようならで終わらせたくないのです。チケットを渡すことを計画したときに決めていました。さようならを言わずに消えることで思い出を続けていこうと。私の心の中だけでも。

今はとても心が落ち着いています。

あの日一緒にいてくれてありがとう。

あなたに出会えたことに感謝しています」

       ◇

なんてこった、ここでも感謝されていた。私には人徳がある、と言いたいところだが、きっと二人とも自分の道がはっきり見えていたから、深く入り込もうとしない私の淡白さが心地よかったんだろう。そして感謝がサヨナラの代わりだったんだろう。


あの一日が彼女の思い出の路傍でキラリと光るガラス玉にでもなれたのなら嬉しい。


サヨナラの言葉はなかったけど、もう思い出の中でしか会えないことも分かってる。

私も二人との別離が小さなガラス玉になって思い出の底でキラリと光っているよ。

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