ep3 高嶺の花の転校生②


「成海のためにわざわざ来てくれて、本当にありがとうね」


 津田成海の母親は、丸い顔をほころばせて笑った。心から喜んでいる様子に、咲乃はやんわりと無難に笑顔を返す。今更、「家に上がるつもりはなかったので、もう帰ります」なんて言えない。


 マンションの集合ポストから例の不登校生徒の部屋番号を探して、封筒を投函しようとしていたところ、運悪く買い物帰りの母親とたまたま鉢合わせてしまった。津田成海の母親は、よほどクラスメイトの訪問が嬉しかったらしい。咲乃が断る隙もなく、せっかくだからと押し切られ、そのまま家に上がることになってしまった。


 津田成海の母親は、全体的に丸い人だった。咲乃よりも背が低く、ころころとしていて忙しなく動いている。おしゃべりが好きらしく、買ってきたものを冷蔵庫にしまいながら、ずっと咲乃にしゃべりかけていた。


「呼びかけても部屋から出ないんだもの、せっかく咲乃くんが来てくれたのに。ごめんねぇ。咲乃くんは、最近転校してきたの? じゃあ、新しい学校になじむの大変でしょう。――また、あの子ってば自分が使ったコップそのままにして。家にいるんだから洗ってくれればいいのに――。めったにお友達なんて来ないから、咲乃くんが来てくれて嬉しいわ! きっと、あの子も喜ぶわよ。もし、良かったら仲良くしてあげてね。ミルクティのおかわりはいる?」


「いえ、結構です」


 咲乃はすでに、早く帰るための口実を考えるのを諦めていた。成海の母親のおしゃべりが凄すぎて、さえぎる隙がない。むしろ、下手な言い訳で逃げ帰ろうとするよりも、津田成海に一言あいさつして帰った方が早そうだ。


 咲乃は、居心地の悪さを紛らわせるように、ミルクティを飲みながらリビングの中を観察した。ベランダにつづく大きな掃き出し窓。液晶テレビとソファ、ローテーブル。棚や壁には、家族写真が飾られ、剣道二段の賞状が飾られている。

 どこにでもあるような、平凡な家庭風景だ。写真の中に子供たちが写っている。姉妹だろうか。むすっと不機嫌そうな細身の少女と、ぷっくりした頬に泣き跡をつけた、まんまるな幼い少女が並んで立っている。


 ミルクティを飲み終えると、咲乃はようやく腰を上げた。


「ごちそうさまでした、僕はそろそろ――」


「あら、ドーナツはいいの?」


 ミルクティと一緒に出されたドーナツは、一口も手を付けずに残っている。


「すみません。津田さんにごあいさつしてから帰ります」


 津田成海の母親に案内され、成海の部屋の前に立った。閉ざされた扉からは物音ひとつ聞こえない。本当に中に人がいるのかと疑ってしまうくらいに静かだ。


 咲乃は、遠慮がちに部屋の扉をノックした。


「はじめまして、津田さん。同級生の篠原しのはらです。最近、転校してきたばかりなんだ。よろしくね」


「……」


 帰ってきたのは、無言だった。咲乃を警戒しているのか。物音すら立てない。本当に人がいるのかと疑いたくなるほどの静寂に、咲乃は負けじと言葉を続けた。


「実は今日から、キミにプリントを届ける役になったんだ。だから、そのご挨拶に来たんだけど。これ、学校のお知らせ。ドアの下から入れるね」


 封筒を、ドアの下の隙間に差し込む。少しだけ、耳をそば立てて部屋の奥の人の気配を探したが、やはり、物音などしなかった。


 これ以上呼びかけても、まともな反応が返ってくることはないだろう。そう、咲乃は判断すると、肩にかけた学生かばんの紐を改めて肩にかけ直した。


「それじゃあ、今日はもう帰るよ。いきなり来てごめんね、津田さん」




 咲乃は、津田成海の母親に別れの挨拶をしてから、外に出た。5時を告げる『蛍の光』が流れている。


 「あの子と話せた?」と尋ねた母親の顔には、隠しきれない期待があった。


 咲乃が首を横に振ると、母親は残念そうに眉を下げて、「来てくれたのに、ごめんなさいね」と謝った。クラスメイトの訪問という初めての出来事に、希望を抱いたのかもしれない。心配されているとわかったら、成海も学校へ行く気になるのではと思ったのだろう。


 きっと母親が考えるような、そんな安易な問題ではない。いじめにあったという神谷の話が本当であれば、津田成海にとってクラスメイトの訪問は恐怖でしかないし、警戒しないはずはないのだ。おそらくあの母親は、津田成海が学校でいじめられていたことを知らない。


 不意に胸の奥がうずいた。忘れられない記憶が、残像となってよみがえる。


 痛みに耐えるように息を吐いた。じっとり首筋に汗がにじむのは、まだ9月の熱が残っているからか。




 また金曜日が訪れて、咲乃は津田成海の家のマンションに来ていた。

 今日は、封筒をポストに入れてすぐに帰るつもりだ。またあの母親と鉢合わせて、家に招かれても気まずい思いをするなんてことは避けたい。


 部屋番号を探し、ポストに封筒を入れようとした――。

 しかし気づいた時には、インターホンを押していた。咲乃自身が驚くほど、まるで吸い寄せられるようだった。


 心の準備などできていない。関わらないと決めていたのに。それでもきっと、関わらないなんて無理だった。このクラスに転校して、空席があると気づいた時から。


 玄関が開く。丸々とした津田成海の母親が、嬉しそうに咲乃を迎えた。

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