02
らっしゃい、と威勢のいい声をかけられれば、いつもにっこりと笑みを返すことを常としている彼にしては、このとき、曖昧な表情を浮かべることしかできなかった。
訪れた小さな町の酒場は、どこにでもあるような、少し小汚い感じのする大して広くはない店だった。
彼は店の人間や少ない客たちから物珍しげにじろじろ見られたけれど、これはよくあることだから何も気にならない。
気になることは、ほかにある。
「何だ」
どこか面白そうに声をかけたのは、見るからに
と言っても、少年たちが好みそうな冒険物語に出てくる、ごつい身体に大剣を佩いた力自慢の男、という意味ではない。むしろ少女たちが好む絵物語に出てきそうな、すらりとした長身、戦いには向かなさそうな長髪を後ろできっちりと束ねた伊達男、である。
剣や鎧を身につけているが、何も知らなければ役者か何かだとでも思うだろうか。だが少しでも戦いの心得がある者が見れば、それが見た目だけではなく腕のある人物だと見抜くだろう。
「何か、文句がありそうだな」
「文句」
その隣にいるのは、これまた見るからに
これは少年向け少女向けどちらの物語にも共通であるが、優しそうな顔立ちからだけでは詩人とは知れず、大事そうに抱えている変わった形の鞄を見れば一目瞭然となる。明らかに
詩人の方も同じように長い髪を束ねていたが、戦士が濃い色のまっすぐな髪であるのに対して、やわらかそうな茶色い髪であった。どちらも同じように簡単に束ねているのだが、ぱっと見た印象では戦士の方がきちんと結わえているように見える。
普段は営業用の愛想笑いも兼ねて笑みの絶えない詩人の顔に、いまは渋面が作られていた。
それは却って戦士を面白がらせたようである。
「文句、ね」
詩人はきれいな声で二度繰り返し、空いている席に座ると弦楽器を丁寧に下ろして、息を吐いた。戦士が座るのを見届けると、そこで相方をじっと見る。
「意見、ということにしようか」
「ほう、ご意見」
戦士はやはり面白そうな顔をしたままだった。
「お伺いしよう」
言いながら戦士は手を上げ、店の給仕に酒を注文した。
「君のしたことは?」
「何?」
「
「ご依頼通りに、彼の別邸の裏庭に夜な夜な現れる謎の化け物を退治した、ということだろう」
ガルと呼ばれた戦士は、何事もないように肩をすくめた。
「僕には、そうは思えなかったんだけど」
「じゃあ俺は何をしたのかな、リーン」
今度ははっきりとしたにやにや笑いを浮かべて、ガルはそう尋ねた。リーンは息を吐く。
「僕には。君が土で遊んでいたようにしか見えなかったけど」
「なら、そうなんだろうよ」
「ガル」
リーンは咎めるような声を出した。
「君が、もう化け物は現れないと言うのならそうなんだろうし、実際、昨夜は何事もなかったみたいだ。でも少なくとも、君は化け物と死闘を繰り広げたりは、しなかったね」
「しなかったな」
ガルは認めた。
「仕方ないだろう。剣を振るうべき化け物なんていなかったんだ」
それが戦士の答えだった。
「あれはメリセルフォートの泣き声だよ」
「何だって?」
詩人は胡乱そうな顔をした。戦士は肩をすくめる。
「〈泣き女〉の話くらいは聞いたことがあるだろう」
「あるよ、もちろん」
深夜、誰もいないところから女の泣き声がする。そんな気味の悪い現象が繰り返し起これば、それを聞いた者の周囲で近い内に死者が出る。迷信の一種だが、〈泣き女〉の声を聞いたから厄を払ってくれ、と
「実際、そういうのはいるんだ。別に人間を呪い殺す訳じゃないがな、女の泣き声みたいな声を発する
「……それが、メリセルフォート?」
「いいや」
ガルは首を振った。
「そいつの名前は、神殿がつけてるだろう。やはり幽霊、怨霊の類なのか知らないが、これには
「聞いたことないね」
「行ったこともないだろう」
「そりゃ行かないよ。そんな夜にわざわざ」
「だろう。行くのは墓荒らしか、肝試しをしたがるガキか、そんなところだな」
「そうじゃなくて。『僕が』聞いたことないと言ったんじゃない。そんな話を聞いたことがない、と言ったんだけど」
「墓守なんかは慣れたもんだし、墓荒らしはいちいち墓場に言ったと語らないな。ガキはびびって口をつぐむ。話には上らないという訳だ」
「まあ、そうかもしれないけど」
リーンは渋々と同意した。
「墓場に現れるというなら、やっぱり幽霊なのかな」
「そういう話なら好きだろう」
「好きじゃないよ、別に」
「何だ、怖がりだな」
「違うよ」
リーンは顔をしかめた。
「死者に未練がある、と思うのは哀しいことだよ。歌にすればそれはきれいだし、僕も好んで歌うけれど、現実に亡くなった人がラ・ムール河へ行けずにさまよっているという話は、別に嬉しくない」
「成程」
ガルは肩をすくめた。給仕がガルの頼んだアスト酒の杯を運んできたところで、リーンも
「で、メリセルフォートというのは、何」
「これも実体を持たない精霊に近い存在で、魔物の一種だ。だが、人里に降りてくることはまず、ない。奴らは森の小人キッサーの下僕で、森を離れないから」
「聞いたこと」
「なくても、いるんだ」
戦士は詩人の抗議を先に制した。
「リーン。お前さんは誰でも感心するくらい多くの話を知ってるが、たいていは作り話だろう」
「過去の事実に基づくものも多いものだけれど」
詩人が返したのは抗議という訳ではなく、訂正だった。
「かもしれんな。だが、過去だ。昔、大昔の伝承。つまり、現在まで伝わるほどの大仰な話だけだ。結果として」
「君が日常に行ってきたような、ちょっとした魔物退治なんかは、歌にならないと」
「
ガルは片目をつむった。
「まあ、『戦士ガルシラン』の歌なんか作った奴もいたけどな、俺は自分がすごい英雄だなんぞと自惚れちゃいないし、あの詩人ももうガルシランの活躍の歌なんか歌ってないだろう」
「自惚れが強すぎるのは鼻につくけど、君みたいにあっさりとしているのもどうかな」
「何?」
意味が判らないとばかりにガルは眉をひそめた。
「詩人が歌を作るというのはたいへんなことなんだよ」
歌の創り手はそう言った。
「ちょっと考えてさっとできるというものじゃない。即興で奏でるのとは訳が違う。完成させた歌のこと、詩人は大事にするよ」
「だがお前たちだって商売だろう。受けない歌を意地になって歌い続けてるんじゃ、おまんまの食い上げだ」
「まあ、それも確かにそうなんだけども」
「あの詩人がいまでも俺を題材にした歌を歌っていてもいなくてもかまわないが、少なくとも聞いた者が感銘を受けて語り伝えるというような話でもない。つまり」
残らない、とガルは言った。まあね、とリーンは認めた。
「だから僕は、僕の知らない君の世界を見てみたいと君にくっついてる訳だ。それは僕自身が言ったことだよ」
リーンは肩をすくめた。
「聞いたことない、と言っただけで、別に嘘だとは言わなかっただろ」
それに、と詩人は続けた。
「僕は、嘘みたいな本当の話には、とても耐性があるんだ」
「そういうのは耐性と言うのか?」
苦笑するガルを見て、リーンは肩をすくめる。
「〈
「ご立派」
戦士は拍手などした。
「人の話をよく聞く、というのは長年の経験から学んだことか?」
ガルは、彼より年下に見えるリーンにそう言った。
「そんなところだね」
リーンも平然と答えた。
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