旅の一幕 ―剣と歌―
一枝 唯
01
夜の空には少し太った半月がかかっていた。
細くたなびく雲が
もしも女神の裸体なんて目にしたら、それは文字通りに神々しくておかしな下心など浮かんでこないのではないかと思うけれど――それは言うなれば男の理屈、或いは単なる言い訳に聞こえ、女神様をはじめとする女性全般には、相手にしてもらえないだろう。
そんなやくたいもないことを彼が考えていたのは、この時間がなかなかに退屈だったからだ。
黙って。
ひとりで。
窓の外をじっと見ていろと。
いや、何も見ていなくてもいいのだ。耳を澄ましていて、何か聞こえたら外を見ればいいと言われている。正確なところを言うならば、見る必要はないのだ。見たいならそうすればいい、とだけ。
だが「黙ってひとりで」の部分は変わらなかった。よって彼は、住民のない豪華な館のひと部屋から月をのんびり眺めて、空想の世界に遊ぶことにしたのだ。
これならば、時間はいくらあっても気にならない。
空想の翼はいつでもどこまでも飛ぶ。
月の女神を讃える美しい旋律を思い起こし、それを心のなかで奏でることに決めると、彼は星神たちの物語をひとり思った。
そうして彼が夢の世界にたゆたい続けて、どれくらいの時間が経っただろう。
何か音がして、彼の物語は中断を余儀なくされた。
彼ははっとなって窓の外を見る。
音がする。いや、音ではない。
それは、声だった。
うう、うう、と――それは女の嗚咽のような。
出たのか、と彼は目を凝らした。
哀しそうな泣き声は続く。
彼は胸を締め付けられる思いだった。
もしかしたらこれは、女性の哀しい泣き声などではなくて、何か化け物の鳴き声なのかもしれない。少なくとも依頼人はそう考えていた。避暑用の別邸の裏庭に、夜な夜な化け物が徘徊するようだからそれを退治してくれと、そういう話なのだ。
と言っても、彼が退治するのではない。
彼は見物人だ。
まるで物語のような魔物退治。彼はこの一年半で、いくつもそれを目撃してきた。
もっとも、ずっと昔にも奇態な出来事はいくつか体験した。
だがそれは相方が異常だったためで、世の中が不思議だったのではない。
いまは――まるで世界が不思議色に染まる。彼はそれが楽しかった。新しい歌がいくらでも作れそうだった。
うう、うう、と続く声がぱたりとやんだ。彼は必死で目を凝らしたが、化け物の姿は見えない。
しばらく息を呑んで観察していたものの、剣を手にした人影が現れた。人影がその刃を左腰の鞘に収めてしまうのを目にとめたところで、彼はこらえきれなくなった。
「ちょっと! どうなったんだよ!」
無造作に窓を開けると、彼は叫んだ。
「もう、危なくないぞ。きたけりゃこい」
返事はそれだった。彼は全開にした窓からそのまま裏庭へ出ようかと思ったが、大事な荷物がその空間をちゃんと抜けられるかどうか自信がなかったので、急いで裏口に回る方を選んだ。
あまり使われていない扉の取っ手をかちゃりと回して外へ出る。
月の光の下、ひとりの男が彼に背を向けて、しゃがみ込んでいた。
「ど、どうしたの」
思わず彼はそう声をかけた。
「立ち回りを演じていたようには、見えなかったけど」
「見えなかった通り。演じてない」
男はしゃがみ込んだまま、ひらひらと背後の彼に手を振った。
「何も負傷をして苦しんでる訳じゃない。ちょっと作業があるんだ。月夜の庭でも散策してろ」
「それはなかなか浪漫あふれる行為だけどね、いまは君の作業の方が気になるみたい」
「なら、黙って見てろ」
言われた彼は、はいはいと両手を上げてその「作業」を見守った。
「……さて、と」
一、二
「これでいい」
「何が?」
「もう一晩だけ、様子を見る。それで声が聞かれなけりゃ、依頼完了だ」
にやりと笑う男を見ながら、いったい何がどうなったのかと彼は不審だったが、その場で問いつめることはしなかった。
先に、いろいろと想像を膨らませておくのも、悪くない。
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