不正

多摩川 健

不正

 「不正」    多摩川 健  

     あらすじ           

    

 母が進む左手は急な昇りにかかっている。雪肌の所々で泥水が跳ねる。………息が切れる。母の姿が丘の背に消えた。

「ブボー」と息を吐いて力をふり絞る。やっと丘の上まで来た。

 二才馬サチカゲがそこで、舞い散る粉雪の向こうに見た光景は、異様で体が芯まで固くなるものだった。

 十数本の大型黄旗が風にビリビリとはためいていた。雪煙の中で母メティウスの鮮血が飛び散った。金属の鋭い狩猟用の罠にかかった母の苦しげな息が大きな鼻孔から白く長く吐き出ている。

一九九七年二月、北海道新冠、石井牧場での事件であった

 サチカゲをターゲットとして、〈恐怖体験〉を仕組んだのは、

表 孝次(通称 スネイク)だった。確実に将来性にあるサチカゲ(サラブレッド)を選択し、その誕生前からの約五年間を持続し、耐えて計画実行出来る男だった。

彼は見込んだ仲間三人と日本、香港、UAE(ドバイ)、ロンドンで次々に計画を実行していく。冷静な浦河の獣医伊勢三郎、香港で出会ったハイミスの富士子、大井競馬場のパドックで馬券のプロと判断した高垣達は、サチカゲの〈恐怖体験〉を再現させ、ビッグレースで大口の馬券購入を仕掛けて行く。

 九九年の四歳クラシック路線で、新馬、弥生賞一着、スプリングステークス三着のサチカゲに、宮内 健(南関東公営馬組合職員)も注目していた。四月十八日の皐月賞は大外から、ティエムオペラハット、オースミフライトを差し切る。ダービーでも、内から武井のアドマイルベガを、首差交わして二冠馬となった。

 スネイク達三人はこの時点で、彼等の計画に確信を抱く。

秋、日本で一回目の仕掛けが行われた。三冠を狙うサチカッゲのステップレース(セントライト記念)で、当然の一番人気サチカゲが第四コーナーで大きく外へ暴走した。スタンド四コーナー角で大型の黄旗を振った人間が目撃された。

 この日から、宮内 健と写真家細田尚子の〈仕組まれた不正〉に対する追求が始まる。 

 ドバイ入りしたサチカゲは依然好調であった。又、ドバイ皇太子ムハマドも、不正グループの存在を知り、断固たる決断をしていた。そしてドバイワールドカップはスタートした。四コーナーでスネイク、伊勢、高垣が黄旗を取り出して振り上げた瞬間、事態は意外な方向に向かった。

 不正と対峙した健達は、長い道程の末にやっと公正さを取り戻せた事を実感していた。

     





           本文


     サチカゲ



 この風はどこから吹いて来るのだろう。

ゴオー、シュウー、ヒュルヒュルル、……長く消え入るように耳に残る。日高山系の麓付近から上は、鈍い澱んだ冬景色だ。あたりの空気は張り詰めている。

サチカゲは母に遅れまいと、懸命に走った。

風が仔馬の耳を切って飛ぶ。

まばらな木立のゆるい斜面を四頭の仲間たちが飛ばしている。

 母が進む左手は急な土手にかかっている。白黒まだらの雪肌の所々で泥水が跳ねる。……息が切れる。母の姿が丘の背に消えた。

「ブボー」と息を吐いて、力を振り絞る。やっと丘の上まで来た。

 サチカゲがそこで、舞い散る粉雪の向こうに見た光景は、あまりに異様で、体が芯まで固くなるものだった。

粉雪が吹き上げる丘の上で、下から吹き上げる風雪に引き千切れるように、黄色の巨大な旗が数十本、天に向かってビリビリとはためいている。

 何と言う光景だ。

母は今、まさにその大旗めがけて、突進を始めた。仔を守ろうと、勇気を奮って疾走する。サチカゲは恐怖で脚がすくんだ。脚が止まった。母の狂気とも思える走りに、とてもついて行く事が出来なかった。ブルッと震えるサチカゲの眼の先で、母が大きく転がっ。

 『ブボー!』

雪煙と一緒に灰色の空に母の鮮血が飛び散った。

母は苦しげにもがいている。サチカゲは恐怖を忘れて母に駆け寄った。金属の鋭い狩猟用罠にかかった母の苦しげな息が、大きな鼻孔から白く長く吐き出ている。サチカゲは恐怖と悲しさで再びすくんだ。


 この恐怖の記憶が二年後の大事件に発展する事を、誰が想像できたろうか。



日高山系から吹きおり、差し込む風は、びょうびょうと、乾いた粉雪の山を走り下っていく。ぬれて澱んだ空気が、この辺り一面を支配する当歳の真冬だった。

石井はあまりの惨たらしいメティウスの姿に、息が止まり腹の奥から嘔吐した。涙さえ出ない、悲しい光景だ。

サチカゲが、恐怖で立ちすくむ姿を見て、口の中の苦い汁を吐き飛ばし、首を強く抱いてやった。サチカゲの体温が石井に伝わる。

震えの中で、サチカゲの恐怖も伝わる。やがて、ゆっくりと首を石井の方に向けた。見返してやるにはしのびない。深い・・・悲しみの瞳を石井は忘れる事は出来ない。

牧場でも一番優秀な牝馬、メティウスに、ブライアンズタイムをかけ、去年四月の誕生から、ずっと石井が世話してきた。十月に離乳が順調に終了してからも、五頭世話をする中で、このブライアンズタイム '96にはとりわけ、将来性を直感していた。「サチカゲ」と呼んで、当歳時から眼をかけていた。


曽我も当然自分が引き取る馬と考えていた。夢は、ここ五年のクラシック制覇で、世界中の国際レースで勝てる馬を、育成時から捜し、グレードレースで勝利する事だった。


メティウスの複雑骨折は、手の施しようがなく、次の日殺処分となった。

 母馬が死んでからのサチカゲは、すっかり沈み込み、やんちゃな活発さが消えた。朝運動でも他の親仔の後ろを、やっとついて行く姿が痛々しかった。石井は、親父に相談して、しばらく夜はサチカゲの馬房に泊まりたいと言った。

「おまえの気持ちはわかるが、あの仔もこれを越えんといかんのだ。一人前の競走馬は、遅かれ早かれ母馬と離れ、本格育成に入るわけだから」

「それはわかっているんですけど、サチカゲにとっては異常な体験だ。走ることへの恐怖を引きずっている。何とかしてやらんと」

「毎日話しかけ、励ましてやる事だ。一流の血統だし、ブライアンタイムズは気丈な血統だよ。」

石井は十日間程、馬房に泊まり、毎夜三十分程話しかけ、励まし続けた。












サチカゲ 曽我


 この事件の九ケ月前、曽我は石井牧場を訪ねていた。 彼は、石井牧場の繁殖牝馬と、その配合を信頼していた。新冠でも、小規模牧場だが、良い母親に恵まれ、ここ十年近くのめぼしい仔は、ほとんど所有していた。

今度のメティウスの´96はどこか違っていた。石井の息子から、メティウスと、ブライアンズタイムの配合に期待してほしいと聞かされ、四月十二日誕生の翌月には、新冠まで期待を込めて確かめに来ていた。


 誕生から一ケ月の仔馬というのは、本当に愛らしい生き物だ。母メティウスの足下を離れようとしないで、小走りにじゃれ付いている。何度もも見ているのだが、どの仔馬も本当に可愛い。この仔馬だけが特別と言うわけでもない。彼等は皆同じように無邪気で、やがて来る、サラブレッドの厳しい戦いの時間とは別に、離乳までの六ケ月を過ごしている。母との一日中の触れ合いは、平和な時間の流れで、この間に骨格や訓練前の気性といった素質が決まって来るのだろう。

 新冠の五月上旬は、さわやかで冬の厳しさを忘れさせてくれる。本州ではとっくに終わった桜が満開で、メティウスとその仔馬が、桜一面の牧場で、ゆっくり走る姿は、曽我の心身を洗ってくれる。

 「いいですねえ。馬主さんを迎えるこの時期、一番希望が湧きますよ。先行き、どうなるか・・・この仔のしまいがどうなるのか、それはわからないけれど。生まれてすぐの、この親仔を見ると、我々の不平不満もぶっ飛ぶ気がするんですよ」

長男の康太郎が親仔を目で追いながら言った。

「同感だよ。この仔馬の心配や、無事にレースで廻って来てくれればいい。故障はしないでくれ。と、願うのも、こういう場所でのつながりなのかな。」

「今年のメティウスの仔は、骨格がしっかりしていますよ。それに、やんちゃ坊主の気質というか、ちょっと棹性が強そうなのは、ブライアンタイム譲りでしょうかね」

「そこそこには走るかもしれないな」

「順調に行ったら、美哺の村田さんの所はどうでしょうかね」

「おいおい、もう俺が馬主ってことかね」

「だって、その気になってるんでしょう」

「うーん……。まあ、そう言うところかな」

「じゃ、決まりですね。セリには出しませんから」

「いや、いつ来ても、見て勧められる仔馬とは、断りにくいもんだな・・・・」

「私も、この仔は、曽我さんに是非と思っていましたからね」

「君にはかなわんよ」

二人は笑った。

「所で、弟さんは来るかい。去年は随分涙を飲んだな」

「康雄もデビューして八年ですからね。最初の勢いはともかく、主戦の本田さんが何やかやと世話を焼いてくれています。去年夏の落馬で、回復に手間取りましたがね。ここ二~三年で、本田さんや、テキも康雄を主戦にしたいようですし……頑張りどころですね。先週顔を見せたですよ」

「今年は、山形さんの所の新馬で、結構走りそうなのがいるから、康雄君にも出番が廻って来るだろうな」

「私もそう思って、頑張れよ。と、言いました」

「康雄君はどちらかというと、逃げ馬をなだめて、着に持ち込むのが上手いからな。新馬戦はいいと思うよ」

「もう、同期の連中は、ダービーを勝った武井や、柴田勝己、蛯川もいますし、頑張りどころですね」


 メティウスの仔を、また持つという事に、曽我はなんとも言えぬ楽しみを感じ始めていた。馬主は経済的にも大変で、心配も多いが、持ち馬と共に、何年間か、時間を共有している充実感が一層大きい事も知っていた。





出会い


 スネイクは、生暖かい香港特有の、澱んだカビ臭い風をゆっくり吸いながら、北京道を横切ってスターフェリーターミナルの方向に向かった。今度の計画で、高垣三郎、鄭調教師と中環(セントラル)の中華料理店で、八時に待ち合わせていた。ちょうど尖沙咀の交差点を渡ろうとした時、観光客らしい日本人女性の声に振り返った。

 「ワア!危ないじゃない! 急に押して… アアッ、 ストップ。何するんですか!」

ーーしかし、遅かったーー

香港人の押し屋と、もう一人の若いTシャツの男が、ショルダーバッグをひったくると、赤信号を突っ切って、オーシャンターミナルの方向に、飛ぶように走り去った。

「大丈夫ですか。背中をひどく突かれたようでしたが」

花柄ワンピースの女は、走り去った男を追うのをあきらめて、振り返った。細い不気味な眼を、警戒しながら、

「ええ、でもバッグに貴重品がなかったから。少しお金は入っていたけど、パスポートと航空券はホテルに置いて来たし……カードは別に持っているから」

パニックにもならず、冷静な女性にスネイクは興味を感じた。やや大柄で、すっきりした細顔の女からは、シャンプーの香りがした。

「日本からでしょう。いつお帰りですか」

「一ケ月のフリーチケットで来て、こっちにに仕事がないか捜しているんだけど……来週あたりには帰るつもりでいたんだけ・・・」

依然警戒しながら、冨士子はスネイクを改めて見た。

蛇のような眼だけでなく、何か得体の知れない雰囲気を感じてた。

「パスポートとチケットが残って不幸中の幸でしたね。今日は早めに帰った方がいいでしょう、お役に立てませんでしたが気をつけて。」

スネイクは交差点を渡りはじめた。

「あのう、よろしかったら……」

 ーーなぜ自分から声をかけたのかしらーー

偶然の出会いとはいえ、何かこの男に惹かれる所があった。そんな自分が、富士子も不思議だった。



 彼女には単刀直入に切り出す方が良さそうだ。計画全体を、明確に伝える。多分彼女は聞き入れる。スネイクは冨士子に対する直感にかけた。

「面白い計画があってね。急にこんな話しで戸惑うかも知れないけど、ゾクゾクする様な金儲け計画なんだ。どう、興味ある?」

冨士子はフッと目を上げた。

飲茶の店は、こういう話がやりやすい。友達連れや、会社仲間、子供を連れた家族が、ゴチャゴチャ話す喧騒は、警戒という雰囲気にはほど遠い。蝦焼賣(エビシューマイ)を食べる手を止めて、冨士子はスネイクを見た。切れ長の目の奥に凄味が駆けた。

スネイクは、自分の直感が当たりそうだなと感じた。今は、一気に話すにかぎる。

「キイワードは馬。舞台は競馬。時間は三、四年がかり、日本と海外で同時進行させる。時間と手間の掛かる冒険だ。見返りは全体で二十億円以上。仲間四人として、一人五億円強と言うところかな」

冨士子はスネイクから目を反らさずに聞いている。スネイクも冷静に話し、冨士子の様子を観察した。

冨士子はゆっくり烏龍茶に手をのばしながらつぶやいた。曖昧なまなざしでは無かった。

「でも、それって犯罪でしょ」

スネイクが冒険といった内容を見抜いている。当然だ。

「そういうこと。細心の注意と分担が重要で、徐々に進行させ、目標に到達したら、そこで完了。解散ということさ。計画の各々を分担する仲間は、時間と忍耐が必要で、冒険と言ったのは、そういう意味さ。鋭利であるよりも、時間の中で自分をおし通せるメンバーを必要としているんだ」

今度は冨士子が真剣に質問した。

「うまく行くと思う? 失敗の確率と、その時の保証は考えてあるの」 

なかなか慎重だ。

「君は、競馬のルールを知っているかい」

「知らないわ。ルールって?」

「順番。オーダー順ということさ」

「それがどうしたの?」

「強い馬が順番に勝利して、クラスを上げて王者が決まる。どこの国の競馬も、そうなってる」

「だから?」

「それを利用するのさ。下のクラスから勝った馬が一流なら、計画通りに使ってくる。時間とタイミングが読める。順番に試し、様子を見る。計画の未熟な点を修正していく。そして王者のクラスで最後の勝負だ」

「はじめのクラスで失敗したらどうするの?」

「致命的欠陥がある計画は解散。そのリスクはメンバー均等以上にリーダーが負う」

スネイクは、肝心な所だと感じながら、タバコを吸いたいが、数分間我慢しようと思った。

「修正出来るミスなら、続行するってことさ」

「ストップ、ゴーは、誰が決めるの?」

「それはリーダーだ」

「あなたなの・・」

「計画全体は俺が考えている」

話しは峠を越えたと感じた。マールボーロライトを一本口にして、火を付けた。


一応話した、後は反応だ。二人用テーブルで深く煙を吐いた。回りのさざめく話し声が一挙に耳に入って来た。冨士子はずっと遠くの、家族連れの騒がしさを見ていた。

迷い考えているな。

スネイクは黙って待つことにした。数分がすぎただろうか。

「面白そうね。冒険して見ようかしら」

特徴のあるデザインの、チソットの時計に手をやる。大きく開いた胸元から魅惑的な白い谷間が見えた。上体を乗り出して、真剣な口調だ。

「それで、何からどうやるの?私はどんな役割を分担するのかしら」

「君には日本で三、四年がかりの仕事をしてもらう」

スネイクは、計画の概要と、スケジュールを示した。富士子には先ずは競馬を勉強してもらう。全体の構想は見えているが、細部の詰めと、信頼出来る仲間は、これから補強することも、素直に話した。

「ずいぶん時間がかかるのね。成功の保証もないけど、自分を試すいい機会かも知れないわ。このまま年を取りたくないし……仕事も見つかりそうもないしね」  

 '96年香港九龍の五月はまだ過ごしやすかった。ちょうどいい風が吹いていた。



     スネイク・北海道 

  

 孝次には父の思い出というものがほとんど無かった。突然蒸発した父を捜したり、逢いたいという気持ちも起こらなかった。父のいない小諸の作り酒屋で、懸命に働いた。小柄で気丈な母と、出来のいい兄貴の下で育った自分を不幸だと考えたことはなかった。しかし、自分はいつまでもこの家にはいられない。世間 次男が、跡取りとは別に、なにがしかの処遇を受け別所帯や、分家となるということではなく、早い時期に家を出て、自立したいという思いだ。次男の自分に、父の血が強く流れているのかもしれない。母からは、よく聞かされていた。

「あの人は父親になれない男だった。仕方が無い、そういう人と一緒になったんだから」

色盲や音痴のように、父は生まれながらに父親になる遺伝子が欠如していた。自分も同じことになりそうだ。孝次は高校卒業と同時に北海道へ渡った。

 父は全共闘の闘志。都会を離れ、小諸で趣味の陶芸家として、母と出会った。父と違って、出て行く方向は人と接触の少ない大自然を求めて仕事を捜した。

母や兄の言う「変な人」の血が自分に流れていることを孝次は自覚せざるをえなかった。

母と兄は丸顔で柔和な目鼻立ちだ。孝次は頬骨の張った角顔で、細く水平に見据える長い目じりは友達からも気味悪がられ、いつの間にかスネイクと渾名されていた。写真で見た蒸発した父とそっくりだ。その容貌こそが、孝次には、ドス黒い大きなシコリになっていた。

 北海道では函館・札幌と二年間近く、飲食店の下働きやバーテンを渡り歩いた。三年目の梅雨明けに客から紹介され日高、新冠の池貝牧場を訪れた。

 サラブレッドの生産と育成の仕事には興味があった。大自然の中で馬の世話というのが孝次の性に合ってもいた。 ようやく自分の居場所を見つけたという気がした。




     


      計画


 日本競馬のルーツは明治以降の軍馬改良の側面が強く、「競馬法」「地方競馬法」により、諸外国の第三セクター的な「ジョッキイクラブ運営」に比較し、規制色の強いことが、特徴となっている。これが計画のポイントだ。


 表孝次(通称スネイク)は、その点を考慮していた。計画は日本で育成されたサラブレッドが、海外進出するタイミングを狙う。思い切った行動がとれるからだ。

海外進出までして、相当の評価を受けるサラブレッドは、そうザラにいるものではない。まして数年がかりで狙い仕組んだ計画でも、成功するという保証は無い。〈気の長い冒険〉を共有出来るメンバー捜しも難しい課題となりそうだ。

 更に難しいのは、サラブレッドの神経質な性格を利用する事だ。馬の固体差やメンタル面の研究も必要だ。スネイクは牧場で乗り運動もしていたから、ある程度サラブレッドの[個体差]、特にメンタル面でのそれが大きい事を知っていた。この分野のエキスパートが必要だ。


 更に海外実行グループの人選が第二の課題だ。試して見る回数を二・三回程度として、日本と海外でかなり自由に活動出来るメンバーが必要であった。

 計画の発端となる日本で将来性のあるサラブレッドを選択し、育成時代にその馬に仕掛けの出来る仲間も必要だった。

ターゲットとした馬へ短時間で大量の馬券購入を仕掛ける。冷静に実行出来る事務能力にたけた人間。どうしても仲間は二~三人必要になりそうだ。

 およそ一回目のトライアルで二千万円相当の馬券購入を仕掛け、五億円程度の回収を狙う。成功すれば国を変えて第二回目のトライを行う。三回目が勝負で完結だ。

総収入は二十~三十億円がターゲットだ。

四年がかりとしてメンバー四人で一人五億から七億円だ。一人年間一億円以上の収入だ。〈持続しつつ忍耐で実行する計画〉はこんな所だとスネイクは思い描いていた。





獣医 伊勢三郎


 伊勢三郎はこの日高・浦河の土地で三代目にあたる獣医の長男であった。父は、浦河の牧場が主な得意先だ。

大雪山の南西、北海道のほぼ中心の十勝岳を北限とし、狩勝峠から南北に五百Kmに亘り、襟裳岬まで連なる日高山脈によって、東西に分断された大地。東を十勝平野。西の太平洋沿岸は日本でも有数の静内・浦河の馬産地を形成している。紋別、新冠、静内、浦河は戦後競馬の大衆化と共にサラブレッドの生産で繁栄してきた。 近年は日本育成の外国産馬が大活躍で、強い内国産馬の生産を目指す中小牧場の努力にかかわらず当歳時に約束を交わす馬主と生産者の庭先取引が少なくなり、セリで人気のない内国生産馬は売れ残るという状況であった。優秀な牝馬を保有する大牧場や共同経営方式の大型牧場に、中小牧場が圧迫されるという形勢が続いていた。


 三郎は、父を継がねばならぬという思いから札幌の獣医大学を出てもう五年間、父と共に牧場回りをしていた。父は浦河町議も勤めており特に中小牧場の生産振興に尽力していた。三郎は、この世界でも大資本の支援を受けた生産牧場が中小の牧場を吸収していく実態をいやというほど見ていた。


 辺り一面が牧草でかなたまで晴れ渡り、大地に独特の草の香りがただよう夏の終り、三郎は新冠の池貝牧場へ当歳馬の往診に出かけた。球節に腫れが大きく立っているのも痛々しい牝馬だ。打撲のようだった。シップと化膿止めの注射で様子を見ることにした。立ち会いの男は心配そうに当歳馬に付き添っている。三郎はその男の角ばった顔と糸を引くような細い眼に内心たじろいた。

「打撲だけと思うけど、大丈夫かな?」

「心配いらないと思いますよ」

 三郎は慎重に答えた。

「伊勢さんは、ここの生まれですか」

「ええ、父と浦河で牧場中心に診察しています」

男の目に、三郎は何ともいえない悪寒を感じた。

「僕は表といいます。この牧場にきてまだ五年ですが、馬の世話は性に合ってるんですよ。じゃあ、伊勢さんは・・・この牧場以外のことも、良く御存知ですね」

「浦河が中心ですから、新冠の方はあまり来ません。それに札幌の大学を出て、私もこの仕事を始めてまだ五年ほどです」

スネイクは同年代の気安さを装った。

「浦河の牧場のやり方も知りたいし、一度そちらへ伺いたいと思っています。機会がなくて、浦河の方はよく知らないんですよ」

伊勢は、この細眼の男から、言葉とは別のシグナルを受け取った。ただの牧場回りじゃなさそうだ。この男は何かを企んでいる。

伊勢は何ともいえない不安と不気味さを嗅ぎ取った。

 スネイクも、同世代の若い獣医伊勢に暗い沈んだ雰囲気を感じ取っていた。自分の少しづつ形になりつつある計画に、この男を引き込んで見ようと思った。この土地と馬に明かるそうだ。何よりも伊勢の沈んだ、暗い、内なる塊に・・・引かれた。


 

    スネイク・伊勢・浦河


 一週間後の土曜日表(スネイク)は午前中の調教を済ませると、池貝のおやじさんに休みをもらった。

「おやじさん明日一日休みをくれませんか」

親父さんは右前脚球節を怪我の当歳馬を気にしていた。

「足の悪いあの仔は大丈夫かい。おまえがつきっきりで面倒見ているから、頼りすぎはわかってるけど、乗り運動にも人手が少なくてな」渋い表情だ。

「実は、あの仔を見てくれた浦河の獣医と約束したもんで・・・・」

「どんな約束だ」ぶっきらぼうな親父さんだ。

「浦河のほうの牧場のやり方を見たいし、一緒に廻ってくれると言うもんだから。それにあの仔馬の今後の手当てや、扱い方も相談したいし」親父さんは、それ以上無理は言わなかった。

「それじゃ行っておいで。月曜日の引き運動には間に合うんだな?」念を押す。

「月曜の朝には間に合いますよ」


 新冠から車で南下し一時間だが、スネイクは今まで浦河まで足を延ばしたことはなかった。有名な西大ファームや、ブライアンズタイムを内国産のG1やG1勝ちの牝馬と交配し、ここ一、二年クラシックをいくつか勝っている石井牧場の活躍は知っていた。

旧来型の牧場であれば父親の代からの付き合いで、伊勢がこの石井牧場の内情を知っているのではないかと考えていた。狙いはこの牧場の子馬だった。伊勢は午前中の診療を終えて待っていてくれた。

スネイクの興味を知ると

「石井牧場は昔からの付き合いだし、このところ、ブライアンズタイム系と肌の合う牝馬が何頭かいますよ。中規模の牧場だが頑張ってる。知っていますよね」

「去年秋の秋草賞二千米勝馬はここの生産馬だろう。近頃めずらしく個人馬主が勝ったからね。マイルチャンピオンシップ千六百米勝ちのミチカゲも近くの佐藤牧場だ。共にブライアンズタイムを合わせているけど、コマカゲもミチカゲも、やっぱり牝馬との相性がいいんだろうな」

 スネイクも競馬事情には精通していた。


「マカゲの母は中距離の女王メティウス、ミチカゲの方はステイヤーで有馬を勝ったスズオリンパス。共にいい牝馬の肌だからね。ここ三、四年は良い仔が出るだろうね」と伊勢。

 スネイクは、自分の計画の基本はこの場所からだと決めていた。どちらかの牧場の生産馬に狙いをつけていたが、伊勢がこの牧場に親しいとなれば、どうしても彼を仲間に引き込まねばならない。

この冬からスネイクの計画をスタートするにはもう時間がない。今日は長い一日になりそうだった。なんとしても一日で伊勢を説得しなければならない。


 伊勢は、牧場から町への車中でスネイクの不気味なまなざしを見て言った。

「表さんどうしたんですか。牧場だけ見に来たわけじゃないでしょう。何かあるでしょ」

 スネイクは運転する伊勢をジッと見た。

この男は自分の計画に乗るかも知れないな。

 暗く静かな外観の中に、黒い塊が住んでいる。スネイクはまともに話し始めた。

「多分四、五年ががりの計画になりそうだけど、競馬を利用して、というより優秀な馬を利用して・・それが出来ると思うけど。大きな賭をしたいと思っている。工作は必要だけど賭そのものは合法なはずだ」

「工作ってなんですか?」伊勢が興味を示した。

「君は馬の性質や気性を良く知っているから、可能性を判断してもらいたいんだが・・」

「何をですか?」さらに伊勢は真剣な言葉だ。

「サラブレッドの恐怖体験についてさ」


 表は自分が考え計画として次第にまとまってきた筋書きの重要な部分について話し始めた。

「ところで馬は人間のように、色を識別出来るのかな」おもむろに聞くスネイク。

伊勢は馬の生態や、サラブレッドの進化と優秀種の交配についても学んできた。

「一般的に紫外線スペクトルの中で、中間的な色調・・例えば黄色や青は識別出来るとされていますね」

 スネイクは、自分がアイデアを固めるために調べてきたことと一致するな、と考えた。

「識別したその中間色を、体験としてどの程度記憶出来るものかな」ここからが本題だ。

ーーこの気味悪い眼の男はいったい何を考えているのだろうかーー

「馬は、人間以外の動物の中で利口であることは証明されていますが、記憶力という点では、個体差があるかも知れませんね。それは人間にも言えることだけど」

「凝縮した恐怖体験での、色の記憶というのはどうだろう・・・・」

「成長したサラブレッドが、競馬の中で見せる、レース体験を通じての知恵、というものはあると思います。しかし恐怖体験が、記憶として人間ほど残るかどうかは、わかりませんね。幼年時の順知や育成時の調教で、精神の不安定さを抑制するトレーニングは行いますが・・競争で乗り越えるためですが。そして本能を引き出すために、競争馬として最後の調教で仕上げていくのが普通でしょう」

「そういう側面だけでなくて、育成時や調教での知恵とは別に、凝縮した体験、それも幼年時のものがどれ程残るかということは・・」「人間でも幼児体験が意識下に潜在することはあるようですが、馬となると・・・難しいですね。人間が言葉でカウンセリングすることは出来ないし、そういう事例や臨床のレポートも見たことはないですね」伊勢も知らない。

「やって見なければ判らないということか」

 この点についてはスネイクも賭けて見るしかない、と考えていた。アイデアの中で一番リスクの大きい部分だし試行を重ねて、決行を判断するしかない。

「表さん、いったい何を考えてるんですか」

「あるトリックの可能性を考えてるんだけれどね。その対象となるサラブレッドの選択も難しそうなんだ。石井牧場は規模は中程度だけど、良績の繁殖牝馬がそろっているね。佐藤牧場のスズオリンパスも優秀だ」

「メティウスはサチカゲを、スズオリンパスはカゼハヤを生んでますからね。共にブライアンズタイムですけれど、毎年良い子が出るというわけではないんですよ。

 今年、それぞれ生まれた子は四年年前と同じ配合でブライアンズタイムをかけ、当歳から評判になってますよ。骨格や内臓はメティウスの '96が良さそうですが。性格もそれぞれ強そうだ。メティウスの '96が四月生まれ、スズオリンパスの '96が三月生まれ。良いライバルりなりそうですね」やはり伊勢は詳しかった。

この点でも、ここ十年ぐらいの交配記録からスネイクが調べた狙いと合致している。

「ライバルが、ダービーで走ったらどちらが速いだろうね」三郎は笑った。

「さあ、それはやって見ないとね。メティウス '96は美哺の村田厩舎。スズオリンパス '96は栗東の山形厩舎に決まってます。馬主がそれぞれ違うし、東西の対決は面白そうですね。順調にいっての話ですが。ただメティウス '96の方がどうも利口そうですね。スズオリンパス '96の方はやんちゃな次男坊という感じでしょうか」

三郎は、スネイクの計画がおぼろげに見えてきた。

 この男は、 ーー本気でやろうとしているーー





カゼハヤ


 カゼハヤは同じ父ブライアンズタイムの異母兄馬として,生涯のライバルとなるサチカゲより、一カ月早い一九九六年三月二十日、同じ新冠の佐藤牧場で生まれた。

 母スズオリンパスは六歳の年末に有馬記念を制し女傑と称された。そのステイヤー血統を色濃く受け継ぐミチカゲが、昨年の有馬を制し、母子二代の有馬記念制覇となっていた。

スズオリンパス '96も、当然の期待を集めて誕生したが、骨格がやや小振りで甘えん坊の気性が心配されていた。

 

 ライバル、サチカゲの母メティウスは中距離の女王として、現役時代二千米までの勝率は十戦八勝と圧倒的であった。

 その仔、コマカゲはやはり重賞の秋華賞勝ちで話題となっていた。四月十二日生まれのメティウス '96(サチカゲ)にとっては、長距離への壁だけが課題となりそうであった。

サチカゲ誕生の翌年一月、まさに乳離れの直前に母メティウスの非業の死が、どれだけ育成前のサチカゲに影響するか、佐藤牧場の方もライバルを心配していた。



 カゼハヤは順調に成長していた。小振りの骨格はそのままだが、森田は離乳までの間、やんちゃな性格を競争に足りる闘争心と、落ち着きを高める順知訓練を日々施していた。

ステイヤーの血を継いでいたから、中間距離での行きたがる性格が、何よりも心配だった。

乗り運動では絶えず最後尾を走り、しまいに先頭の集団に接近し、一追いして集団の先頭に立たせた。中間をさらにゆったり押さえる本格育成は、栗東の山形厩舎へ移ってからになるだろう。主戦騎手の松永独も楽しみにして、時々森田に電話で様子を聞いてきた。

 「カゼハヤは順調に行っているようですね。楽しみにしているんだ。ステイヤーは俺好みだからね」今日も酒で酔ったような声だ。

「松永さんの豪快な追い込みを又見れそうですよ。骨格は小振りですが、やんちゃな性格は随分良くなり中間の我慢を教えていますからね」

「で、ブライアンとメティウスの石井さん所の '96はどうですか? メティウスが事故死で、離乳前の影響が大きいと思うけど」

 「石井さん所とは、ずっとここでがんばってるんで心配してるんだ。息子さんが付きっきりで、何とか離乳を乗り切り大分元気になったようだ。骨格や馬体はうちのよりしっかりしているし気性面にムラが無ければ、スピードは抜群でしょう。うちのといいライバルになりそうですね。打ちのはダービーまで別路線で進ませた方がいいかも知れないな」

「本田さんにも言っておきますよ。新馬の使い方を少し考えて二千ぐらいまでは別路線で、ダービーに当たらせる方がいいかも知れないね。カゼハヤはダービー以降が勝負だ。ま・・オーナーやテキの意向もあるけどね」

「サチカゲは、美哺の村田さんの所と聞いてるよ。曽我さんの馬だから」

「ダービーで大牟田君との勝負になりそうだな。故障には気を付けて」

「十月にはお宅へ送れると思うよ。楽しみにしててください」佐藤の長男健太郎が笑う。





サチカゲ 新馬戦 


 母の死からほぼ一年後の一九九八年二月第二週サチカゲのデビューだ。


東京競馬場は、午前十時半を少し回ったところだ。

 地下馬道に入るとひんやりしていた。返し馬に向かうライバルたちは新馬戦特有の落ち着きのない隊列で、初めての競馬に興奮気味の馬が多かった。何頭かは地下道でさえアチコチ物見をしている。サチカゲは全く落ち着いて闘志を内に蓄えている。

 「相当な馬だな。血統もいいが、生産者や育成者の努力だろう。緊張する・・・」

 大牟田は騎座の下のサチカゲの静かな闘志を感じていた。

この三週間、先生から

 「素直に走らせて競争経験を積ませてくれ。血統からは中距離までだろうが、相当な器で、石井さんも曽我さんも期待している。頭のいい馬だよ」と言われている。

 この開催の東京競馬場はダート、芝ともに重い時期でタイムもかかっていた。新馬戦は三レースでもあり、四コーナーを逆に返しながら大牟田は、埓沿いの最内と大外側を注意深く観察した。

「内側はかなり荒れてるな。ここに挟まれると消耗しそうだ。外は良さそうだ」

 ギャロップからスピード上げて行く。サチカゲがグッと重心を下げ、ハミから力強い感触が伝わる。

 「スタート負けしないで五、六番手から直線で外に回して行こう・・」

 大牟田は勝たねばならないレースだと強く感じた。そう思った瞬間サチカゲはフッと力を抜いた。

「まったく。この馬は、俺を見透かしているな」

大牟田もタズナを緩めてゆったり乗った。

今日はあまり他の馬が目に入らなかった。いつもの新馬戦では他の主力馬や、好調馬が気になって、様子を見るのだが・・・。

 パドックでも周回するサチカゲは、落ち着いていた。九番ゼッケンでグリーンに細い黒の縦縞のお面。ゆっくり心持ち首を前に倒して堂々と歩いていた。

他の馬が初めての競馬でアチコチ脇見をしたり、ひどくいれ込んでいたり、発汗がひどいために、一際目立って見える。

 大牟田は、メンバーから、相手は、スピードのありそうな二番スズカチドキと、絞れて好調教な十二番サンデーサイレンスの仔エスパミールと見ていた。

「負けられないな。調教でも他馬より一段大人びているし、自在の足を使える利口な馬だ。曽我さんも相当期待しているし」

 久し振りにいいパートナーに出会って、騎手大牟田のほうが緊張していた。

騎乗合図が掛かって、サチカゲのそばに行くと厩務員の小出も、緊張の面持ちで一言。

「大牟田さん、お願いします」

自分の緊張をほぐすように大牟田は、

「何とかなるだろう。信じて乗るよ」

 あぶみに足を掛けて騎乗した。カゼハヤは後退りして首を伸ばし、少し頭を上げた。大牟田に闘志が伝わる。ゆっくり周回に入るとハミの感触が答える。

「落ち着いている。気合いも十分だ。後はスタートだな・・・・」

 ファンファーレが鳴って、奇数九番のサチカゲはゆっくりゲートに入った。同枠八番のタイキロンドンの郷間がすこし頭を下げた。 その黄色い帽子がサチカゲの目に入った時、少しびっくりして首をフワッと上げた。

そう言えば、パドックで大牟田が騎乗しようとしてサチカゲの首を、ポンポンと叩いた時も驚いて一瞬、後退りをしたな。何故だろう。大牟田が瞬間気を取られた時、ガシャッとゲートが開いた。

 「しまった」

 二間歩ほど遅れた。

 内枠から二番スズカチドキ、外枠から十二番エスパミールと、もう一頭が左右から向こう正面直線に殺到した。


 「第三レース、スタートしました。一番人気九番サチカゲが出遅れております。外から十二番、エスパミール、八枠十四番ユーザヒストリーがダッシュ良く飛び出ました。内からは二番横山のスズカチドキ・・・・、ハナを争っています・・・・・残り千米を通過。一番人気のサチカゲは、大きく出遅れて、後ろから二頭目。外に回して追い上げており・・・・最後方は十一番のタイキグレースの隊形です。はたしてこの後方からサチカゲは届くのでしょうか!!

大ケヤキを過ぎ、依然ユーザヒストリーが二馬身リード、マイネルヒマワリ、コンサバトールが上がって、二番手を追送、エスパミールは最内の二番手、経済コースで先頭から四馬身の所です。中団からタイキロンドンが、外を回って五番手から先頭に並び掛ける勢いです。

 四コーナーを回ってユーザヒストリーにコンサバトールが外、内からエスパミールが並んで直線坂上に入ります。まだ一番人気サチカゲは先頭から二十馬身。大外を回り、今、ようやく追い上げ体勢に入りました。・・・・・・・・真ん中を割って八番タイキロンドンが抜け出して、先頭に迫る勢いです。ユーザヒストリー、コンサバトールはいっぱい。内のエスパミール、外のタイキロンドンの争いで残り二百米あああ・・

  ーー来ました!来ました!大外から一気にサチカゲが突っ込んで来ました。凄い脚色です。エスパミールに並んだ。タイキロンドンに迫る! “どうだ!”

 ゴール板通過で懸命に押すタイキロンドンと並びました」実況アナウンサーが叫ぶ。






  南関東公営競馬組合ー宮内 健

  

 南関東公営競馬組合は東京、神奈川、千葉、埼玉で競馬を開催していた。主催者の県と実施責任の組合。運営を委託する民間会社等で、それぞれ、大井、川崎、船橋、浦和競馬場で平日を巡回する形で地方競馬を実施している。いわゆる地方競馬である。


吉野就職部主幹にはずいぶんと世話になった。

「あの広告会社にはここ三年ずいぶんと苦労させられた。まあ残っている者もいるんで、紹介から抜くわけにはいかないんだ。今度の競馬組合は始めての求人だが、頑張って見てください」

 丸顔で優しい目をした吉野氏はなぐさめるように言った。

「ところで、君は競馬はやったことがありますか。最近は学生も盛んなようだけれど」

「数回、友人に誘われて馬券を買った程度です。英国のディック・フランシスの小説は何篇か読んで、面白かったし、共感出来ました」

「どんな仕事をやる事になりそうですか。面接でその辺りの話は出ましたか」

「事務職員という事でしたが、海外やJRAとの交流という事もあるようです。地方競馬の体質というのは相当に古いようで、馬主も保守的な人が多いと聞いてます。組合は外部との交流を拡大したいけれども、難しい。そそれに専門の企画担当や渉外係もいないようで、新人に期待している感じもありました」

吉野氏は繊細な指で煙草に火をつけると、

「まあ、新しい分野という事ですね。大学にとっても、中央競馬会は知ってたけど、地方競馬組合からの求人は始めてでね。今後につながるようならいいんですが」

明らかに今度は辛抱してくれと言う意味だった。


組合に入ってからの健は五年程、あらゆる仕事をさせられた。若い新人という事もあって、昔からのやり方に反発する所も多かったが面白かった。競馬の運営がこれほど多岐の分担で行われている事も、内部に入って知った。プログラム編成から、施設、馬主、調教師、騎手との関係、そして公正なレースの実施、馬券購入やオッズのシステム化、電話投票や、業界マスコミの扱い等、枚挙に暇がないほどだ。

  各々が専門の部門で運営されていた。新設された企画部に配属され、3年間は各部門を6ケ月程渡り歩いた。4年目に入り、企画部に戻った健に、JRAとの統一グレード競争体系の企画。カリフォルニア・サンタアニタ競馬場との交流企画と、アジア地区、香港、韓国、マレーシアの各ジョッキイクラブや馬主会との交流企画が待っていた。

宮内健が中央競馬(JRA)との交流から事件に遭遇するのはもう少し先のことになりそうだ。





 高垣三郎ー香港


スピードガイセンが、有馬記念を中団から差し切って勝った九七年末スネイクは、三一日から三日まで休みを取って香港の工作に出かけた。高垣と打ち合わせる為であった。

 高垣は日本人帰国子女中心の高校受験予備校で英語教師をしていた。神奈川県の大学を卒業し教員資格を取得すると、小田原の私立双陽高校英語教師をしていたが土日の中央競馬のみならず、南関東公営の平日競馬にも賭けるようになり、クレジット破産で香港に逃げ出したという経歴の男だった。


 スネイクは大井競馬場のパドックで、この男と知り合った。馬を見る目線と鋭さは、厩務員のスネイクから見ても一流であった。骨格や歩様のみならず、気配から好不調の判断を下すのには、相当数の馬を見て、前回との差を記憶から掴まねばならない。記憶力はまた忍耐で磨かれるものでもあるらしい。


 香港の予備校は高垣の気性にあっていた。集団よりもめぼしい五~六人の中学生に向かう方がやりやすかった。各人の進歩を、パドックと同じように冷静に見られたし、この子には何がたりないか指導は適切で、受験成功率は極めて高く、好評な塾教師であった。スネイクにとって、高垣は香港の競馬に詳しく、今回の計画では重要な人物であった。

「すっかり香港に落ち着いたようだね」

「丸三年で、仕事も夕方からだし香港競馬も二シーズンやって、何とかコツがわかった所ですよ」愛嬌のある丸顔で笑う高垣。

「失礼だけど、今の月収はどのくらい」

「予備校で一万、競馬で一万香港$というところかな。日本円で三十万弱ですかね。日本の三分の二くらいですが、何とかやれるし満足してますよ……」と屈託のない高垣だ。

「この香港で大儲けしてみないか?。チャンスは一回限りだが、計画通り行けば、百倍から千倍の年収を作れるよ」

「そう上手く行きますかね。確かに香港では、ダブルトリオ(D・T)という儲けかたは、指定二レースの一~三着を着順通り的中というのが百万香港$(日本円約千五百万円)飛び出す事はあるけど、やはり難しい。宝くじよりは少しばかりやさしいという程度かな」

「ダブル・トリオは難しいだろうね。今回は、断然の一番人気馬が国際レースで、三着以下に落ちる事に賭ける計画なんだよ」

「来年から海外路線を行くというエルコンドルパサーの事ですか」ふしんがおの高垣だ。

「いや。香港カップも組み入れられる、九九年のワールドシリーズが狙いさ。UAEのシシェイクムハメド・マクツームファミリーにも、来年からワールド・スケジュールを組む、ドバイミレーユーがいるだろう」

「日本の競走馬も国際化したという事ですか」

 高垣は鋭い一瞥でスネイクを見た。やはりこの男は凄い。急速に頭脳を回転している。

「もし本命が外れるようなら、チャンスかもしれないな。一から三番人気を外す大穴狙いは別として」

「外れない方の単勝。それを頭に、他の三~五頭のトリオかな」

「二頭の単勝が一・一倍から三・0倍ぐらいで、三番手~七番手の単勝が十倍以上として、どのくらい付くかね。トリオは」

 スネイクが聞いた。 

「確信の軸を一着バンカーにして、二~三着を五頭でどの組み合わせでもよいマルチ組み合わせにすると、二十通りの買い目ですね」

 しばらく高垣は考えていた。

「三番手以下が離れている場合は、二十~三十万香港$ぐらいかな」

 「十香港$で二十万香港$という事は、百五十円で三百万円か」

「一万香港$で、三十億円というところだ、二十点買いなら資金は約三百万円」

「香港カップの総賭金はどのくらいなの?」

「日本のG1と同じくらいでしょう、二~三百億円かな」

「それじゃ、総払戻金の一割、三十億円程度をいただくのが目標になるかな・・・・」

香港カップはイギリスの賭屋でも発売しているからもう一度詳細に調べることにした。

「やはり香港カップが狙いですか」

「まあね、来年のメンバー予想がついたら、早めに知らせてくれないかな」

「九九年からドバイの殿下、シェイクムハメドが、ワールドシリーズ構想を打ち出していて、獲得賞金チャンピオンに高額賞金を出そうとしている。アメリカ、欧州、オーストラリアからも、相当強そうなのが揃うでしょうね」高垣も・・スネイクの計画を察知した。

「たしか、日本のジャパンカップや香港カップも、その構想に入っている」

「じゃ、日本からの参戦馬が狙いという事ですか、そんなに強くなりそうな馬がいるんですか?」

 高垣はスネイクの狙いをズバリと指摘した。

スネイクは不気味に笑った。

「一方の軸が確実に外れれば・・という事さ。多分参戦するゴドルフィン陣営を軸として、ヒモの見通しを立てておきたいのさ」

「面白いですね。わかりました。欧米のクラッシックと香港の九八・九九年を調べ、十二月香港カップへの参戦の動向を調べておきましょう。今年は香港にもカナディアンサークルという強い四才牡馬がいるんですよ。先週の第三回香港カップでも、ファビラスラフィンの三着しててネ」高垣も興味以上の声だ。

「それは俺も知っている。すでにドバイミレーユーと、カナディアンサークルは、来年のワールドシリーズ構想ローティーションを、表明しているだろう」

「日本のスペシャルデイ、ナリタトップドローも、そのローティーションと聞いていますよ」

「そうすると、日本からはやはり、有馬記念のスピードガイセンと、スペシャルデイ、ナリタトップドローですかね」

「多分、来年はそのあたりだろう。しかし狙っているのは、再来年の十二月さ」

「九九年の香港カップという事ですね」

「来年の新馬で狙っている馬がいるんだ」

「九九年って事は、四才で香港カップ挑戦って事ですか。そんなに強いのがいるんですか?」意外そうな高垣。

高垣は最近、日本馬をほとんどチェックしていなかったので驚いた。そして・・・スネイクの息の長い計画にも驚いた。



弥生賞 サチカゲ


 サチカゲとカゼハヤの四才クラッシックロードが始まった。三月七日中山競馬場弥生賞G2へ二頭は揃って挑戦してきた。

皐月賞トライアルで四才オープン戦。三着までが皐月賞G1へ優先出走出来る。午前中からの雨が止まず芝は稍重であったが、まずまずの馬場コンデションだ。いよいよだ!


 中山競馬場の二階ゴンドラ指定席でスネイクはこのレースが、自分の計画の始まりだと考えていた。十レースが終わって小雨の降るパドックへ向かった。

今日からサチカゲを追っての旅が始まる。

当然アドマイルベガ、カゼハヤ、マイネルンシアター、トウカイダンディーノあたりが人気だろう。人気のベガと四番のカゼハヤの気配が良かった。十番のサチカゲは落ち着いていたが、前回プラス十二キロでやや太いように見えた。主戦の大牟田が乗るとそれでも気合いが乗ってきた。未勝利勝ちという事で十番人気だった。


 ーーよし、当然サチカゲからだーー

 サチカゲ十番からアドマイルベガの六番と、マイネルンシアター十四番、ナリタトップドローの十二番へ各十万円。

押さえで気配の良く見えた四番のカゼハヤへ五万円。何よりスネイクは騎手松永独が好きだった。武井や、柴田・蛯川が、世代変わりでリーディグの上位を占めていたが、松永の勝負どころの激しい追い方が好きだった。席へ戻ると、富士子がゆったり煙草をふかしている。薄い紫のサングラスで、同色バックスキンの野球帽姿は何となく決めている感じだ。

「ヨウ、サチカゲ買ってきたかい」

「あなたが言うから、単勝で一万円買ったわよ。大丈夫かしら」

 フーと煙を吐き出す。

「まあ、見ていてごらん。単勝はともかく、着には来るからさ」

「じゃ、複勝も必要ね」

「今日の所はいいんじゃないか、見てみよう」片手に生ビールでスネイクも腰を下ろす。

「返し馬の時、気が付いたんだけれど五枠の二頭の後にいたサチカゲが立ち上がりかけたのよ。騎手は誰?」

「村田厩舎の主戦大牟田だ。上手い奴だよ。それで何で立ちかけたんだ?」

「それがわからないけど前の五枠の二頭が併走しようとして、サチカゲの前でぶつかりかけたのよ」

「フーン・・・五枠の二頭の帽子は黄色か」


「小雨降る中山競馬場は、今日も八万人以上の観衆です。クラッシックトライアル、いよいよ開幕です。今、スターターがスタート台へ上がりました。歓声をお聞き下さい。最後に十四番のマイネルンシアターが入りました。 “スタートしました”

十四番のマイネルンシアターがやや出遅れた他はまずまずのスタートです。

 四番カゼハヤが予想通りハナを切り、続いて十番サチカゲ、サウンドアース、トウカイダンディーノ、三番ドラゴンフライアン、イエローコマンダーが内側で・・・・・・、中団の外、やや後方に位置し、その又外側を十二番のナリタトップドローの体勢で・・・・第一コーナーのカーブを回っております。先頭は依然としてカゼハヤが内、サチカゲ外ですが、双方ともに折り合いはついている様です。先頭から後方まで十五馬身ぐらいの隊形で残り千米の標識に向かっています。最後方は九番タイキンヘラクレス、マイネルンミサイルで順位は変わりません。千の通過が、一分一秒四、平均ペースでしょうか。

四番のカゼハヤが、ややサチカゲを離して第三コーナーを今、回る所です。二馬身程外をサチカゲ、続いてサウンドアース、三番ドラゴンフライアン、・・・・・・・ 第四コーナーを回って、依然カゼハヤが二馬身のリードで直線に向きました・・・・サウンドアース、トウカイダンディーノがいい足で上がっております。その外を来ました。ナリタトップドローと、十三番フライングキッドが、足を伸ばします。先頭のカゼハヤは苦しい。内に粘る十番のサチカゲはさらに最内に入り、大牟田が首を押します。ナリタトップドローが二頭を外からかわす勢いです。 アッ! 内のサチカゲがしぶとく伸びます。ゴール板は三頭同時に通過の体勢です。

 “さあ、どうでしょう”

 外から伸びたナリタトップドローの足色が最後は断然でしたが、わずかに内で十番のサチカゲ、四番のカゼハヤが残った様にも見えましたが。三宮さん、いかがでしょうか・・・」

「いやあ、難しいですね。ゴール板を過ぎた所ではトップドローが二頭を交わしていましたが、何とも言えませんね。それにしても、最後に内からサチカゲがもう一伸びしたのには驚きましたね。大牟田騎手の強腕もありますが、相当にしぶとい馬ですね」

 長い写真判定であったが、結局ハナ、首、ハナ差で、サチカゲ、カゼハヤ、ナリタトップドローの順であった。



 スネイクは、四ー十を五万円、富士子はサチカゲの単勝一万円の勝利であった。十番人気・四番人気で、馬連は五千四百六十円、サチカゲの単勝は千八百円であった。

 「これで香港での工作資金が出来たな。二百七十万か」

 富士子も始めて賭けた一万円が十八万になり、スネイクの計画に確信を得た。

「あの十番の馬の粘りのおかげだわ」

「そう、サチカゲ。あいつが俺たちの計画の中心なのさ。今日の所は思惑どうりのシナリオだな。あいつがG1連勝で海外に出るレースが勝負だ」冷静につぶやくスネイク。

「何か、あなたの計画は・・馬鹿げて見えたけど、やれそうな気がしてきたわ」

いつも冷静な富士子も、目の前の結果で、その気になっていた。



 曽我は、弥生賞はまだ早いと思っていたので馬主席から勝利馬の口取りに向かう間も

「ややフロックかな。それにしても、内の粘りは相当なもんだ。とても・・・・二戦目のキャリアとは思えないが」

表彰台で大牟田が声をかけて来た。

「ダメかと思ったんですが。最後は馬が内から自分で闘志を見せてね。相当な馬ですよ」

 サチカゲの全身からはまだ湯気が立っていた。その目はもう普段の落ち着きに戻りつつある。心肺機能も相当なようだ・・弥生賞ウイナーのケープをかけられ、厩務員の小出に引かれ戻って行くサチカゲの腰から後脚の筋肉の張りに曽我は改め目を見張った。

 いつも前から見ていたが今、戻るサチカゲの後ろ姿の豊かさを見ると、何かこの馬は途方もない事をやりそうな気がしてきた。


 健も中山最上階の来賓席で、かってない若駒のしぶとさを見た。サチカゲはノーマークだったが、血統から見れば二戦目とはいえ、ブライアンタイムズーメティウスと筋は通っていた。メティウスは優秀で華麗な中距離馬であったし、あの粘り強さは父系の血だろうか?

「健さん、どうでしたか。いやあ! サチカゲには参りましたね。あんなに粘り込むとは」

 大井馬主会にも所属している岩田から声をかけられた。

「今年のクラッシックは検討やり直しかも知れないな。ナリタトップドロー、アドマイルベガ、マイネルンシアターに割って入るサチカゲやカゼハヤの動向も、注意しないといけないな」岩田も新星登場に少し興奮気味だ。

             

 大牟田も内心びっくりしていた。二月十四日の東京新馬戦の粘り強い走りから、相当やりそうだとは思っていたが、今日の弥生賞での気迫にはむしろ自分が励まされた。

 内で、再度粘るサチカゲの首を押してゴールを抜けた時なんとも言えない開放感と誇らしさを感じた。これは乗っている者だけが知る一瞬の輝きだ。

 後検量で、ナリタトップドローの渡部や、アドマイルベガの武井が声をかけてくれた。一番人気カゼハヤの松永もしばらくは呆然としていたが、気を取り直したようだ。

「大牟田さん、よく粘りましたね。僕も勝ったと思ったんですが。サチカゲは強かった」

 

 普段は落ち着いた馬主の曽我は紅潮していた。表彰式で、テキ(調教師)の村田は生産者石井康己にボソッと声を掛けた。

「いやあ、凄い馬を育てたね。明け四才の第二戦で、あれだけのレースをする馬は見た事がないよ」

「母親の事があってから、康太郎が苦労して相当面倒見ていたけど。あんなに粘る精神力があるとはね。大牟田君の力だろう」と石井。

「いや、内に入って我慢したのは、サチカゲさ。大牟田はしがみついていたのさ」

今日は先生の一言も気にならなかった。

「大牟田君、こりゃ、ひょっとするとGIも期待出来そうだね」

 大牟田は喜びをかみしめていた。

 ーー日本のGI馬以上の馬になるかも知れませんよーー

 そう思ったが黙って笑っていた。


 健も今日初めて、サチカゲを見た。新馬勝ち二戦目十番人気のこの馬の内での粘りに目を見張った。

 ーーすごい根性の馬だーー

 中央に廻すか、地方でおろすかは、馬主や厩舎の判断次第だが、やはり一流の血統から、凄い素質が開花する。それにしてもこの若駒はどこか違って見える。何故だろう。


  


     スプリングステークス


 三月二十一日。中山競馬場は雨。芝は不良。ダートは重。第48回フジテレビ賞スプリングステークスは、芝千八百米に十六頭が出走してきた。三週間後の皐月賞トライアルレースで、三着までが優先出走権をかけていた。  一番人気は新馬二連勝、弥生賞二着のカゼハヤ、サチカゲは新馬、弥生賞勝ちであったが、母メティウスが重不得手で二番人気、三番人気以下はモンテカルゴ、オースミフライト、タイキクラッシャー、ワンダーファングと続いていた。


 スネイクも健も、重馬場でのサチカゲに注目していた。パドックでの気配は前回と変わらないが、馬体重は四六八kgと前回より六kg増えていた。今日はカゼハヤの方が気合いが入って、騎手松永を乗せると一周り大きく見せていた。以下人気では、八枠十六番のワンダーファング、三番のモンテカルゴは調教の良さが買われていた。


 スネイクは、四枠八番カゼハヤと、六番サチカゲ、六ー八に十万円、サチカゲーモンテカルゴの三ー六に五万円の馬連を買った。

今日は富士子は来ていない。

 あれからスネイクの計画通り、勝負の日に備えて準備に入っていた。信頼出来る人間を捜し、勝負の日に多方面での購入を狙っていた。場内外での投票カードによる購入は最高で一組合わせ七十万円。一カ所で二百万円の購入がいいところだろう。それ以上では目立ってしまう。一千万円で5人、せめて当日は10人ぐらいの二千万円購入を目標としていた。まず日本で一回試し、サチカゲが海外遠征を狙うとすれば・・海外で一、二回勝負。それから解散がスネイクのシナリオだった。


 健は中央との交流も増え、ダート重賞ではここ数年、地方馬も相当やれるようになってきたと感じていた。しかし新馬や四才クラッシック路線で、中央の馬逹との格差はまだ大きいとも思っていた。弥生賞ではブライアンタイムズの仔サチカゲとカゼハヤに注目していた。この重馬場で二頭はどんな走りをするだろう。

 大井からも佐倉さん所有のケイシュウベクセル、金沢からは父内国産のゴールデンマークが出走していた。健はケイシュウベクセルでは足りないと考えていたが、ベクセル、カゼハヤ、サチカゲ、モンテカルゴと四頭のボックス買い六点を各一万円購入した。


 中山スタンド前から、ほぼ一斉にスタートした。十六番大外枠のワンダーファングがハナを切り、九番ゴールデンマーク、続いて二番カシマアルディ、四番マーブルボール、その他にカミワザ、十五番のタイキクラッシャー、その後に二番人気、大牟田の乗るサチカゲがいた。

 一番人気、松永カゼハヤは最後方を進んでいる。ゆったり走っている。

二コーナーから向こう正面にかけ、先頭はワンダーファングで隊形は変わらず、八番カゼハヤが最後方から外を回り中団まで押し上げて来た。千のラップが一分一秒五で三コーナーを廻る。重馬場を考慮すると、平均よりやや早めのペースであった。四コーナーで、サチカゲが外から追い込んで来た。

ワンダーファングは依然、ラップ十二秒代で粘っている。やはり終始先行した馬に有利となりそうであった。

 二番手の内がタイキクラッシャー、外に五番のフライングキッドン。その大外をサチカゲ、マーブルボール、オースミフライトと足を伸ばして来た。

 あとゴール二百米というところで、外へ廻った松永のカゼハヤが怒濤のように追い込んでくる。ゴール前は、内ワンダーファング、外サチカゲで決まるかに見えたが大外強襲のカゼハヤとサチカゲが、ワンダーファングに一馬身程遅れてほぼ同時にゴール板を駆け抜けた。やはり・・・主馬場はともにこたえたようだ。

 

 優勝したワンダーファングは、浦河伸岡牧場の生産馬で、ネイクも知っていた。

「ワンダーファングは跳びが小さく、重馬場を先行した良さが出たな。サチカゲは中団から押し上げたが、やや跳びが大きい。カゼハヤの方が重は上手い」

 スネイクは自分が仕掛けたサチカゲへのシナリオは出来る事なら、馬場の良い重賞に的を絞ろうと考えた。


 健も、サチカゲ、カゼハヤに注目していたが、やはり馬場の影響もあったと判断していた。良馬場であったら内のサチカゲも、もう少し伸びたろう。カゼハヤの大外追い込みに重馬場の適性を見ていた。結果は、一分十一秒二。上り三十七秒二、ワンダーファング優勝。六番人気の単勝十六番は、二千二百円。

幸峯騎手は昨年の京阪杯に次ぐ重賞二勝目であった。二着は写真の結果、八番カゼハヤ、首差で三着が六番サチカゲ。

馬番連複、八ー十六は六番人気と一番人気組み合わせで千八百六十円。

今回は、サチカゲに試練の一戦であったが、ワンダーファング、カゼハヤと共に皐月賞への優先出走権を取る事が出来た。

 


大牟田は、足を余してゴールしたと感じていた。

ーーやはりこの馬の良さは良馬場だーー

 一方松永は、

ーーこの馬は小跳びで重を苦にしない。それにしても、サチカゲは伸びなかった。やはり馬場が影響しているんだろうーー

 後検量を終え松永は顔を洗う大牟田に声を掛けた。

「もう少しでしたけど残念でしたね」

「行く気はあったけど、少しのめっていたようだ。それにしてもカゼハヤの追い込みは凄かったな」

「重を余り苦にしないようですよ」

 幸峯騎手がテレビインタビューのために、そばを通った。二人の祝福の言葉に上気して

「ありがとうございます。よく逃げ粘れました。もたないかと思ったですが」

 JRAの係員に促されて、嬉しそうにテレビインタビューのために外に出た。





皐月賞


 四月十八日の中山は快晴であった。四才オープン皐月賞は五七kgの定量で関西から八頭、関東からは四頭のフルゲート、今年はブライアンタイムズ産駒が四頭、オペラハウス産駒が、マイネルンシアター、ティエムオペラハットの二頭、サンデーサイレンスの代表としてアドマイルベガが出走してきた。


 専門誌、専門家の間では弥生賞・スプリングステークスと好走してきたサチカゲ、カゼハヤはローテーションの厳しさが指摘され、共にブライアンタイムズ産駒として相当な器ではあるが、今回はアドマイルベガ、ナリタトップドローの頂上決戦という見方が多かった。


 スネイクは伊勢と早朝西船橋で待ち合わせ、中山競馬場へ急いだ。

「スプリングステークスでは、ワンダーファングに逃げ切られたけど、二頭とも二、三着で頑張りましたね」伊勢は昨晩東京に着いた。

「今回のG1がメドだろうな。サチカゲとカゼハヤがライバルになりそうな形勢だけど、計画はサチカゲの国際レース狙いだからな」「例の仕掛けも、サチカゲですからね・・」

「何としても、今回はサチカゲに勝ってもらいたい。ここを勝てばG1ローテーションで、その後は海外路線の可能性が出てくる。村田調教師は、海外G1での勝利が悲願だからね」

「富士子さんは来るんですか」

「午後に合流する事になってる」 


 健は来賓席で午前中を程々に見物していた。今日の皐月賞で、オペラハウス産駒のティエムオペラハットとマイネルンシアター、それにブライアンタイムズの、サチカゲ、カゼハヤに注目していた。

 統一G1でダートを勝ち続ける水沢のアブクマポーロンの写真を、プログラムに乗せる仕事で知り合った細田尚子も同じブースに来ていた。

「宮内さん、今日はどう予想してますか」

「いやあ、人気はベガとトップドロー、サチカゲ、カゼハヤの四つ巴になっている、オペラハウス産駒の二頭にも注目しているんだ」「私は、カゼハヤの姿が好きなの。実物より写真がいいのよ。何ていうか、闘志が外にオーラのように出ているって感じね」と尚子。

「トップドローは風格を感じるし、ベガは優雅ね。カゼハヤは・・・・自信のオーラに包まれるの」

「サチカゲはどうなんですか」

「そう、一言でいえば、まだ幼い感じね」

「あの粘り強さがですか?」意外な意見だ。

「ちがうのよ。能力があるんだけど、それに気付いていない。自信がなくって不安で、やむなく走って・・・・。それを大牟田が、励まして押しているから・・粘り強く見えるけど」

「へえっ、そんな感じに写真取る人は見えるんですか。若駒なのに、相当な粘りに見えるけどな・・・・・・」やはり社椎野プロは違うなと健は感じていたし、尚子に好意以上のものを感じていた。

「当歳の頃、石井牧場で写真にしたことがあるのよ。ずいぶん難しい気性のようよ。実は、三ヶ月の時、事故で母親のメティウスを亡くしていて、それが影響しているのかも知れないわ」長い豊かな髪を書き上げ整った顔立ちの尚子が好ましかった。

「そういえば、メティウスの事故があったね」

「サチカゲの目の前で、狩猟用のワナにかかって死んだのよ。事故というより事件だと思うけど、結局犯人は解らずじまいよ」

「石井牧場の康太郎さんが、苦労して育てたとは聞いていたけど」

「写真を取った時の眼を今でも覚えてるわ。瞳の奥に吸い込まれそうなのよ。不安を耐えている感じね。でもレースに上がってからは、ずいぶん変わって、大人の眼になってきたけど、何処か、他の馬と違うのよ」と尚子。

「じゃ、今日は注目ですね」

「姿じゃカゼハヤだけれど、写真に表現出ないもの、内面っていうのかな・・・・・私もまだ未熟だから解らないけど・・サチカゲって、何か気になるのよね・・・・」

 真面目につぶやく尚子がまぶしかった。

ジーンズの上下にスニーカー、いつもながらのラフな服装だが、こうしてみると目立たないけど、なかなかの美人だな。健は誘ってみた。

「帰りに食事でもどうですか」

「あら、お宅に早くお帰りじゃないんですか」尚子が少し朱くなった。

「いやあ、待つ人もいないし」

「あら、失礼。お一人だったんですか」

尚子がまた頬を染めた。脈はありそうだ。


 石井康太郎は、曽我と馬主席にいたが落ち着かなかった。今日は五枠九番で、大牟田とは中団から外へ持ち出す作戦だろうなと話していた。村田先生も今回は着狙いだろうと、トップドロー、ワンダーファング、アドマイルベガを見ながら、最後の足に賭けようと、方針が一致していた。

「今回は試金石。相手も強いしね」

曽我も内心の期待とは別に、弱気のコメントが続いていた。昨日美哺からの輸送で、サチカゲの入れ込みと発汗も心配だった。

 

 パドックはG1特有の華やぎと緊張感がみなぎっていた。小出は大牟田が黄色の帽子で騎乗しようとした時、サチカゲが驚いて、一瞬たじろぎ、前脚を宙に挙げたことが、不安だった。

 今まで、パドックで落ち着いていたのに。大牟田が首を叩いてなだめると、やっと落ち着いた。今のサチカゲのしぐさは何だったのか。小出は不安を胸にしまう事にした。


 レースは三番岡安のアドマイルンラックが先頭に立った。続いてサクラユタカオーの仔トウカイダンディーノの田辺が二番手。さらに江川のマイネルンシアター、十六番外枠のマイネルタンゴの柴田が続いた。四番カゼハヤ、九番大牟田のサチカゲはその後中団の外側につけていた。

 前半千米のラップが、六O・三秒の平均ペースで集団は緩みなく続いていた。

四コーナーを廻ると、トウカイダンディーノ、マイネルンシアターに、十一番蛯川のオースミフライトが外から押し上げる。続く中団から、カゼハヤ、サチカゲ、その外をティエムオペラハット、トップドローが襲いかかって、中山直線のたたきあいとなった。


 「・・・・・中団から有力馬が押し上げて来ました。脚色は前のトウカイダンディーノ、マイネルンシアターより凄い。二頭が沈んで行きます。ティエムオペラハットがひと押しで抜けた。ナリタトップドローが外から馬体を合わせる。内から黒の四番カゼハヤを本田が押している。あと二百米。ここからが勝負でしょう!大外を来ました! 凄い勢いのサチカゲです。

大牟田が首を押します。届くのか!

サチカゲ、ティエムオペラハット、内のオースミフライト、カゼハヤがほぼ同時に、ゴールを通過しました・・・・・・。

激しいレースでした。やや、大外のサチカゲが、差し切ったようにも見えましたがどうでしょう?四頭に続いたナリタトップドローは、半馬身程の差があり五番手かと思われます。それにしても、最後の直線での四頭のタタキ合いは見応え十分でした。大河さんどうでしょう。サチカゲが差していますか」

「いいレースでしたね。興奮しました。サチカゲが首、抜けてるでしょう。それにしても、この馬は凄いね。最後の二百がずば抜けている」

「井先さん、凄いレースでしたね」

「クラッシックレースだねえ。四頭の凄さには身震いしたね。サチカゲ、ティエムオペラハット、オースミフライト、カゼハヤの順でしょう。四頭、横一線レースは久し振りだね。凄い!!この一言ですね」







NHK杯


大牟田はパドックで多少の不安を感じていた。周回するうちに、どうもサチカゲの発汗がひどくなってきていた。指令所の一番向こうを回る時にサチカゲが何かに驚いて、大きくチャカツイて不安を示した。大牟田はその方向を見た。ジッと見据えるファンの前には、各馬や騎手を応援する、長方形の垂れ幕がビッシリ並んでいた。ほとんどが色柄で太文字の表示であった。

何だろう……?

サチカゲは何・・・・驚いたんだろう。

 地下道でサチカゲの首をやさしく叩いてなだめた。本馬場に出ると、落着きを取り戻した。サチカゲは二枠四番。三番トウカイダンディ、五番がシンボリインディオ、その外六番が人気のレッドチリセサミで藤田の騎乗。皐月賞五着のカゼハヤは主戦松永で六枠十二番の外に位置していた。


 スネイクは、サチカゲが長い坂のある東京の直線をどう走るか注目していた。新馬勝ちがこのコースだったが、以降三月七日の弥生賞、二十一日のスプリングS、四月十八日の皐月賞ともに、小回り中山で内の粘りと大外からの差しであったから、今回はスピードとスタミナの試練と考えていた。


計画の中心馬でもあったので、単勝を十万円と、馬連はサチカゲ四番から、五番シンボリインデオ、七番ザカーリアン、十二番カゼハヤに、各二万円流した。


 「表さん、今回はどうでしょうね」

伊勢も東京の長い直線を心配していた。

「何処に流しました。俺はサチカゲ単勝二十万円とレッドセサミへ五万円にしました」

「単勝はわからないな。連を外すかどうかだが、ここで絡まないと、俺たちの計画は見直さなきゃならないだろうな」スネイクは冷静だ。

「G1路線から、海外遠征のシナリオにならないという事ですね」伊勢も分かっていた。

「大丈夫よ。皐月賞も頑張ったし、距離は千六百でも心配なさそうよ。私もこの一ケ月、過去のデータや血統を猛勉強したのよ」

スネイクは驚いた。目標が有ると違うな、と感じた。

「それで富士子さんはどう買ったの」

「サチカゲの単勝。五十万円。サチカゲから、レッドチリとシンボリインデオに十万づつよ」

二人のサチカゲへの思い入れを、スネイクは少しばかり心配した。うまく運ばない場合もある。競馬とは・・そういうものだから。自分は又出直せるが、伊勢と富士子にはもうその気力はないだろう。向正面のビール工場を細い眼で見やりながら、スネイクは天に向って・・・・・・・

「何とかしてくれ・・・・・・」

そうつぶやいていた。

 

  十八頭そろって向こう正面の直線に向った。十七番大外枠から池田のインターサクセスが飛び出し、マイネタンゴ、その内に、的場の七番ザカーリアンが続き、有力馬はその後に、約五馬身程で第二集団を作っていた。


その集団の最後方に松永のカゼハヤが外に持ち出そうとしていた。サチカゲはレッドチリセサミと丁度十二、三番手で、三コーナーの大欅を廻る。サチカゲは淡々と走る。


大牟田は我慢していた。

先行集団からマイネタンゴと外をザカーリアンが抜け出して四コーナーを廻った。レッドチリセサミが外へ仕掛け藤田の両ヒザがグッと内側に食い込むのが見えた。

大牟田はもう一呼吸おこうとした。大外を松永のカゼハヤが来た。マイネルタンゴが内で下がった。ザカーリアンは粘って先頭、あと二百米。大牟田はヒザで

「ゴオー!」とサインを送った。

 レッドチリセサミとカゼハヤの真ん中を割って入った。こじ開けるように、はじけた。

   “抜けた”

ザカーリアンに左から馬体を合わせた。

   “よし、あと百米。いける!”

抜けたと思った時、右から赤い帽子の横山が一気に来た。シンボリインディオだ。一押し、二押しサチカゲの首を押したが、僅かに早く、シンボリインディオが到達していたのか?

   “勝てた”

と、大牟田は思ったが最後に大外から横山に強襲された。サチカゲはよくやった。今日は止むを得ないと思った。引き上げる途中横山に声をかけた。

「おめでとう!凄い足だったね」

「ありがとうございます。上りの足にはびっくりしました。サチカゲには届かずと思ったけど・・。よく走りましたよ」


一分三三秒八でシンボリインディオの上がりは三五秒一。サチカゲ二着で、上り三五秒三、鼻差。続いて上り三五秒九、三着 ザカーリアン、二馬身二分の一 。四着レッドチリセサミ一馬身、五着カゼハヤはアタマの差。


シンボリインディオの単勝五番八二O円。枠連二ー三で六四O円。サチカゲとの馬連は四ー五で一五六O円であった。

健もサチカゲの単勝十万円を失った。


 スネイクは、サチカゲはよくやったと思った。これで次のダービー有力候補になるだろうし、計画はやれそうだと安心した。

「いやあ。シンボリには参ったな」

 伊勢は残念そうだったが、サチカゲへの信頼は失っていないように見えた。

淡いブルーのスーツで盛装して来た富士子も同じ思いだった。

「サチカゲはよくやったよ。やはりもう少し距離があった方がよさそうね。シンボリの一瞬の足にやられたわね」

「でも富士子さん、七O万円で百五十六万ですから、まあ、いいじゃないですか。俺はマイナス二五万円」

 伊勢は言った。

「俺は押さえの馬連十六万円で三十三万だ」

「表さんは案外に買わないのね」

富士子がすまして言った。

「そう、これは遊びで・・仕事じゃないからね」細い目をさらに細めつぶやくスネイク。

富士子と伊勢は、改めて表の冷静さを見直した。






ダービー前



五月十六日のNKKマイルCでの惜敗から、ダービーまでは二O日、約三週間の調整期間があった。


 曽我は村田厩舎と相談して、美哺北のダートコースで、長めの調教を四本こなした。

「大牟田。いいか、中団から好位差しをイメージして、前半は平均ペース。三角から外へ出して、東京の四角を廻り、三呼吸程おいての追い出し・・そのペースを頭に入れて訓練してくれ」とおやじさん。

 村田のおやじさんと、曽我の意図は十分に理解していた。

 ーーしまいは・・・切れる。というより、いい足を長く使えるーー

 それがサチカゲの良さだ。

 東京競馬場の坂上からの追い出しでも、十分なスタミナがサチカゲにはある。前走のNHKマイルは、力を余して少し気を抜いた所をシンボリインディオにやられた。距離はもう少し長めの方がこの馬のスタミナと粘りを発揮できると見ていた。

「大牟田君。この馬はやはりメティウスのスタミナが相当強く出ている。スティアーだな。我慢して乗って、スタミナを生かして下さい」曽我もサチカゲ粘りをn見抜いていた。

「わかりました。調子を崩さなければ今度は勝ちますよ。利口な馬だから左廻りのペースを覚えさせますよ」

サチカゲにまたがりダート調教コースに向かった。

 

 一週目の二本はゆるやかなスタートで最終の二ハロン標を過ぎてから一気に追った。

 前半の二百のラップを十二秒五から六を意識して追い、平均的にそのペースを維持し、最終の四百は十一秒から十秒五ぐらいを大牟田は集中して意識した。

 残りの二本はペース重視で単走で追った。サチカゲも長めの調教でこのペースを身体で覚えているようだった。千から、千六百までのゆるやかな十二秒五ペースに。初めは少し戸惑っていたが全体のペースは掴めたようであった。最後の粘りと差し足の訓練であった。

「来週の最終追いは、もう少しペースを上げるぞ」

湯気の出る首をポンポンとたたいてサチカゲに話しかけた。

ーー本番では十二秒一から二のペースで、最終四百が十一秒切るラップになるだろう。外を廻る分もあるから四百のハロン過ぎの瞬発は十秒台で加速というところかーー


 翌週の木曜日調教は同厩舎の五才マイネルヒマワリとの併走であった。この調教は圧巻で公開調教を見ていたスネイクも、改めてこの馬の強さを確信した。長めの調教であったが先行するマイネルヒマワリの外で十二秒一から三の本番さながらペースを維持し、三馬身後方を重戦車のように低い重心で走り、最終ハロンを十一秒―十一秒で一気にマイネルを六馬身突き放した。

 専門紙のトラックマン評価も武井のアドマイルベガ、渡部のナリタトップドローとの三強対決というムードになっていた。



 金曜日の午後七時、新宿ブラジルに三人は集合した。前売りオッズ掲載の東京スポーツと専門紙をそれぞれが持参してきていた。「表さん、サチカゲが一番人気ね。凄い調教と書いてあるわ」

やや興奮気味に富士子がいう。

「最終の公開調教を見てきた。凄かったよ。専門家は少しやり過ぎという声もあるけどね」静かに話すスネイク。

「ベガもトップドローも好調なようで、三頭対決ムードだな。サチカゲがここを勝てばシナリオ通りに運びそうだ」

伊勢も期待していた。

「二千四百のスタミナと、ペース配分を大牟田も相当意識している。連対は大丈夫だろう」富士子がうなずく。

「オースミフライトが四番人気で、ティエムオペラハット、ロザート、ブラックンタキシード、カゼハヤと続いているわ」

今日の富士子は薄紫のサングラス、黒のロングスーツでやや上気しているところが可愛い。

「単勝サチカゲ一六O円だ。多分最終は一四O~五O円と言うとこかもしれない」

「計画が上手く行くか・・・占うために私、単勝を百万円買ってみるわ」大胆の富士子だ。

伊勢は苦笑した。

「富士子さんの入れ込みも凄いね。多分行けると思うけど。ねえ。表さん」

「俺もサチカゲは行けると思う。後からアドマルベガとナリタトップドローが来るだろう。あと、気になるのはカゼハヤと差しの鋭い、四枠六番のロザードだ」競馬新聞をじっと見やるスネイクだ。

「計画スタートの資金になればいい。俺は三強絡みそのままでない・・買い方をしたいんだ」スネイクには思惑がありそうだ。

「サチカゲから、人気二頭を外すっていう事?」

富士子はだいぶ競馬がわかってきた。

 伊勢もスネイクも競馬のキャリアは十分あった。クラッシックは何々対決という場合・・比較的堅い。しかしそれは対決と下馬評されたその下のクラスの馬達と、大きな格差がある時だ。

「今回の対決は、サチカゲ対その他の馬というパターンですよ。どう思います?」

伊勢の判断通りだ。

「オースミ、ティエム、ロザード、ブラックン、カゼハヤ、アドマイル、ナリタにそう大きな差は俺も無いと思う」

「じゃ、その定石でいきましょうよ」

伊勢は一気にスネイクを誘った。

「サチカゲ七枠。十一番。下へ何点としようか」

スネイクは伊勢の誘いに乗った。

「本線をサチカゲから三番ティエムオペラハット、四番オースミフライト、六番ロザードにしませんか」伊勢が競馬新聞を示す。

「もう二点、ペイントホワイト、十一番カゼハヤを追加しないか」

スネイクがつぶやく。

「いいでしょう!五点買いと行きましょう。どれも二十倍以上だ。百万投資で各二十万」

「よし。やってみよう」二人の会話に、

「私も仲間でしょ。入れてよ。二人で百万ずつなら、三人の出資で三百万ね」

「富士子さんは、サチカゲの単勝でしょう」

「それは私の個人買いよ。グループへの出資は各百万円。いいわね」勝手に押し切る富士子。富士子も結構強硬だ。

「日曜日は、三人バラバラに百万買いとしよう。午後七時にここへ集合だ。いいね」

伊勢も富士子も黙ってうなずいた。

 ーー今日は、富士子を誘ってみようかーー

富士子も上気して、すっかりその気になっていた。伊勢が店を出た後二人は新大久保方面へどちらともなく誘い合った。


 今日の帯広―羽田便。午後四時五十分で伊勢は上京していた。スネイクと別れいつもの淡路町グリーンホテルに戻り、診療所に電話を入れた。特に仕事の問題もなくテレビを見て、ビールを二、三杯飲むと十一時過ぎにベッドに入った。

 ーー今日、スネイクは富士子と行っただろう。明日の大一番で二人もやや高揚していたなーー

さすがに伊勢も寝付かれなかった。


 土曜日朝早く起きスポーツ新聞二紙に眼を通した。朝食は松葉屋のきしめんを食べ、淡路町を出て水道橋の場外売場に向かった。後楽園ドーム横の喫茶店で時間をつぶし、九時五分前に場外売場に入った。最上階六階はまだすいていた。投票カードに記入して、十時ジャストに五点買いで窓口に百万円渡す。売場のやや小太りの四十代の女性が

「ダービーですね」と確認した。

伊勢は黙ってうなずいて一枚の馬券を手にすると、水道橋の駅に向って歩いた。浜松町経由で羽田発十一時四十五分の帯広行きに乗る為だ。今日土曜日は予約診療が午後四時にあった。この計画に加わっていても、平静に日常の仕事はこなしたかった。


 昨日富士子と高まりの時を過ごしスネイクは満足していた。今日は富士子に任せようと、百万円を渡しておいた。事務能力は抜群な富士子だ。明日はこの眼でよく見よう。

ーーいよいよ計画のスタートだーー

高まる気持ちを抑制しようと努めていた。



 翌日曜日、武蔵小杉を午前八時半に乗って富士子は渋谷に向った。スネイクからは大口二百万購入なので、朝一番の購入をアドバイスされていた。場外が開いてすぐの九時少し過ぎ売場に到着した。流しで五点、各四十万円とマークすると、二階禁煙売場の正面右端の窓口に向った。ダービー当日ではあったが、まだ五分の入りで買い易かった。

ーー大口購入はこのタイミングねーー

富士子は次の大一番の準備も心に刻んでいた。


 一枚で二百万。百万の封印の束が二つ。窓口の女性はあらわな好奇心で見ていた。今日はやや濃い茶のサングラスでノーメイク。目立たない白のスポーツシャツと、ジーパンといういでたちであった。二百万円の五点流し馬券を肩からつるした小さな茶のポーチに収めると一仕事終えたと言う気がした。


 ーー昨日は、久し振りに燃えたわ。あの男もいつもより高揚していたし、楽しかったーー

昨日の夜を少し思い出し、並木橋から今日は代官山方面をショッピングしようと歩き始めた。


 健は、珍しく大井開催の土曜日を主催者との調整で忙しく動いていた。ツインクルの第一レースが午後四時にスタートするとあとは流れ仕事で、健の出番は少ない。

 明日の中央競馬のダービーがやはり気になっていた。三強対決ムードだがサチカゲのローティションは、やはりきつい気がした。一番人気だが危ないかも知れないな。今回は武井のアドマイルベガかナリタトップドローが先着と予想していた。

 九時十分に、最終レースで勝った石橋騎手が顔を洗うジョーキールームに寄って見た。

「ご苦労様でした。今年はダービーに地方馬の参戦ナシですね」

「サチカゲが凄いね。キャリアは浅いが乗ってみたい馬だ。アドマイルベガとの勝負になるんじゃないか」タオルから顔を挙げる石橋。

「ローテーションが、NHK盃から三週の六戦目で、キャリアから見てきつくありませんか」健は率直な意見を言ってみた。

「どうかな。ブライアンズタイムでも母系のメティウスの血が強いように思うがな。距離のびていいのと違うか」

 健は弥生賞、皐月賞の勝ちっぷりと、前回NHK杯二着を思い出していた。

「それでもダービーは運もあるからな。十四番の七枠というのもやや不安はあるがね」

 南関東リーディングジョッキーの石橋も、サチカゲと武井のアドマイヤーベガに注目していた。

 そこへ広報写真取りを終えた細田尚子が来る。

「石橋さん。一枚よろしいですか」

カメラを構える。石橋が軽く右手を挙げてポーズをとる。素早くシャッターの連射音が響く。今日の尚子は白のブラウスにジーンズだ。

「石橋さん。明日のダービーはどうでしょう」

 尚子もこの目的でジョッキールームに寄ったのだ。石橋が聞いた。

「尚子さんは中央の仕事もあるんですあ。南関東だけかと・・・」

「ただ気になる馬がいてね・・サチカゲはどうかなと・・・気になってね」

「ローテーションが少しきつぃ気はするけどね。あっさり勝つかもしれないな」と石橋。

「え。ほんとですか。行ってみようかしら。でも明日はすごく混むんでしょ」

「尚子さん。よかったら私と一緒に来ませんか。南関の指定席枠が数席あるから」

「あら。いいわね。じゃ。お供させてください」嬉しそうにきれいな細面で健に礼を言う。

 六月五日。土曜日。やや蒸し暑さを感じさせたが明日の東京は晴れ。良馬場の見込みであった。



     ダービー・・当日



 六月六日午後三時四十分。東京第九レース、第六六回日本ダービーは東京競馬場正面から二千四百米でスタートした。ほぼ一斉のスタート。スタンドは一階もほぼ満席で七万二千人の入場であった。


 予想通り幸川のワンダーフォングが先頭を切った。次いで八枠から十六番マイネルタンゴと勝山のヤマニンアクロが第一集団で、その後を十二番マルブツオペラ、五番ブラックンタキシード、十三番チョウカイリョウガンと続き、一番武井のアドマイルベガは最後方に位置していた。

 ナリタトップドローは中団の内十番手。その外に七枠十四番のサチカゲ、その後ろに十一番のカゼハヤという隊形で一、二コーナーを通過した。


 大牟田の予想通りラップは二コーナーを廻ると十二秒丁度ぐらいで動いていた。残り八百過ぎても隊形は変わらない。残り六百で八番手のティエムオペラハットが八番手外から仕掛けた。

 同時に中団から加東のペイントホワイトも上がって行く。まだ先頭はワンダーフォングが粘って四コーナーを回る。坂下から中団以降の馬が追い上げて来た。ラップは十一秒台に上がる。置かれる集団と抜け出す集団が今まさに別れんとしていた。

 大外を武井のアドマイルベガが一気に来る。ナリタトップドローに並んで二頭の体勢で決するかに見えた。


 後方八馬身の所からカゼハヤが足を伸ばす。

この三頭か。残り四百を過ぎ、ナリタとアドマイルベガが馬場の中央で馬体をよせ合った。



 ーーーまさにその時ーーー

最内枠を一頭橙色の帽子が猛烈に突っ込んで来る。

武井はまだ半馬身トップドローの先にいた。トップドローの外に緑のカゼハヤが少し視界に入る。

  ーーよし、あと二百米だ。行ける!ーー

武井は一押しアドマイルの首を押した。

その時左内からサチカゲが一気に身体を合わせて来た。

  ーー今度は左かーー

武井はもう一押しアドマイルの首を押した。左のサチカゲと首の上げ下げだ。

 ゴール板を通過した時、武井は内に一瞬交わされ右のカゼハヤとほぼ同体と判断した。

  ーー左右から来られてアドマイルもよく粘った。やむをえないなーー

 不思議に惜しさはなかった。全力で走らせたと考えていたのだ。

大牟田は最後の首の一押しに集中したが、アドマイルを捉えたか自信はなかった。

届かなければそれでも鼻差ぐらいと思い、一コーナーから向こう正面を満足感で走らせていた。着順はまだ表示されない。


 スネイクは東京競馬場のA指定席で。伊勢は浦河の診療所で、富士子は武蔵小杉の自宅。健と尚子は南関枠の貴賓席で。各々に複雑な思いで結果を待っていた。

 向こう流しの正面で武井が大牟田に声を掛ける所がターフビジョンに大写しになった。

 ーー俺の眼では内のサチカゲだが

         同体にも見えたなーー

 写真判定は長かった。四着はナリタトップロード五着、三番ティエムオペラハットが電光指示されていた。その時間は約一分程であったが、皆それぞれに長く感じられた。


 十四番、十一番、一番と点減した時、異様なドヨメキが府中の空に起こった。鼻、頭の、一~三着であった。

 一分二十五秒三、上り六百米は三十三秒四。最終ラップは、十二秒八~十一秒三~十秒八。、大牟田がイメージした通りであった。


 

 スネイクは放心した。

浦河で伊勢はテレビを見てニンマリ笑う。

富士子は小杉で指を鳴らした。

三人はそれぞれにそれぞれの場所で計画への確信を抱いた。


 六月七日。月曜日。スネイクは浦河の伊勢に電話した。彼もサチカゲの強さに驚愕し、計画の成功に自信を深めていた。

「やったな。これでサチカゲの秋のローティションが狙えるな」嬉しそうな伊勢の声が響く。


「今日富士子と会うよ。大体三人で四千万円の勝ちだな。ところでサチカゲは夏、石井牧場に帰るらしい。様子を見ていてくれ。ローティションが決まったら秋の第一戦を狙ってみよう」スネイクは冷静だ。

「わかった。出来るだけ時間を作って新冠へ行ってみるよ。表さん、夏はどうするの」

「香港へ行ってくる。香港競馬はシーズン最後に入るけど、向こうで少し準備しておくつもりだ」

「新潟か函館あたりで一回会えませんか」

「そうだな。香港から帰ったら一回連絡するよ」 



 月曜日でも歌舞伎町は人が多い。日本一の風俗街から右へ入りスネイクはゴールデン街入り口の喫茶店ブラジルで富士子を待った。 六月も九州や中国、四国地方は度重なる前線の上下で、雨が多い年であった。喫茶店ブラジルに入ると、ホッとするぐらい涼しい。富士子は例によって薄茶のサングラスと、襟をシャキッと立てた黒のブラウス、ベージュのコットンパンツに、スニーカーといういでたちで颯爽と入ってきた。魅力的だ。

「やったわね、表さん。大勝利よ!」

スネイクは細い眼をさらに細め、少し唇を突き出して軽くウインクした。

 ーー気味悪さが消えたわ。この男が良くなったのかしら。 あたしも変わってるわーー


 「私計算してみたのよ。正確にやると、購入金額を差し引いて、弥生賞とダービーで三人で純益は四千三百九十二万円よ」

「俺も弥生賞で二千六百万。ダービーで一千七百万ぐらいが純益だと思っていたよ」

「ダービーのサチカゲ=カゼハヤが、三十五・七倍。六十万円買いで二千百二十四万。購入が三人で三百万円。純益は一千八百二十四万。七日の弥生賞が同じサチカゲ=カゼハヤで十番ー十四番。五千四百六十円を、三人で三十万円で、一千六百三十八万円。単勝サチカゲ千八百円を、六十万円で千八十万円。購入が百五十万円で、純益は二千五百六十八万円。しめて二レースの純益は四千三百九十二万円よ」計算はしっかりしている富士子だ。

「富士子さん、人手が必要だよ。一人、三百万以上の払い戻しだから。場所を変えて目立たないように、払い戻さないといけない」「わかってるわ。割り切ってやってくれる若者を集めてあるわ」

「富士子さん。くれぐれもネズミ講的に伝達してくださいよ。一人一人には・・・・誰が金を出しているかわからないようにやってほしいんだ。注意するにこした事はないからね」

「そうね、目立たないようにやるわ」






高垣の・香港工作



 日本も二十日を過ぎ、気温三十度以上が続いているらしいが、この蒸し暑さとは別だろう。沙田の厩舎へ向かう車で高垣は車内外の温度差から、フロントグラスに、細かい水滴が張り付くのを見つめ、ライオンロックを越えた。

 香港ではさすがにこの七、八月は暑すぎて競馬は休み。九月から翌年六月をシーズンとしていた。北半球ではあるがこの間は冬のオーストラリア、ニュージーランドへ遠征する馬もあった。香港の競馬は欧州、とりわけイギリス伝統競馬の影響が強いが、最近は国際競争の舞台ともなり、今年十二月十二日の香港国際カップはG2から香港カップG1へ格上げされ、ワールドシリーズの第八戦に位置付けられていた。


 第七戦の日本・東京・府中でのジャパンカップから二週間後で海外移送は厳しいが、アジア両レースの高額賞金を狙う、世界中のタフな競走馬と馬主が計画を練っている時期でもあった。

 スネイクからダービーに勝ったサチカゲは、秋セントライト記念から、菊花賞ローティーション。ジャパンカップは調子次第だが十一月七日の菊花賞からの秋始動が有力と連絡されていた。

 香港カップへの狙いも、おおいにありうるとの情報を得ていた。スネイクの計画はサチカゲが海外に出た時が最大の狙いであったから、香港での具体的工作を指示されていた。


 舒明徳の厩舎は閑散としていた。馬屋独特の藁と糞の匂いが熱気と混じり合って漂っている。沙田競馬場へ下る高速道路の反対側に位置していた。

 舒調教師は五十代前半のやや大柄な男で、角張った頬に目尻が少し下がったやさしい瞳で高垣の方へ歩いてきた。

ベージュのスラックスと大きめの開襟シャツ姿で明るい雰囲気で声を掛けてきた。

「舒です。ピーターシュウと言います。岑さんから話は聞いています。高垣さんですね」

「日本語お上手ですね」

驚きながら日本塾の名刺を差し出した。

「若い頃、日本の明治大学に通ってました。経済の勉強に行ったんですが、府中が近くて競馬を始めてしまいましてね。ハハハ・・・香港に帰って少し会社勤めしましたが。結局、この道ね」

 仕事を楽しんでる・・・・笑いながら、高垣の名刺に眼をやった。今が充実している事が十分うかがえた。

「何かお役に立てる事がありますか?」

「すぐ、というわけではないんだけど、十二月に香港カップがありますよね・・・」

「そう。ビックレースG1ね。私の所も、一頭良い馬がいる。是非。参加したいね」

「日本からも多分参戦して来ると思うんですよ・・・・・」

「日本のダービーを勝った馬かな。たしかサチカゲだったね。ブライアンズタイムでしょう」

「良くご存知ですね」

「ワールドシリーズという事になって賞金も大きいからね。香港で、どこが面倒見る事になるかな。私の所は第二クラスの厩舎だから、声がかかるとは思えないね」と冷静だ。

「もし、そういう事になったら、サチカゲの滞在中の情報が欲しいんですよ。手伝っていただきたい事もあるしね」

 舒は警戒した。

  ーーこの夏のクソ暑い時期に、ワザワザやって来て、情報入手を頼むなんてーー

香港では、厩舎間の情報交換は半ば公然であったが、何かおかしい。

ーーこの高垣という男は、何かを狙っている。ここは慎重に対処した方がよさそうだ。つまらない事で、調教師免許剥奪はかなわないからなーー

高垣はシューの思いを察した。

「調教や体調の情報とか、ライバルの情報、そういった事だけですよ。我々は投資グループですから儲けだけが狙いです」

「今、我々といいましたね」

「そう、グループで動いています。儲けの為にね」高垣は正直に答えた。

「外部に漏らしたり、舒さんのお立場を悪くするような事はしません。約束しますよ。契約に入れてもいいですよ」

「契約ですって」

「手数料契約ですよ。秘密のね・・」

 舒は考えた。内部情報とはいえ、マスコミへの、普段のサービスと同じ事と割り切ればいい。シュウも金のなる木には勝てなかった。

「それで、手数料は?」

「一本でどうですか」

「十万と言う事かね・・・・・」

「いや、一ミリオンでどうでしょう」

舒の顔がほころんだ。彼等は相当大きく賭けるに違いない。

「情報信ずべし、信ずべからずですよ」

「菊花寛の名言ですね。わかってます。結果については一切責任負わない。そういう契約で結構ですよ」

 話はついた。

「舒さんの所も参戦出来るといいですね」

「カナディアンサークルといいましてね。岑さんの所有で五才になってからで強くなりました」

「漢字で加州仲間ですね。六月末の特別千八百米勝ちでしたね」

「そう、順調に秋を使って狙いたいね」

「がんばって下さい。岑さんに宜しく」




 高垣の日本生徒向の塾は『桜』といって、日本人駐在員の多い香港島の銅鑼湾(コーズウエイベイ)にビルを借りていた。事務所から日本のスネイクに電話した。

「舒厩舎に話をつけてきましたよ。情報契約という事にしましたが」

「それで、いくらに決まった」

「一発で、一ミリオン。それで決まりでしたね。それから舒の所に、五才のカナディアンサークルっていう強いのがいましてね」

「参戦すれば、調教でサチカゲと接点があるかも知れないな。そっちの情報も頼むよ」

「わかりました。シーズン開催したら、毎週メールで報告しますよ」

「それと、香港での馬券購入ルートを確保しておいておくれよ。一人でマックスどのくらい購入出来るのかね」

「電話投票もありますから。出来るだけ効率良く賭けられるようにしますよ。場外で千香港ドル百枚、百四十万円ぐらいは大丈夫でしょう。まあ、場外は混みますから、出来るだけ場内で、アルバイト使って買いましょう」

「人選にはくれぐれも気を付けてくれよ」

「わかっています」

「漏れて、同じ賭け方をする奴がいたら困るからな・・」スネイクは慎重だ。

「そう、直前での、タイミング買いになりそうですね。それにオッズが動くでしょうから、何回か購入のトレーニングもしておきますよ」

「日本じゃ、流し/ボックス投票カード一枚で一口最高七五万円まで買えるんだが、キリのいい一口、五十万円にしようと考えてる。このぐらいなら四点買いで二百万円。百万円・・二束ぐらいなら、大口購入で大丈夫だろう。香港はどうなのかな」

スネイクと話し終わった時、辺りが急に暗くなり、強風に流されるような雨がやってきた。

「先生、こんにちわ」

四時半を過ぎると子供たちが古いエレベーターで上がってきた。

高垣は、十九教師の顔に戻った。




    スネイクの計画トライその1


 スネイクはこの週明けから、伊勢、富士子と綿密な打ち合わせを開始した。先ずは数字に強く管理能力のある富士子を経理担当とした。スネイクは頭にある構想を話し始めた。

富士子は黒いレースの胸が大きく開いたブラウスにグレーのパンツ。多分四十七,八才だろうか、年にしては大変魅力的だ。黒いシステム手帳に、キーワードのメモを取り始めた。 伊勢は例によってあくまでも、沈着冷静さを崩さない。新宿ゴールデン街横の喫茶店ブラジルが彼等の仕事場でもあった。九月二十日から一回目の勝負の分担と、最終確認を三人は開始した。週の初めの月曜日。スネイクは最終の分担を確認した。


 「日曜日のセントライト記念を狙う。菊花賞へのローテーションでは異例だが、カゼハヤとブラックンタキシードも出てくる。二頭は調整の意味もありそうだが、出るからにはある程度、仕上げて来るだろうし、三頭の三巴になるだろう。今回もサチカゲに仕掛けて見る。連対が外れれば、カゼハヤかブラックンからで、この馬券で勝負だ。当日の中山は俺と伊勢で担当する」

「富士子さん。購入ルートは任せるよ。準備はどう?」

「六カ所の関東地区場外発売所対応で、二つのグループを用意してあるわよ」

「グループの連中には、大口購入でトラブルはないだろうね」念を押すスネイク。

「大丈夫よ。この二週間かけて、じっくりルート作りをしたのよ、任せておいてよ」

伊勢が口を挟んだ。

「メンバーは富士子さんだけしか、知らないんだろうな」

「当然でしょ。成金の私が大口購入で勝負!と、みんな読んでるわ」

「じゃ、あんたに任せて、俺たちもメンバーは知らない方がいいよな」

「そういう事!」

  富士子はニンマリ笑って請け負った。

 ーー二つのグループ作りは結構苦労したのよ。極端な競馬狂いでも困るし、かといって、大口購入勝負の機微が、解らなくてもいけないしーー

「(株)北東デバイスにコネがあったから、福田君と内藤君を見つけられたわ。アルバイトには一人十万円。リーダーの二人に五百万円は魅力の筈だし、指示した通りの事はやる子達だわ」自信十分な富士子だ。

スネイクと伊勢は、聞いてない・・ふりをした。結果として事実その通り、問題なくこの件は解決したのだが、内藤と福田は、指示された流し馬券の他にボックスも買って、別にしっかり大儲けしていた。蛇の道は蛇だ!






     セントライト記念ートライ1



 九月二十四日、スネイクと二人は再び新宿ブラジルに集まった。明日のセントライト記念の買い目を決める為であった。

「今回は本番だから、表さんの買い目に従うわ」ここはあっさりしたものだ。

富士子はあの日以来、スネイクに好意をよせていた。スネイクに賭けてみたいと考えていた。

「伊勢君の買目は?」スネイクが聞いた。

「サチカゲに仕掛けるとして、カゼハヤから三番人気のブラックンタキシードを外して、勝負したい。四・五・六番人気流しと、その三点のボックスを買いたいね」

  ーーースネイクは驚いた。発想が自分と同じだ。この男とグループを組んで良かった。これなら、うまくやれるなーーー

  そう感じて、一気に話した。

「俺も同じだ。カゼハヤから、ブラックンを外して、七番シルクカーディガン。十三番チョウカイリョウガン。一番ホットシークレット流しと、七・十三・一の三点ボックスで勝負しよう。どうだい?」

「よし。決まりね。すぐに購入グループに手配するわ。二つグループがあって、場外六カ所を担当しているのよ。三点流しと、三点ボックス買いね。場外だから一枚投票カードマックスの七十万円として、三点流しと三点ボックスともに二百十万円がユニットになるわ」

「ところで今、資金はどのくらいあるんだ」

「弥生賞とダービー分で四千三百九十二万円だけど、今回の購入グループ経費を引くと三千五百万円は大丈夫よ」

「ここで負けたら、約束通り終りにしよう」

スネイクは、敢えて提案した。二人は黙ってうなずいた

「六人。六場外購入が、ユニット二百十万円で、千二百六十万円。流しは、彼ら購入グループに任せよう。ボックスは念の為、俺達三人が、場内で購入でどうだ」

伊勢は了解した。

「三人で各三カ所回る。二百十万円購入で、千八百九十万円ね。現金を用意して明日中山で渡すわ。じゃ、いいのね。購入グループにキャッシュと手数料渡すから先に行くわよ」

富士子は極めて事務的に確認した。


  川崎駅ビル二階のスタンドバーで、富士子は、福田と内藤に資金と手数料を渡していた。

「ここに、六人分の千二百六十万円あるわ。一人購入カードでマックスの七十万円・・三点購入の二百十万円が単位よ。三点買いね」

 内藤がメモを見てつぶやいた。

「サチカゲ、ブラックン外しの八番カゼハヤからか。何か情報でもあるの?」

「いいんだ内藤。俺達は仕事人だよ。ねえ、富士子さん、それでいいんでしょう」

 薄茶のサングラスの眼が、福田に向かって笑った。

「そういう事。出来るだけ分散して、場外が混まない朝方に済ましてね」

「任して下さい。二人で、六カ所の場外を各三人で担当しますよ。明日前日売りで九時に一斉購入したら、午後富士子さんに渡せます。それでいいですね?」事務的な福田は信頼できそうだ。

「いいわよ。午後一時にここで渡してね」

富士子が帰ると福田はバーボンのロックに口をつけて言った。

「内藤どう思う。金持ちの趣味にしては少し念が入り過ぎてるな」

内藤はジッとカウンターの向かいの洋酒を眺めていたが・・言った。

「一・二番人気が外れるという事でしょう」

「何か、企みがあるな。サチカゲとブラックンの調子落ちという事も無さそうだし、仮に不調でも連対に絡む危険があるのにな」

 端整な醤油顔の内藤は、先輩の福田が何か言いそうな気がしたが、黙っていた。

「カゼハヤが絶対という事は無いぞ。一と三番人気に何かが起こるのかも知れないな」

「少し別に・・・・やってみませんか・・」

「お前もか! やってみるか。流す方の三頭のボックスと、三番のシンボリモリーから三、四点買いしてみたいな。どうだ。内藤」

「やってみましょう。それと、俺は五番のマイネルバイリーンからも少し流してみますよ」

 二人は手数料から、約1/3を出し、自分達も勝負をかけた。福田へ三百万、内藤へ二百万円のキャッシュは、既に前払いで今日渡されていた。




セントライト記念・準備と発走!



 九月二十六日。スネイクは品川発八時三十六分総武線千葉行き市川乗換えで西船橋に向った。

S指定二階席四名のテーブルを電話予約で確保していた。帯広から午後伊勢が来る。富士子と三人で午後二時に地下の指定席券窓口前で待ち合わせていた。それまでにスネイクには準備があった。西船橋から競馬場まで、今日は少し混んでいたが十五分ぐらいで到着した。


 第一レース出走の馬が今本競馬場へ入って行く。スネイクはパドックへ歩いた。馬頭観音の下から、パドック全体を一瞥した。いつものように外周の壁の内側に、騎手や、セントライト記念出走馬を応援する、色とりどりの布の応援帯がびっしりかかっていた。


 パドックのアンツーカー馬道、外側の植え込みはきれいに手入れされ、黄色のマリーゴールドが整然と咲いている。パドックの一番奥の角辺りが、第一目標の場所だ。

 騎手の宗像徹と書いた黄色い応援幕があったがいかにも小さ過ぎた。

 次にスネイクは、メインスタンド最前列右の一番奥に向った。そこは芝でもう何組かがビニールのグランドシートや、新聞紙を開き、席を確保していた。白に赤シマのハロン棒が、正面に見える。四コーナー。一番スミの芝。

スネイクは、グランドシートを開き、その上に携帯用ポール二本と、競馬雑誌三冊。コンビニから買ってきたスナック菓子と、ビールを半ダース置いて準備を完了した。

今日は濃いめのサングラスと、濃紺の野球帽を目深に被り白のスポーツシャツ、薄いブルーのジーンズで、午前のレースを程々に楽しむファンの姿を装っていた。


 午後二時、伊勢・富士子と二階のS指定席に入った。場内はほぼ八分の入りだ。

「どう! 私は済んだわ。買ったわよ」

「俺もオーケーだ。済ましてきた」

伊勢もスネイクも問題なく、三人が各々、三カ所で二百十万円の購入を済ましていた。S指定席で二百万ぐらいの購入は、そう目立たない。よくある事で、受付のおばさんも百万円の帯封を切ると、無造作にマネーカウンターに差し込んだ。

一カ所で・・・購入券一枚で済んでいた。

「十レースの馬が本馬場に消えたら、伊勢がパドック。俺が四コーナーの角で行動に移るからな。携帯電話は万一の場合の連絡用だが、出来るだけ使わないようにしょう。終わったら、ここに集合だ。いいね」とスネイク。

「着替えの準備は出来てるの? 富士子さん頼むよ、ここに戻るからな」と伊勢。

 伊勢は白い麻のジャケットに、ベージュのズボン、茶のツバ広帽子という姿だった。

 十五時発送の十レース「上総特別」は、人気薄のゲイリープリンセスが逃げ粘り、単穴のニシノシンデレーラが二着で場内がどよめいた。 伊勢は、パドック左奥に二本の応援ポールを持って、セントライト記念出場馬の周回を見ていた。騎手を乗せた、最終周回の、タイミングを待っていた。


 サチカゲにまたがった大牟田はよくここまでこれたな、と考えていた。やや発汗しているがチカゲは落ち着いていた。行けそうだ!

予想通りの人気だった。

 十一番サチカゲ、松永の八番カゼハヤ、的場の九番ブラックンタキシードの三ツ巴で、各々単勝は二・三倍、二・五倍、二・八倍と競い合い、四番人気が七番のシルクカーディガン、続いてチョウカイリョウガン、ホットシークレット、シンボリモリーと続いていた。最後の周回に入った。


 シルクカーディガン七番に続いて、サチカゲが一番奥のコーナーを廻ろうとした時、パドック最前列の男が、大型の黄色地に、シルクカーディガンと黒文字で書かれた応援旗を、突然挙げて左、右に大きく振った。

シルクの橋崎騎手が、そちらを向いたすぐ直後、サチカゲが前足を大きく挙げて、大牟田騎手を振り落としそうになった。

あわてて大牟田は手綱を絞り、かろうじて落馬をまぬがれた。明らかにサチカゲは興奮して、早足で前のシルクに迫った。大牟田は首を叩いてなだめた。興奮気味の早足で、馬道に各馬が消えるとすぐに、伊勢はその場を離れ、一階のトイレに向った。携帯電話を胸ポケットから出すと

「表さん、ターゲット苛立つも立て直した。本馬場へ入場中」

それだけ言うとトイレに入り、素早く、ベージュのズボンを脱ぎ、ジャケット、帽子と一緒に、スライドして短くたたんだ黄旗の棒を、コンビニのビニール袋へかさ張らないようにしまった。 下は紺色のシャツと薄手のグレーズボンをはいていた。S指定席へ上がると富士子に、黙ってビニール袋を渡した。富士子は競馬新聞を一緒に手にすると、女性用トイレヘ入った。 中はすいていた。手洗いの横のゴミ箱にビニール袋を入れると、すぐに出て指定席へ戻った。


 スネイクは、四コーナー角に待機していた。入場した各馬は、芝を心地良さそうに右回りで、ダクからキャンターで走り始めた。

小型双眼鏡で、十一番サチカゲを追った。やや発汗が目立つ。十二番マイネルオペラとゆっくり合わせる形で向こう正面に向うサチカゲを追い続けた。

 ーーやはり、あの程度ではダメか。立て直したなーー

 失敗するのでは、との不安がよぎった。


 健も双眼鏡で、サチカゲを貴賓席から追っていた。パドックでの立ち上がりが気になっていた。

 ーーあの黄旗に驚いていたな。

     あの男は何のつもりだろうかーー

 返し馬のサチカゲに別に異常は見当たらない。馬体重もプラス4kgという事なら、そう調子落ちも考えられない。秋一戦をここに狙って来た関係者の意図だけが、やや不安要素と見られていた。

 ーー調教も良かった。八分の出来でもここは連対は外さないだろう。カゼハヤの仕上げも良さそうだ。ブラックンタキシードが何処まで食い込めるかがみどころだなーー

健は今日のレースでサチカゲが負ける要素はみあたらないなと 見ていた。

 

 初秋とはいえ、今年はまだ暑さが残る中山競馬場だった。久し振りに中山でG2のファンファーレが、定刻の午後三時四十分に響いた。

 五分前に札幌のメインUHB賞四才千六百万下ダート千七百米では、内枠一番のジャンボムテキオーと九番マッドンマックスで決まり、中穴となっていた。


 中山二千二百米芝のスタートは、四コーナー奥のポケット少し前で、スネイクの立つ丁度右からであった。

スタートすると四枠穴人気、六番アサヒウインロードンと、小柳の一番ホットシークレットが先行争いで、一コーナーに向い、その後に坂上の五番マイネルバイエリーン、柴田克己のチョウカイリョウガン、メジロビクトリー、外枠十四番田口のニシキノオーカンが続き、人気の九番ブラックンタキシード、マイネルオペラが、中団。

八番カゼハヤは後から四頭目。最後方を、十一番サチカゲが追走。サチカゲ、カゼハヤが最後方追走で、大きなどよめきが中山競馬場におこった。

 二コーナーにかけて、ほぼそのままの隊形であったが、千米のハロンタイムが、六O秒四。 このクラスの平均ペースを見越して、八番のカゼハヤ松永独が、外から先団グループを追い上げ、中団の先頭に仕掛けた。サチカゲは依然先頭から十馬身程の最後方を進んでいる。


 スタンドの健と、伊勢、富士子はそれぞれが、異なった思いで、固唾を飲んで見守っていた。

 ーー最後方待機策とは、大牟田も思い切った事をするな。平均ペースで、先残りの可能性もある。 あそこから届くのかーー


 健は、橙の帽子、白地にブルーのタスキ掛の大牟田。仕掛け所を、双眼鏡で追っていた。

「このまま後方で終わるのかしら……」

富士子はゴンドラ席でつぶやいた。

「いや、最後方からの大外差しに大牟田は賭けてるんだ。このまま終わらないさ」

 自分達の仕掛けが、いとも簡単に成就するとは、伊勢は考えていなかった。

サチカゲが強いからこそ、ここまでの仕掛けをしたんだ。伊勢は確信していた。四コーナーのスネイクも同じ思いであった。

 ーー大牟田は最外枠を差してくる。

      俺のイメージ通りになる筈だー


 三コーナーでは、江川のアサヒウインロードンと、小柳のホットシークレットが、先頭を依然争っている。

 中団の的場ブラックンタキシードがグングン上がってくる。その外を三番岡安のシンボリモリーが追走する。少しペースが上って来た。 


 その時、後方組の松永カゼハヤと、最後方のサチカゲが疾風のように大外を二頭で追い上げて来た。スタンドからうなりに似たドヨメキが走る。


 外からカゼハヤ、内をサチカゲ、その内をブラックンタキシード、さらに最内の二頭が坂上のマイネルバイリーン、三番シンボリモリー。五頭が一団で先頭の二頭を追走する。

再び大歓声が響いた。先頭に三馬身と第二集団が迫った四コーナー。


 ーーまさにこの時が

   タイミングであったーーー

 スネイクは素早くポールをスライドさせ、二本の黄色の大旗を両手で挙げ、大きく手を交叉させ、今、まさに四コーナーを廻る馬群に向けて振った。

 二頭を今まさに・・

 ーーこの瞬間、交わそうとする松永と大牟田の目にも、自分達に向けて振られる横約一米、縦約七十cmの二枚の黄旗がーー

  大きく交叉するのが見えた。

  応援の大旗だと一瞬考えた。

 《サチカゲにも大きくはためく黄色が見えた。恐怖が全身を走った》


 その瞬間大外枠から二頭目のサチカゲが、松永のカゼハヤの前を斜行して大外へ走った。

カゼハヤはサチカゲの後ろ足に前足を蹴られて怯んだ。立て直したが直線では遅かった。

 サチカゲは大外のスネイクの黄旗の方向に突進する。

大牟田は左腕と左太腿を絞り内に戻そうと、強く手綱を絞った。既に遅かった。後続の一団がどっと内側を一団で差しの隊形に入っていた。

 ーーしまった! あの旗は何だーー


 大牟田はそれでも懸命に、サチカゲの首を押し、大歓声とブーイングの中、スタンドすれすれを追走しゴール板に向かった。


 レースは直線で差しに徹した十三番。柴田克己の、チョウカイリョウガンが、首差一着でゴールに飛び込んだ。内枠のブラックンタキシードも、カゼハヤの右へ絞った馬体接触の影響を受け、二番手確保出来ず。

 逃げ粘った小柳の、一番ホットンシークレットが残った。ブラックン三着、続いてシンボリモリー、五番坂上のマイネルバイエリーンと、ゴール板を通過した。 

 大波乱にファンの大きなどよめきの嵐が渦巻く。

 立て直したカゼハヤは七着。前を横切ったサチカゲは、吉井のメジロビクトリーと最後方でゴールに入った。

 「バカヤロー 大牟田!」

 ファンの罵声があちこちで起こった。


  貴賓席の健は呆然とゴール前を見ていた。

 ーー明らかな進路妨害でサチカゲは失格だろう。カゼハヤとブラックンに大きく影響した。あの黄色い大旗のせいだ。サチカゲは四コーナーで狂ったとしか思えないーー

 黄旗の四コーナーに双眼鏡を向けた。既に旗はなく、あの男もいない。野球帽を被ったサングラスの男だった。

 ーー黄色の大旗をあの位置で振るなんて、とんでもない奴だーー


 競馬場は怒声の後、気の抜けた白けた雰囲気になっていた。

 スネイクは成功したと確信すると、すぐに黄旗をたたみ、ビニール袋に入れた。スタンドの大きなどよめきを聞きながら、芝生上方の入り口に近い購入窓口を通り、スタンド一階、四十四番柱近くのトイレへ駆け込んだ。 シナリオ通りに運んだ事に満足していた。

ーーーあまりにも・・上手くいきすぎだがーー

サングラス、野球帽、白スポーツシャツを脱ぎ続いてジーンズも脱いだ。下は薄手グレーの上品な開襟シャツ、黒のスラックス、ガラリと変わった雰囲気となった。脱いだ衣服を例の黄旗をいれたビニール袋に押し込むと、ゆっくりと五階のS指定席に向った。

 富士子、伊勢と合流する。丁度、オーロラビジョンでは阪神メイン十一レース、ローズステークスG・四才オープン、芝二千米が実況されていた。

審議中のセントライト記念は、サチカゲの進路妨害。失格で確定した。一番ー十三番は、波乱の八千二百円の払い戻しであった。 

チョウカイリョウガン、ホットンシークレット、ブラックンタキシードは菊花賞の優先出走権を得た。カゼハヤ、ブラックンにとっても、誠に悔やまれるサチカゲの進路妨害であった。






健の疑惑



 南関枠の貴賓席で健は考え込んでいた。曽我はすっかり落胆していた。牧場から今朝やってきた石井康太郎は狼狽していた。

 ーー今、声を掛けられないなーー

健は、サチカゲとカゼハヤの関係者に声を掛けるのを遠慮していた。写真家の細田尚子が健の隣に座った。長い髪が綺麗にウエーブしていた。ほのかにラベンダーの香りがする。しかし今の健には心のときめきより、このレースへの疑惑で頭が一杯であった。

 「四コーナーでサチカゲは、おかしかったわ。貴方も見たでしょう、あの黄色の旗を。サチカゲはあの旗に向って狂ったようだった。あの男、どういうつもりかしら」

「君は、所で・・・写真家だろう? レースは何枚か撮ったのか」改めて聞く健。

「勿論よ。四コーナーも二枚撮ったわよ」

「是非、その写真を見せてくれ。今日でも構わないか」

 健は、何としても旗の男を確認したかった。

ニコン大型望遠カメラを肩から下げ、長身の尚子はうなずいた。

「何か変ね。私も早く現像したいわ」


 尚子は、日本中央競馬会の機関誌『駿馬』に、サラブレッドの見事な写真を何回か掲載していた。サラブレッドの写真家として鋭さと女性独特の優しさを、表現出来る能力の持ち主であった。 二人は関係者で混雑する貴賓席から出て駐車場に向った。

 向島の尚子の仕事場兼自宅へ急いだ。中山付近の渋滞を抜け京葉道路から首都高道路経由福住からおりて向島へ向った。シルバーメタリックのクレスタを運転する尚子とはしばらく話しも無く、黙って健は助手席に座っていた。

 公正な競馬ではなかった。そう感じまたあのような行為の男に健は心底から腹を立てていた。なんとしても確かめたかった。

 ラジオからサチカゲの進路妨害による、失格での確定結果が十分経って流れてきた。


 高速道路を降りると尚子は考えている事を口にした。

「あの黄色の旗に何か意味があるのかしら?」

健もそれを考えていた所だ。三才の若駒と違って四才のこのクラスでは、競馬場の観衆や騒音にもほとんどの馬は慣れていた。応援の旗もたまにはあるものだ。

 それにしても、四コーナーのタイミングといいパドックの男といい、何かが・・仕組まれた気がしていたのだ。


 サチカゲを失格とした裁決委員も、レースそのものを不成立には出来なかった。彼等の調査も始まるだろう。大牟田や妨害されたジョッキーへの質問も行った筈だ。

 しかし、サチカゲがカゼハヤを妨害し、そのカゼハヤがブラックンに外から接触した。それ以上のものは短時間では出てこないだろう。何よりも何万人かのファンの為レースを確定し、払戻金を決めねばならなかったのだ。

「パドックで旗を振った男もいたんだよ」

「それはカメラに治めていないわ」

「俺は見ていた。サチカゲは一瞬前足を挙げて驚いたが、大牟田がなんとかなだめたんだ」その時の様子が目に浮かぶ。

「どんな男?」

「黄色の旗に気を取られていたが・・たしか白のポロシャツと黒っぽい帽子の男だった。各馬が馬道に消える直前にもう一度見たけど、もうそこにはいなかった。奴も素早い行動だった」改めて思い返す健。

「グループで動いているのね。サチカゲの妨害工作が意図的に行われたんだわ」

尚子は明快に疑惑を表現した。健もまだ疑心暗鬼ではあったが同意した。


 ーー彼等は成功したんだーー

しかしこの犯人を割り出さないと又同じ事が起こるぞ。 健は一刻も早く尚子の現像写真を調べたいと思った。何か手掛かりを掴まねばならない。

 今回はJRAの問題であったが、公正な競馬を施行努力している者への挑戦と受け取っていた。


 向島の八階建てマンションの六階を尚子は借りていた。

 広いダイニングキッチンとベッドルーム、そして五畳程の洋間が現像用に改造されていた。 戻ると着替えなしで尚子はフィルムの現像にかかった。 健は待った。

「コーヒー沸かしていただけるかしら。そこの棚か冷蔵庫に豆は有る筈よ」

 尚子はそう言うと、現像部屋のドアを閉めた。 機能的で無用の飾りはない。居間には大型のパネル、オグリカップとミスタービーシーの躍動感あるモノクロ写真だけだ。

 ダイニングの中央にやや大型の仕事机兼用テーブルと二脚の椅子。壁際に小型のテレビとノートブックパソコンを置いた幅の狭い棚、本は写真関係の物ばかり。テーブル上は良く片付いており、写真雑誌が一冊有るだけだ。

 テレビをつけゴルフ番組を見るともなしに見ていたが、黄色大旗の四コーナーの男の事が気になって仕方がない。野球帽の横顔をチラっと見た記憶をたどったが、どうしても瞼の奥にイメージ出来なかった。

 一時間も待っただろうか。現像室のドアが開いた。

「出来たわよ。右後方からの望遠レンズだから横顔だけど四コーナーで旗を振る男が写っているわ」

 健は現像液の香りがまだ残っている大型の印画紙を凝視した。多くのファンで下半身はさえぎられているが、大旗を交叉して振る男が写っていた。

 長身、細身、黒っぽい野球帽とサングラス。しかし顔の輪郭までは判然としない。

「尚子さん。この男の顔だけを拡大出来ないかね」

「やって見るけど、輪郭までは難しいかも知れないわよ」

 それからまた三十分程、健は印画紙をながめ待った。明らかに殺到する馬たちに黄色の大旗が振られていた。

拡大した男の横顔はやはりボンヤリしていたが、顎と頬の特徴は出ていた。

ーー何処かで見たような男だーー

健は考え込んだ。

ーー何処だったか、会っている気がするーー


「どうしたの健さん。知っている人なの?」

「いや。思い出せないけど、何処かで会っている気がするんだ。この顎のくびれ方にサングラスが無ければ・・」 

 どうしても思い出せない。

「尚子さん、この写真を貰えますか?」

「どうぞ」

健は写真を受け取ると背広をとって帰り支度をした。

「何か予定があるんですか。私。料理はあまりうまくないけど鍋物にするから、一緒にいかがですか」

尚子は思い切って健を誘った。

 健も好意は持っていた。仕事中の尚子とは別人のようであった。毅然として活動的な尚子の別の面を見た気がした。

「じゃあ、ご馳走になりますか」

健は再び上着を脱ぐと、テーブルの椅子にかけた。

「すいません。ハンガーをお持ちします」

「何か手伝いましょうか」

「大丈夫。お肉と野菜はあるから、すぐ支度します」

尚子はキッチンに立った。健は所在無くテーブルの写真雑誌をめくったが、やはりあの男の事が気になっていた。



 この日は互いの事や競馬を話題に午後十時頃まで過ごした。健は始めてのデートと同様のトキメキを感じていた。





   セントライト記念 JRA



 最終十二レース。四才以上五百万円以下のパドックから各馬が本馬場ダートコースへ入場して来る時に、セントライト記念の「審議」は確定した。長い審議だった。

 サチカゲは三コーナーの進路妨害で失格。カゼハヤはその影響での馬体接触七着。十三番チョウカイリョウガン、一番ホットンシークレットの馬連複は大波乱となった。

 大牟田は十月二十五日迄一カ月間の騎乗停止が翌日の新聞で公表された。


 S指定払い戻し所のJRA職員は富士子が立ち去ると念の為に本部へ電話を入れた。

「S指定ですがセントライト記念で、大口四千万円の払い戻しがありました」

「一、二、三番人気が外れたからな。ところで四千万円と言うと、まさか一点買いじゃないだろう」保安担当職員新田の声だ。

「それが、三点ボックス各七十万円で的中させているんですよ」

「どんな人だった?」

「中年の女性ですよ。ちょっとその筋の女って感じではありましたがね。好きな三つの番号を組み合わせただけ、とケロッとしているですから驚きましたよ」窓口の八並が答える。

「七十万円単位というと、一枚の投票カードのほぼマックスだな。この不況にいいお客さんだな。金のある所にはあるんだ。他で損もしてるだろう。それで、一人で帰したのか」

「下まで警備をつけるよう勧めたんですが、札束を手提げの布袋に入れると平然と帰って行ったんですよ」

「サチカゲ、カゼハヤ、ブラックンに怪我はなかったらしいが、あの暴走には驚いたな。パドックと四コーナーで変な旗が振られて、大牟田や他のジョッキーは色々聞かれたようだ。突然の四コーナー暴走だったが、裁定委員も確定せざるをえなかったようだよ」

「後味の悪いレースでしたね」と八並。

「今のところ君のところの大口払い戻しが最高のようだ。流しでとっても千円か二千円購入がほとんどだろう」

 新田はたまたままぐれの大当たりだろうと考えてそれ以上八並に詳細は聞かなかったが、警備本部の高山には報告した。


 裁定委員の林は迷った。

ジョッキーの誰もがサチカゲの暴走の原因がわからなかった。大牟田と柴田だけが四コーナーのスタンド角で交叉して振られる黄旗を見ていた。

 その直後にサチカゲの暴走があったので、旗に驚いたとしか考えられない。しかし大レースでは歓声や新聞を振るファンも多く、馬への影響を考えて、マナーとしてプログラムに自粛を呼び掛ける程度であった。

 売上減少傾向のJRAにとっては、ファン増や人気グレードレースのPRが最優先の課題であった。

 林は裁定委員長の立花に促された。

「サチカゲの暴走に四コーナーの旗は影響があったかもしれないが、他の馬は暴走という事ではなかった。サチカゲ失格で確定せざるを得ないな。林君いいかね。これ以上審議を延ばすわけには行かないだろう」

林は例の旗の件をもう少し調べたいと思ったが同意せざるを得ずに黙ってうなずいた。


 確定し、払い戻しを開始するとすぐに警備本部から林に連絡があった。

「パドックと四コーナーで男を捜しましたがもういませんでした。パドック周回中のモニターと四コーナーのパトロールフィルムはあるんですがスタンド四コーナーのモニターはないんですよ」

「後で見せて貰いに行きますよ。ところで大口払い戻しの状況、わかり次第連絡いただけますか?」

 林は警備本部の高山に頼んだ。林は場内だけでなく、場外での大口払い戻し状況も調査してくれるようにと頼んだ。最終レースが終了して林の所へ高山から電話があった。

「女性で一人、S指定で七十万円的中。連複四千万円と少しの払い戻しを受けた人がいます」

「女性ですか?」林は聞いた。

 高山が来て二人は整備本部へ戻り大口払い戻しが、これ以上ないか確認した。終了後三十分しても例の女の四千万円以外報告はなかった。

「この波乱で大口は一人だけですかね」

 林は場外での払い戻しも気にかけていたが、今のところ場外からの大口払い戻し報告は、やはりない。一時間経過してコンピューターの払い戻し状況表は七二%を示した儘であった。

「残り約三十%が、明日以降の払い戻しか! やはり場外の大口払い戻しを重点チェックする必要がありそうだな」高山が言った。

死して再度パトロールフィルムを見る為にモニタールームへ入った。




  下総中山・・・・セントライト記念の夕



 「じゃ、打ち合わせ通りね。あたしの一枚換金してみるわ」

 富士子はポシェットを手にすると何気ないふりでS指定席を立った。しばらく待って、スネイクと伊勢もゆっくり席を立ち人ごみに混じり歩いて下総中山を目指した。今日の通称オケラ街道はまさしくオケラの雑踏だ。


 富士子は最終レースの発売中だったが、自動支払機の左の大口[購入・払戻百万円以上窓口]へ立った。四十歳がらみで厚化粧に金縁眼鏡の女性に声をかけた。

「今の馬券取ったんだけど、自動機で支払いOKかしら」平静を装う。

「大丈夫ですよ。お幾らですか?」

「わからないから、好きな番号を七十万円づつ三点買ってみたのよ」とぼけ顔の富士子。

「エッ!」

 窓口の女性は絶句すると慌てて後ろに控えている主任格の男性の所に飛んで行った。一言、二言話している。富士子は出来るだけノーテンキな顔をして待った。

男性がゆっくり富士子に向ってきた。

「今の中山のメイン十一レースですか?」

「そうよ。わからないから・・たまたま好きな番号を買ったら来ちゃったのヨ。びっくりしたわ!」 無邪気に喜んで見せた。

「失礼ですが・・見せていただけますか」男は慎重だ。

「はい、これよ」富士子は無造作に投票券を渡した。


 ーー十一レース。一・七・十三のボックス、各七十万円、確かに的中している。偽造馬券でもない。五八倍だから四千六十万円だ。波乱のカゲに女有りか。ノーテンキな幸運て奴だな。それにしてもボックス各七十万円とは恐れ入ったなーー

「四千万円を少し越えますけど」JRA職員は言った。

「百万円の束が四十個と少しでしょ。たいしたことないわ」平然と富士子は応じた。

「ひと袋に入るわよ」

「わかりました。それでは少しお待ち下さい」


 職員はS指定席での大口購入や払い戻しになれていた。金持ちや馬主が愛人同伴でよくあるケースだと判断した。奥で百万円札束四十個が準備されていた。富士子はポシェットから百円ショップで買った黒い布地の袋を出した。

「百万円封印。四十個と六十万円です。確認されますか」職員の声に、

「封印してあるんでしょう。そのままでいいわよ」

またもや平然と言い放って黒い袋にキッチリ収めた。

「車でお帰りですか。警備員をつけましょうか」

「大丈夫。この位のキャッシュ、いつもの事だから」

ゆっくりした足取りで、窓口から指定席をエスカレーターで降りて行く富士子を職員と何人かのファンが、羨望の眼差しで見送った。 

富士子はスネイクと伊勢を先にやって、下総中山へ急いだ。オケラ街道を行く周囲の人間に注意しながら法華寺の境内を抜けて、参道まで十五分だった。

 参道の茶店の向いではいつものようにモツ煮込みや焼き鳥を魚に、簡易テーブルを囲んで一杯飲みながらの平和な反省会風景があった。


 参道を下って京成電車の踏切を渡り、信号を越えた左側の蕎麦屋「更月」が三人の落ち合い場所であった。

 スネイクと伊勢は右奥のテーブルにいて富士子に向って軽く手を挙げた。テーブルには、鳥ワサとモツ煮込みが並んでいた。二人は、ビールは終わったようで熱燗の大徳利が一本あった。

 ーーいやあ、美味しそう。ノドが乾いたわーー    富士子は座った。

「どうだった。窓口は」

富士子の黒い布袋をチラッと見てからスネイクはおだやかな声で聞いた。

「この通りよ」黒い袋を見せた。

「四千万少しというとこのくらいか」

伊勢が無表情でつぶやいた。

「窓口の女性の他にJRAの職員が立ち会うのね。同時に何枚も払い戻すのはやっぱりまずそうよ。彼等が・・・文句の筋合いはないんだけれど・・・意図が見えてしまってはね・・・・」

「五八倍くらいの払い戻し自体はどうという事はないんだよな。ただ、一枚で大口の四千万円という事が疑惑を招きそうだな」

 スネイクもそれは考えていた。計画では残る三人の八枚は場外で分散して換金する事になっていた。

「大口が集中するとやぱり疑われるな」

「しかし、タイミング逃すと調査にひっ掛かるぞ」  伊勢も考えていた。酒を一口飲むと話し始めた。

「表さん、どうだろう、我々三人が、場外大口払い戻し換金という事にしてたけど、場所と人間をもう少し分散しないか」

「俺もそれを考えていた。今日の場内での払い戻し状態を把握して、JRAは場外大口払い戻しをマークするだろうな。関西地区での、払い戻しという手もあるがね」

「しかしここは来週一気にやった方がいいよ。大口があっても、JRAとしては正規当たり馬券を、換金しないわけにはいかないんだから」

「逆に場外大口をマークしそうなら、私達三人で平日の中山払い戻しを受けたらどうかしら」と富士子。

「その手もあるな。分散しようか。二枚は俺と伊勢君で換金する。残る六枚を、分散しようか。但し富士子さん一人で六枚は難しい」

「私が二枚をゆっくり関西でやるわ。残りの四枚を例の福田君と内藤君に違った場所で払い戻しさせたらどうかしら」

「もし逃げられたら四枚で一億六千万円、パーだぞ」伊勢はあえて言った。

「リスクはあるが・・・・次の計画の為にも換金は早い方がいい」

スネイクは判断した。

「まあその時はやむをえないという事だね。富士子さんの責任にはしないという事にしよう」伊勢も了解した。

 ーーこの二人とやって良かったーー

 富士子は二人の男への信頼を一層深めた。

方針を確認すると三人はビールで乾杯した。言葉は多くないが三人とも、充実した満足感を共有していた。その後の大ザルソバの味の何といい事か。皆今日は酒はほどほどにした。

三人はタクシーを拾うと東京へ向った。




セントライト記念払い戻しー福田・内藤



 ホットンシークレット・チョウカイリョウガンがゴール板を駆け抜けた瞬間。ゴール前で福田と内藤は思わずVサインの手を握り合った。まさかの・・・・中穴だ。

 芝大外を大牟田のサチカゲが遅れて入った。大牟田の必死の形相とファンの罵声に二人はニンマリ笑い合った。 

「福田さんやりましたね! サチカゲは来なかった。四コーナーの大外暴走には驚きましたよ」と丸顔の内藤。

「お前、見てたか。黄色の大きい旗を!」

「サチカゲだけ・・追っていましたけど・・

」内藤は気付かなかったようだ。

「やつら・・あそこでやったんだ。失格にはなるだろうけど、一、二着は確定するな」

審議のランプを見ながら内藤もつぶやいた。

「やっぱり仕組んだ奴がいるんですね。富士子とは思えないけどな。何人か?いるんでしょうかね・・・・・・」

「まあいいさ。カゼハヤからの流しだけとは思えない。奴らも稼いでいる筈だ」

「一ー十三は五十倍以上つきますよ。先輩に言われて買っておいて良かったですよ。大儲けだ」内藤はそっと自分の馬券んを福田に見せる。

「お前ボックスは幾ら買った」

「一、七、十三のボックス各十万円買いましたよ」

「十万円で五百万円強ってところか」

「先輩は?」

「ボックス三点、各三十万円買いだよ」

「えっ、本当ですか。じゃ、千五百万円以上じゃないですか」

 内藤が興奮気味に言った。

「おい、目立たないようにしろ。確定は大丈夫だ。さあすぐ帰ろう。払い戻しは明日以降にすればいいさ場外でな」

福田は警戒して言った。

「わかりました。じゃ、グズグズしないで帰りましょう」

二人は確定前に西船橋へ向った。


 内藤と川崎で二人だけの祝杯を挙げ福田が家に戻ると留守電のランプが光っていた。富士子からの、電話をくれと言うメッセージだった。

   ーー今日の件だな。流しは外れてる。       富士子の意図がわからないなーー

「富士子さん。流しは残念でしたね」

「今日は福田さんも見に行ったの」

「行きましたよ。サチカゲは失格でしたね」

「カゼハヤも沈んで残念だわ」

 富士子は福田の様子を探った。

「外れてるのに、電話して来るなんて、何かあるんでしょう・・・・・」

 ーー富士子は言う事に決めたーー

「ボックス買ってあってね・・・・・」

「やっぱりな。それで?」

「うーん。もう一回仕事してくれないかしら」

「払い戻しでしょ。それも大口の」

 ーーさすがは福田だわーー

「で、どのくらい買ったの」

「やってくれるの。くれないの」

「幾らですか」

「あれだけあげたんだから、サービスしたらどうなのよ!」

いつにもなく、ドスのきいた富士子の低い声が響いた。

「あれは、あれ。次の仕事は別ですよ。相当稼いだんでしょう」福田もしたたかだ。

「四枚の馬券を明日一番、四カ所それぞれ別の場所で払い戻してもらいたいのよ。一回切りよ」

 福田は一呼吸おいた。

 ーー本気らしいーー 

「それで、一枚いくらですか」

「四カ所よ。それより、幾らでやってくれるの」鋭い富士子の声が耳に響く。

 ーー一枚五百万として四枚で二千万円か。

  一割がいいところだなーー

「じゃ、四枚で・・二百万でどうですか」

 富士子はわざと考える時間を四、五秒置いた。

「あんたもしっかりしているわね。厳しいけどオーケーよ。信用していいわね」

「ああ決めたらやるよ。任せてくださいよ」

 その後の話しで一枚が四千万円と知って、福田はシマッタという思いと、明日の段取りは難しそうだなと考え始めていた。

「別の場所でくれぐれも朝一番よ。いい! タイミングが重要なのよ」再度響く。

富士子が念を押したので一言いってやった。

「実は俺と内藤もおかしいと思って、ボックス買ってたんだ。たいした額じゃないっすけどね・・・・」

「フン、あんた逹キツネとタヌキね。でも自分達の払い戻しで私の四枚をおかしくしないでよ」きっちりと念を押す富士子だ。

「俺も仕事人ですよ。富士子さんの四枚がさき。俺達のはゆっくり六十日以内に払い戻しますよ」福田は請け負った。

「じゃ、いいのね。信用するわよ」

「所で富士子さん、うちの会社には派遣でもう来ないの?何かいい仕事が見つかったみたいじゃないですか」

福田は冷やかした。

「坊やは余計な事考えないでいいの」

「そうか! 俺達は坊やだもんな、ハッハッハ」

福田はそれ以上追及しないで明朝の四枚馬券の受け渡し場所を決めた。 富士子の電話を切って一呼吸して内藤に電話した。

 一枚四千万円の払い戻し方法と一人百万円の仕事を告げた。自分でも稼いだ内藤はこのボロイ儲けに依存はなかった。

ーー但し、自分達の払い戻しは関西にでも行って後に回そう。それが仕事の仁義だーー 

 セントライト記念の日曜日が終わりかけていた。


 月曜の朝八時に福田は川崎のステーションカフェで富士子から四枚の馬券を受け取った。

「へえっ、七十万円の三点ボックス券四枚! これだけで八百四十万円だぜ。富士子さんて金持ちなんですね」

富士子は黙って睨んだ。

「余計な事は言いっこなしか。わかりましたよ」

「これが約束の二百万円よ」

そう言うと富士子は封筒を福田に渡した。

「前払いで信用してるけど、逃げたらあんた達。会社生活は棒に振るからね!まだ若いんだから困るでしょ」 

「一緒に働いて、見込んだから頼んできたんでしょう。心配なら・・やめれば」

「JRAもマークしていると思うから、開いたら一番で払い戻してよ。くどいようだけど……。信用はしているわ」

「だって確定馬券なんだからJRAも文句のつけようがないでしょう」と醤油顔の福田。

「あんたも馬鹿ね。同じ買い方の四枚よ。いろいろ聞かれるに決まってるじゃない」

「なに聞かれたって“俺の馬券だ”で、通しますよ」

「そうだけどさ・・・・・JRAも今日の場外払い戻しをマークしているはずよ。私のことは絶対に知られたくないし、同じ買い方って事で、貴方たちが聞かれて困るでしょう。別の場所で同時に払い戻す、タイミングがポイントなのよ」

「富士子さんが四枚当てたって事が判っちゃ、まずいんですかね」

福田は、わざと言った。

「あんた。本気で言ってんの。こっちの言う通り黙ってやればいいのよ」

富士子は再びドスを利かせた。

「言って見ただけですよ。判ってますよ・・」

「一枚で四千万円。百万円の束が四十個と少しだから、気をつけて素早く行動してよ。いい! タイミングよ」

「よし。わかった。内藤と上手くやりますよ。地の利も考えて、後楽園と銀座は俺の組。渋谷と新宿は内藤の組って事にしたから」

「あんたと内藤さんが使う二人は大丈夫ね」

「任して下さいよ。俺の仕切りだから」

「でも逃げられたらパーよ。保険は取ってあるの?」切り込む富士子。

「たがえたら・・・一生・・・富士子さんのいう事なら何でも聞きますよ」真顔で福田は言った。

「あら、あんた達。私の奴隷になるっていうの!」

「大丈夫。俺だって考えて人選してますよ」

「午後一時に、ここでどう?」

「渡せると思いますよ。一時ですね」

そう言うと福田は封筒をジャンバーの内ポケットに入れ先にカフェを出た。

 

 富士子はすぐ淡路町のグリーンホテルにいるスネイクと伊勢に電話した。

「彼等は後楽園、銀座、新宿、渋谷よ」

「開くのは九時半だったな、じゃ、俺と富士子さんが浅草で、伊勢は錦糸町って事にしよう」スネイクは即答した。

「二人で行くなら、ど派手な方がいいわね。ヤクザと情婦でどう?」

 スネイクは思わず苦笑した。

 ーーなるほど富士子は確かに情婦がピッタリだが、俺がヤクザに見えるかな。濃いめのサングラスに黒のスーツって奴か!ー

九時十分に雷門で待ち合わせる事にした。

電話を置くと富士子も急いでカフェを後にした。

    ーー間に合うかしらーー

 月曜の京浜東北線は混んでいた。上野で降りタクシーで駆け付けた。間に合った。

黒のダブルと濃いサングラスのスネイクを見て富士子は思わず吹き出しそうになった。

 ーーこの人、サングラス無しの蛇の眼の方が迫力あるのに。でも、一時間でよく用意出来たわね。さすがにタイミングは外さない人ねーー


 月曜日。朝九時に林は場外払い戻し各現場責任者に今日の一件百万円以上大口払い戻し内容を報告するように指示した。セントライト記念は、まだ残り約三十%の払い戻し残高があった。

 一万円単位的中でも五十八万円であったから的中者はかなりいる筈だ。それにこれ以下だと自動払い戻しのケースが多いだろう。

 スタートと同時に後楽園場外から四千万円払い戻しの報告があった。昨日と同額だ。

 林は後楽園払い戻し責任者に電話した。

「裁定の林だが、大口四千万円払い戻しはどんな内容でどんな人でしたか」

「はい。えーと、七十万円三点ボックス買いで、若い男でしたよ。“凄いですねと”言うとニヤッと笑って、初めての勝負馬券で取ったと言ってました」

「それで一人だった」

「はい、一人で四千万円持ってすぐ帰りましたよ。警備員を付けるか聞いたんですが、いらないというんで、馬券は確認しました。中山の場内発券でしたよ」


 この電話の直後に立て続けに新宿、渋谷、銀座、錦糸町から報告の電話が殺到し、林はさばき切れなかった。どれも男一人の交換で、ほぼ同時刻であった。最後の報告が浅草からあって、ヤクザ風の男女二人が今、二枚の払い戻しで帰るところだという。林は浅草の払い戻し主任に言った。

「その人に電話に出て貰えないか」

「ちょっとまって下さい。聞いて見ます」

しばらくすると主任から

「この位の金で・・・と凄まれました。急いでいるそうですしどうしますか?」

「じゃ、名前と住所が聞けないかね」主任はすっかりびくついている様子であった。

「住田連合会、浅田組の者だと言ってます。もう、やむをえませんね。正規の当たり馬券ですし・・・・・・・」払い戻し主任は逃げ腰だ。


 林は仕組まれたと確信したが、確定した払い戻しを拒む訳にはいかなかった。

ーーそれにしても・・同一の三点ボックス払い戻しを絶妙のタイミングで、六ヶ所の場外でやるとは・・・相当に計画的だなーー

「やむをえないでしょう。出来るだけ二人の人相や特徴。、それに何でもいいですから、彼等の様子を後でもう一度知らせて下さい」

林は考えた。

 ーー再発させない為にも、サチカゲの周辺を徹底的に調査しないといけないな。厩舎や騎手の調査もやり直しだーー


そして、実際それから一カ月の間、林はサチカゲの周辺を徹底的に調査した。村田厩舎や大牟田騎手は数回に亘り事情聴取された。

林は、最後に生産牧場、浦河でのサチカゲ当歳の母の死に突き当たった。






セントライト記念後ー対策


 九月二十六日中山セントライト記念でサチカゲが失格してからの一ケ月余りは、日本では秋の重賞シリーズ、海外でもアメリカのブリーダーズカップ、フランス、ロンシャン競馬場での第七十八回凱旋門賞があった。凱旋門賞ではエルコンドルパサー大健闘(二着)等国内外の流れがあった。

 

 村田厩舎ではサチカゲの暴走の原因を突き止めようとしていた。二十六日、中山での検査でJRA職員や獣医が念入りにサチカゲの馬体や尿検査を行った。

 暴走は四コーナー大外埒沿いを走ったもので、失格とはいえサチカゲは立て直して走った。帰って来たサチカゲは首筋から腹帯の回りにぬれて光る程の汗をかいていたが、馬体のどこにも故障は見当たらず一時間経過後の心肺機能、尿データーにも不審は見当たらなかった。


  調教師村田竜二は、小出と相談した。

「今日美哺への輸送は無理だろう。明日、曽我さんと康太郎君が美哺に夕方来るっていってる。今日はここの出張馬房に泊まる事にしよう」

「わかりました。心配ですので私も今日は中山に泊まって様子を見ます」小出は答えた。

「それにしてもわからんな。パドックで発汗はあったが、返し馬では落ち着いていたし、スタートから四コーナーまでマイペースでかかる事もなかったしな・・」

「やっぱり、あの四コーナーの黄旗でしょうかね。他には考えられませんよ」

「大牟田君がまだ調査から帰らんから、何とも言えんがね。一ケ月の騎乗停止だから、その間に対策を考えんといかんな」

「十一月七日の菊花賞には使うんですか」

「うん。これからのローテーションも考えんと。京都新聞杯は無理かもしれん。曽我さんとも話して決めよう」

 

 出張馬房でサチカゲはつい二時間程前の暴走が嘘のように落ち着いた瞳をしていた。長年調教している二人にもあの黄旗以外の原因はわからなかった。

 その夜、小出は一時間おきにサチカゲの様子を見に回って、寝たのは午前三時を回っていた。翌朝九時に美哺から馬運車が来て、中央高速から首都高、常磐自動車道を経由して美哺には午後一時少し前に着いた。小出も同乗して途中サービスエリアでサチカゲの様子を見たがいつもの通り平然としていた。厩舎の馬房に入るとすぐに、飼葉桶の食事を八分通り平らげた。平常通りだ。洗い場で小出は身体を洗いながら入念に馬体を調べた。何処にも異常はない。ブラッシングを丁寧にしてやった。サチカゲは心地良さそうに鼻づらを小出に寄せて来た。


 三時を過ぎて事務所に大牟田と曽我がやって来た。石井牧場の康太郎はやや遅れて来た。今日は山形厩舎の次戦騎手、石井康雄も呼ばれていた。主戦大牟田の一ケ月騎乗停止と万一に備えての村田調教師の配慮だった。皆連れだってサチカゲの馬房の前でそれぞれの思いで、平然と立つこの馬の事を考え、何か不審な兆候を見出だそうとしが無駄だった。

 曽我が口を聞く前に大牟田が詫びた。

「何とも制御出来なくて、すいませんでした」

「いや、君の騎乗が悪かったようには見えなかった。サチカゲが突然驚いたんだ。そうとしか考えられない」

曽我が言った。

「私にも今まで経験のない事でした。レース中、泥や石がハネて行く気を無くす事や、引っ掛かる事はありますが」

「大牟田さん。私も何度もビデオを見直しました。四コーナーで驚いたとしか考えられない」

石井康太郎が言う。

「やはり、あの黄旗のせいかな。四コーナーの」大牟田が思い出して言う。

「大牟田さんも見たんですか。ビデオは馬を追っていますから、観衆の姿はほとんど見えなかったけど。四コーナーで内から抜け出す時に大きくカゼハヤの前を斜行して、一団の大外へ消えて行ったんだ」

「黄色の大旗の方にサチカゲは向って行った。俺は懸命に右タズナを引いて外埒すれすれを何とか走らせるのに精一杯だった。申し訳ありません」

大牟田は率直に言った。

「旗を振るファンはよくいるんだけど、サチカゲだけがどうして暴走したんだろう」

騎手の康雄が遠慮がちに言う。

「サチカゲだけが驚いたんですね。黄色の大旗ですか。黄色のネエ・・・・ まさかあの時の・・・・・・・・・」

康太郎は言いよどんだ。

「石井君、何か思い当たる事があるのかい」

 村田が石井に言った。

「牧場で母が事故死した時の事ですが・・・」 

「不届きな奴の狩猟用罠で死んだ時の事か」

 曽我が思い出して言った。

「そう・・・・あの時、丘の上に黄色の旗が威嚇するようにはためいてたんですよ」

「でも、馬は色の識別がほとんどきかないと聞いていますが」

小出が言った。

「それでも、光の七色のうち中間色は識別していると習った気がします」

さすがに若い騎手だ。康雄は競馬学校での馬の生態学を思い出した。

「中間色っていうのは黄色なのか」

大牟田が言った。

「赤、黒はともかく、中間色というと・・・多分青や黄色だな」

曽我がゆっくり答える。

「じゃあ、母の死の記憶が戻ったという事かね。そんな事があるのか!」

村田は絶句した。

「母の死の記憶というより、その時の恐怖ではないでしょうか。その後しばらくサチカゲは全く元気なく私も苦労しましたから」

康太郎はサチカゲ二歳の事件後の姿を思い出した。

「その時の事だとすると、仕組んだとして、相当に長期的で計画的だな」

曽我も驚いた。

「もうサチカゲは平然としているが、又起こり得るという事か」

曽我は心配した。

康太郎は考えて言った。

「もう四才だし、慣れさせる事は出来るでしょう。恐怖でパニックにならないように。黄色に対して驚かないようやって見ましょう」

「曽我さん、次のレースはどうしますか。しばらくサチカゲの様子を見てからと言う事にしましょうか」

村田が聞いた。

「康太郎君の言う通りだとして、一週間程様子を見ましょうか」

大牟田も不安だった。

「そうして貰おうか。君の騎乗停止も一ケ月だから、その間にサチカゲの恐怖を取り除くしかないか。菊花賞は無理かもしれないな」「十一月七日まで一ケ月半ありますから、私達も全力を尽くしますよ」

 彼らは大レースを前に大変な困難に追い込まれていた。




 二日ほど休ませ、すぐにサチカゲは美哺から石井牧場へ送られた。康太郎は毎日の軽い乗り運動から放牧中も不休でサチカゲと付き合った。

小さな黄色いハンカチぐらいでもサチカゲの瞳に恐怖が宿る事を知ってから、毎日辛抱強くサチカゲに話しかけ、徐々に黄色に慣らしていった。

十月の半ばを過ぎると、効果が出始めた。

たじろぐ瞳が治まり、黄色の大旗にも何とか耐える所まで来た。サチカゲの自己抑制力は見事でもあった。今回は曽我が大一番前という事でスーパー経営の合間に自分の目で確かめにやって来た

「康太郎君。何とかなりそうだな。スポーツ紙や専門紙の連中は色々言って来るけどな。よくここまで立て直してくれたな」

「サチカゲの抑制力は凄いですよ。今週ここから直接京都に送りましょう。大牟田で調教してみましょう。体調はベストですよ。力はある訳ですから、やれますよ。私もずっと同行します」

「そうか、ありがとう。やって見よう」


 報告を毎日受けていたので、村田調教師にも異存はなかった。菊の大一番を前にサチカゲは石井牧場から、淀の出張馬房へ輸送という事になった。

 美哺に一泊するとそのまま京都に向った。競馬評論家達からは暴走後の無理なローテーションを再び手ひどく批判された。

 しかし、石井康太郎、村田、曽我には確信があった。みっともないレースはしないはずだ。




      菊花賞



暴走後のサチカゲに対し、JRAは淀の警備を通常の二倍に強化していた。

 中山裁決委員の林はサチカゲへの工作に確信を抱いていたので、淀の場内警備責任者と話し合い、パドック、場内最前列、出張馬房に綿密な人員配置を行った。 金曜日淀競馬場を担当する四つの警備保証会社の各現場責任者を集め、中山でのいきさつを話し連絡体制の強化を要請した。


 林はセントライト記念の翌週、南関東公営の宮内からも電話を貰い、すぐに宮内と会った。面識はあったが親しく話すのは始めてだ。宮内も当日のパドック、四コーナーの男とサチカゲの暴走に何らかの疑惑を感じ、独自に調査してみたが、その男達を突き止める事は出来なかったようだ。

 

 セントライト記念の翌週の後半、林は村田調教師とサチカゲ生産者石井の訪問を受けた。二人はサチカゲ二歳時の母の死と恐怖体験を明らかにし、何らかの工作に言及すると共に、サチカゲの黄色への恐怖を再調教して、確信が持てるまでは出走させないと約束した。


 そして今週始め、馬主、大牟田と村田調教師から菊花賞へ出走させたいと言って来た。林はその間も調査を続けていたが結果は得られなかった。

「村田さん、サチカゲは本当に大丈夫ですか」

「石井牧場で必死に調教し私も三回程立ち会いました。確信があるから出走させます」

「実は・・私達も例の男達の事を調べてみたんですが、わからなかった。今度は警備を強化して、再発させないように・・最善の努力はしますが・・・ファンの警備や制限には難しい所もあります。彼等がグループで動いているとすると、そのリーダーを割り出さないといけないわけで・・・」

「林さん達JRAの心配もわかります。サチカゲも恐怖が抑制出来るように、充分に訓練を積んできました」

「村田さんや、馬主さんが確信を持っておられるなら大丈夫でしょう。わかりました」

 林としても譲歩して警備任せ全力を尽くすしかなかった。一抹の不安を残しながらも協力を約束した。


 十一月六日土曜日、スネイクは富士子と関西に向った。

サチカゲのリベンジが可能か否か、見極める為だった。午後四時過ぎには、京都タワーホテルのスイートルームにチェックインした。  富士子も久し振りの京都で開放感を味わっていた。二人はシャワーを浴びると、どちらからともなくベッドへもぐり込んだ。

 富士子の上気した身体は吸い付くようにしっとりとスネイクを包んだ。やや小振りの乳房は抜けるように白く、年を感じさせない美しさだ。スネイクはゆっくり優しく乳房を舌でころがした。富士子が大胆に足を絡ませてくる。下腹に彼女の柔らかな下半身を感じる。スネイクはしばらくそのまま目を閉じて富士子を感じていた。


 同じ京都の夜。細田尚子はJRAの仕事で都ホテル、宮内健はギンモンドホテルに宿泊し、共に明日の菊花賞、とりわけサチカゲへの期待と、妨害者への不安も感じながら過ごしていた。

 一番人気は、京都新聞杯勝ちのアドマイルベガ単勝二・五倍、二番人気ティエムハット三・二倍、三番人気、ナリタトップドローと京都新聞杯上位組が続き、暴走後のサチカゲは六倍で四番人気に支持されていた。以下十倍以上で、シンボリモリー、ラスカルスズカオー、サチカゲと続いた。

 『秋の大輪、菊の咲くこの淀で……』

関西の人気アナウンサー杉元の独特な語り口で、本馬場入場がテレビで紹介された。


 返し馬で大牟田はサチカゲに声をかける。

「お前もわかるか。大一番だぞ。もう歓声や旗に驚くなよ。力一杯走ろう」

サチカゲはグイーとハミを引いて、低い重心から柔らかい返し馬に入った。

 大牟田が見ても、京都新聞杯上位の三強は良い仕上がりだった。今日は胸を借りるつもりで思い切ってやろう。中団の外で我慢だ。返し馬で八番カゼハヤの本田が声をかけて来た。

「大牟田さん、間に合いましたね」

「なんとかな。カゼハヤも調子が良さそうだ。君も頑張れよ」

少し左手を挙げるとカゼハヤは先に行った。

 ファンファーレが響いて、大歓声が起こりゲートインが始まった。三番サチカゲは落ち着いてゲートに入ると後続組を待った。闘志充分だ ゲートが開いて淀の三千米。 一周目が始まった。


 「スタートしました。予想通り二番タヤスタモツオー、メジロロンタンが先行しております。人気馬が中、後団でペースは坦々としたスローで流れています。ナリタトップドローは五番手好位で追走し、アドマイルベガはやや掛り気味に中団の後方、ティエムハットはその内にいます。千米・六四秒六のペースです。武井のベガが追撃態勢。外からロザード、サチカゲが動きます・・・・直線に入りロザードがベガにかぶせます。前を外からかぶせ気味です・・・・内四番手のトップドローの足がいい。前が開いて割って出て来ます。ティエムハットも抜け出して直線に向きます。ベガは伸びない・・・・・・大外からサチカゲが凄い足で突っ込んで来ます。

内にトップドロー、ラスカルスズカオー、ティエム、大外をサチカゲ、四頭が抜け出した、たたき合いです。今日はサチカゲ大丈夫か!内で三頭が粘っています。差したのか。届いたか!! 四頭は首の上げ下げでゴール板を通過しました!」


 大牟田は首だけ、ゴールでトップドローを差していると確信した。ガッツポーズは見せず、サチカゲの首をポンポンと叩いた。

 「よく頑張ったな。強かったぞ」

大牟田は自分の思いを静めるように流していた。トップドローの渡部が声をかけて来た。

「やられました。それにしても凄い足だ。見事な復活ですね、大牟田さん。おめでとう」

一着から四着までが写真判定であった。

サチカゲがゴール板を過ぎても、スネイクはじっとサチカゲを目で追い続けていた。

「凄いわね。サチカゲは! 勝ったのかしら」

「首差、差していると思う。見込んだ通りだ」

「あの暴走後、立て直すなんて立派ね」

「彼等も気付いていたんだ。サチカゲの恐怖をね。牧場で特別な調教をやって、一気に京都へ運んで来たからな。これからが大変だ」   富士子は、スネイクが次にどう仕掛けるのか興味があった。

「次はどのレースを選ぶのかしら」

「四才で無謀と批判されるかも知れないが、ジャパンカップを狙って来るだろう。その結果次第だけど、海外遠征があるかも知れない」

「香港カップという事」

「世界一流という事になればな。次を見届けてから……勝負だ」じっとターフを睨むスネイクだ。




 林と宮内もサチカゲの強さに改めて驚いた。

「スローペースであの差しは凄いですね」

「強い馬だ。長距離のスローで中団以降に折り合って、暴発的な足を見せた。国内では敵無しになるかも知れないな」

林は言った。

 トップドロー他四頭のゴール前は凄い追力だった。近来まれに見るG1レースにファンも酔っていた。

「いいレースが出来て良かった。とにかく、サチカゲや他馬にも事故や事件が無かった」

林は警備強化し、無事にG1が終りホッとしていた。

「ベガが直線でやや前をカットされましたね」

「道中から、かかり気味で武井君が苦労していたな。中距離では、切れ過ぎる足を見せていたが、三千米はやや長いのかもしれないな」

「ラスカルスズカオーも、頑張りましたね。直線では二着かな、と一瞬・・・ありましたね・・・」

健は冷静に指摘した。

「菊は距離の適正が出るね。いいレースだった」

 二人はサチカゲ妨害グループを忘れてはいなかったが、今日は彼等の仕掛けは無かった。 次はどうか・・・。二人はそれぞれに考えていた。


 第六十回、菊花賞の確定が出た。

 一着三番 サチカゲ      三分七秒六 大牟田

 二着一番 ナリタトップドロー 首差    渡部

 三着四番 ティエムハット   首差    和田中

 四着五番 ラスカルスズカオー 一馬身3/4 蛯川

 五着八番 カゼハヤ      首     本田

      単 勝 三番  六百十円 

     枠番連勝 1ー2二千五十円

     馬番連勝 1ー3二千五百六十円

 スネイクと富士子はサチカゲから一、四、八番へ各十万円ずつ流して、各々二百五十万円見当の配当を得た。

今回は計画外収入だった。


 曽我と石井はサチカゲの優勝式典に参加した。大牟田、村田調教師、小出は、自分達の確信とサチカゲが裏切らなかったことを、心から喜び合った。

「強かったですね。我慢を覚えたなサチカゲは」

曽我は満面の笑みであった。

「次はどうしますか」

村田の問いに曽我は言いにくそうにしていた。

「ジャパンカップはどうでしょう」

大牟田と石井は同時に言った。小出もそう考えていた。

「しかし、四才で歯が立つものかな」

「曽我さん。この馬は日本のレベルの最高峰を超えるかも知れませんよ。やりましょう」

石井は強く馬主に勧めた。生産者の夢がかなうかも知れない。世界に通用する馬だと確信していた。 





      


      HK 舒調教師



 香港の朝は早くから明るく騒々しい。国際レースが間近に迫っているということもあって、沙田の朝の調教はいつもと違った張り詰めた空気があった。

 十一月上旬は例年ならかなり凌ぎやすい気候であった。

しかし、今年は何処か異様だ。変わりやすい香港の空だが、この不気味な雲と空気はどうした事だろう。


 カナディアンサークルが、向こう正面を今、まさに走り出そうとしていた。今回、六ハロンぐらいの調教で十分であった。李はゆっくり走ろうと考えていた。舒調教師の指示を考えていた。

「李よ。ようやくカナディアンサークルが国際競争に出られる事になった。大事に追ってほしいんだ。」

「解りましたよ。でもおやじさん、他にも何かあるでしょう」

「どうして?」

「日本人が何回か来ていたでしょう」

「どういう事だ? 何が言いたい」

「おやじさんに何か頼んだでしょう。そう思いますよ」

 舒は李の浅黒い顔をじっと見た。

「お前、解るか」

「解りますよ、おやじさん。うちの馬は結構やりそうですがね。奴の話しは、この馬の事ですか」

 舒は迷っていた。カナディアンサークルがいいレースをすればいい。そう思えばノーだ。

舒の中の悪魔がささやいた。

 ……カナディアンサークルがうまく走れない場合もあるさ。競馬は筋書きの無いドラマだからな。調教で少しやるだけでいいんだ。それで百万香港$なら悪く無いぞ……

 李は小さな細い顔で、舒の眼をじっと見ている。

舒はやれやれと言った調子で、話してにみる事にした。

「日本馬の公開調教で、サチカゲに少しからんでくれないか」李は理解した。

 どう見ても、サチカゲとジムトニックの争いだ。うちの馬が最高の力を出しても、その後だろう。

「絡むって、どの程度やればいいんですか」

「サチカゲもうちのも出れなくちゃ困るんだ。事故は起こすな。出来るだけ近くにいて、サチカゲが追い始めたら、カナディアンで追い上げ、お前がやむなく併走する形をとってほしいんだ」

「それだけで…? わからないなあ。何の意味も無いと思うけど」「併走を始めてすぐ、前に出て、ややカット気味に走れ。すぐに立て直してうしろを走り、終わったらあやまっておけ。それでいい」「その程度でいいんですか」

「それでいいんだ。但し何時ものジャケットは脱いでくれ、これを来てもらう」舒にもその意味がわからなかった。

 高垣は、薄手の鮮やかな、黄色いビニールジャケットを渡して、念押しした。

「当日はこれを着るのを忘れないでくれ」

「どんな意味があるんだ…」李はつぶやいた。

「いいんだ。意味なんてないさ。そうしてくれ」

 ……百万香港$には勝てない……

李は聞いた。「それでおやじさん。どの程度」

「おまえには四本、俺が六本さ」 

 この世界では、一本十万香港$といのが相場であった。

……四十万か悪く無いな……李はうなずいた。


 カナディアンサークルは調子がよさそうだ。

今日は直線の芝を一気に、やや強めに走れと言うのがオヤジの指示だった。ベージュのTシャツとグレーのジャンバーで李はカナディアンに乗った。グッとハミを噛んでキャンターに入る。千■の直線芝は、新馬戦のコースであった。

 李は手綱を緩め、両膝でゴーの合図を送り、一気に加速した。前に二頭併走している。その外側から、一気に馬体を合わせた。勢いが違う。グットと前に出た。

「このタイミングだな。」李は、もう一呼吸置いて、内に思い切って斜行した。まだ三馬身以上あった。左を抜けて行く二頭に手を挙げ、李は謝った。

 …… 今のはマーカスと張か ……

 李はカナディアンを落ち着かせ、下馬するとすぐにマーカスを捜した。彼のインデジェナスも有力馬だった。

「済みませんでした」

「おい! 気をつけろよ。併走の話しは無かったぞ」

マーカスは浅黒い鋭い顔を上気させて李を責めた。



JC当日

尚子は八レース終了後、パドックも見たかった。

しかし、今日はJRAの仕事で、十五万人の大スタンド中央で、ジャパンカップ入場各馬の姿に焦点を合わせる位置を捜していた。

外埒側で足元を決め右膝を芝について待機していた。

すぐ右隣では、昨日のパーティで谷口から紹介されたドイツのミス・アンナシールゲンも、カメラを構えて入場を待っていた。ベージュのジャケットに茶のスラックス、長身でブロンドの髪が流れるように肩から微風に揺れている。

「大きくて素晴らしい競馬場ね」アンナが尚子に話しかけた。

「ドイツも立派でしょ。一度行って見たいわ」

「これほど設備にお金は賭けていないわ」

「タイガマウントは一番枠ね」

「入場も一番で先頭でしょう。調子は悪くないようなので頑張ってほしいわ。日本のスペシャルディとサチカゲの写真を撮ったけど、共にいい姿ね。特にスペシャルディの瞳の深さと、サチカゲの全体のバランスは相当ね」

「各国を回っていらっしゃるんでしょう」

「去年と今年はほとんどタイガーマウントと一緒ね」

「お父様がタイガーの調教師でいらっしゃるからかしら」

「そう。九五年にこのレースで優勝したラント以上と評価しているので、楽しみよ。サンクール大賞で最後にエルコンドルパサーに交わされたけど、よく二着に粘ったしね。凱旋門の五着はやむをえないわね。エルコンドルが引退したのは残念だけど、父は、モンシュともう一度勝負したいのよ。でも私は、日本の二頭も相当に強敵と見ているのよ。やはり長距離の輸送は目に見えない疲労も残るしね」「私はモンシュ、タイガー、スペシャル、サチカゲ、甲乙つけ難いと考えているの。写真を撮って絵になるのはタイガーとサチカゲね」「ありがとう。私もサチカゲが好きよ。特に理由はないけど、雰囲気と全体のバランスね」


 ジャパンカップのパドックを大河慶二郎が解説していた。外国勢でモンシュが、四八四・で凱旋門賞の調子をキープしている様子だ。「気合いが乗っていますね。それに目付きがいい」大河独特の表現であった。

ーータイガーマウンテンは普通の馬。ポルジアも馬体に張りがあり調子が良さそう。一方日本勢では、前回比二・減、四六八・のスペシャルディについて、少し減り過ぎ。どうしても、大河の基準では素晴らしいとは見えない。ダービー、菊花賞連覇のサチカゲは四七二・で前回比プラス五・。やや馬体がゆるいとの評価であったーー 大河は今日のパドックからは、十番のステイシルバー、二番ウメノファイブが毛艶や気配から良く見えるとのコメントを残した。


 大河は、このジャパンカップを最後に、翌週、美哺取材の夕刻、荒川土手の寿司屋で倒れ、数日後に急逝した。競馬の神様と称され、独自のスタイルと語り口の評論に人気があった。翌年の正月中山開催で、氏の冥福を祈る記帳に多くのファンが参加した。


 ファンファーレが響いた。ファンの歓声があがる。

モンシュと日本馬の対決で、普段のG・歓声とは異質な、期待と夢に満ちた、怒濤のように尚子には聞こえた。


 ーーさあ、展開ですが大方の予想通りアンプラスモアでしょう。逃げか。それも大逃げか。それともスローに落してレースを引っ張るのでしょうか。モンシュが歓声に驚いてやや立ちかけましたが、キネンが首を叩いてなだめました。さあ、最後にポルジアがゲートに入りましたーー


 第十九回、一九九九年のジャパンカップは府中スタンド前、二千四百■でゲートが開いた。


 ーー今、スタートが切られました。正面の先行争いです。無理には行かないが、アンプラスモアが先頭です。外から七番のインデジュナスが前へ出ます。インから横川のスティング、一番タイガーマウンティン、五番オースミフライトが続きます。ピンクのモンシュは後方からです。第一コーナーから二コーナーを左手へ、スペシャルディも後方です。それを見る形でモンシュが後方二番手を進んでいます。向こう正面に入り、改めて先頭からアンプラスモアが二馬身のリード、続いてスティング、二馬身切れてインデジェナス。

 千■の通過は丁度一分の平均ペース。続いて一番タイガーマウンテン、十番スティシルバー、ハイライト、フルーツラブ、六番ラスカスズカ、九番サチカゲです。

 日本の総大将十三番スペシャルディはその後、さらに後ろをモンシュが行き、最後方は二番ウメノファイブ、八番スエヒロロマンです。

 さあ上って行った。スペシャルディが上がって行く。上がって行く。その後ろからモンシュも上がって行く。欅の向こうで依然六番のアンプラスモアが二馬身のリード。

 後方からジワッとタイガーヒルが差を詰める。内からスティシルバー、フルーツラブも追い上げる。一番外をスペシャルディが上がって行く。さらに外をモンジュとサチカゲが上がって行く。横に広がった。四百■を切った。懸命に十四番モンシュが伸びてくる。伸びてくる。スペシャルディが先頭に立った。スペシャルディだ。内にインデジェナス、ハイライトも伸びてくる。

 外からサチカゲだ。サチカゲ突っ込む。突っ込む。スペシャルディ、サチカゲ。スペシャルディ、サチカゲ。先頭はサチカゲだ!! 先頭は九番サチカゲだ。

日本総大将、スペシャルディ、モンシュを押さえてサチカゲが勝ちました。日本と、世界の強豪を破りました。

大牟田はジャパンカップ初制覇。世界に向けての勝利です。


 勝ちタイムは二分二五秒二が表示された。

第十九回ジャパンカップ単勝人気は以下の通りであった。

十三番スペシャルディ三・O倍、十四番モンシュ三・三倍。九番サチカゲ五・一倍。一番タイガーマウンテン八・三倍。十番スティシルバー十一・一倍。六番ラスカスズカ十二・九倍。

 馬連人気は

  一ー十三  七・二倍    一ー十三   十・五倍

  一ー十一 十一・一倍    九ー十三  十五・二倍     十ー十三 十七・四倍


 東京十レース・単勝 五二O円 複勝 一九O円 一六O円 一五八O円

 枠連 五 ー 七  一八二O円  

 馬連 九 ー 十三 一五二O円


 スネイク達は、サチカゲからスペシャル、モンシュに各百万円を賭け、プラス千三百二十万円を資金に加えた。

 皮肉にも、尚子もその百分の一、一万円で、十五万二千円を勝利していた。


JC後



 ジャパンカップもサチカゲが強烈な末脚で勝利したニュースは、国内のみならず海外の競馬ファンや関係者にも驚きであった。

 エルコンドルパサーの引退後、日本に、世界に通用する四才牡馬が出現したと、香港やロンドン、アメリカの競馬専門誌も評論していた。この年の中央競馬で、四才強豪が参加を予定するG・レースは、十二月二十六日の有馬記念のみであった。サチカゲの参戦が期待されたが、曽我はあえて海外G・への参戦を選択した。

 レース四日目、十二月二日。美哺での角馬場、引き運動後、村田調教師と馬主曽我が、一部の記者に表明した内容は驚きを持って津波のように報道された

「サチカゲを十二月十二日の香港カップに、招待が有れば参戦させます。中間が十四日と短く、海外参戦の困難さも有りますが、この数日の回復と、好調子キープから村田先生と決めました」調教取材中の記者に向かって言明した。

「曽我さん、いくら好調子でも、中間二週で初の海外参戦は無謀過ぎませんか」東亜スポーツの佐藤、毎日スポーツの水戸が質問した。「勿論、好調子というだけで、香港参戦という訳ではありません。サチカゲの心肺能力と環境への適応力が強いと判断したからです」「今の所、水沢のメイジョウオペラが調子を崩し、マイルチャンピオンシップ圧勝のエムジハードが、日本からの招待馬という事になっています。香港カップはフルゲート十四頭、海外枠が十頭と聞いています。予備登録はして有りますが競馬会に調整してもらい、二頭可能ならばという条件付きなんですよ」曽我は控え目に答えた。

 しかし、曽我は裏で動いていた。十一月二十八日ジャパンカップ制覇の夜、日本中央競馬会理事長・内田の自宅を訪問し、香港カップ参戦の意向と調整を懇願していた。内田はローテーションのきつさに、始めは難色を示していたが、エムジハードと共に、サチカゲも国際的に通用しそうだと判断していたので最後は協力を約束した。「四才と五才の日本競争馬の水準を示すいい機会かもしれない。曽我さん、サチカゲは二週間で香港競馬出張には耐えられますかね」「レース後の様子も安定しています。心肺能力と環境適応力は非常に強い馬ですよ」

「たしかに、あの九月のセントライト記念の暴走からよく立ち直りましたね。短期間に」


 月曜日、内田は国際課に指示し香港ジョッキークラブとの調整を行わせた。

 国際課長谷口は、香港ジョッキークラブに強い人脈を確保していなかった。南関東公職員の宮内健に調整役を依頼した。 宮内は、公営でのダート強豪馬、水沢のメイジョウオペラをここ二年連続で、香港G・に参戦させ、二連覇達成していた。ジョッキークラブと強いコネクションがあると認められていた。

宮内は谷口の要請で直ちにジョッキークラブとの交渉を開始した。火曜日午後、宮内は香港ジョッキークラブ、何理事に電話した。

 彼は国際関係担当の理事であった。宮内は日本のAクラス繁殖牝馬を彼の要請で調査し、三頭程、香港輸出の橋渡した事もあって、良好で率直な友人関係を保有していた。

事情を一通り聞いた何の明るい声が返った。

「わかりました、宮内さん。理事長や推薦委員会に話してみましょう。エムジハードは決定していますが、サチカゲも要請してみます。ジャパンカップの強さはこちらでも皆よく知っていますから。アメリカの二頭がどうなるか微妙ですし、多分大丈夫でしょう。メドがつき次第連絡しますよ」

宮内の報告を聞いて農林省出向の谷口は安心した。何とか役割は果たせたと思った。


 宮内は、サチカゲのここ二戦の見違える強さに疑惑を忘れかけていたが、何か頭に残るシコリがあった。仲介した事で、自分もジョッキークラブへの当事者になったな、という思いにかすかに引っ掛かる不安があった。


 ジャパンカップ終了後の後検量でサチカゲの馬体重は十・減って四六十・であった。

翌十一月二十九日午後府中の馬房から、小出も馬運車に同乗して美哺へ戻った。三十日と十二月一日の火曜、水曜日は完全な休養にあてた。

 激しいレース後でありながら、飼葉食いも落ちず、四六五・、四六九・と好馬体をキープしていた。

「いや、全くタフな奴ですね。サチカゲは」

小出の経験からも、こんな回復力のサラブレッドは見た事がなかった。馬房で、悠然と遠くを見据える様なサチカゲには四才馬以上の風格があった。

一日の夕方、馬主の曽我がやって来た。

サチカゲの好馬体を見ると安心した様だった。村田が言う。

「曽我さん、やりましょう。競馬会の方はどうですか。」

「理事長や国際課が努力してくれているよ。こんなに凄い馬とは思わなかった」

サチカゲの首を軽く叩いて馬に話しかけていた。

「明日、角馬場と引き運動開始しますよ。今回四六九・に戻って、何の不安もありません」

「夢と思っていたが、ジャパンカップを四才で勝てるなんて、強い奴なんだ。香港に出してみよう。皆さんが頑張って勧めてくれるんだから」心から幸せな馬主の声であった。

「十二月六日の成田検疫で、輸送の準備も始めています」

村田は曽我を励ました。

 二日の引き運動の後、香港参戦の意志が表明された。

石井牧場から康太郎も来ていた。

「村田さん、例の件もありますし、菊、JCと勝って来ましたが、何が起こるか判らない。あれで終わりと思いますけど、私も同行させて下さい」

「牧場の仕事も大変な時なのに、すまないな」

「いや、生産者ですから。誇りもありますし、世界に通用するか、この眼で見たいんですよ」

「新聞関係はローテーションで大騒ぎになりそうだな。冷静に対応しょう」年期の入ったチェックのハンチング姿の村田は、石井から見ても頼もしく写った。


          HKー工作



 十二月三日金曜日。インデジェナスは意気揚々と、香港に帰国した。早くも、Y・Hハン氏と、Dハン調教師は、十二月十日香港カップ参戦を、空港で誇らしく表明した。ジャパンカップで、アジア代表としてサチカゲ、スペシャルディ、モンシューに善戦した事が、調教師を強気にしていた。

 スペシャルディは有馬記念を目指し、海外参戦は二千年以降の、スケジュール表明であった。日本からはサチカゲと、安田記念マイルCSを順調に勝ったエムジハードが、蛯川で出走表明していた。

 十二月四日土曜日、曽我の懇請が効を奏して、香港ジョッキークラブからサチカゲも含め、二頭の招待がJRAに伝えられた。

アメリカからのヴァルズプリンス、マッジュワンが、それぞれ調子落ちで参加を見合わせた。国際競争としての格落ちを懸念した、香港側の事情が相乗していた。

十日の芝千六百■香港国際マイルには、栗東牡六才、マチカネワラウミチが、十一月末に登録。美哺牝六才のファーストフレンドも登録を行った。

 

 十二月三日、サチカゲ美哺にて休養。馬体重四七O・。

四日美哺にてダート千六百の調教。黒栗毛の馬体がラスト二ハロンでは、低く沈むように駆け抜けた。騎乗停止明けの大牟田が追い切った。その後の乗り運動は、康雄にやらせた。万一に備え、康雄にもサチカゲに慣れさせたいのが村田の意図であった。

 すばらしい調教の後もサチカゲは平然としていた。馬体重はこの日の夕刻、四六八・であった。


 四日、伊勢三郎は午前一番の飛行機で、帯広ー羽田経由成田で、富士子と合流した。

成田全日空ホテルで一服すると、二人は午後二時発で、香港に向かった。高垣が二人を待っている筈だ。

「サチカゲの出走は決まったのかしら」

「JRAから二頭招待が発表されたそうだ。夕刊には出るだろう。表から連絡があったよ。九分九哩大丈夫と踏んでいたからね」

「じゃ、あとは香港での準備ね」

「そう。高垣と相談しよう」

「表さんはいつロンドンへ行くの?」

「二、三日後だろう。サチカゲの成田検疫を確認してからと言っていた。ところで資金は?」

「US$で外貨送金を目一杯してきたわ。それとキャッシュ。それぞれ二千万円相当。外貨送金は高垣さんの指定してきた法人口座へ振り込んだわよ」

「香港で四千万円か。そんなもんでいいのかな」

「高垣さんのアドバイスで、一、二、三着を重点にするらしいわ」「三重勝(トリオ)は難しい。組み合わせ数も多くなるから、せっかくの仕掛けが抜け目に来る可能性もある。リスクは大きいな」

「それは相当研究したようよ。軸二頭から四ー五頭に流す作戦らしいけど」

「二頭の軸選定がポイントだな」

「それで、伊勢さんに早めに行って欲しいと言ってたわ。あなたなら勝負の流れが読めると信頼しているのよ」

伊勢は煙草の煙を細く吐くと、わずかに口元をゆるめた。

 

 十二月六日、朝。サチカゲの馬体重は四六五・。

成田での検疫を済ませると、大型航空貨物機で香港に向かった。

サチカゲは初の海外輸送でも落ち着いていた。勝負に向かうのがわかるのか、涼しげで、賢そうな眼が、ゆっくり辺りを見渡しながら飛行機に乗った。村田調教師と、大牟田騎手もこの日、ほぼサチカゲと同時刻、香港ランタオ島の新国際空港へ飛んだ。


 十二月六日夕刻、宮内健、写真家細田尚子は成田で待ち合わせると、同じく香港へ向かった。

キャセイのビジネスクラスは、満席だった。離陸して二人は、ワインを注文した。

「健さんと又一緒で嬉しいわ」尚子は率直に言った。

「仕事で逢えるのは楽しいね。サチカゲの参戦を香港ジョッキークラブに橋渡ししただけなんだけど」

「水沢のメイジョウオペラも香港カップへ登録していたでしょう」「あの馬は、ダートでは強い。しかし芝の二千で国際レースではどうかな。サチカゲとエムジハードの中央二頭で十分だろう。いろいろ努力してみたけど最後は馬主も二十九日大井の東京大賞典を使うことにしたからね」

「JRAから、二頭の写真を依頼されたのよ。日本の二頭は今回は、相当やれそうね」

フランス製の赤ワインを健に勧めた。

「例の事件の後、サチカゲは連勝したけど、又何か有りそうな気がするんだ」

「何か理由があるの」尚子は聞く。

「いや、今のところ直感なんだ。場外中心に素早く換金した手口を見ても、相当に組織化されたグループという気がしてね」

「でも、海外までは大変でしょう」

「それが盲点かも知れない……」

尚子は健の懸念を聞いて不安になった。

静かなジェット機のエンジン音が不気味な序曲に感じられた。


 六日午後九時。スネイクは単身で成田からロンドンへ向かった。水平飛行に入った。英国航空の、大柄な男性並みのスチュワーデスにマティーニとビールを注文した。

 ーー今回が本当の勝負だーー

日本でのトライアルはうまくいったが、JRAの警戒もその後すごかった。

サチカゲの海外参戦は最後まで読み切れず、今年はだめで別の機会か、新しい計画に取り組まざるを得ないかとも考えた事もあった。今年チャンスがなければ、メンバーは解散。一、二年様子を見る腹づもりもしていた。

冷静に行動しよう。スネイクは改めて自分に言い聞かせていた。

映画が機内で始まった。毛布をもらって、スネイクは寝入った。

翌朝早く、ヒースロー空港に着いた。出迎えはいない。

すべて一人で行動だ。英語には余り自信がなかったが、タクシーでチャーチルホテルに向かった。レセプションでチェックインする。宿泊予約をしておいた部屋に入ると、まず行動計画表を出して明日からの行動を考えた。


 ずっと昔、北海道の牧場にいた頃、数人でニューマーケットの調教法を一週間、勉強に来たことがあった。あの頃は若かった。

馬に真面目に接し、育成する意欲があった。しかし自分自身が少しも変わらない毎日に嫌気がさした。金の誘惑にも負けた。

 初日は、都心のマーブルアーチと西のケンジントン地区にめぼしをつけておいたブックメーカーに行って様子を調べることにした。両方の賭屋共に、表通りに面し一応の構えの店であった。中に入った。英語で競馬中継が流れていた。午後一時を過ぎていたので、中年の男性客があちこちにたむろしている。日本の公営競馬場の雰囲気に似ていた。

「キャンナイ、ベット、ホンコンカップ?」

「イエス、オブコース」細身で長身の男が答えた。

「ウッジュー、ティーチミー、ザ、オッズ」

男は、プリントした紙を一枚くれた。

 

 四日午後二時半、高垣は空港で伊勢と富士子を迎えた。計画を考えて気持ちが高揚していた。

香港で塾教師と馬券買いで何んとなく暮らしている自分にとって、久し振りの胸の高鳴りを楽しみながら、タクシーでランタオ島へ向かった。

二人とは初対面だが、見ればすぐ分かるだろう。

富士子とはEメールで会話していた。彼女はスネイク、伊勢との有能な仲介役を果たしていた。

ゲートから出てくるドレープのきいたブラウスに絹のゆったりとしたパンツ姿の女性が富士子だと高垣は直感した。

後から来る地味なブレザー、黒皮のサイドバッグ一つの男が伊勢だ。不正は不正の臭いでわかるものだ。

二人に高垣は近寄り、軽く手を挙げた。

「高垣さんでしょ。始めまして、宜しくね」

 ……思ったより若くて良い男だわ……

「伊勢さんですね。高垣です。宜しく。お二人の事はメールで富士子さんとやり取りしていました」

……獣医と聞いていたが、若い割りに眼が座っている。勝負師の眼だ……

伊勢は少し笑って、富士子の後ろに静かに立っていた。

「準備は順調ですよ。明日サチカゲが香港入りします。今日のこちらの夕刊でも発表されていますよ。楽しみですね」

「高垣さん。海外の計画は難しそうだと、伊勢さんとも話していたのよ。サチカゲ工作を成功させても、何が勝てそうなのか、それが難しい」

「つまり、軸が何かと言う事ですね」

「そう、それで、香港の競馬事情と海外の重賞に見識がある、君の意見が重要なんだ」伊勢が初めて口を開いた。

「見識なんておこがましいですね。今回参戦馬の詳細な記録は取りましたよ。沙田の、この時期特有の馬場や時計も考慮しないといけませんね」

「それで、君の今のところの有力軸は?」

「サチカゲ外しなら、総合力でエムジハードよりUAEのカブルー、ニュージーランドのサンライズ、次がエムジハードでしょう。エムとサチカゲが一、二番人気をあまり離れずにダントツでしょうね」「あなたのデータと、香港情報。それに各馬の調子判断というところに、伊勢さんの役割があるのかしら」富士子がつぶやく。

「いや、奴の冷静な考えさ。レース分析だけでなく、賭方についても研究している。今回の海外投資はロンドンと香港で分散と決めたのも表だしな……」

 

 八日、香港到着後のサチカゲは直ちに検疫を済ませると、空港から沙田の国際招待馬房に入厩した。各国から、強豪が参集していた。成田検疫時が四六五・。七日の引き運動前が、四六二・と馬体重は安定していた。

沙田のダートコースはやや固い感じであった。入念な引き運動のあと、大牟田はダートコースで軽いキャンターで走らせた。スタンドは巨大で広い。東洋一の広く長いコースでいよいよ土曜日、国際G・の香港カップが開催だ。午後大牟田は芝コースを歩いてみた。やや深い洋芝だ。日本の芝より馬力がいりそうだ。





香港カップ公開調教



 八日公開調教の朝、サチカゲは四六0・。依然好調をキープしていた。環境の変化に動じる様子もなく、飼葉の量も落ちない。村田は念の為に、大量の飼葉を航空便で運んでいた。


 ジャパンカップをまさかの結果で日本のサチカゲが制した事は、世界中の競馬サークルの話題となっていた。日本では十二月初旬、直ちにサチカゲを香港に向かわせた事に対し、曽我や村田厩舎への批判は多かった。中二週での海外参戦はいかにも無理と言う声が圧倒的だった。

 しかし海外の評価は少し違っていた。欧州や米国の専門家は、一応の評価をしていた。サラブレッドの個体差に関する研究や経験は格段の差があった。英国のブックメーカーが、日本のJRA獣医に接触しているという噂が流れた。彼等はサチカゲの心肺能力や固体としてのデーターも集め分析したらしい。


 健は十月末にも、メイジョウオペラの交渉で、事前に香港に来ていた。馬主立花隆は、この中距離のダートの鬼を、十一月上旬の米国のブリーダーズカップ・クラッシック二千■に使いたがっていた。JRAやNRAからの働きかけでもアメリカからの招待状は届かなかった。来年三月のドバイワールドカップ、UAEでのG・ダート二千■でも同じ事態が予想された。健は馬主と香港ジョッキークラブへ働きかけた。ここで一応の成果が挙がれば、ドバイ参加も夢ではない。芝二千■へのチャレンジと馬令が問題との見方が強かった。数回の申し出に対して、香港ジョッキークラブから、十八番目での推薦招待状が届いていた。ここ数年繁殖牝馬の輸出で仲介した岑氏が尽力してくれていた。Mrサムはカナディアンサークルという七戦五勝の五才馬で香港Cに登録を終わっていた。


 岑氏は電子部品販売を親から譲り継いでいる青年実業家だ。韓国メーカーの半導体メモリーを香港、中国市場へ手広く商っていた。父の代からの馬主でもあり、資金に余裕が出来てから、カナダ留学生仲間と、カナディアンサークルを保有していた。来日時にはいつも健がNRAを代表する形で、氏のお世話をしていた。

 ……サチカゲは、無理な挑戦とも見られている……

健は香港カップ最終調教を、岑氏と馬主席から不安の眼で見つめていた。

「健さん。強い馬は苛酷な条件でもやりますよ。欧米の馬がそうだし、日本もレベルが挙がっている」岑は健の不安を察していた。

「それに、昨日パーティで会った大牟田騎手は自信を持っている。彼等の騎乗技術は国際レベルですよ」

「お宅のカナディアンに乗る李も良い騎手ですね。若い頃の岩崎隆之にそっくりだ」


 サチカゲとオリエントエックスプレスが併走でキャンターを始めた。直線千■を使っている。二頭が加速するのが見える。百■程先ではカナディアンサークルが、大外枠でキャンターに入っていた。カナディアンは加速して、内側を後ろから迫る二頭に外から合わせる形となった。中のサチカゲは左から合わせるカナディアンと李の黄色いジャケットが眼に入った。

 サチカゲは一瞬加速をゆるめてたじろいた。大牟田は、ヒザを絞って制御した。オリエントのマーカスも少しタズナを絞った。そのほんの直後に、カナディアンが最内側へ一気に斜行して来た。わずかに衝突は免れた。李が手を挙げて「ソーリー」と言う側を、オリエントとサチカゲは暴走気味に突っ走った。

 大牟田が必死に制御していた。オリエントはスローダウンして、第一コーナーをゆるやかに回ったが、サチカゲは二コーナーをさらに突っ走り、向こう正面を狂うように走った。ようやく三コーナーで落ち着いた。四コーナーで大牟田が、サチカゲの首を叩いて静めていた。

 明らかに走り過ぎだ。健と岑は青くなった。

下の席で、カナディアンの舒調教師もあわてていた。

その傍に、目尻の鋭い日本人がいて、じっと様子を眺めている。健は何処かで会っていると思った。記憶をたどった。

ーーどこだ?……北海道だ。たしか新冠の池貝牧場で見た。

しかし何で彼がここにいるんだ。セントライトの時の男だ!ーー

不安が広がった。岑氏と舒は、二人で馬主席にやって来て、曽我と村田に詫びた。曽我は憮然としていた。二人の謝罪に対し

「事故にはならなかったのが幸いでしょう」と言わざるを得なかった。

健はサチカゲの暴走が気になった。向正面の走りは尋常とは思えない。もう少し制御出来た筈だがと考えていた。

セントライト記念での暴走を思い出していた.






        健とスネイク



 健は今日のカゼハヤの暴走が偶然とは思えなかった。明らかに意図を持った仕組まれた調教と疑っていたのだ。

李も舒厩舎の主戦ジョッキーだ。カナディアンサークルも今週日曜日香港カップの穴馬としての評価を受けていた。うっかり気を抜いたとは考えられない。岑さんへの疑惑・・あの狼狽した姿と血の気も失せて曽我へ詫びに来た様子からも、突発的とは思えなかったのだ。


 九時を回った所で調教が一段落した。健は李に会って話してみる事にした。ジョッキールームで各国の騎手が着替えを終えているところだ。その部屋の中央に李は着替え中であった。

「李さんこんにちは。今日は大変だったね。カナディアンサークル苛立ったのかな」

香港人特有の巻き舌の英語で李は早口にまくし立てた。

「今までこんな事は無かったんだ。いつもと違う調教の雰囲気に飲まれたとしか思えない。制御が利かないんだ。どうしようも無かった。サチカゲには申し訳ない事をした」と下を向く。

「それにしても君程のジョッキーが前を横切るなんて」

「俺も精一杯だった。本当にどうしようもなかったんだ」顔を上げて李は困惑の表情だ。

その時ムンロが李に声を掛けてきた。

「どうしたんだ。おかしい走り方をして」

李はこれ以上責められる事に耐えられそうもなかった。健は、李が何かを隠しているとの心証を持った。

 ーーあの男だ。蛇の眼の様な男。

     あの男がが何かをたくらんでいるーー

 「君の所の舒調教師を日本人で細い目の男が尋ねたと聞いているんだが」

健はカマを掛けてみた。

李が紅潮し一瞬眼に狼狽が走った。それで十分だった。

 ーーこれは何か起こるなーー

健は今どう動けばいいかわからなかった。

 スネイクも多摩川健を知っていた。ここ数年健は香港カップに地方競馬のダート重賞馬で参戦しょうとしていた。たしか彼は南関東公営の職員の筈だ。今回メイジョウオペラは水沢所属だから、その場合はNRA(全国公営競馬)の代表として来香している。しかもメイジョウは最終的に回避した。何で奴がいるんだ。

 ーー奴は感づいたのだろうか。

     単なる事故に見えた筈だがーー

 スネイクは確認する必要を感じていたが、今はまずい。李を別に呼び出して探るしかない。そう決めた。香港の地でまずい人間に出くわしたなと警戒を強め始めた。


 香港カップの外国招待関係者は尖沙咀のペニンシュラホテルに宿泊していた。イギリス統治時代象徴のこのホテルは、独特のエントランスとロビーは昔のままだが、本館の後ろには新館が大きく空に向って近代的な高層ビルでそびえていた。


 健は午後公開調教から帰るとシャワーを浴び、北京道から右手に入り腹ごしらえにソバでも食べようと日本食屋に向った。大阪屋に入って一階のテーブルに座るとちょうど斜め向かいにスネイクがいた。食事が済んで席を立ち掛けていた。日本人はよくここで出くわす。 

「たしか表さんでしたよね。北海道の池貝牧場でお会いしましたね」ズバリ健は言った。

 スネイクはとぼけた。彼が南関東公営職員の多摩川健である事は知っていた。

「いや、どなたでしたかね。」

細い眼が不気味に光った。

「三年前に池貝牧場でお会いしましたよ。馬の関係でいらしたんですか?」

 ーーやむなし。あまりとぼけると、

        帰って怪しまれそうだーー

「半年前に池貝牧場は止めましてね。今はギャンブラーてとこですか。香港の競馬は結構儲かりますよ。それでは」

そう言うと健を避けるように早足に店を出た。

 ーーあいつ、なんで声を掛けて来たんだ。しかも三年も前に一度会っただけで俺の名前を覚えていた。油断出来ないぞ。李と会うのを別の場所にして良かったーー

 スネイクはシェラトンホテルへ急いだ。

二三階のバー&レストランで李が待っている筈だ。早いとこ済ませた方が良さそうだ。李に会うと案の定だった。

健はカナディアンサークルのサチカゲへの併走とその後のサチカゲの暴走に疑問を持っている。なかなか鋭い男とみていた。

 ーーまずいな。証拠は李が喋らない限り、無い筈だが。ーー

スネイクは用意してきた封筒を開けて黄色の千香港ドル紙幣五十枚を李に見せた。

 「ここに五十枚ある。君が喋らない限り、今日の事は突発事故で済むんだ。いいか。事故として全て忘れるんだ。弱気になるな。

調教コメントを取りに競馬記者が来ても突発的だったでどこまでも押し通せ」

五万香港$(日本円約75万円)は李にとって魅力だった。

「解った。そうしよう」とがった唇だ。

「所でカナディアンの調子はどうだ。」

「かってなくいいんですよ。多分、国際レースでも五ー七番人気にはなるでしょう。今日の事でサチカゲの単勝は少し下がるだろうが、一番人気は外れそうもない」

 ーーこいつも俺の意図が解っているなーー

スネイクは次の仕掛けをする気になった。

「君が頑張って三着迄に入ってくれたらこの十倍出そう。駄目ならチャラだ」とスネイク。

「三着狙い?それでダメならなしという事か」この小男はしばらく考えていた。

「そうだ。念の為この件をバラしたら俺もヤバイが、君の事もジョッキークラブにタレコムからな。上手く行った時だけだ。悪く無い筈だぞ」

 李は即座に理解した。OKだ。うなずく李。

これで又一つ仕掛けが出来た。

 スネイクは李を残して早足に尖沙咀のMTR(地下鉄)駅に消えた。この辺りに長居するのはまずそうだから。


二月十日。サチカゲは単走で沙田の芝コースを走った。香港と日本双方の競馬記者が注目していた。

 八日の暴走の影響と出走の可否を見定めるのが彼等の仕事であった。


 暴走の翌日は休ませた。曽我と村田調教師、石井は、国際出張馬房でサチカゲの普段と変わらない様子をテェックした後ホテルで相談した。

「そうとう慣らした筈でしたがやはりセントライトの時と同じで、黄色への恐怖が出ましたね」

石井康雄は残念そうだった。

「カナディアンが前をカットするだけなら、あんな事はなかったかも知れないな」と村田。

「李騎手の黄色いジャケットに反応したんだ」曽我も残念そうだ。

「どうしましょう。曽我さん」村田も自信をなくしていた。

「香港での偶然だろう」曽我は言った。

曽我は言葉に出さないが、エムジハードが取り消しサチカゲ出走の懇請で責任を感じていた。

「偶然と思いますが何かが重なると、サチカゲも耐えられないということですよ」

石井も苦しい胸の内を明かした。

後から大牟田も入って来た。

「先生やりましょう。私も必死でやりますよ」

四人はしばらく、言葉を交わせずにいた。

村田は曽我の気持ちがわかった。日本でのレースなら回避していただろう。

「大牟田君。もう一度今日乗ってみて下さい。走りに不自然なところがなければ出ざるを得ないでしょう」曽我は決断した。

 単走のサチカゲは十分な気合いと、低い重心で重戦事の走りを示した。馬主席で三人はそのうなるような走りと調子良さを十分に見た。同時に各国のジャーナリストも、それを見てコメントを世界に発信していた。サチカゲ、十日馬体重四六七・

   ……サチカゲ立ち直り、出走決定……

 十二月十一日。最終の枠順が発表された。エムジハードは故障による不参加。馬番と枠順は以下の通りであった。香港では枠番と馬番が連動していない。十二頭の出走であった。

香港での単勝人気はエムジハードの取消の後、押し上げられて日本代表のサチカゲが五倍で一番人気。続いてフランスのジムトニック八・三倍、UAEのカブルー九・六倍。続いて、四番手がイギリスのランニングスタッフ十六・一倍、ジャパンカップ三着に健闘した香港インデジェナス十八・二倍、ニュージランドのサンライズが二一・三倍、イギリスのリスペア二九・二倍、香港カナディアンサークル三六・三倍と続いていた。

 四才サチカゲがジャパンカップでスペシャルディ、フランスのモンシュ以下を強烈な未脚で制した事が大きく評価されていた。公開調教の暴走は香港では影響なしとみなされていた。


 十一日土曜日の朝。スネイクと香港の三人は長距離電話での作戦会議を開始していた。

「こちらの単勝順位はそういう事だが、イギリスではどうなっている」伊勢が聞いた。

「サチカゲの一番人気は変わらない。しかし以下は七番人気ぐらいまで、十倍以内で競っているよ。サチカゲの単勝とジムトニックとカブルーは同じ順位だがその次にイギリスの二頭が続いている。ランニングスタッフの次がリスペアだ。やっぱりイギリスだな」

スネイクは高垣に答えた。

「香港でも前売りの順位はさっきの通りなんだが厩舎関係者からはイギリスの二頭、特にランニングスタッフは勝負がかりで来ているという情報が入っていますよ」

「それは、どこの情報だ」

「滞同しているセラーヌ騎手に舒調教師が聞いたようです。四才のサチカゲに負ける訳にはいかないと言っているようで……」

「エムジハードが抜けたせいだな」

「それもあるでしょうが、今回は馬も絶好調でジムトニックとサチカゲの勝負に割って入ると明言しているそうです。強気ですよ」

「高垣の情報を伊勢はどう思う」

スネイクは流れを伊勢が読めると見込んでいた。

しばらく間があった。富士子は静観だ。

「サチカゲはないとして、来たらしょうがない……。やはり格から頭はジムトニックかカブルーでしょう。戦績だけだとイギリス二頭も次いでいる。調子はよさそうだが頭は格で・・・どうかな。イギリス二頭にまで軸を広げると資金も大変だろう」高垣の分析だ。

スネイクもしばらく考えた。

「俺はランニングスタッフの軸も考えていたんだが」スネイクはまだ迷いがあった。

「じゃ、三頭にすれば。そのくらいの資金はあるわよ」

富士子はすかさずうながした。

「どうだろう。俺がイギリスでランニングスタッフの軸も押さえておこう。日本 香港は独自のオッズ出汁 イギリスはかけやできまるから。」

「表さん、いいでしょう。そうしましょう」

「じゃ全員いいな。恨みっこなし、文句無しだぞ。高垣、富士子さんいいのか」二人は同時に答えた。

「いいわよ、任せたわ。冒険だもの」

「じゃ香港では、ジムトニックとカブルーから、五~八番人気を本線にして、目一杯買ってくれ。俺はこっちの賭け屋でランニングスタッフも軸にしてイギリスオッズで買っておくからな」と健の明快な声が返ってきた。

「二頭をバンカーで、二~三着に五頭のボックスね」

「香港は二十四通りが二組と言う事さ」

 高垣が即座に答えた。



 十二月十二日の朝が明けた。

十一日の引き運動後サチカゲは四六七キロであった。八日の暴走後石井や小出は一日休ませたが安定していた。十日の最後調教で出走可能と判断せざるをえなかった。

エムジハードの不参加はあったがこの年最後の世界重賞シリーズが香港で始まった。


香港では四才馬ながらジャパンカップが評価され、サチカゲがフランスのジムトニックを押さえ一番人気であった。UAEの五才、ゴドルフアンファミリーのカブルーまでが単勝で十倍を切っていたが、香港でもサチカゲ支持は大きかった。

芝二千メートル、国際G1・がスタートした。

正面スタンドから大歓声が上がる。日本と同様だ。 

 高垣はこの日の為に香港の競馬仲間を厳選し、三人を右回りの四コーナー角に待機させていた。

日本のセントライト記念で使った黄色旗を参考に取り寄せて準備させた。ポールは軽いチタンで試作を繰り返し、旗の大きさを横一メートル、縦O・八メートルにしていた。布地は珠海の衣料メーカーに数回に渡って試作させ、最終的には光沢のある鮮やかな合成繊維を使った。

 三人には各々十万HK$でオリエンテーションと訓練を数回行い責任は各自にある旨の契約書にサインをさせていた。

 レースは第一コーナーで、ジャパンカップ三着のインデジェナスが先行し、ペースは早かった。香港勢のオリエント、十番スコアラーが先行した。

 中団の内側に一番人気のサチカゲが位置し、フランス、モッカの乗るジムトニック、ニュージランドのサンライズ、香港カナディアンサークルが第二集団を形成した。

 第三集団はそこから約三馬身離れて九番ランニングスタッフ、十三番ダブルスーパー。千メートルの追加ラップは五八秒六と超ハイペースであった。

   ーー先行勢はつぶれるなーー

大牟田はペースを判断した。

 先行したインディジェナスは三コーナーで外から追い上げられ後退していった。スコアラーがハナを奪った。四コーナー前で四番手のジムトニックがサチカゲを交わしにかかった。サンライズと李のカナディアンサークルも追い上げてサチカゲの両側に迫った。大牟田はもう少し我慢させようと思った。カナディアンサークルが外からサチカゲを一馬身リードしたところで、左側の大外が空白になった。

     ーーさあ、行けーー

大牟田はヒザを絞った。

サチカゲのエンジンギアが切り替わった。重心をさらに低くして追い上げる。四コーナーに今まさに差し掛かった。

     何と!!

 まさにその時大外のスタンドに三本の巨大な黄旗がせり上がり波のように降られていた。

 大牟田はサチカゲのひるみを感じた。それでも懸命に大外から足を繰り出した。約十メートル外側へ斜行し、埒沿スレスレにサチカゲは走る。大牟田は声を出して励ました。

「サチカゲ。頑張れ! 怖くないぞ」

必死に首を押した。右タズナを引いて馬場の中央を確保しようとした。

 右前三馬身にジムトニックその外に九番ランニングスタッフ。さらに外から六番クイーン騎乗のリスペアと李のカナディアンサークルが死力を尽くした追い上げを見せている。

 ーー何とかしたい。サチカゲの名誉の為にもーー

大牟田は祈る思いで首を押し続けた。

サチカゲがもう一度差を詰めた。後三十メートルだ!!

   ーー差せるかーー

   しかし届かなかった。

1/2馬身、カナディアンから遅れていた。

ジムトニック、ランニング、リスペアが首、頭差。続いて首でカナディアン。大牟田には、ゴールの体勢が読めていた。五着だ!

   サチカゲは頑張った。

忘れていた黄旗が・・・この異国の地香港で振られようとは・・・



 健は不安が的中した事を後悔した。貴賓室から第四コーナーを凝視し続けていた。日本人ではないようだ。セントライト記念と同様に計ったタイミングで三本の黄旗が振られた

 サチカゲは一瞬ひるんだように見えたが、外埒すれすれを大牟田が立て直して追った。あまりに大外ですでに遅かった。各馬のゴールを待たずに三人の男達は旗をおろし、素早くたたみながらファンの群れに消えて行った。


ーー奴だ。セントライトの後ほとぼりをさまし、忘れかけた頃。奴は香港で仕掛けた。不覚だったーー

 青ざめた顔で、尚子がカメラを首から下げて上がって来た。曽我も村田調教師も呆然としていた。石井の目は悔しさで充血していた。 健はしばらく声をかけずにおこうと思った。

「宮内さん、どうして・・・・」

、健を責めても仕方がない事は判っていたが、哀しい声だ。

 ジョッキークラブの職員たちが慌ただしく警備室へ走った。しかし、奴のやり口ではもう間に合わないだろう。健は警備部にセントライト事件の概要レポートを渡し、主任の何健周にも詳細は話してあった。

 四コーナーの警備は強化していたはずだ。

「サチカゲは頑張ったのよ。でも私、四コーナーの男達へシャッターを切るので精一杯だった」

 力が抜けた尚子の眼も潤んでいた。

「三人が入っているのか」

「ええ。必死でズーム拡大したわ。若い三人よ。でも日本人じゃないと思うわ」

「奴だ。タイミングもぴったりだし、相当訓練されたやり方だ。ダービー、菊花賞で無事だったから、ほぼ大丈夫と思っていたんだが、不覚だった。すまない」

「サチカゲや大牟田さん、スタッフが可愛そうね。こんなことがずっとあるのかしら」

「いや、そうはさせない」

 健は戦いを決意した。巧妙なグループとの戦いだ。



 力が抜けて放心していた曽我はビジネスマンらしく気を取り直し、村田や石井を慰めた。

「サチカゲも全力を尽くしたんだから仕方がないでしょう」

「しかしあの四コーナーで・・黄旗がなければ、大外にふくれる事はなかった。勝っていましたよ」

「いい競争をしたけど勝負運がなかったという事でしょう」

石井は依然として納得出来ないでいた。

あれだけ恐怖に耐える訓練をしてきたのに、との思いだどうしても消えないのだ。

   しかし-ーーーーーーー

“香港で気を許したのは確かだ”

 と、反省せざるをえなかった。

「残念でしたが、サチカゲは頑張りましたよ」

 宮内は三人を励まして言った。

「セントライトのグループか、事件をまねた別のグループなんだろうか。サチカゲをターゲットにする奴等は」

 村田が不安気につぶやいた。

「セントライトの時のグループですよ。現地人を使い、相当綿密な計画で訓練していますね」

その時ジョッキークラブの職員・楼一良が健を呼びに来た。

「大口の払い戻しが出ました。それもティアースで七二ミリオンHK$の的中です」

    ーー日本円でおよそ十億円かーー

 

 ジョッキークラブ蘇小平カスタマーディレクターの部屋には、見知らぬ日本人がいた。

 蘇と何警備本部長は慇懃に応対していたが、男は平然としていた。

 「おめでとう。ティアースは千三十九倍でした。ジムトニック四番ーバンカーで、四番人気から八番人気とは思い切った買い方ですね。この一点だけですか?」

「いや、アラブの富豪から請け負っていますから、もう一点、UAEの五番からも買っていますよ」平然と言う長身角刈りの男。

「ユニット単位が七万HK$で二十四通りですから百六十八万HK$が二枚と言うことですか?」

「アラブの連中が百万HK$単位で買うのはそう珍しい事じゃない」

やりとりを黙って聞いていた健は日本語で言った。

「それにしてもサチカゲを外すというのは、相当な根拠があるんでしょうか」

「あなたは?」

 高垣は平静な口調で健に向いた。

「失礼しました。日本の公営競馬組合の宮内です。今回は公営馬不参加でしたが、ジョッキークラブから招待を受けてきております」 ーーこいつが表から聞いていた例の宮内か。まあ、疑惑は当然持つだろうなーー

「四コーナーで黄色の大旗が振られましてね」

「へえ、そうでしたか。ジムトニックとカブルーをずっと追っていましたから・・・。サチカゲが来たらパーになっていた所だ」ととぼける。

「アラブの富豪とおっしゃいましたが、お名前を教えて頂けませんか?」何が食い下がった。

「クライアントの情報は勘弁して下さい」

ビジネスの応答で高垣はつっぱねた。

「組合せはあなたの推奨ですか」

「いや、クライアントです。カブルーとジムトニック、サチカゲも軸に考えていたようですが、最終的にサチカゲは中二週でローテーションがきついとみたようです。私はサチカゲを随分と薦めたんですがね。クライアントには逆らえませんから」と、冷静だ。

 ーーこの男、なかなかの食わせ者だ。計画的で訓練されている。これ以上はさぐれないだろうーー

健はあきらめかけた。何は再度も粘った。

「それでは、せめてあなたのお名前を教えて頂けませんか」

「どうしてですか。世界中どこでも競馬は匿名でしょう。国によっては投資益に課税されますから納税でわかるでしょう」

「そこを何とか、お名前だけでも」

「旅行者の高垣といいます。もういいでしょう」

 高垣は大袈裟に不満の表情を浮かべて見せた。

それ以上進展の無いまま、蘇は七千二百七十三万HK$の小切手にサインして渡さざるを得なかった。

 健は悔しさを胸にしまいこんだ。

男は切手を手にすると平然と部屋を出た。

健は何に言った。

「香港在住の日本人かも知れない。誰か彼を追って、住所を突き止めておいて下さい」

何は、直ぐに電話で二人の警備本部員に指示していた。

 高垣はつけられている事を承知していた。

サイシュウレースも終わって九龍鉄道(KCR)はもうかなり空いていた。

 競馬場前から乗車して九龍塘駅で地下鉄(MTR)に乗り換えた。多分まだ追っているだろう。旺角で降りると裏通りを素早く抜け右折し表通りからタクシーを拾った。大丈夫そうだ。

念の為、尖沙咀で又MTRに乗り銅鑼灣で降り、狭い路地を約三十分足早に歩き回り、再度尖沙咀へMTRで向かった。

 伊勢と富士子の待つペニンシュラホテルへ素早く入った。

追っていたジョッキークラブの一人目の職員は旺角で・・二人目は銅鑼灣で見失った。

「高垣に二人ともまかれました。尾行を承知していたようです」

何は残念そうだった。

「やむおえないでしょう。例のグループを日本でも再調査しますよ」

「再び香港には現れて欲しくないものだ」

「サチカゲを徹底的にマークしています。来年の海外参戦と日本が舞台になる筈ですよ。」宮内は申し訳なく思った。

「こういう事件が一番後味が悪い。公然と訴えるに足る証拠も無い訳だから」

 何は言った。

「しかし、奴等の不正は何とかしなければならないでしょう」

 健は再び戦う決意を示した。


 ーー今までは全て受け身だった。もう待つ手はない。奴等の手を読んでこちらから仕掛けてやる。細心の計画を練らねばならないなーー

 健はその夜曽我と村田のホテルを訪ねた。自分の考えと計画を話した。曽我は躊躇した。勿論だ。失敗すればサチカゲと世界の競馬サークルに、大きなリスクを与える計画だった。村田も消極的だった。打ちのめされていたのだ。

 しかし健は辛抱強く説得した。石井が全面的に賛成してくれたのが救いだった。

夜十二時を回る頃、やっと曽我と村田が了解してくれた。ここから彼等の戦いが始まった。





     ロンドン・スネイク



 チャーチルホテルはアラブ系の宿泊者が多い事で知られている。スネイクは日本人の多いホテルを意識的に避けていた。

 香港十二日の八時間後スネイクは先ずマーブルアーチのブックメーカーTBBのオフィスに向かった。ロンドンはすっかり冬でみなオーバーコートで曇り空を歩いている。

 午前十時。既にカウンターには多くの客がいた。事前にカストマーマネージャーのMRエイジンガーに連絡してあった。二階オフィスの入り口でレセプションのブロンドの子が声を掛けてきた。

「Mr表ですか。おめでとうございます。鋭いベットでしたね」この子見知っているのか。

「ありがとう。たまたまでしたよ」

「どうぞ。エイジンガーがお待ちしています」マネジャーの部屋を指し示す。

 スネイクは冷静に静かにマネージャーの部屋をノックした。彼は四十代後半というところ長身で堀の深い顔をデスクから上げた。

「おめでとうございます。Mr表」

鼻高のエイジンガーが右手で握手を求めてきた。

「香港カップのティアース的中とは凄いですね。それも二つのコンビネーションで」

「ジムトニック、カブルーを、各々バンカーとして五頭へのマルチ(単の組み合わせ)三十通りを二組、ユニット千五百£お買い上げですから九万£のご購入でしたね。

ジムから、イギリスの二頭を含む流しはお見事でした。

二番ー四番ー七番人気で、オッズ八九二倍でお支払いしますが、小切手で宜しいでしょうか。百三十万ポンド以上になりますが」

「円で二億三千七百万かな。まあ小切手でいいでしょう。ポンドも堅調ですからね」

「かしこまりました」

 丁重に答えるとマネージャーは支払い小切手にその場でサインし計算書と共にスネイクに示した。

「しかしお国のサチカゲは残念でしたね。良い馬です。又、世界でチャンスがあるでしょう」

「お帰りにんところ申し訳ありませんがレーシングポストのウエル記者がコメントを頂きたいと言っております」

「いやそれは困ったな」

 スネイクは大型のサングラスを素早くかけると小切手をダークスーツのうちポケットにしまった。

「それではお写真だけでも」

 握手を求めてきたエイジンガーに軽く右手を出すとスネイクは足早に部屋を出た。

カメラを下げたコート姿のウエルが声を掛けてきた。

「おめでとうございます、Mr表。サチカゲ外しでしたね。何か根拠がおありでしたか」

「いや、たまたまですよ。国際レースは難しいからね。人気通りにはイギリスでも収まらないでしょう」

 なんとあ英語で答える。うことができたが。

「そうですね。しかしジャパンカップでもモンシュや古馬のスペシャルディを破って、サチカゲは連は外さないと我々も予想していました」

さらりとウエルは言うがその真意はわからない。

「いや、フランスのジムトニックやお国の馬達が強かったという事ですよ」

 ウエルは沙田の黄旗の事はまだ知らない野だろうか。

「写真を一枚お願いします」

フラッシュがたかれた瞬間少しうつむくようにしてウエルと別れた。

 スネイクは地下鉄セントラルラインに乗ると西のケンジントンを目指した。

 ーー二億円ぐらいなら

   幸運という見出しで済みそうだなーー

 ケンジントンのM&B社で同様にカストマーマネージャーから丁重に応対され、小切手で百三十万八千£を受け取ると直ちにチャーチルホテルへ戻った。

 早くも月曜が終わろうとしている香港の伊勢に電話した。

「こっちの賭けやの方は成功した」

「こちらも問題無しでした。昨日の夕方、ジョッキークラブから小切手で六千九百万香港$の小切手をもらいましたよ。日本円で九億七千八百万円見当ですかね。今日高垣が手配した為替ブローカーと会います」

「そちらは何倍程だった?」

「千三十九倍でしたよ。ロンドンは?」

「イギリスのランニングスタッフ、リスペアが二、三着に絡み八九二倍、小切手百三十万£が二枚、四億七千五百万円だ」

「こちらは九億七千八百万円ですから、US$建ての外貨預金にしますよ。香港上海銀行に三億円相当。シテイバンクに三億円というアイデアです。残りを高垣の斡旋で円に換えます。三億八千万弱ですから一千万円をブロックにして一人十三個。別々に東京に持ち帰りますよ」

「そうしてくれ。俺は四億円相当をチェスマンハッタンのUS$預金にしておく。七千万円ならキャッシュで持って帰れるだろう」

「表さん私たちは明日十四日と十五日に別れて帰国するわ」

 富士子が上気した声で言う。

「いいだろう。俺はロンドンを今日十三日に出るから十四日の夕方着になる」

「じゃ成田全日空ホテルで集合ね」

「マスコミに気をつけろ。俺はマーブルアーチでレーシングポスト社から写真を撮られている。しかし証拠はないし告発は難しいだろう。香港には宮内やJRAの林も来ているんだろう」

「来ています。ジョッキークラブへは私が代表で行きました。伊勢さんと富士子さんにはホテルでレースを見てもらいました。六九ミリオン香港$でしたから、さすがに色々聞かれましたよ。例の宮内もいましたよ。四千万円の購入は、アラブ人富豪の代理として押し通しました。取材は一切拒否しましたよ。噂は立つでしょうね」

 「例の旗の男は」

「訓練の甲斐あって素早く消えました」

「ジョッキークラブは警備部が躍起で追っていますがわからないでしょう」

「宮内には気をつけてくれ。JRAの林と組んで相当に調べている筈だ」

「気をつけましょう」

 伊勢は冷静だった。

富士子と高垣は高揚していた。

ロンドンでは・・・・・ 

ーー四人で合計十五億円。一人三億八千万円なら喜んでもいいな。追及されても黄旗の秘密は道義的にしか責められないーー

スネイクは冷静にシナリオの結果を分析していた。


 香港との電話を終えるとやっと一息入れる気になった。ロビーのティールームや二階のバーは白いヴェールのアラブ人が多いので気が進まなかった。

 ホテルを出て脇道の“JUST IN”という看板のパブに入った。細長いカウンターの奥まで男達でいっぱいだ。

「ビアー?」

 カウンターから白髪の男が聞いた。

「キャナイ・ハブ・ブラックビア」

「オブコース」

 粗末なコースターの上にグラスビールが来た。

スネイクは目の高さにグラスを挙げて漆黒の液体の向こうを見据えると細い目を更に細め一気にノドに流した。しみるように胃に入っていく。




     HKカップ後



 十三日にUS$で七千五百万円相当をチェスマンハッタンでキャッシュにし四億円をUS$建ての外貨預金に組み入れるとスネイクはその日の夜便で成田に向かった。複路はJALのファーストで勝利を噛締めていた。

 これから再び始まる最後の仕掛けに向け、二月からもう一度集中しなけならないと考えながら・・・眠りに就いた。    


 健の戦いも始まっていた。

まずサチカゲを日本へ帰し、再調教と逆襲のシナリオを練り上げていた。マスコミを上手く使う事がポイントでもあった。サチカゲが今後どうするか。広報作戦は尚子が全面的に担当することになる。意図的に奴等に仕掛けていく。 

ーー著名な写真家がサチカゲに恋して国際路線に帯同するーーそんなところだ。

 曽我の対外代理人として尚子の事も帰国後すぐにマスコミに発表する事にしていた。

 十五日水曜日のフェデックスで成田へサチカゲを輸送。

十六~十七日に検疫の手配を行っていた。

 白井には三~四日の滞在とし美哺を経由せずに直接日高の石井牧場に帰すことにした。


この間に、来年のステップレースを公表する。

二十日過ぎには日高でのスケジュールが始まる。年末年始をゆっくり休むわけにはいかない。

 二~三日の休養の後十二月二十五日から一月の中旬を再調教の第一クール。中旬から下旬を第二クールとした。

 ーー奴等は、必ず日高にやって来て、様子を見るだろう。サチカゲの調子にもよるが、耐えられれば、こちらから今度は仕掛けてやるーー

 成功させたいという気持ちとサチカゲを思いやる気持ちがせめぎ合っていたが、どうしてもこの不正は許せない。

ーー放置すれば競馬へのの信頼が失われる。     それは全く許されないことだーー

 健は百%成功させるという確信はなかったが、使命感に燃えていた。石井と村田も同様であった。

彼等の受けたそして何よりもサチカゲの受けた屈辱は反撃の決意となり彼等の内部に定着し結束を高めていった。



 伊勢は十四日高垣の捜した為替ブローカーMr敦から三億七千万円をキャッシュで受け取った。敦にとっても九百万円の手数料は悪くない取引だった。一日で日本円を手配するだけの仕事に対し相応の要求をした。香港の銀行は店舗は夕刻に閉めても大口顧客対応では原則二十四時間対応していた。あらかじめ法人登記をしておいた会社名で、香港上海銀行に三億円相当、シティバンクに三億円相当をUS$建てで預金に組み入れた。銀行は短期のUS$定期預金を勧めたが商売の資金という口実で普通外貨預金とした。担当マネージャーもそれ以上深入りして勧めようとはしなかった。

 昨日沙田競馬場で大口の小切手払い戻しがあった事は、すでに両銀行のマネージャー共に知っていた。流動するマネーへの情報ネットワークは賭の世界までも香港は組み込んでいる。

 伊勢は午後五時に資金の処理が終了すると、ただちに空港に向かった。大型のスーツバッグは一千万円単位の束できっちり膨れていた。パスポートコントロールも普通に通過すると、キャセイのファーストラウンジで搭乗を待った。明日は富士子と高垣が帰国する予定だ。

ーー一仕事終えたな。でも奴はまだ次を狙っている。

  ーーとことんつきあうかーー

伊勢もここまできたら後戻りはできないと考えた。


十五日午後二時富士子と香港空港に到着した。

やや不釣合な二人。有閑マダムと若い秘書といういでたちで、れでも二人は目立たないように気を使っていたのだが。

 念の為、スーツケースには一千万円程度を入れた。高垣はフライトバッグにびっしりと二億九千万円を詰め込んでいた。キャッシュの束の上には無造作に布を敷き使いかけの高級男性用化粧品と手帳、文庫本を乗せた。麻薬でない限り、まず大丈夫と考えていた。

 今日は新調の目立たないビジネススーツを着た。通関には早めに入った。金属類は古びた時計ぐらいであったので無事通過。二人はJALのさくらラウンジでゆったりと搭乗を待った。富士子は、長いピッタリのパンツの足を組んで悠然と日本のスポーツ紙を読んでいる。

 ーーいいタマだなーー高垣は思わず一人笑いした。

 フライトは快適であった。成田の税関でちょっとしたことがあった。先に無事通過した高垣が待つと…後ろで…富士子が止められた。

見るからに派手な…やくざの情婦風の彼女にかかりんは小さなスーツケースを開けるようにといった。

「何よ!見たいの!! いいわよ!!」

黙って係員を睨みスツケースを開く富士子。一番上に派手なレースのショーツやブラが無造作に十枚ほどこれ見よがしに入っていた。

「これが見たかったの! エッチ!」

若い税関職員が」赤面して

「結構です。どうぞ」

「まったく。いやらしい奴ばかりなんだから」

 毒づきながら悠然と通過する富士子であった。高垣は富士子をおとりにしてよかったとほっと胸をなでおろした。


 

 同じ十五日の午後三時。宮内の計画通り前日出国検疫を終了していたサチカゲは、フェデックスで成田に向かった。落ち着いていた。フェデックス香港のスタッフと石井は空港で大型ジャンボ機の前扇から、サチカゲがゆっくり機内に上がっていくのを見守っていた。ジェットが空に舞い上がると石井は携帯電話を取り出した。

「宮内さん。今飛び立ちました。サチカゲは落ち着いていますよ。大丈夫でしょう」

「そうか。成田では細田さんが待っている。すぐホテルに帰ってくれ。今日のジョッキークラブのパーティーでサチカゲのスケジュールを発表しよう。ペニンシュラホテルで六時だ。遅れるな」

「了解しました」

「こっちは、現地紙の他にMr岑からサウスチャイナのMrエドワードと香港ポストのMrロレンスにも声を掛けてもらった。彼等のいる前で発表だ」

「日本の発表は明日ですね。いよいよ作戦開始だ」

「曽我さんが手配してくれているよ」

 東京では十四日にはスネイクと伊勢が別々に成田全日航にチェックインしていた。翌日の夕方富士子と高垣も無事にチェックインが済んだ。


 十五日の夜香港尖沙咀のペニンシュラホテルで、香港カップ、ジムトニック優勝パーテイが開かれた。

 馬主の英国人Mrセラーズと騎手モッカが壇上に上り数々の祝辞や賞品を受けた後各国参加メンバーの挨拶があった。

 日本代表は曽我だったが、既に十四日帰国していたので村田調教師が壇上に立った。

「先ず、香港ジョッキークラブ及び当地の皆様に大変お世話になりました。お礼申し上げます。そして何よりMrセラーズ氏おめでとうございます。心よりお喜び申し上げます。日本のサチカゲは残念な結果でした。今回は完敗でしたが日本で再調教し来年、再び世界に挑戦したいと計画しております。再度ジムトニックと対戦する機会を夢に帰国いたします」

 香港ポストのMrロレンスから質問があった。

「今回はファンの旗に驚いたにもかかわらず、大外枠をゴール前よく詰めたと、我々も評価しています。来年の世界への計画はすでに具体的ですか?」

「馬主の曽我さんは昨日帰国しておりますが、その前に来年二月十二日のドバイワールドカップへ参戦しようと話し合いました。日本へ帰って、一カ月の調教次第ですが御招待を受ければ参戦の方向で考えたいと思います」

「有馬記念でスペシャルディの鼻差勝ちしたグラスワンダフルも、海外路線と聞いていますが」

「ワンダフルについては私共がコメントする立場にありません。少なくともサチカゲは五才を海外シリージでと考えております」

「香港で一番人気を裏切りましたが」

サウスチャイナのMrエドワードからは厳しい問い掛けがあった。

「ファンの皆様には申し訳なく思います。その為にも、この馬を再び挑戦させ裏切った皆様にお返ししたいという思いもあります」「それを二月のUAEで果たすという事ですか」

「そう出来る様に最善の努力をしたいと考えている訳です」真面目のこたえる村田。

「相当の意気込みでUAEへという事ですね」

ロレンスが間に入った。

「このレセプションでいいお土産をもらいました。我々も二月のドバイワールドカップのサチカゲを注目してみましょう」


 翌十六日の香港・イギリスの専門紙はジムトニックの優勝と共に、サチカゲのドバイ挑戦が報道された。

「四才、サチカゲ。二月ドバイワールドカップへ挑戦…

香港カップの汚名を晴らすか!」


 日本でも十五日の夜、成田空港にサチカゲ到着後、曽我と細田から計画が発表された。

「サチカゲ、二千年世界ローテーション。

香港カップの屈辱を晴らしたいと表明」

 日本では相当に無理な表明と取られたが、香港のマスコミや、イギリス、アメリカ、アジアからは『サチカゲ、ドバイワールドカップ参戦』は好意的論評を受けていた。

このマスコミ対策も健と尚子のアイデアであった。



    十二月十五 成田スネイク



 十五日の夜、成田日航ホテルで四人は祝杯を挙げた。各々が満足感に浸っていた。

「上手く行きましたね。大成功だ」

高垣が切り出す。

「こんなに順調にいくとは思わなかったわ」

富士子も率直に言った。

「これで終りにしたいか?」

 スネイクは聞く。

「でもまだあるんでしょう。サチカゲがもう一回海外に挑戦するタイミングが最後の筈よ」富士子もしぶとい。

「しかし、彼等の出方がわからない。日本ローテーションで又やるのは危険過ぎるな」

 伊勢はマティーニを口にしながらスネイクを見た。

「その通りだ。日本でやるのは危険過ぎる。彼等が来年海外を狙えば、ラストチャンスにしょうと考えていたんだ」

「もう少し待ちましょうよ」

 富士子が提案した。

四人はそれぞれ考えていた。

「今年中にサチカゲの方向が決まらなかったら、解散という事にしょう。どうだ!」

スネイクが切り出した。

伊勢はうなづいた。

富士子と高垣はまだやりたかった。不満であったがやむをえない。

「表さんと伊勢さんがそう言うなら仕方ないわね」

高垣も孤立してまで主張しなかった。

「じゃ、そういう事にしょう」

「解散の場合は均等分配にしよう」とスネイク。

「どのくらいになるんだ」伊勢が聞く。

「香港・ロンドンから、持ち帰ったキャッシュが三億七千万と七千五百万円で四億四千五百万。一人当たり一億一千万円ね。それに外貨ドル預金が、香港に二か所で六億円。ロンドンに四億円で計十億円よ。これが一人二億五千万円見当ね。分配したら一人三億六千万ぐらいよ。悪くないわ」

「スリルもあったしな」

 高垣は笑った。

「じゃ、今年いっぱいで決めよう」

最後は皆スネイクの決定に従った。


 

 しかしその日は意外に早かった。翌朝。スポーツ紙にサチカゲのドバイ参戦計画が表明されていた。イギリス、アメリカ、香港での『サチカゲ』参戦への期待も記事になっている。

四人は二月十二日のUAEに向けもう一度最後の計画を練り始めた。

 スネイク、富士子、高垣は十二月三一日、新宿ゴールデン街で忘年会を行い、計画の最終打ち合わせを行った。


 伊勢は浦河で彼等を迎える準備を行っていた。診療所のこともあったが年末父母がハワイ旅行で休暇としていたので、絶好の機会となった。

三人を迎える部屋と器材、レンタカーを別に二台準備していた。車の機動力ランドクルーザーを含め三台。この浦河から新冠の石井牧場まで二三五号線を西へ上って、四十キロという絶好の立地であった。三人は明日一日の便で札幌から入る。


 「宮内と石井はサチカゲを石井牧場に帰し、二六日から乗り運動を始めている。ドバイワールドカップの準備だろう。香港の後だから、相当厳重に警戒している筈だ。サチカゲの体調がどうかが最大のポイントだ」

「彼等もUAEでの妨害を予想していると思うわ」

「だから様子を見に行くのさ。例の恐怖からどの程度解放されているかもポイントだ」

「しかしな。あくまでもグループの存在を知られてはまずい。彼等に先手を取られたら・・・やりにくい。俺と高垣の事は宮内は知っているはずだ。あとは君達二人が特定されてマークされないように気を付けて行動してくれよ」

「彼等の警戒も普通じゃないって事ね」

 富士子と伊勢は

、互いにうなずき合った。




     

 

   サチカゲ新冠・石井牧場へ



 十六日白井JRA分場で一泊したサチカゲは、十七日検疫手続きを完了すると十八日、北海道新冠の石井牧場に向かった。その間康太郎はサチカゲにつきっきりで世話していた。サチカゲが牧場に戻るのは九七年十一月上旬、村田厩舎に向かって以来二年ぶりであった。


 健と尚子も新冠に向かった。この年末年始は戦いの一ケ月となりそうであった。康太郎と曽我に相談し一月中旬迄を第一クール、一月中旬から末迄を第二クール、二月上旬UAEへ出発としていた。栗東山形厩舎に行っている石井康雄も呼び寄せていた。

事情を知ると山形は康雄を送り込んでくれた。


 ーー奴等は、必ずここへサチカゲの調整を確認に来る。そして三月のUAEを狙う筈だーー 

   健は確信していた。

サチカゲを鍛えると共に彼等に向かって大芝居を打つ。役者を揃えたというところだ。

十二月中旬の新冠は、すでに少し乾いた雪が降り積もり始めていた。

 牧場の丘の向こう北東の山々をサチカゲは見上げていた。

 ーーあの山並みは知っている。

  そして前の丘は母が傷ついた場所だーー

 まだ二年前の出来事だったがサチカゲには遠い昔に思えた。

 記憶が悲しさと共に蘇った。そばには康太郎や康雄がいて自分が生まれた場所へ帰った事を理解していた。十二月二十日を過ぎ、北東のヌキトル山、エチナンゲップ山は白銀色に輝いていた。辺り一面白いサラサラとした粉雪で、そう深くはない。朝の乗り運動は手前の丘のあたりまでであった。


 あの丘は悲しい。母がワナで重傷を負った場所だ。

一瞬、康雄を乗せるサチカゲの瞳の奥に黄色の旗がよぎった。

そう見えた。

 ブルっと首を大きく振る。康雄がなだめる。

「ヨウ。ヨウ。サチカゲ。どうした。思い出したのか」

 首をポンポンと叩いた。サチカゲは落ち着くとゆっくり丘の手前からキャロットで登り始めた。

 健は三十日から通常の乗り運動と他の訓練が目的で石井に大型納屋を空けてもらった。

そこは冬場に使う干し草の保管場所でもあった。半分の量を二日がかりで、各馬房の空いた場所に移動してもらった。

空いたスペースは縦横約三十メートル、横九百メートルの狭い角馬場となった。この大納屋の中にはテーブル・イス・軽油炊きの大型ストーブ・通信用のハンドトーキー・PCに電源・小型の発電機・大型テントとシュラフ、食料なども用意した。そのための経費は馬主曽我が進んで出した。尚子に一枚のクレジットカードを自由に使うようにと渡してくれたのだ。

 石井牧場のサチカゲ専用馬房のほかに、この大納屋の南東角にもサチカエの第二の専用馬房を作り居心地よい状態と大量の飼料を置いた。


 尚子は札幌まで出て光沢のある黄色い布地を買い集めてきた。四隅に頑丈なポールを立て黄色の布地で高さ三メートルの布地囲いを作った。

「ここでサチカゲを訓練するのね」

「彼の恐怖をとことん取り除くには、厳しいけれどショック療法しかないだろう」

「暴れ回って脚でも折ったら大変。可愛そうだし少し怖い気もするわ」

 尚子は心配そうだ。

「曽我さんや石井さんとも話し合って決めたんだよ。やるしかない。奴等は必ず次を狙ってここに様子を見に来る筈だ」

 事務所に戻った康太郎と引き運動を終えた康雄が伝票の整理を行っていた。

「宮内さん毎日千歳からここまで大変でしょう。尚子さんとここで良かったら部屋を二つ空けますよ」

「いや二三五号を車で来るのは苦にはなりませんよ。それにいざとなったら大納屋の中はじゅんびばんたんですからね」

「でも、奴等は多分夜活動するでしょう」

「そう。二十四時間という意味では、ここにいた方がいいからね」

 健も夜の監視の重要性は判っていた。

「石井さんがせっかく言って下さるから、宮内さんそうしましょう。但し部屋は一つで結構です」

 尚子は静かに言う。康雄は微笑して健を見る。健は何とか顔に出さぬよう苦労した。

「じゃ、そういう事にしましょうか」

康太郎は事務所の女の子に部屋を手配させた。

 明日から二千年だ。ここからサチカゲの訓練が始まる。石井牧場で大晦日の納会が賑やかに行われた。そして十時以降四時間おきに、二組の輪番監視体制が取られた。



   スネイク達の偵察・浦河1

 一月一日午後。伊勢は三人を迎えると、ランドクルーザーで浦河の自宅へ案内した。

「今年は雪が少ないよ。早来、門別、新冠、静内の各牧場は例年より馬を外に出す時間が長い。様子を見るにはいいんだ」

「伊勢。見張りは昼間分担してやろう。石井牧場には近ずきすぎるとまずい。遠くから監視ということにして、仕掛ける場合は夜だな」

 スネイクは言った。

伊勢は大型の双眼鏡を四個取り出した。

「これはズーム三百倍で暗視対応だよ」

「アメリカ製ね。軍で使う奴でしょう」

「どこで手に入れたんですか」

 高垣が興味を示した。

「表さんと東京でも捜して見たんだが結局、自衛隊ルートから入手したんだ」

「これなら夜でも透視することが出来るな」

「旗は振ってみるの?」

 富士子が不安そうに言う

「チャンスがあればな」

「そっちは高垣に任せる。時間をかけずに設営する方法を考えてくれ」


翌日二日から牧場での分担が始まった。

 朝の調教チェックは伊勢。昼の情報収集は高垣。夜はスネイクがそれぞれ順番に、浦河町から新冠へ向かった。各々別の車を使った。

 富士子は四人分の食事とスケジュール調整、部屋とベッドの清掃や連絡係を分担した。

 スネイクが朝八時に戻り伊勢が出かける三十分間が全員のコアタイムで各人が手短に状況をコメントした。

 一月三日、四日、大きな変化もなく、サチカゲが朝運動に他の馬と出ている事が報告されたのみだ。

 五日の朝スネイクが変化を報告する。

「今日の朝五時の引き運動にサチカゲが見えなかった。休ませたとも考えられるが」

「石井牧場に知っている者がいるから午前中に確認して電話を入れるよ」

 伊勢が言う。

「わかった。私が電話を待つわ」


 午後二時伊勢から電話が入った。

「休ませたらしい。しかし昨日引き運動の後、サチカゲだけ納屋に作った角馬場で、別な調教を始めたらしいが。そこには近付くなと言われているようだ。何をやっているのかもう少し調べてみるよ」

 富士子は正午にベッドから起きてきたスネイクに伝えた。めづらしく不安気なスネイクの姿を富士子は見た。

「どんな調教をしているのかしら」

「宮内の奴石井とサチカゲの恐怖を自制させる訓練を始めたんだろう。しかしそう簡単には行かない筈だ。明日は午前中俺も伊勢と様子を見に行ってみよう」

「サチカゲが恐怖心をコントロール出来たらドバイの計画難しいわね」

「もう一回やるしかないかな。サチカゲに再度恐怖を植え付けるのさ……」

「何をやるの」

 富士子も、ここまで来たらやるしかないと腹を括っていた。

「それは、俺と伊勢に任せておけ。知らない方がいいだろう」

 静かにスネイクは言う。

 はるか日高山系が白く輝いて連なっている。




 一月五日健と石井兄弟はサチカゲを朝運動に出さなかった。納屋の外壁周辺には二十センチぐらいの雪がまだ積もっているが降雪はない。

今日のサチカゲも十分に落ち着いていた。

「じゃあ、始めましょう」

 健が促した。

康雄がサチカゲを納屋に連れてくる。

入り口でサチカゲの脚が止まった。角馬場より少し小さい。中は光沢のあるあざやかな黄色の布地で囲まれていた。全く異常な光景だ。

 サチカゲの鼻孔が大きく開き、尾を神経質に振る。康雄と健はサチカゲの表情を見た。瞳に耐えがたい恐怖が浮かぶが必死に自制しようとしている。

  尚子は見兼ねた。

「少し早すぎるんじゃないかしら。小さな旗ぐらいから慣らす事は出来ないの」

「それは前回もやったろう。もう間に合わないんだ。つらいだろうが克服するしかない」

 ーーブボー、フィー ブボーーー

 サチカゲは、大きく息を吐きながらも康雄と納屋に入り始めた。それから約一時間康雄はたずなを中央で引きながらずっとサチカゲに話し続け励ました。

 「サチカゲよ。ヨシヨシ…… ヨーシ。大丈夫だ。そうそう。悪くないぞ。ヨシヨシ。俺がついている。ドウドウ…」

  始めは周囲の布に首を回しながら小走りで動いていたサチカゲが足歩をゆるめて次第にゆっくり周回するようになり始めた。

「そう、そう、サチカゲ怖くない、怖くない。大丈夫だ。偉いぞ。偉いぞ。ヨーシ、ヨシ、ソウソウ」

 三十分もするとぐっと首を前に折り、周囲に眼をやる事もなくしっかり瞳を据えて歩き始めた。

 健はサチカゲの自制心に心を奪われた。

 ーー大した馬だ。今度は汚名を注げるだろう。どうしても、奴等を許せない。ドバイでサチカゲを復活させてやろうーー


この日は専用の馬房に戻らずにサチカゲは康夫と尚子と 大納屋の馬房で一緒だった。ゆっくりと康夫と尚子がサチカゲに話しかける。

ーー偉かったねサチカゲ。よく頑張ったねー

夜にはいいて冷えてきてからも尚子はサチカゲから離れない。サチカゲの足元にシュラフを持ってくると寝入りながら、足を下からさすってやった。朝サチカエが尚子の舐め尚子は目覚めた。

・・・すっかり寝入ってしまったのかしら・・

鼻ずらを寄せてくるサチカゲの大きな口蓋に軽くキスすると・・・なんと…サチカゲが…目を細めている。



 翌六日から朝運動の後、約三十分納屋でサチカゲの特訓が進行した。一月第一週目にはサチカゲは黄色に対する恐怖を完全に克服していた。サチカゲは毎日着実に進歩を見せ乗り運動でも好調を示し始めた。

 六日過ぎ健は〈奴等〉への警戒と擬装工作を始めた。

「石井さん。必ず奴等は来ますよ。サチカゲの朝運動も監視している筈だ」

「様子を見るだけで済まないだろうな」

「そうですね。サチカゲに仕掛けて来るでしょう。黄色い旗を……多分、もう一回やるでしょう」

「しかし、サチカゲはもう驚かないよ」

「だから康雄さん、毎日必ずあなたに乗ってもらっている訳ですよ」

「どうするんだ」と康夫。

「近くにはいない筈だ。少し距離をおいて双眼鏡で監視でしょう。そこが付け目ですよ。サチカゲを立ち上がらせ落馬してほしいんです」

 康雄はニヤっと笑った。意図を理解した。

「わざとやるのか。なるほど。今のサチカゲは暴走したり立ち上がったりしない筈だ」

「そうでしょう」

 健も真剣に言う。

「暴走を制御するのと逆ですよ。無理に立ち上がらせてあなたが落ちる。見ている筈だ。あなたでなければ。ここの乗り役じゃ少し無理でしょう。タイミングが難しい。しかし、必ずここ一週間の間ですよ」

「奴らは、特別にトレーニングしていてもやはり、恐怖を押さえるのは無理だと考える訳だな」

「そういう事です。不安はありますが・・これしか対抗の手段がない。今のサチカゲならあなたと演技出来ますよ」

 健は率直に言う。

「しかし、乗り運動以外で仕組まれたら」

「これだけ警戒しているんですから、人手が足りない朝の乗り運動の時ですよ」


翌日。健の見方は確信に変わった。

牧場の石井が尚子とやって来て、獣医伊勢の調教助手・田口への依頼を話したのだ。これで先ず一人伊勢が特定出来た。

 多分あの「蛇の眼の男」が主犯だろう。



 伊勢は五日の夕方石井牧場の調教助手田口と新冠の居酒屋で待ち合わせた。

 野球帽に厚手のジャンパーの田口は白髪交じりのおとなしい牧場の乗り役で二頭の繁殖牝馬の世話をしていた。伊勢とはもう十年来の付き合いだ

「親父さん、調子はどうですか」

「俺の事か、それとも馬か」笑って答える。

 しばらく飲んで本題に入った。田口は来年には止めるだろうと噂があった。予想通り・・・乗って来た。

「じゃ。毎朝の乗り運動の出発直前に、おまえさんの携帯に知らせればいいんだな」

「それだけですよ」

 伊勢は五十万円入りの封筒を渡した。

田口は石井牧場への義理にゆれたが、この年での五十万円の収入には勝てなかった。


    スネイク浦河2



 六日、七日とスネイクは伊勢と石井牧場を午前三時から十一時まで見張り続けた。

サチカゲが他の馬と五時には乗り運動に出て来た。

 いつも通りサチカゲは古馬や仔馬の最後から堂々とした姿を現し、ゆっくり、しっかりと動いていた。

 異常といえば、毎日康雄がサチカゲに乗っていることだ。正月競馬が始まっても美浦に帰らない。サチカゲに全精力を注いでいた。

「やらなきゃならないかな」

「そう。サチカゲを別訓練しているだろうから仕掛けざるを得ないだろうな」

 伊勢はスネイクの意図を読み取っていた。

「サチカゲをやる訳にはいかない。どうする?」

「他の馬をやるしかないだろう。少し金をかけてもやりましょう。あの牧場には一人情報を流せる奴がいる。今回の情報もそこからだ」

「どうやって……」

「俺は獣医だよ。運動開始前三十分。進行性の……」

「薬か?」

「麻酔だが多分助からないだろう」

「その馬が倒れたとして、それだけでサチカゲが慌てるとは考えられない」

「タイミングが難しいが、その時大きな黄旗があればサチカゲの反応が見れるだろう」

 伊勢は言った。

スネイクもほぼ同様に考えていた。

「よし、何とかタイミングを合わせてやってみよう。高垣と三人で準備すれば可能だろう」

ここまで来たら彼等も強硬手段に出ざるをえなかった。



      


 一月八日。富士子は札幌に出た。静内と比べると大都会だ。デパートや専門店を歩いて黄色の大型の布地を買い集めた。簡易型だが丈夫なポールは既に高垣が準備していた。

十五分が設営のタイミングだ。スネイク、伊勢、高垣はポールを手際良く雪面に立てる訓練を、既に三回繰り返していた。大型の電動ドリルも三本準備してあった。

 その夜、布地をポールに取り付ける作業を、三人で反復していた。医者が病院で手術時に使用する薄手で作業効率の良い、ディスペックというグローブで試していた。

 寒中の朝。指紋を残さずに手際良く作業する準備はこれで終了した。

「馬はどうするの」

 富士子が確認した。

「明日、馬運車で一頭来る。購入したんだ」

「馬と麻酔は伊勢に任せる。その横で俺と高垣で旗の設営だ。富士子さんは見張りを頼む」

四人は九日再度準備をチエックして、十日を決行日とした。


         

 


スネイク達の決行



 十日午前三時、伊勢は購入した十歳牝馬を乗せ浦河から新冠へ二三五号線を北上し石井牧場の外に待機した。

 続いてスネイクがポール器材、高垣が黄色い布地をランドローバーに積んで出発した。最後に富士子が無線機からのイヤホーンマイクを耳に出発した。

四人は無線で連絡を取り合っていた。

高垣から三人へ。

「今、四時十分前。ポイント一に到着した」

「俺達はあと十分で到着だ」

 スネイクが応答する。

「私は、四時十分頃の到着予定ね」

 最後は富士子の声が少し割れて聞こえる。

「乗り運動スタートは大体五時だ。タイミングが重要。ポイントまで牧場から約八分。この時間に全てがかかっている。切るぞ」

 スネイクだ。

四人は四時にポイントで、各々点検を始めていた。

五時十分前に伊勢は馬に麻酔を打った。十分程は効果が表れない。量は通常の二倍。そろそろ足がふらつく頃だ。その時携帯電話が鳴る。田口から一言。

「出発だ」五時二分だった。

「今。スタートだ。八分後の五時十分だ」

伊勢の声でスネイクと高垣は粉雪の斜面に飛び出して作業を始めた。


 サラッとした粉雪がフワフワと舞っている丘の頂上でドリルの音が響く。馬道の両側に間隔二メートルで、二人は十一本の穴を空け、スライド式のポールを立てる。一分、二分、三分、四分が経過した。富士子から

「今、丘の下に二頭現れたわ、あと五分ぐらいよ」

伊勢はふらつく馬を馬道の真ん中に引く。瞳は朦朧としている。馬はくずれるように横たわった。ドリルの音がまだ響く。

 急げ。急いでくれ!! 伊勢もドリルで穴を開ける。

 後二分。 よし! 

ポールは完成だ。富士子も来る。

四人は必死で黄色旗を取り付ける。時間が止まったようで心臓は早鐘を打つ。

一分……。二分。終わった。

 

彼等がランドローバーで丘の斜面を反対側に滑り降り四方に散る。

 粉雪の向こうに四人の姿が煙りほぼ消えた時、乗り運動の馬群は丘の頂上に来た。


 一番丘に近い左の高台に、スネイクのランドローバーがいた。双眼鏡からサチカゲが馬群を割って首を上げ、乗り手の石井を落とすのが見えた。

「成功だ。サチカゲが騎手を落としたぞ」

 イヤホーンから高垣の声も続いた。

「他の馬が、丘の下に向かって暴走して来ます。俺にもサチカゲが乗り役を落としたのが見えましたよ」

「よし。伊勢、富士子。引き上げだ」

彼等は一斉に浦河へ戻り始めた。

「やはり調教しても難しいという事だな」

「馬が一頭横たわっていれば、恐怖は増幅される。伊勢。上手く行ったな」

「立て直して調教するでしょうが、もう間に合わないだろう。二月十二日にドバイだから、ここ四、五日で出発しなければ」

「成功ね。これでドバイがやれるわ」

 富士子も興奮気味の声をあげた。



 「今。知らせました。彼等は来ていますよ。」

悩んだ末田口は康太郎に伊勢の依頼を打ち明けていた。田口は康雄に言った。健も緊張した。

三十分前の事前チエックでは何もなかった。

「何をする気だろう。まさかサチカゲに直接!」

「康雄さん。それはないでしょう。サチカゲに万一があったら、ドバイは狙えない」

「わかった。上手くやるよ」

 あとは祈って待つしかなかった。

健もサチカゲの後方の馬に乗ってゆっくり、いつもの丘を目指した。

 丘の頂上で、先頭の二頭が立ち上がった。

「どうした」

康雄が続いた。

そこに見たのは左右十本の大型の黄色旗だった。

先の馬達が怯えている。サチカゲは明らかに大丈夫であった。左右する馬の中を進んで行く。

サチカゲはフッと首を下げ気味だ。

    ……出来るか!!……

 康雄は「すまない」

 とサチカゲに言いながら思い切って手綱を引く。

 サチカゲが耐える。引く!

   ーーやらねばーー

首が上がり康雄は腰から雪上に落ちた。

なんとか成功した。しかしサチカゲはたいした奴だ。

「康雄さん、大丈夫ですか。申し訳ない。しかし必ず奴等は見ていますよ」

サチカゲも心配そうに康雄に寄って来た。

「成功だろう」

「上手く行った」

 健も同意した。







  サチカゲ/ドバイワールドカップ準備


 一月二十五日、村田厩舎はサチカゲを新冠から白井分場に移動した。

『恐怖』に耐える訓練は成果を収めたと判断した。

健は『奴等』に ーある印象ーを与えるのにも成功したと考えた。三月二十六日、アラブ首長国連邦、ドバイに向けサチカゲの準備が始まった。

海外参戦の検疫が日本では課題であった。欧州、米国流の空輸による直前移動は難しい。特に出国時、検疫を含め、七~十日間必要とされて居た為、強豪馬もローテーションから二の足を踏むケースもあった。サチカゲは十日間の出国準備の後に、三月三日の空輸でUAEへ移送の計画であった。

この間、曽我は健と相談し、警備会社にサチカゲの二十四時間警備を続けた。

 白井分場からも競馬会へ特別警備が申請された。香港カップでの不名誉を批判する理事達を、裁定の林が説得した。

「もう一回、サチカゲとその関係者に名誉回復のチャンスを与えましょう」林にも健や関係者の意図が読めていた。

何よりも、国際化計画第二段階のJRAにとって、日本馬の水準をアピールするチャンスだと考えた。

 ーーそれに応えるだけの力がサチカゲにはあるーー

林は経験から確信していた。

二月末、競馬会と調整し、UAE招待代表馬の推薦を受けると、曽我は参戦を正式に表明した。スタッフとして、写真家の細田尚子が今回から新たに加わっていた。反撃に向かってシナリオ通りに進み始めていた。







       1~2月スネイク/ドバイ準備



 一月下旬、スネイク達は東京に戻った。

 サチカゲの恐怖は残っている。それを再び引き出せるかが、最後の勝負だと感じていた。

高垣と富士子は、アラブ首長国連邦、三月二十五日の参戦ツアーをチエックした。一週間のツアーがあった。しかし、事情のわからない国、しかもイスラムの国であった。高垣のアドバイスで、個人のツアーを組む事にした。日本人であれば、ビジットビザで二週間、エントリービザで一ケ月滞在可能だ。

分担が決まった。ドバイでは、通常の勝馬投票券が購入出来ない。やはり、ロンドンでの賭けが全てであった。

香港では可能。日本では不可。

最大の投票プールはやはり英国であった。

 

 今回は、富士子と高垣がロンドン、伊勢が成田から香港経由で、二月下旬にUAEへ。

スネイクは関西から、シンガポール経由で、三月第一週に出発する事にした。

高垣は、ロンドンで賭けの準備が終り次第、直前にUAE入りする。現地での工作は男性三人、富士子は収益を引き上げ、日本へ帰国、と言うシナリオであった。


 二月二十六日、伊勢がエントリービザで先ず、出発した。現地の事情を毎日メールで富士子に入れることになっていた。 伊勢はアブダビ空港から、ハイウエーをドバイに向かった。空港から二十分程過ぎると、左右は高層ビルが、抜ける青空に突き立っている。左手、アラビアンガルフが見える。ビルの向こうは赤っぽい砂だ。二月とはいえ、朝十時の気温は、既に二十三度C。日本の春先と違って、空気はカチっと澄んでいた。ドバイ迄約百五十■、一時間の間、伊勢は世界最高、賞金総額六百万US$(約六億六千万円)一着賞金三百六十万US$(約四億円)の国際G・レースが、どうしてこの地なのかと考え始めていた。


 アラブ首長国連邦。アフリカ大陸とアジアの間に南西に伸びるアラビア半島。その丁度北東の突端にノド仏のようにペルシャ湾と接し、アジア大陸イランに突き出ている。

 オーマンと東部海岸を交互に共有する形でイランと対峙、南と西は巨大なオイルカントリー、サウディアラビアと、砂漠地帯の直線的ボーダラインで区分されている。

 南と西の砂漠地帯が広大な為に、面積は八万四千平方■と、千五百年代にこの地に来たポルトガルと同規模でありながら、人口は二百万人、東京の六分の一。

 この地をバハレーン、カタールと統合し、単一のアラブ国にして、影響を継続したいとした英国の思惑とは別に、一九七一年に首長国連邦として独立した。

 今や国際的ビジネスセンターとして発展し、アラブ世界で、安定的でトラブルの最も少ない、オイル生産国とビジネスセンターの双方をバランスする国であった。


 伊勢が今、北東アラビア湾沿いに走る湾岸に、五つのシェイク(首長)統治国が、並んでいる。ドバイ、シャルジア、アジマン、ウムアルカイム、ラスアルカイマ。そしてペルシャ湾の西端でオーマン湾に接し、東部にフジャラが存在していた。 今、出発したアブダビが、南西で広大なサウディと接し、面積の八十五%はこの首長国が占めている。この国は、砂漠地帯がベトウインの流れ、西湾岸のオイル産出と、アラビア半島北東端のビジネスセンター都市群、という構成であった。

 ーーラクダとアラブ馬はイメージ出来る。しかし

    近代サラブレット競争が、何故、この地で?ーー

伊勢は、自問した。

オイル資源がバックである事は言うまでもないだろう。

サウディや他の産油国との違いは、西側ビジネスへの対応と、その資質を持つ首長の個性によるのかも知れない、と思い始めていた。

 現在のドバイ首長マクツーム・ビン・サイードのファミリーにその個性があるのだろう。ビジネスに積極的なハムダーン、次弟で皇太子のムハマド、ドバイ陸軍司令官のラシードは、それぞれ、英国、米国に於いても著名な馬主であった。特にムハマドは連邦の国防相とドバイの石油、治安、航空、港湾業務を指揮しながら、英国に大厩舎を経営していた。

 マクツームファミリー、ゴドルファンの愛称は、九十年代の後半に入り、世界サラブレッドの国際競争で目立ち始めていた。

ロンドンニューマーケットと、ドバイ双方での良質の競争馬管理や、新しい調教法が話題になっていた。又着実に結果を出し始めていた。それはアラビア半島のオイル国、アラブ首長国連邦を、別な角度から、世界に知らしめる事にもなるのだろう。


 伊勢は、不思議な国だと感じ始めていた。

日本で、こんな事を考える政治家も、実業家も存在しない。タダ、経済というビジネスだけで、世界に出ようとしている。それだけの資産が無い訳ではないのだが。

 サラブレッドにとって、北半球が有利な側面も大きい。

アラブ系の三種がサラブレッドの始祖とされているが、数百年の交配は、北半球の寒冷の地が主要生産地となっていた。伊勢は、サチカゲという途方もないサラブレッドで、アラブの地で挑戦する自分達の敵、曽我や村田達に敬意を払いたい思いに苦笑した。







       三月サチカゲ/ドバイへ出発


       

 三月三日、今年は暖冬気味であったが、日本列島を北から寒気団が被い、裏日本には雪の残る桃の節句であった。


 厳重に警備されたサチカゲは、成田空港から日本航空貨物便でアブダビへ直行した。白井分場で検疫を済ませるまでの十日間、毎日の乗り運動には康雄と大牟田が交互に乗り、話しかけ、励ました。苛立つ様子もなく、馬体も四六五・前後で好馬体をキープしていた。今回は、曽我やJARの協力で、JALをチャーター、スタッフも同時にドバイへ直行だ。

「貨物便の客席って始めてよ。サチカゲを下へ見に行けるわけね」尚子は少し興奮していた。

「曽我さん。今度はやりますよ」

健の言葉に大牟田、石井兄弟も力強くうなずく。

「奴等は必ずドバイへやって来る」

JRAからは林理事と国際課の伊藤も同行していた。

「アラブってどんな所かしら。砂漠とラクダのイメージしかないわ」「首長国連邦で、首都はアブダビです。ドバイまでハイウエーで一時間。ナド・アルシバ競馬場は、ここ数年で素晴らしい設備になりましたよ。国際G・に恥ずかしくない環境です」 JRA国際課の伊藤は、各国との調整当事者で事情は心得ていた。

飲み物サービスの後に鷹の図柄入りの、入国カードが渡された。表が英語で裏が地を這うようなアラビア文字だった。

伊藤は各人の記入を助けていた。

「ポルノは勿論、日本のヌード写真のある週刊誌も駄目ですよ。」「アラブの女性は人前で肌を露出しないのね」

「ビジネスセンターのドバイでも、やはりアラブには違いないですから」

伊藤は尚子の興味に答えた。

 曽我と健は今回の計画について、林には話してあったが、同行する伊藤にはあえて詳細は明かさないであった。







        3月スネイク/ドバイへ出発



 スネイクも三月三日、サチカゲのドバイ直行を確認すると午後便で羽田から関西空港へ飛んだ。

夜行便を乗り継ぎ翌日の正午にシンガポールへ着いた。

 第一回シンガポール航空インターナショナルカップ(四才以上、芝二千■)は三月四日、新装のクランジ競馬場で、午後九時四十分のナイタースタートであった。

香港から九八年の安田記念二着馬、オリエントエクスプレス、昨年のジャパンカップでサチカゲに破れたジムトニック(仏・七才)、セルリースカイ(仏から米へ移籍・牝・五才)、地元のトップホース、オウソー(八才)等、国際登録十五頭のうち十二頭の出走となっていた。

 

 レースは中団待機のジムトニックが、直線で、セルリースカイ、オリエントエクスプレスを難なく交わし、二分一秒五で優勝。二着はセルリースカイ四馬身差、三着地元オウソーが一馬身、オリエントエクスプレスはさらに二分の一馬身差の四着であった。

 ーーやはり、サチカゲ、スペシャルディは抜けている。ジムトニックが、このレースではあっさり優勝だ。ドバイで人気になってもおかしくないなーー

 北海道で見たサチカゲの恐怖の姿を思い起こしていた。

英、米、アラブ、香港の人気はこれで読めたと確信していた。ここを狙った南ア最強馬。ホースチェスが一月二十二日早朝、滞在先のフロリダ州コールダー競馬場で、調教中に骨折していた。世界の強豪が次々と故障や、繁殖入りで去って行く。

後は、イギリス、ジムトニックを含めたフランス勢の動向と、何よりもムハマド殿下の率いるUAEのゴドルファンファミリーが注意だ。ファミリーから何が出走して来るかが焦点だという気がしていた。

 ーー人気は間違いなく、サチカゲだーー

 しかし、サチカゲは今回も勝ってもらうわけには行かない。そして、彼が後退した時、何が飛び出すか。後はそれだけを見極めればいい。翌日のエミレーツ航空で決意を秘めて、スネイクはアブダビに向かった。そこで伊勢と合流だ。

 五日、ドバイのスネイクから、シンガポールでのジムトニックの楽勝と、サチカゲの一番人気見込みを聞いて、富士子と高垣は、JAL直行便でロンドンに向かった。

「チャーチルホテルに泊まってくれ。あそこは俺も土地勘があって、連絡しやすいんだ」

「大丈夫。高垣さんも一緒だから。ロンドンの前評判や情報はそちらに入れるわ」

「ロンドンとの時差は」

「四時間のはずよ」

「三月二五日は土曜日で、ドバイは午後の開始だ。メインは現地時間の六時ぐらいだから、ロンドンは正午までだろう。それまでがリミットだ」

「早目に動きたいな。金曜日の朝、ドバイの正午を最終決断にしましょうよ」

富士子にスネイクが答えた。

「週の頭と、水、木、金のロンドンオッズを知らせてくれ。高垣なら、現地スポーツ紙を読みこなせる筈だからな」

「了解した。週の前半から情報を入れるよ」

「俺と伊勢のホテルは、リージェントホテルパレスだ。電話が上手くいかない場合はファックスを入れてくれ。それと、当日の昼までにドバイに入れるか」

「金曜日、富士子さんとブックメーカーを回って十二時二十分のBAでその日の内にアブダビ経由で、ドバイに入れる。大丈夫だ」

「ビザはホテル手配のコピーで受け取れる。土曜日中に入ってくれ。男三人は必要だろう」


 健達のホテルは空港の北西、ドバイ市街のほぼ中央、ヒルトンホテルであった。

すぐ隣にはワールドトレードセンターの円筒型でモダンな高層ビルが接していた。日本総領事館もこのビルに入っていた。ナドアルシバ競馬場は、そこから、南西へ市街を抜け、車で約三十分という好立地であった。

 曽我は、万全の手配を行った。ゴドルファンファミリーのほとんどの競走馬を管理している、スルール厩舎の警備は厳重だったが更に、ドバイ競馬会から紹介してもらった現地警備会社に、二十四時間サチカゲ警備を、到着と同時に依頼していた。念には念を入れていたのだ。


 スルール厩舎の中央馬房が、国際招待馬房として認められた。JRA伊藤の事前のネゴも効果があった。サチカゲは、馬房に入り、少し辺りを伺う様子を見せたが、石井兄弟と大牟田、そして健の姿を見て、安心した。

翌日は休養で、五日から乗り運動を開始した。スルール厩舎の馬達と、本馬場で軽いキャンターを始める。徐々に気迫と闘志が高まるサチカゲを、大牟田は実感していた。


 三月十五日、シンガポールから、ジムトニックがドバイ入りした。タフな馬だ。ダーツ調教師もシンガポールから直接ドバイ入りし、十七日の調教で、サチカゲとの併せ馬が早くも実現した。

 本馬場は、向こう正面に向かってオムスビ型の左回りであった。一週二千■。七分どころから二頭は併走し、ゴール前は少しジムトニックが先行した。両馬共フットワークの良い、好調を示す調教だった。

海外馬との併せ調教は、大牟田にとっても始めての経験だった。しまいは追わずにと考えたが、サチカゲはジムトニックに負けまいと、大牟田のタズナを首で何度も大きく引っ張った。

千六百=九七秒二  千=六十秒九  六百=三六秒二

日本の調教では考えられないラップを二頭は記録していた。

 健は日本G・級のタイム水準に首をひねった。

「大牟田さん、追いすぎじゃありませんか」

「いや、俺もビックリしているんだが。押さえに押さえたんだ。ジムトニックが走り過ぎたのかな。しかし、決してオーバーペースじゃない。スタートは、十四秒、十三秒の筈だ。中間が十二秒~十二秒の中。後半十一秒八くらいと思うが…」

「いや、最後の四百は、ラップで十一秒二、十一秒Oでしたよ」

「本当か。押さえていたんだよ。」

二頭はこれがオーバーペースでなく、絶好調である事を本番で示した。


 ムハマド・ビン・サイードは、彫りの深い鋭い眼光を、顎鬚で際立たせた有名なドバイ皇太子であった。

兄のハムダン・ビン・サイードと共に、アラブ首長国の要職にあり、七つある首長国のうちでドバイをビジネスセンターとして、取り仕切るアラブ人である。

一九四八年生まれで、当年五二才と働き盛りだ。

父の代から、一族はラクダレースに興味を示し、兄が競走馬のオーナー、弟が英国の厩舎を運営している。ここ数年はドバイで世界屈指のレース場とトレーニングセンターも運営していた。

スルールを主力厩舎とするこの一団を、ゴドルファンファミリーとして、世界競馬界が認識しだしたのは、国際G・レースでのファミリーの活躍と抬頭があったからだ。ムハンマドは、国際競争をビジネスとして管理していたし、何より、英米流の調教に対峙する手法が話題ともなっていた。各国で競争に耐えうる、強靭で精神力の優れた調教や育成を、科学的手法で研究し、実践していた。

彼もジャパンカップのサチカゲに注目していた。

日本G・へ過去三度ほど挑戦したが、九八年のファビラスラーフィンが、ファミリー所有馬で唯一の秋華賞勝ち馬であった。


 レース一週間前の朝、ムハマドは突然、スルール厩舎にやって来た。すぐに曽我と村田が呼ばれ、応対する事になった。

「管理は万全と思うが、何か不便はあるか」

若いアラブ人が直裁的に通訳した。

「いや、ありません。施設や管理も万全です」

曽我は恐縮しながら、ムハマドに答えた。

「サチカゲのジャパンカップはビデオを見ました。素晴らしいレースだった。調子はどうですか。たしか、香港では、大変だったようですね」

「よく、御存知ですね。今回は日本で再調教し、早めに来させていただきました。調子はよさそうです。飼葉もよく取っています」

「それは良かったですね」

ハムダンは鋭い眼に優しい光をたたえてサチカゲの全体をじっと凝視していた。

サチカゲはたじろがずに、ハムダンを見る。

「精神力の確かな、素晴らしい眼をしている。勝負は時の運もありますが、いいレースをするでしょう。私のドバイミレーユーも良い馬ですよ。対戦が楽しみですね」

「殿下の馬も良く存じております。御訪問いただき光栄に存じます」曽我は丁寧に訪問のお礼を述べた。       







          ドバイ2



 翌二十日のドバイワールドニュース誌には早くも、ハムダンのサチカゲ視察が記事となっていた。伊勢とスネイクは、英字紙をゆっくり、辞書を手に読んでいた。

「ムハマドがここまで関心を持つなら、人気は間違いないな」

「ドバイミレーユー、ジムトニック以上の評価になりそうだな。その他の伏兵が欧米からどう出てくるかだが……、まず人気は堅いだろう」

スネイクも流れを読んでいた。

今回は、この地で人をやとう訳にはいきそうもなかった。アラブ世界の実態が掴めなかった。秘密がどう守られるかも見当がつかない。「我々でやるしかないな。ロンドンから高垣も来る。三人でやるしかない」スネイクは自分達が実行部隊だと覚悟していた。

「北海道での様子からして、旗が眼に入れば、大きく影響するだろう。ダートでの一瞬の気おくれは、致命的だ。芝なら、数百■で巻き返せるけどな」伊勢も、ここが最後の大勝負と考えていた。


 健と尚子はサチカゲの関係者として、インターナショナルビレッジ通行証を携帯していた。

 アラビア湾から南東に切れ込むドバイクリークは美しい水をたたえ「商いの都」ドバイのシンボルであった。北に官庁、オフィス街、南に旧市街と街を二分していた。

アラブの帆船「ダウ」が停泊し、アブラと呼ばれる渡し船が行き交う。

 尚子と健は、サチカゲの警備が、委員会と曽我の手配で、二重に厳重であった事で、レースまでの最終一週間は、朝サチカゲの運動をテェックすると、午後は、市街を歩いた。

尚子はアラブ独特のスークにカメラを向けた。年配の女性はベールに身をつつみ、カメラを避けようとしている。尚子もアラブ女性には気を配っていた。金スークで、健は日本人の観光グループに出会った。日本からパック旅行でサチカゲを応援しに来てくれたファンであった。

彼等もアラブ独特の街並とスークを楽しんでいた。

クリークに沿った市場から、ヒルトンホテルに向かう広場の向こうに、健はスネイクを見た。尚子は気がつかない。

「尚子さん、もう少し歩いて帰るから、先にホテルへどうぞ。夜のレセプションの支度もあるだろう」

尚子は少し不満そうに健を見たが、了解した。

 健は、ゆっくり歩いて、スネイクを追った。淡いサファリ風ジャケットの男は間違いなく、

「あの、男」だった。

 ーーやはり、奴は来ていた。思った通りだ。サチカゲに仕掛けて来るだろう。しかし、ドバイで馬券の発売はない。仲間は英国か香港だなーー

男はカラマショッピングセンターのロータリーを右に向かった。健達のヒルトンホテルはロータリーを左に向かって、約十分のワールドトレードセンターの向かいであった。

ーー奴も、市街のすぐ近くで準備だな。

      さすがにサチカゲには近ずけないーー

ザベール通りを足早に歩いて行く。五分程でナビッド・アル・ウオリードストリートに出ると、左折した。行政区画に入る右手前のリージェントホテルに入っていった。

 ーー奴は、リージェントか。今回もサチカゲに旗を振るつもりだろう。思い通りにはさせないぞーー

健は相手を確認し自信を深めた。今度こそ、はめてやる。

 

 その夕方、曽我、村田、大牟田に男の事を話した。委員会経由で警察へ通報する事に決めた。

 夜、委員会と連絡が取れ、警備責任者がやってきた。

健は、JRAの伊藤を通訳にして、サチカゲの日本での事件と妨害グループの実態を話した。伊藤もこの話にびっくりして、林を呼んできた。林と健はさらに詳細に警備責任者ファウドに慎重に説明した。

「この件は私の上司、カシムからムハマド殿下にもお話して対処したい」最後にファウドは口髭に手をやりながら慎重に答えた。

後はサチカゲの訓練の成果に期待する他はなかった。

        ロンドンー高垣

 二一日火曜日、ロンドンのチャーチルホテルから長距離電話があった。

「表さん。メンバーが発表されましたよ。そちらでも…。十二頭ですね。サチカゲは内枠四番。シンガポール国際カップ勝ちのジムトニックが一番、去年アムルタルワケルの二着馬アメリカのマレッキーが三番ですね」

 「こっちでは、ムハマドのドバイミレーユーと八番のリスペアーが相当の評価になっている。ゴドルファンファミリーが、今年も連覇を目指すという論調だよ」

「今日の大手ブックメーカーのオッズを見ると、ロンドンでもジムトニックとサチカゲの評価が断然ですね。リスペアとドバイミレーユーが、これからどれだけ伸びるか、みものですね」

「やはりそうか。毎日のオッズと論調を知らせてくれ。じゃ、こちらの今日のオッズを言うぞ、書き留めてくれ」


 イギリス馬の評価がロンドンでは少し高かったが、サチカゲ・ジムトニック・UAEのドバイミレーユー・シーズウエーブの順位は変わらなかった。高垣がメモを手に読み上げる。二一日のロンドンオッズは

「四番サチカゲ三・三倍、一番ジムトニック六・八倍、

十一番ドバイミレーユー七・0倍、三番アメリカのマレッキー八・一倍、五番アメリカのヘーレンズ九・二倍、以下はイギリスの七番ランニングスタッフ十三・六倍、八番リスペア十四・四倍、九番フランスのパルポウ十七・0倍、サウジの十二番マタハッフ二一・二倍、最後が香港のオリエンタルエクスプレス二二・0倍となっています。サチカゲが断然の人気ですね。サチカゲの調子は、そちらでどうなんですか」

「調子は良さそうだ。外国招待馬の管理は、日本以上に厳重で関係者以外近ずけない。マスコミも公開調教以外は近ずけず、間接的に情報を取るしかないんだ。伊勢がこっちのマスコミに渡りをつけて状況は把握出来ているよ。

 JRAからは、林と若手が一人、それに北海道で再調教に立ち会っていた多摩川と写真家の細田がチームで来ている。彼等はヒルトンホテルで、俺達のホテルのすぐ近くだ。奴等の毎日の行動とスケジュールを監視しながら、目立たないようにしているよ。こちらでは、どうも人を雇えそうもない。例の旗振りは、俺達三人でやらねばならんだろう」

「二十四日、金曜に移動します。こちらでの購入は二十三、二十四日の二日に絞りましょう。資金の手配は済んで、小切手が切れる状況にしてあります。富士子さんが万全の手配をしてくれていますよ。

 香港上海銀行、香港シティバンクのそれぞれ三億円相当と、こちらのチェスマンハッタンの四億円、合わせて、九百万$ありますよ。十億円の一括購入は二か所では難しそうなので、今、調べています。表さんが使った二社で五百万$は受けてくれそうなんで、あと二社程度追加するかも知れませんよ」

「それは任せる。富士子を信頼しているよ。今回は、単勝で勝負したいんだ。サチカゲ外しで三頭程度に絞りたい。ウエイト分散させよう。倍の二十億円が目標だからな」

 高垣も富士子も、一人五億円相当の分配は、九七年から三年以上かけた計画だから、当然という思いもあった。

これで各々が一区切りつけたいとも考えていた。

三月上旬のロンドンはまだ寒さが厳しく、現地スポーツ紙や週刊誌を念入りにテェックしながら、何度も熱い紅茶を飲む一週間であった。

 ーー万一の時、元に戻ればいいだけだわーー

富士子は腹をくくっていた。






       ナドアルシバ競馬場


 ナドアルシバ競馬場は、シティセンターから車で南西約十分の所に位置していた。

 一周、二二四0■の左回りコースで、ナイトレース用に走路脇に照明灯が準備されている。巾二一■でフルゲート十八頭が競争可能であった。去年の第四回ドバイワールドカップは、伏兵五番人気のアムルタルワケル(UAE)が、二番手から先行するアメリカのマレッキーを四分の三馬身おさえての優勝で、ハムダン殿下の所有馬だった。

 今年からはワールドシリーズの第一戦と位置付けられ、ゴドルファンを率いるムハマド殿下は、サチカゲをおさえて、連覇したいとマスコミにコメントしていた。


 賞金総額は五百万US$で、その六十%、三百万US$(約三億三千万円)が一着賞金。世界最高の優勝賞金であった。

ムハマド殿下の弟で、UAEエミレーツ航空会長のアハメッド殿下が、今年ワールドシリーズ第一戦を契機に、第三回までの公式スポンサーになっていた。

三年間で十八億円の国際競走馬輸送補助金も提供する事が公表されていた。名実共に世界最高水準のダートG・である。


 ドバイではイスラム教の宗教上の理由で、馬券発売はなかった。入場者一人一枚の投票券で、全レースの一着(ビック6)的中者に十万ディルハム(約三百二十万円)の賞金が出る他、連続二レースの、一ー四着順通り的中者に約二百四十万円。メイン午後八時十五分発送予定のドバイワールドカップの一ー四着的中者にフォードセダンが贈られる。シーズン開幕の一大イベントでもあった。

 日本からは、九六年シーガ優勝年にライブリーマウンテンが六着。九七年はシングルピールがジャパンカップと共に制圧。この年メイジョウオペラが無念の競争中止。九八年にはキョウトタウンが六着。 ナドアルシバのダートコースは、ここ数年の国際競争のたびに改良され、砂質は、当初のハードなものから、フロリダタイプのややソフトな質に転換していた。


 スタミナと共にスピードが必要であった。ダート二千メートルのトラックレコードは、九九年に二分OO秒・五三が記録されていた。

 三月二十二日レース三日前の水曜日と翌、木曜日に最終調教を行う馬が多かった。サチカゲも、ダートコースを使って朝、最終追いきりをかけた。後脚の張りが一段と逞しく、薄い皮膚からは闘志があふれるようであった。

 向こう正面のほぼ中央から、単走で三、四コーナーを力強く駆け抜けた。大牟田や村田は、ライバル関係者がサチカゲを第一番の相手と目している事を充分に感じていた。国際色に包まれるコースの中でも一際、サチカゲの存在感が目立った。


 レース二日前、ロンドンのサチカゲのオッズは三・三倍から三倍を切り始めていた。

ジムトニックの六・八倍は六倍前後。ドバイミレーユーも票を伸ばし、二、三番人気を競り合っていた。

「表さん。サチカゲが断突になりつつありますよ」

「筋書き通りだな。水曜にサチカゲ、今日ジムトニックと、殿下のドバイミレーユーが追い切った。良い動きだったよ。ドバイミレーユーはスピードもありそうだ」

「ロンドンでも、ドバイミレーユーか、五番アメリカのヘーレンズが対抗という評論家が多いですよ。オッズほどジムトニックは専門家に評価されていない」

「シンガポールからの中三週転戦だしな。スピードよりスタミナが勝っているように、俺も伊勢も見ているんだ」

ガルフストリームパークを一番人気で圧勝したヘーレンズも絶好調で逞しい。

「所で、例の旗の準備は?」

「日本から持って来ている。大丈夫だ」

「アメリカのヘーレンズは相当いけそうと専門家は見ていますよ。アメリカ勢が上位独占した年もあったでしょう。」

「九六年のシーガの勝った年だろう。あの時よりダートは軽く、タイムが出る。スピードも必要なんだ。順当ならサチカゲだろうな」「恐怖に勝てれば、俺達の負けと言う所ですね……。その時は、やむをえないか」

「少しでも躊躇すれば、サチカゲの一着は無いさ。伊勢も同じ意見だ。香港の時のような暴走はないかもしれないが、このクラスでダートだと、致命的だろう」

「そうですね。やりましょう。総決算だ。今日木曜日に表さんの行ったTBB社と、もう一社に買いに行きます。サチカゲ外しだから、ドバイミレーユーとジムトニック、マレッキー、ヘーレンズ迄でしょうね」

「伊勢と俺は、2番人気だが、調子の落ち始めたジムトニックはないと思っている。昨年2番のマレッキーにも迫力が欠けている」

「とすると、三番手のドバイミレーユー、五番手のヘーレンズで勝負という事ですか」

「主力はそうしたいが、どうだろう?」高垣も考えていた。 「サチカゲ外しとマレッキーには異論ないけど、ジムトニックがどうしても気になりますね。ジャパンカップ、シンガポールと渡り歩いて、それなりの結果を出しているタフな奴ですからね。表さん達は“ない”と言うけれど」

伊勢が電話を変わった。

「富士子さんにも聞いてくれ。四人の計画だからな。四人で一致としたいんだ。今日のところは六割の六百万$だけ決めておかないか。残りを明日、金曜日、そちらの朝に決めようじゃないか」

ロンドンから間があった。

「わかったわ。私はジムトニックについては、わからない。高垣さんがどうしても気になるようなので三人で決めてちょうだい。文句は言わないわ。所でドバイミレーユーとヘーレンズのウエイトはどうするの」

「じゃ俺からだ。ドバイ4にヘーレン2だ」

スネイクが先頭で提案した。

「高垣、お前は?」しばらく間があった。

「ヘーレン3、ドバイ3」

「富士子さんは」

「ドバイの方がつきそうね。ドバイ5、ヘーレン1でどう」

「最後は伊勢だ」

「ドバイ、ヘーレン、イーブンだ」

「ドバイ対ヘーレン 十五対九だな。じゃあ、富士子さんドバイミレーユーをTBB社で単勝四百万$。M&B社でヘーレンズ二百万$買うという事でどうだ」

「TBB社の四百万$を至急交渉するわ。昨日までは三百万$リミットと言っていたから」










         レース一日前ー健



 レース前日の金曜日、健はJRAの林と競馬場の警備態勢のチェックも兼ねて、委員会の若いアブドウ・ハシムに場内を案内された。

ハシムはムハマドの息がかかっていた。欧米生活も長く、白いベールと、黒の頭にはめるワッパが不思議なくらい流暢な英語を話した。彼はすでに昨晩ファウドから報告を受けていた。

 スタンドは広くゆったりしていた。林は改装された日本の新潟のスタンドに似ていると思った。コースとスタンドの距離が余り無い。

「林さん。奴等はこの四コーナーでやりますね。きっと例の旗を振りますよ」

「そうだな。スタートが2コーナー寄りの向こう正面だから、ここしか無いな」

「目立たないように警察を置きますよ。制服を着せなければ奴等もわからないでしょう」

 ハシムはサチカゲ妨害の一件について、すでに詳細を聞いて対策を立てていた。

 彼も国際G1を自国で妨害する一団に、断固とした方針で望む事に腹を決めていた。

そしてハムダンにもその事を事前に報告してあった。

 ハムダンは鋭い眼を光らせていった。

「全く馬鹿な奴等だ。警察間の国際問題にならないようにイスラム宗教警察も待機させて、不敬罪で逮捕しろ。皇族同席時の「黄色」の意味をハッキリと思い知らせてやる。取り調べは、日本側の動きも見て、別に指示する。私の馬と戦うサチカゲを妨害させるな」

 殿下の決意も固かった。

ハシムは林にその事を告げていた。

JRAと協調して『不正』に断固立ち向かう体制が準備されていた。

 林と健は『国際許可証』を見せて国際馬房のサチカゲを見に行った。

 曽我と村田、大牟田も来ていた。朝の引き運動が終わって、洗い場で、サチカゲはゆったりとシャワーを浴びていた。落ち着いていたが眼にはすでに闘志が宿っている。レースが近い事を理解していた。

「調子は良さそうですね」

 健は曽我に聞いた。

「村田君や大牟田君が頑張ってくれてる。闘志も溢れてきたね。馬体重も理想の四八六キロだ。やはり、ドバイ、ジム、ヘーレンズあたりとの勝負になりそうだな」

「走法から見て、スピードスタミナ双方で、相手は、先行するドバイだろう。ヘーレンズが先団で、ジムとサチカゲがその後、好位集団という事になりそうですね。ダートが意外に軽いんで、残り二百メートル、五馬身の位置なら届くでしょう。ところで例の奴等は?」 大牟田も奴等が気になっていた。

「四コーナーでやるだろう。こっちの警察が私服で待機しているが、万一という事もある」

「サチカゲに、この二、三日、例の黄色の旗を見せているんですよ。すこし眼の色が変わりますけど、もう恐怖で怯む事は無い。大丈夫でしょう」

 村田もサチカゲの強さを確信していた。

「ムハマド殿下の指示もあって、ドバイ側も断固対応する腹です。それにJRAの威信もかかっている。サチカゲを信じましょう」

林も万一の場合を想定しているJRAと、毎日連絡を絶やさずにいた。国際間のスポーツ問題とならない事を願いながらも『不正』との対決を覚悟していた。

林はそれは自分の責任分野と考えていた。



 金曜日のロンドンは久し振りに雨が上がった。富士子はいよいよ大詰めを向かえていた。

「昨日TBB社が了解して、単勝でドバイを四百万$買ったわよ。ヘーレンズの二百万$は約束通りM&B社で済んだわ。今日、高垣さんがこれから、アブダビ経由でそっちに入るけど、残りの四百万$はどうするの」

高垣が代わった。

「ジムトニック全額でなくとも、六倍前後だから半分は押さえておきたい。どうだろう」スネイクは伊勢と話して決定した。

「よし。二百万$はジムを押さえよう。残る二百万でそっちの提案はあるか」

しばらく間があった。

「やっぱりヘーレンズよりドバイだろう。富士子さんもドバイに賭けたいと言っている」

「俺達もヘーレンズよりドバイが、地元の利も生かせると予想していたところだ。じゃ、ドバイ二百で言いな」

「いいわよ」

「了解だ」二人の声が聞こえた。


 富士子は高垣を空港に送ると、その足でビクトリアステーションに位置するブックメーカー2社に向かった。昨日からサチカゲ以外の単勝を二百万$購入を打診していた。


 前日のオッズではサチカゲが三倍を切って二・五倍をつけていた。ドバイ、ヘーレンズ、ジムトニックが六倍代で並んでいた。ドバイミレーユー、ジムトニック各二百万$の受渡証を見てこれで一応の区切りがつきそうだと富士子は感じていた。

 行き交うイギリス人の顔を始めてゆっくり眺める心境になっていた。

 雨上がりの雲間から僅かに光が射し始めている。きっとドバイは抜けるような青空なんだろう。

   ーー後はレースを待つだけだわーー



        前日夜パーティ



 前日夜ドバイインターナショナルヒルトンホテルでは、ムハマド殿下も参加されて国際レース前夜祭のパーティが行われていた。

 ワインレッドのカクテルドレスをさりげなく着こなした尚子がこれほど素晴らしく光って見える事に健や曽我も驚いた。

 ドバイミレーユーに乗るゴドルファン主戦騎手のテットリーも魅せられたように側にいた。ワイングラスを軽く口に付け

「サチカゲは強そうですね。ドバイとの対戦を私も楽しみたいと思います」

「ドバイも調子が良さそうで、私も楽しみにしております。良い騎乗が出来ますように」

「ありがとう。MR大牟田の健闘を祈りますよ。でも私の馬が少し強いかな」

 笑いながらテットリーがウインクした。二人はグラスを軽く挙げて口をつけた。


 ボールルームは各国のオーナー、調教師、騎手や関係者が不安と期待を内に秘めて互いの調子を値踏みしていた。

 ハムダンはその一団を丁寧にゆっくり回ってホストの役目を果たしていた。

健と林の所で立止まると

「いよいよですね。公正なレースになるよう万全を尽くしています」

一瞬温和な表情に鋭い光が宿った。

 健と林にも殿下の覚悟が理解出来た。二人はゆっくり頭を下げた。

「各国馬が力を尽くせるようにとの殿下のお心と御手配に、心より感謝申し上げます」

 林は率直に答えた。

「MR林、サチカゲに期待しています。何が起ころうとも大事には至らせません」

 ハムダンはおだやかに答え欧州の一団に向かった。

 明日は、ドバイワールド第五レースの他に、シーマクラシック(国際G1 芝二千四百メートル)に、日本のゴーイングスズキ。ゴドルファンマイル(ダート千六百メートル)に、タガミサイレンスも参加することになっていた。

 馬主の森田、蔭山、騎手の三位、郷間、調教師の立花達のやや緊張した顔も見えた。

 林は彼等と談笑しながらも明日の警備が気になっていた。


 二階のホールから吹き抜けのエレベーターで健は尚子を部屋まで送って行った。尚子はあと少しという感じで緊張をとぎれさせまいとしていた。

健は迷った。

 彼女を欲しいという思いを必死に自制した。

尚子が部屋の前で振り返った。健をじっと見る。

「明日で終りね。もう少し……」

 少し頭を挙げてゆっくりと眼を閉じた。

健は一呼吸置いて気を休め、上品に流れる唇に軽く唇を合わせた。尚子のうなじのあたりからラベンダーの香りが漂っている。尚子の両腕を離すとうなずいて健はほんの少し下がった。

「おやすみ。明日は早いよ」

尚子も眼を開けるとホッとした表情を見せた。

「サチカゲの無事をお祈りをするわ……」

「ここはアッラーの世界だけれど君は何に祈るんだい」

「やはり仏様かしら」

「日本人だな」

健は笑って手を挙げるとエレベーターホールに向かった。

 窓の向こうにアラビア湾を走るダウ船が見えた。その地平線には、星がいくつか光っている。




       

     

  前日ー高垣


 金曜日午後九時にブリテッシュエアでアブダビに到着した高垣は高速道路を北上していた。

左にアラビア湾が眼に入った。ダウ船の向こうにドバイの明りが見えて来た。今日はかなりの強行軍だった。

 リージェントホテルパレスの玄関でスネイクが待っていた。チェックインを済ませオーキッドバーに下りた。カウンターには観光客がいた。伊勢とスネイクは奥のテーブルで現地スポーツ新聞を開いていた。

「やあ、大変だったな。ご苦労さん」

 伊勢とは一ケ月振りの再会だった。

 ーー今日は酔う訳にはいかない。明日があるからなーー

三人は同じ思いでハイネケンビールで乾杯した。

「ドバイに六百万$、ヘーレンズに二百万、ジムトニックに二百万、いずれにしても二千万$弱の配当というところだ」

「サチカゲは調子は良さそうだ。四コーナーで三人でやるとして、万一の事もあるけど……」

 念の為スネイクは口を聞く。

「覚悟は出来ているさ。やられたら帰国して次の機会を待つ」

 伊勢は動揺していない。

「俺はサチカゲが勝つとは思っていない。四分の一でも約五億円弱だろう。香港で日本人学生相手の進学塾をやるつもりだよ」

「しかし、高垣。競馬には万一という事もあるぞ。長い間レースを見てきて分かるだろう。競馬に絶対は無い」冷静に言うスネイク。

「分かっているが勝ってもらっては困る」

「結局のところ神仏頼みってやつか」

 伊勢が笑った。

高垣が手を合わせた。

「仏ってやつは霊がないから神に祈ろう。日本の神に」

「日本の神っていうのは誰だい」

「さあな、そう言われると……」

 高垣は笑った。

「大旗は三本だ。約二メートル間隔ぐらいに位置しよう。四コーナーを回った所だ。走路とスタンドが近いから、かなり効果はある筈だ」

 スネイクは競馬場のマップを開いて示す。

「終わったら応援旗と言えばいい。

サチカゲと黒の英文字も入れてあるからな」

「さあ、今日はこれくらいで休もう」

ドバイ三月二四日宵。金曜日午後十一時半、三人は明日の大勝負を期待して部屋に戻った





 三月二五日ドバイの朝は気温二二度Cとやや低目であったが空気は乾燥し清々しい朝であった。

 健と尚子は曽我と連れ立って十時にヒルトンホテルを出発した。村田と大牟田は一時間早く国際馬房のサチカゲの所へ向かった。

 林はドバイワールドカップ委員会のメンバー最終朝食会の為に八時にはワールドトレードセンターに向かっていた。


 ドバイの街は昼過ぎから独特の華やいだ雰囲気が充満していた。車で約三十分のアドナルシバはそれでも厳重な警備をしている。現地アラブ人は家族とピクニックを楽しむ様子で一般ゲートを整然と入って行く。

 一般、外国人共に荷物チェックの金属探知器が設営されており、時々バッグの中身を調べられる者もあった。


 スネイク達は前半三レースが終了した午後五時過ぎホテル手配のリムジンと観光客入場券で外国人ゲートへ向かった。金属探知器に旗のポールが引っ掛かり、ショルダーバッグを開けさせられた。

「このポールは何かね」

 警備員が聞いた。

「日本のサチカゲを応援する旗をくくるんだ」

 スネイクは予期した事で平然と答えた。

「そうか。サチカゲは強そうだな。ドバイの馬も強いぞ。“インシャラー”(アッラーのままに)」

三人がゲートを抜けると警備員はボックスの電話を手にした。

「今、三人が通過しました。一人は白のジャケット。残る二人は、ブルーと、ベージュのポロシャツの男です。四コーナーの方向に歩いています」

「こちらでも今、モニターで三人を確認した。ご苦労」

 ハシムはかたわらの男達にモニターで拡大された三人を示した。

「いいか。旗を取り出し、一振りしたら現行犯で逮捕しろ。旗が黄色である事を確認する事。英語は使うな。不敬罪である事と、権利の行使をアラビア語で言え。直ちに私の所へ三人を連れてこい」

この指示だけで充分だった。



 前のシーマクラッシックで日本のゴーイングスズキが直線で追い込んだが四着。ゴドルファンマイルはタガミサイレンスがゴール前失速して八着という結果であった。




 ロンドン午後四時。チャーチルホテルで富士子はテレビ中継を見ていた。

 UAEは午後七時。パドックが写った。四番サチカゲのそばには村田と尚子がいる。サチカゲの調子は良さそうだ。

 十一番のドバイミレーユーも良く見える。騎手テットリーの自信に満ちた顔がクローズアップされた。他ではヘーレンズ、九番フランスのパルボラが良く見えた。一番ジムトニックはやや細めで元気を欠いているようだ。 健の姿を富士子は捜したがパドックにはいない。スネイク達も四コーナーの筈だ。

    ーー後は結果のみねーー

 結果がどうであれ二七日、成田のホテルで落ち合うことにしていた。富士子は八割勝算有りと踏んでいた。

 


      

  ドバイ・ワールドカップ当日



 七時二十分。パドックから本馬場ダートに入場した各馬は、ダク足からキャンターに入り、右回りで向こう正面二コーナー奥ポケット地点に向かった。

 尚子と曽我は三階来賓席で祈る気持ちでサチカゲを追う。

 大牟田もそう緊張していない。林は委員会メンバーと二階の主催者席で四コーナーの日本人を捜していた。健はスタート直前に四コーナー。コース横のスタンドに降りた。

三人はいた。

回りは白いベールに身をくるんだアラブ人でいっぱいだ。

 ーー大丈夫だろうか。誰が警察か分からないーー

健は目立たないように、上下ベージュの夏服で、スタンド最前列の柱の影で、三人を凝視していた。

 その時、ベルが鳴った。午後七時三十五分ドバイワールドカップのスタートが切られた。




 レースは九番フランスのパルボラが外枠から先行した。

 ペリエーが首をグイグイ押して先頭に出る。内からジムトニックが二番手で、その外をアメリカの三番マレッキー、約二馬身後を、内にドバイミレーユー、外にサチカゲが追走している。

 アルジャブルー、ランニングスタッフ、香港のオリエンタルエクスプレス、最後方をサウジのマタハーフで残る千六百メートルを通過して行った。

十二秒台前半の早い流れで後続は追走するのがやっとのペースであった。

何が先行でつぶれるか!

 健もスネイクもそう考えて馬群を目で追った。

八百メートルラップが四九秒0と最速のダートペースであった。その後もハロン十二秒台のペースはゆるまない。

 残り千の三コーナーでパルボラの足があがってきた。

ジムトニックが内側から押し出されるように先頭に立った。

 千メートルのラップは六十秒0と芝並みの高速ペースで国際馬が進む。マレッキーもやや早めに二番手に押し上げ始めた。

 サチカゲの内で、テットリーが、

 「ゴー!」と鋭くドバイミレーユーに声を掛けて四番手に押し上げ始めた。

 テットリーの肩が丸くなり、ミレーユーの首を押す。

 大牟田はサチカゲを励ました。何とかこのペースについてこれた。

「サチカゲ、もう少しの我慢だ。まだ早いぞ。前のミレーユーの外でいい。まだ早い。まだだ……。まだまだ・・・・・・」

 千二百の通過が七十二秒一と依然高速ペースであった。 パルボラが内から外にやや膨れ気味にズルッと後退してきた。

 ベリエーが必死に左に立て直そうとして、僅かにサチカゲの前を横切る。

 サチカゲは怯まなかった。四コーナーにかかった。

 大牟田は一追いする前に、スタンド最前列を一瞬見た。

  黄旗が僅かに一本挙がった。

 サチカゲの眼にも入ったようだ。左足の着地と次の右足蹴りが僅かに外に向かった。

 驚いた事にその瞬間、グイッと重心を低くすると首を前に引き、エンジン全開で前を追い始めた。

残り四百でジムトニックが力尽きて左に後退していく。テットリーのドバイミレーユーまで五馬身あった。

 まるで夢のような光景だった。

残る六百から四百を十一・五秒。二百までを十一・四。

そしてゴールまで十一・二で重戦車のように駆け抜けたのだ。

 ゴールで大牟田は勝ったと確信した。

サチカゲの首を大きく二度叩いてねぎらった。

「お前は凄い奴だ。勝負に勝って不正にも勝った」

 大牟田はサチカゲを誇る気持ちで眼が潤んできた。

 ドバイミレーユーのテットリーが側に来た。

「おめでとう。負けたよ。このペースで負けたんだから仕方がない。サチカゲは強いよ」

 ドバイミレーユーの馬体からも湯気が立ち昇り両馬は併走してメインスタンドに向かった。

皇族席では静かに拍手するムハマド殿下の姿が見えた。


 スネイクの指示で旗を取り出した瞬間。三人は取り押さえられた。訳がわからない。

「何だ!! 何なんだ」

 高垣は日本語で大声で叫んだ。

「…………!!」

 アラブ人が鋭い口調で何か言う。

「どういう事だ」

 スネイクもアラブ人に両脇をがっしり固められ高垣に叫ぶ。

ポリスという言葉以外はアラビア語なので理解出来ない。

 スネイクはこの瞬間捕まったことよりも、今はゴールをサチカゲが首差先着した事で頭がいっぱいだった。

 ーー一千万$失った。この瞬間。ロンドンで失ったーー

 後ろでは伊勢もスネイク同様呆然としている。

 空白の頭でアラブ人に両脇をブロックされ、連行される眼の前に宮内健がいた。

 【インジャステス!!】

 健はスネイクに鋭く言った。



 スネイク伊勢、高垣は委員会に連行された。そこにはカシムが待っていた。英語だった。


「君達三人を、UAEの宗教法第六二条現行犯で今逮捕する。皇室の色『黄色』を公衆の面前で使う事はこの国では不敬罪だ。君達にも宗教法に乗っ取り弁護する権利はある。この英文を読みなさい」

 それは有無を言わせない毅然とした態度だった。

 高垣は、事態を理解し悄然としている。

スネイクと伊勢はいまだ事態を飲み込めずにいた。

彼等二人の内部ではサチカゲの勝利の意味が余りに大きかった。高垣が情けない声で

「黄色を公衆の面前で使用する事は、宗教上皇室への不敬罪だと言っている」

「そんな馬鹿な事があるものか」

 伊勢が吐き捨てるようにどなる。

 JRAの林がやって来た。

「日本人ですね。宗教法の不敬罪では、どうしようもない。しばらくこの国のジェイルに入る事になるでしょう。この国の法と裁判を受けないわけにはいかないでしょう。厄介なことになりましたね」 

 スネイクと伊勢は猛烈に不服を述べサチカゲの応援であったと主張した。

 五分間程必死の抗弁が続いた。

しかし、シムはかたくなに応じなかった。

 三人に次のように申し渡した。

「日本や香港ではそれで通じたかも知れないが、この国では通じない。従ってもらう」

 静かに言い放った。

スネイクと伊勢にも、事の重大さが身にしみてきた。

白いベールの宗教警察官に引き立てられて三人は車で護送されていった。




         エピローグ


 ロンドンのホテルで富士子も呆然と部屋に立ちつくしていた。

 ーーサチカゲが勝った。そして十億円がパーーー

 勝負に絶対はないにしてもサチカゲの勝ち方は余りにもショックだった。

 二時間後力を励まして、ドバイリージェントホテルに電話を入れた。そして、知った。

三人が不敬罪で宗教警察の取り調べを受けている事を。

 ーー終わったわ。どうしようもないーー

 富士子はしばらくじっと椅子に座って気持ちを落ち着けていた。

 気持ちの整理がつくと電話を取ってバーを呼んだ。

 「スコッチをボトルで、氷と水もね」

 ーー今日は一本飲んでぐっすり寝よう。それしかないわーー


 サチカゲ勝利の夜は曽我も、村田も大牟田も思い切りの喚声を挙げ、健と尚子に感謝した。

 曽我から思いがけないプレゼントがあった。

「尚子さん。私とサチカゲの共同馬主になりましょう。二分の一は今日からあなたの名義だ」

「とんでもありません。そんな事………」

「曽我さんの感謝の気持ちなのさ。もらっておく事だよ」

 健も村田も進めた。大牟田も上機嫌だった。

「尚子さん。そうしましょうよ」

不正と闘い・・・何とか勝利した。

 遠くドバイでサチカゲの汚名を注ぐ事ができたことを全員で喜び合った。

 ホテルでの優勝式典の後健と尚子は二人でベランダに立った。

 尚子の目にうっすら涙が見える。

二人は少し酔ってはいたが今日は尚子が進んで健の部屋に入った。

 二人に言葉はいらない・・・深く深く抱きあう。

どちらからともなくベッドに倒れこんだ。


健は尚子の中に静かに慈しみを込めて深く入っていった。

 尚子の呼吸に合わせいつくしみ、下半身を送り続ける。

 うっすらと眼を閉じた尚子は、女神のような優しさを浮かべている。

健はしっとりと吸い付く肌をゆっくり愛撫していた。

 二人は勝利を感じ、連帯を感じながら、互いの身体を確認していた。

 サチカゲと健に出会った事を尚子は心から感謝して同志そして、いとしい人の肩をそっと撫でた。

 窓からはドバイの朝明けの光が揺らめき、宇宙では一瞬の今日がまた始まるところだ。




その一か月後レース引退、種牡馬としてサチカゲは石井牧場に戻った。

 一月で乾いた粉雪がチラチラと舞う中をサチカゲは、母が不慮の死を遂げた丘に向かってゆっくりとたくましい足取りで上って行った。はるか遠い狩勝峠のあたりは白く輝いていた。


                完

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不正 多摩川 健 @tamagawa-ken

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