人魚伝説

梶谷俊朗

人魚伝説

 チリ。

 肌が焼け、剥がれた。後に鱗と呼ぶことを知るそれは、日が差し込む水の中をゆらりゆらりと漂って、青暗い海の向こうからやってきた鯵の大軍に呑まれていった。彼女はそこに我が身の最後を見出した。それはごく自然な成り行きに思えたし、事実そうだった。


 彼女は”会話”をしたことがない。口から発する言葉を介して行う会話だけのことではない。そもそもこれまで生きてきて、自分の考え、意思を他者に伝えたことがなかった。別に彼女は寡黙で内気というわけではない。自分の思いを他者に伝え、予測できない反応を受け取る、それは人間が皆持っている欲求だったから(彼女は人と言っていいだろう)、当然、彼女は周りの生き物に話しかけた。

 しかし、周りを泳ぐ板型の生き物は全く反応を示さず、表情を崩すことはなかった。そもそも一生を水に浸かって生きるのに、体がふやけない時点で、表情筋が動かなかいことは予想がついた。それなら自分も反応が薄いのだろうから、そんな面白くない奴と話したくないのだろうな、と勝手に理解した。

 周りで泳いでいる生き物たちと自分が、何か違う、ということだけはずっと前から気づいていた。しかし、それは表面的な違いであって、彼らも皮を剥げば肉がこぼれ、血が青い海に染みていく。だから彼女は、いつか彼らと意思疎通ができると思っていた。

 彼女が彼らとの会話が叶わない、と知ったのは、友人たち(彼女の一方的な)が次々に食べられ、もしくは衰えてピクリとも動かなくなった時だった。彼女は自分と周りの時間の流れ方が違うことに気づいた。彼女は時間が経つほどに力強く、自由自在に動くことができるようになっていった。友人たちが死ぬたびに彼女は機敏に動けるようになった。彼女は友人の死を糧に生きているみたいで、それを強く実感する満月の日には、罪の意識に溺れた。

 ある時、自身の抱えた罪悪感に押しつぶされそうになった時は、尾鰭を腕に力を込めて引きちぎろうとした。当時、彼女は何度か水面から顔を出したり、夜の誰もいない浜辺に上がったりしていた。そうしているうちに、陸への羨望が沸々と湧き上がってきて、比例して海を出たいという気持ちが高まり、ついに憎悪を感じるようになった。その憎悪の行き先は全て体の先端にあった、海に生きることを約束するかのような、薄く醜い透明な膜に向けられた。友人たちの顔を見ずに済むようになりたかった。

 実際は、自分と彼らを友人の仲と思っていたのは彼女だけで、たとえ彼女が目の前でサメに食いちぎられようとも、波に呑まれ深海で押し潰されようとも、彼女の友人たちは何食わぬ顔で優雅に泳ぐから、その憂いは不必要のものだった。しかし、彼女はたとえ話が通じなくとも、彼らのことを自分の大切な友人だと思っていたから、彼女は心を痛めていた。

 それからしばらくして、夜、彼女は硬い崖の窪んだ部分で寝る代わりに、浜辺で海を眺めることが習慣となっていた。彼女を囲む環境の全てが新鮮で、上下方向の移動を失ったことなど全く気にせず、彼女は尾鰭を引き摺りながら辺りを散策した。砂粒は彼女を避けず、むしろ肌に日たりと張り付いて離れなかった。無数の小さな友がそこにいた。

 ところで彼女は海でも陸でも呼吸できることになんの疑問も感じなかった。彼女は空気を透明な水だと思っていたのかもしれない。彼女と話したことある人など、誰もいなかったから、本当のところはわからなかった。

 今日は三日月、海面に映る月明かりが波に攫われ、波に連れ戻される。雲一つない夜だから、白く輝く星が空を埋め尽くしていて、あぁ、空へ行きたいと思った。星に会いたいと思った。自ら光を放つ彼らはきっと、誰にも依存しない彼らは多分、他者に対して寛容だ。攻撃性というのは他者依存の裏返しだから。

 ザッザと音がした。何かを引きずるような、水が流れるような連続した音ではなく、途切れ途切れになる音は、彼女に緊張をもたせた。彼女は上体を捩って、内陸の森の方に目を向けた。じっと睨みながら、お尻を浮かして海の方へ戻る。身の危険を感じた彼女は、陸に留まるのではなく、海を選んだ。

 ボヤァっとあかりが見える。森の中から星が現れた。木々と草木を照らし、影がこちらに伸びている。彼女は後退りした。手に波が当たる。おいでおいでと手招きしているように思えた。その冷たさに、少しだけ心地よさを感じた。

 水面に飛び込む。ザブン、パシャっと跳ねる水が彼女の存在を声高に叫ぶ。水の中から水面に映る光のモヤが見えた。誰かが波打ち際に立ってこちらを覗こうとしているらしかった。彼女はそぉーっと横に回って、その光の正体に近づいていった。陸地の岩陰に隠れ、様子を伺う。その影はどうやら探すのを諦めたらしく、ランプは砂浜に置かれ、足元を照らしていた。やがてその影がしゃがみ、腰を落ち着かせた。腰、胴、首、と次々に照らされ姿を表し、ついに顔が見えた。それは端正な顔立ちをした男だった。

 彼女は一目惚れをした。彼の顔は水面に映る自分の顔にそっくりだった。彼女は初めて自分の姿と似ている者に出会った。それが初めての恋だった。彼女は高揚した。全身から錘が外れて、海が彼女を押し上げ、陸地に向かわせようとしているのを感じた。彼女を包み込んだ浮遊感で、彼女は幸福になった。

 突然、岩の後ろで動く影に反応したのか、男はサッと彼女の方に目を向けた。彼女は反射的に海へ潜った。胸が高鳴る。脈が早まり全身に血が巡る。体が熱い。彼女は一心不乱に沖へ沖へと泳いでいったが、なぜ逃げているのか、逃げなくてはいけないのか自分でもわからなかった。

 月明かりの差し込む珊瑚礁の上で、何故逃げてしまったのか、と後悔が募っていった。一瞬の邂逅は虚像を作り上げ、彼女の男に対する思いは膨れ上がった。彼女の心臓の鼓動が遠い世界で高潮を作った。

 それから、彼女は夜になると浅瀬に来て、水面から顔だけ出し、浜辺でランプをかざす男の姿を見るようになった。時々浜辺の方に近づいてみたり、グルグルと回って水面に渦を作ったりして、男が彼女を見つけてくれることを期待した。彼女は浜辺に上がる理由が欲しかったし、その理由は男にあって欲しかった。

 ある日の夕方、男は浜辺に現れた。彼の手には先の方に糸がついている棒があった。彼は先日、彼女が隠れた岩の方に向かい、上を振って糸を垂らした。彼女は遠目にその様子を見て、彼と会ったら何と話そうか、とだけ考えていた。

 そぉーっと彼の垂らした糸の方に近づいていった。糸の先端には鍵形の針が付いていて、そこにはうねうね動く虫がいて、触ると怪我しそうだった。この糸の先に彼がいる、とそっと糸に触れた。彼の体のようにピクッと震えた糸を見て、少し興奮した。

 水面を見上げると、男の影が見え、彼女はサッと離れ海の底に潜った。彼女のいなくなった糸に、一匹の魚が近づく。魚はその虫に興味を示していたのだけど、彼女は糸に男を重ねていたから、彼女は魚に嫉妬心を抱いた。彼女は再び糸に近づいていった。

 もう少しで魚に手が届きそうになった時、魚は虫を口に咥えた。瞬間、糸が引き上げられ、魚は海を脱した。彼女は呆然と見て、状況を飲み込めた後に、魚に深い憎悪を感じた。今、あいつは彼と一緒にいるのだ。私が選ばれるはずだったあの糸に乗って。彼女は水面から顔を出し、浜辺にいる彼の様子を覗き見た。

 浜辺では、魚が串に刺され、火に炙られていた。

 彼女の目に飛び込んできたその光景は、至極当然だから、簡単に受け入れられるはずだった。しかし、彼女はみるみる青ざめ、唇は紫色に乾いて鳥肌がたった。彼女は自分の髪をかきむしり海に散らした。

 それは彼女にとってパラダイムシフトと言えるような瞬間だった。食、というのはあまりにも日常に密着していて、生き物を食べるという行為は昼になると太陽が昇ることぐらいに真実だったから、注目したこともなかった。

 彼女は今日まで生きてきた自分を呪った。彼女は本当の意味で、友人たちの死を糧に生きてきた。彼女が友だと思っていた者たちは、彼女の食糧だった。彼女は真の意味で孤独になった。

 彼女は一心不乱に沖に出て、海の底に潜ると、下半身を海老のように丸め、カジキのようにまっすぐ伸ばし、しならせた尾鰭で水面を目掛けて加速した。前方から水が押し寄せ、彼女の体を潰そうとする。水と肌が擦れ、発した摩擦熱で彼女の周りの水が蒸発していく。しかし、海は広い。一生賭けても飲みきれないほどの水が、彼女と海の間にできた空白を埋める。海は余白を許さない。彼女は自分が海から逃れられないことを知った。

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