凱旋

ベリル

夢路

私は家に帰ると座敷に上って水を飲んだ。そこには誰もいない。

 空は夕暮れていた。

 私はすぐに、ここがどこだかわからなくなる。見慣れたはずの景色は、シンと張りつめている。

 それからスピカのところに行くことにして、小走りに家を出た。私はスピカが月から来たことを知っている。月のことを、スピカはよく話していた。

 目の前の道は暗くなり、それなのに空はまだ少し明るかった。生暖かい風が吹く。

 スピカは突然来たのにも関わらず、快く迎え入れてくれた。お茶のカップが、テーブルに置かれる。

 「家に誰もいなかったの?」

 私は頷く。明かりのない部屋で、カップの水面は揺れている。

 きつねに化かされたのかもね。スピカは笑って言った。私も笑おうとしたけど、なぜか本当のことのように思えて笑えなかった。

 お茶を飲み終わると、私はすぐに家に帰った。

 家に戻って、誰もいないことを確認すると、私は学校に向かって歩き始めた。それは美術室に忘れ物をしたからだったが、それよりも、早くこの場所から離れたかった。

 海のほうへ向かって、草を踏みしめる。

 日はいつまでも暮れない。

 空には紅がとどまっている。

 追いかけてくる虫の音は、遠くで風に揺れていた。

 海が見えると足を止め、少し息を吐き、また歩き出す。

 学校に続く長い道。

 それは夕日に照らされ、どこまでも続いていきそうだった。

 私は虫の声に急かされるようにして、重たい足を前に進める。黒い髪をすり抜けていく、その風は、潮の香りを孕み、岸を這い上がって、足元の土を湿らせる。

 坂の道を歩き、近づいた学校は、人の去ってしまった真夜中の美術館のように静まり返っていて、私は少し気味が悪くなった。

 校庭のそばで、時が止まったみたいに凪いだ、サルスベリの木。

 夕日がさして、泣いたブランコ。

 近くに咲いた、月見草。

 私は玄関で上履きに履き替え、廊下を歩いた。まだ明かりはついていない。靴の音はそっと響き、どこからかピアノの音が聞こえた。

 それから私は三階まで、階段を上がり、美術室へ向かった。ドアは開いていて、それなのにもう誰もいなかった。まるで、何か深刻な事態が起きて、一人残らず逃げ出していったみたいだった。並んだ机の上には、絵の具道具が一つだけ取り残されていた。

 私はそれを手に取ると、足早に教室を出る。暗い廊下の深い影が、抱き寄せるように絵の具ごと私を包む。

 学校を出て、藍色に滲んだ空を見る。

 風は冷たく吹き続け、外灯の灯は切り刻まれて空に落ちた。

 道は終わらない。

 夜が、吞んで行く。

 

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