第33話 女神の盾-Ⅰ-

 朝霧が立ち込める河原。

 冷たく湿った空気を微かに震わせるのは、重く低い唸り声や足音や武具の音。

 イシュタルの言葉通り竜王軍の進軍ペースは急激に上がり、その到達予想時刻は大幅に繰り上げられた。

 軍事衛星と彼女の助言がなければ、きっと奇襲を受け、私は死ぬか逃げるかしていただろう。

 そして今、対岸の堤防の上に少しずつ、敵の姿が見え始めている。

 南北五キロに渡る富士川河川敷の東側には、ブルム王国軍と一万人近い歩兵が塹壕と土囊どのうの陣を構え、号令を待っている。

 さらには、飛竜対策としてなんとか北海道から間に合わせた対空戦車――大砲の代わりに対空機関砲とレーダーを積んだ車両や、九〇式戦車、同じく北海道から急派した主力戦車が控える。

 その他にも軽量の装甲車や小型の砲弾を撃ち出す迫撃砲はくげきほうが用意され、物々しい防衛戦が構築されていた。

 北東に遠く離れたゴルフ場には戦場の神である特科連隊、いわゆる砲兵隊が陣取り、いつでも対岸に砲弾の雨を降らすことができる。

 そして、見晴らしの良い堤防の上に設置された指揮所には、指揮官達にイシュタル、アダプと、ナキアが率いる魔導師達。

 一人だけ場違いな私は戦を生業なりわいとする者達の気迫にされて潰れそうだが、こればかりは仕方がない。

 翻訳魔法は何回もかけ直すより、一人にかけ続ける方が楽らしいのだ。魔導師として巨大な力を持つナキアに要らぬ負担はかけられないから、私がこの場にいるしかない。

「ナナル。威力偵察を」

「はい、師長殿」

 ナキアの命令に、長い黒髪を結い上げたナナルが頷く。

 威力偵察。

 敵に対して軽い攻撃をして反応を見て、敵がどんな能力を持っているか確認するもの。

 自衛隊は魔法使いがいる戦場なんぞ初めてなわけで、この場では特に重要な意味を持つ。

 そう、敵にもいるのだ。

 魔導師が。

 伊勢志摩屋デパートにもいたあのトカゲ人間はクラプトゥ――鱗と呼ばれる種族で、竜王軍の中核を成す存在らしい。

 鱗が硬く、知能が高く、武器や鎧を作り、魔獣を使役し、そして魔法を使う者もいる。

 複雑な作戦行動を理解する知能と、個体によっては高い魔力を持ち、指揮官や中核的な戦力として機能する厄介な敵。

 そもそも、竜王ウシュムガルはこのクラプトゥのおさだそうだ。

 ちなみに私の家にもいた小鬼はラブレシュ、大頭と呼ばれていて、数の上では竜王軍の中心だという。

 繁殖力が強く、どこにでも湧き、集団で狩りをする性質がある。

 元々強い個体に従って群れで動くから、優れたクラプトゥの指揮下に入れば、立派に兵士として機能するらしい。

 この二種族を中心に構成された竜王軍は多様な魔獣を使役しているが、今のところ目視できる範囲には、クラプトゥとラブレシュしかいない。

 昨日の夜までに撮影された写真では大型の黒竜がいたはずだ。

 敵も小鬼がほとんどで、指揮官や上級兵士をこなすクラプトゥや魔獣の数は少ない。

 敵もまた、様子見をしているのだろうか。

 そういう知恵が働く敵で、しかも魔法まで使ってくるなら……恐ろしく、厄介ではないか。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 威力偵察を命じられたナナルが呪文を唱え始めると、河原でつむじ風が巻き起こり、周囲の空気が冷たくなった。

 つむじ風は小さな竜巻と化し、砂利や石を空高く舞い上げる。

 舞い上げられた数え切れない程の小石は、落下を始めるなり急激に速度を増して、銃弾のごとく敵陣に向かう。

 しかし、死の雨として降り注ぐかと思われたそれは、小鬼の一匹も撃ち抜くことはなかった。

 石の雨を遮るように無数の水滴が生まれたかと思うと、それが次々と氷り、受け止めたのだ。

 ナナルは間髪入れずに無数の雷を放つが、それもまた水滴の壁に遮られる。

 彼女はうろたえたような顔をして、薄い氷の膜を何枚も重ねて生み出した。そして小さな金属片を取り出して、呪文を唱えながら放り投げる――

「バカっ!」

 ナキアが静止するも間に合わず、放り投げられた金属片から強烈な光が発せられる。

 次の瞬間に無数の氷板から増幅、収束された光線が照射されたが、同時に敵陣には転移魔法陣が二つ現れ、一つは光線を飲み込み、もう一つがそれを吐き出した。

 ほぼ同時に、ナキアの手によって無数の水滴が生み出されると、吐き出された光線を遮り、乱反射させて無効化する。

 何が起きたかわかっていない様子のナナルに向けて、ナキアは厳しく怒号を飛ばす。

「手柄を焦るなこのバカ!」

「も、申し訳ありませんっ!」

「あの結界……ダムエントゥがいる」

 彼女が口にしたのは、竜王配下のクラプトゥの中で、最も高位の魔導師の名。

 警戒するように慌ただしく左右に目を走らせていたナキアは、はっと息を呑んで上を向く。指揮所の真上に、無数の転移魔法陣が現れたのだ。

 とっさにナキアと魔導師達が氷の盾を生み出した直後、魔法陣から大量の矢が降り注ぐ。

 未だ姿を見せぬ魔導師ダムエントゥが転移魔法陣を作り出し、弓兵達がそれに向けて矢を放ったのだ。

 分厚い氷の壁に次々と矢が刺さり、瞬く間にヒビが入る。

 本来、矢の威力は距離とともに減衰する。

 しかし、転移魔法の力で距離による損失を克服した矢は、考えられない程に恐ろしい威力を持っていた。

 その驚異的な威力を持った矢による、指揮官を狙うある種の斬首戦術。理論としては理解していても――実行するのは難しい。

 敵の魔導師に邪魔をされずに高速で転移魔法陣を展開し、それが破壊される前に矢を送り込む。

 これは、魔導師ならすぐに思いつく作戦だが、実際にそのスピードで転移術を扱える者は少ないのだ。

 現にナキアやイシュタルの頭上に展開されていた魔法陣は、すぐにブルムの魔導師から魔力による干渉を受けて破壊されていた。

「ナナル! 私は敵の転移魔法を妨害するから、あなたは敵の防護結界に穴を開けて頂戴! あとの魔導師達は、他の攻撃を防御して! 殿下、敵の結界に穴が空いたら、遠距離攻撃をかけてください!」

「よし、その流れだな。フミアキ! 皆に合図に合わせて敵を撃つように言え。それまでは攻撃禁止だ。アダプ! 兵達をよく抑えておけよ?」

 イシュタルが指示を飛ばすわずかな時間も惜しむように、ナキアは目を閉じて呼吸を深め、次々と現れる転移陣を破壊していく。

 それでも破壊が間に合わなかった転移陣から攻撃が飛び、さらには敵陣から直接放たれた矢もあるが、散開した魔導師達がなんとか防いでいる。

 そうして時間を稼いでいる間に、結界破壊を命じられたナナルは、腰に提げたポーチから四本のの大きな釘を取り出した。

 釘には細かい文字で呪文が刻まれ、先端は赤黒く染まっている。

 放り投げられた釘は猛然と敵陣に向かい、まるで見えない壁に突き刺さったかのように動きを止めた。

 それにより、薄黄色い光の壁が可視化される。

 壁に刺さった釘の周りには赤い光が広がって、少しずつ結界を侵食している。

 結界術は、空間に魔法を固定する技術。

 ナナルの見る限り、自陣から敵陣へ向かう方向にのみ反応するように、氷の壁や転移魔法が発動する仕掛けがある。

 恐ろしく高度な技術だが、その分広範囲に渡って維持するのは難しいはず。

 だからきっと一箇所に穴を開ければ、全面が崩れ落ちるはずだ――そう考えて、彼女は必要以上に広い範囲を攻めず、釘、結界を壊す魔力を送り込んで増幅する媒体の間隔を狭くしていた。

 それなのに、結界はまるで揺らがない。

 瞳に焦りの色を浮かべた彼女は、さらに四本、八本と釘を打ち込んでいく。

 結界を蝕む赤い光はわずかに広がりを見せるが、赤と黄の境界は揺らぎ、安定しないどころか少しずつ押し返されていく。

 結界側からの逆侵食があまりに強く、彼女の魔力が安定しないのだ。

 さらに四本の釘を打って魔力を増幅させるが、大きすぎる力は制御が難しく、赤と黄が激しく混ざり合う。

 彼女の中に焦りと困惑が広がり、薄い唇は歪み、澄んだ緑の瞳は助けを求めて泳ぎだす。

 きっとナキアなら結界を壊せるだろうが、高速で次々と現れる転移陣を壊す役割は、今の彼女には果たせない。だから結界の破壊を任せた。他の魔導師達も攻撃を防ぐのに手一杯で、一人でも結界の方に回したら戦列が崩壊しそうだ。

 投入している魔力の量自体は十分なはず。

 足りないのは、きっと大きな魔力を操る精度。

 せめて、せめて誰か、増幅した力を安定させてくれれば――

 そう苦悶する彼女の脳裏に、キッチリと、測ったように整然と並んだ箱が映る。

 ただ一人、単独では戦闘の役に立たず、後方勤務に回された魔導師。負傷者転送要員として、兵站総監の隣で指示を待つ情けない顔の男が映る。

 誇り高い彼女は迷いを断つように一度目を閉じると、振り向いて助けを求めた。

 黒髪が揺れ、その瞳はまっすぐに彼を捉える。

「エルル! 手伝って!」

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