白百合の君
早河縁
本編
じりじりと焼かれるような日差しの中、僕は幼馴染のユリと夏祭りに来ていた。
夏祭りと言っても、地元の小さな祭りで、十分程度の花火大会があって数台の山車が出るくらいの、極めて小規模なものだ。本当に、大きくなるにつれて楽しめることは少ない祭り。
それでも小さなころから毎年、ユリと祭りを楽しむのが恒例行事だったので、今年もやってきたというわけだ。
高校生にもなればデートだなんだと茶化してくる同級生もいるけれど、そこは『幼馴染だから』という理由でごまかしている。本当は、僕はずっと昔からユリのことが大好きだ。けれど、今でも本心は伝えられずにいる。
小心者の僕に、幼馴染に告白する勇気なんてあるわけがない。だって、一般的には幼馴染なんてきょうだいみたいなものだというし、ユリだって僕のことを恋愛対象にしているはずがないのだから。以前、『弟みたいなものだよ』という友達との会話を聞いたことがある。
くわえてユリは天涯孤独で、親戚も引き取り手がいないからと僕のうちに住んでいる。
そんな弟みたいなやつから告白されたって、ユリを困らせるだけだ。そう思うと、どうにも告白には踏み切れないのだ。まさに詰んでいる。どうしようもない。
そんなことを今考えても仕方がない。
本当は、今年こそ花火大会で告白しようと思っていたけれど、どうやらこんな卑屈な考えじゃあ今年も無理そうだ。
日照りの激しい道中で、ユリが話しかけてくる。
「今日あったかくてよかったね!」
「あったかいっていうか、これは猛暑だけど。暑いだけだよ……」
「そんなこと言わないの! 晴れてよかったと思った方がオトクだよ」
「そうかなあ。僕は暑いのは苦手だから」
僕の発言に、ユリは呆れたような顔をして答えた。
「せっかくのお祭りだよー? まったく、リョウちゃんはイベントを楽しむってことをわかってないよね」
「それは悪かったですね」
「あーあ。早くりんご飴食べたーい」
「……りんご飴、本当に好きだよね」
「当たり前でしょー? お祭りのときしか食べられない物だもん」
そんな会話をしながら、僕たちは夏祭り会場に辿り着く。
夏祭りの会場は町の港で、ずらりと並んだ屋台という光景が非日常を思わせる。港町というのもあってか、割かし広い港なので結構な数の屋台が並ぶ。イカ焼きやら焼きホタテやらの海鮮の香りと、海風に乗って潮の香りが漂っている。
「毎年食べてるから飽きちゃうなあ」
「贅沢な話なんだけどねー。都会の人の立場に立ってみたら、こんなに海の幸を食べられることってないもん」
「そうだね」
イカ焼きを食べながらそんな会話をしていると、ユリは少し不満そうな顔をして僕のことをとっついてきた。
「ねえ、なんか言うことないのー?」
「なんかってなに?」
「浴衣! 似合ってるねくらい言いなよねー」
ああ、そういえば。僕はそこでようやく思い出した。浴衣姿を褒めろと毎年言われているんだった。
「ちゃんと似合ってるよ」
僕がそう言うとユリは、名前の通りの白百合の浴衣の袖を持って「でしょー?」と満足げに答えた。紺地に白い百合の花が描かれた浴衣。落ち着いた容姿のユリには本当に似合っていると思う。毎年見ていて、もう見慣れてしまっているから褒めるというのも今更なのだけれど。
でもまあ、満足したならいいか。
ユリ本人も百合の花が好きなので、百合の柄の浴衣を着られて嬉しいのだろうな。
「好きな花の浴衣が似合ってよかったよね」
「うん! ありがと!」
僕の言葉にユリはにこにこと笑って、ご機嫌に下駄を鳴らして歩き始めた。高校生の割に少しだけ子供っぽいところがあるのだけれど、そんなところも含めてやっぱり好きだなあ、と僕は思った。
「あ! ねえ、リョウちゃん。あのさ、もうそろそろアレ買ってもいいよね」
ユリはわくわくしたような顔で目をキラキラさせている。ユリが言うアレとは、りんご飴のことだ。さっきも会話したけれど、特別感もあってりんご飴が相当好きらしく、毎年夏祭りに来ては買って食べている。
「いいんじゃない? 買ったら?」
「わーい、やったね!」
素直な反応で喜んでいるユリもまた可愛らしく、僕はほほえましい気持ちになる。
りんご飴の売っている屋台ではチョコバナナも売っているので、僕はチョコバナナの方を買ってユリと一緒に食べる。
「おいしいね! ほんと、これだよこれ! って感じ」
「そうだね。おいしい。夏祭りでしか食べられないものって、やっぱりいいね」
「本当にそう! 毎年夏祭りだけが楽しみで生きてるみたいなとこあるもん!」
「そんなに?」
僕が笑って言うと、ユリは「嘘嘘!」と茶化したように笑う。
「春も夏も秋も冬も、全部楽しみだよ。全部の季節が好き! 全部が全部、違った楽しみ方があるじゃない?」
「そういう考え方、いいと思うよ」
「えへへ。まあ、それはそれとして夏祭りは格別に好きだけどねー」
「まあ、僕も好きだよ」
「まあってなによー」
からころと下駄を鳴らして歩きながらいつまでもりんご飴を舐めているユリを見ていると、夏なんだなあと実感する。それくらい、これが毎年当たり前の光景だから。
そして日が暮れて、花火大会まで秒読みという時間帯になる。十九時には花火があがる予定らしい。
このままずっと、ユリと一緒に夏祭りを楽しんでいたい。終わらないでほしい。
いくらそう願ったところで、いずれ花火はあがってたったの二十分で夏祭りは終わってしまうのだけれど。
すっかり日が落ちて、花火大会のアナウンスが流れる。
ああ、終わりが近づいてきた。
これが終わったら、やっぱり言ってしまおうかな。だって、ユリと夏祭りに来られるのはきっと、高校三年生の今年で最後になってしまうから。
どん、どん、と大輪の花火たちがあがっていく。
「綺麗だねえ」
「……そうだね」
終わりが近づくにつれて、僕は気が気でなくなっていった。どうしよう。言うべきか、言わないべきか。べき、と言うならきっと言うべきなのだろうけれど、どうしても勇気が出なかった。
でも、このままでいいのか? 後悔はしないか? 自問自答を繰り返す。
大きな青い花火が上がった時、僕は勇気を出して花火に夢中になっているユリに声をかける。
「あのさ、ユリ」
しかし、僕のか細く震えた声は、花火の音にかき消されてしまった。
もうだめだな、と僕はそこで諦めた。もう二度と勇気なんて絞り出せない。これは一度きりの勇気だったのだ。
二回目なんて、無理だ。
そこで花火大会はラストスパートを迎えて、さらに大きな音が辺りを占領する。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。そんな願いも空しく、花火大会が終了したというアナウンスが会場に流れた。
「はー……綺麗だったねえ」
「そうだね。すごく綺麗だった」
「じゃあ、帰ろっか。リョウちゃんのお父さんとお母さんも心配するし」
「うん。帰ろうか」
そうして僕たちは家路についた。来た時と同じ道。時間稼ぎの回り道なんてことはせずに、そのまままっすぐ家に向かった。回り道なんてしたって、どうせ言えっこないから。
こうして、夏休みの最終日、僕の夏と恋は終わりを迎えた。
花火のように、儚い最後。
〇
絵本作家になることが、ユリの昔からの夢だった。
そのために、今までたくさん絵を描いて、たくさん絵本を描いてきたのを、僕は一番近くで見てきた。
もうそろそろ進路希望の用紙も提出しなくてはならないということで、僕はユリに進路希望を訊いてみることにした。
「うーん。迷ってるけど、やっぱり奨学金借りて美大に行こうかなって思ってるよ。いろいろ絵を学んで、それから作家になるの! リョウちゃんは?」
「僕は県内の大学の理学部に行こうと思ってるよ」
「あー! 数学とか得意だもんね。リョウちゃんじは。いいじゃん! でも、離れちゃうね。私は東京の大学に行こうと思ってるから……」
「そっか。寂しいけど、仕方がないね。ユリの昔からの夢のためだし」
ユリはうなずいて、僕の袖をつかむ。
「離れても忘れないでね」
「……忘れるわけないじゃん」
そう、忘れるわけがない。忘れられるはずがないのだ。たとえそのままユリが東京で就職して絵本作家になったって、僕はユリのことをずっと思い続ける。大学に行ったって彼女なんて作らないし、ユリのことだけを思って生きるって決めてるんだ。
思いを伝えられなくたっていい。僕が思っているだけでいい。それだけでいいのだ。そんな風に考えているのに、忘れられることがどうしてあろうか。
「それならよかった!」
ユリは笑顔になって、それから友達のところに行ってしまった。会話を聞いていた友達が僕を茶化してくるけれど、いつものことなので無視をした。
大学受験まで、ユリは絵を描き続けてデッサンの勉強。僕は理系教科や英語の勉強に勤しんだ。
そんな時期にまた告白しようなんてことは考えられず、季節はどんどん過ぎていく。
「リョウちゃん、勉強は順調?」
「うん。ユリは?」
「あのね、ぶっちゃけいい感じ」
「ぶっちゃけるとこ?」
「あはは」
そうして季節は過ぎ、大学の合格発表の時期がやって来る。
ユリは東京の大学に無事合格して、僕もまた、県内の希望の大学に受かったので、今晩はお祝いだと両親が張り切っていた。
その日の晩御飯はユリの大好きなちらし寿司と、僕の好物であるチーズハンバーグだった。いびつな献立だと思ったけれど、両親はユリのことも本当の子供のように思っているので、対等にしようとした結果がこれなのだろう。
「ユリちゃん、家を出ても元気にやるんだよ。何か困ったことがあったら遠慮なく言いなさい」
「そうよ、困ったらちゃんと言うのよ」
「うん、ありがとうございます」
両親の言葉にユリは泣きながらうなずいていた。僕には何の一言もなかったけれど、まあいいだろう。どうせ家から通うのだし、僕に関しては心配事も少ないというわけで。
「ああ、もちろんこれからも実家に住むとは言え、リョウも元気に頑張るんだぞ」
「ついでみたいに言うじゃん」
「冗談だよ、冗談。二人とも、本当に頑張るんだよ」
そんなこんなでお祝いも終わり、その数週間後、ユリは新幹線で東京に行ってしまった。
もう二度とユリには会うことがないかもしれない。そんなことを考えながら、僕はユリを見送ったのだった。
これで僕の恋は、本当の意味で終わってしまったのだ。
〇
あれから四年が経ち、ユリは東京で、僕は地元でそれぞれ仕事に打ち込んでいた。
ユリは絵本作家のたまご。僕は起業して一人暮らしのアパートでIT系の自営業に勤しんでいる。
あえて僕はユリに会いに行ったりはしなかった。なんとなくそうは出来なかったのだ。
なぜなら、ユリにとって僕という存在がどんな存在なのか読めなかったから。
どうせただの幼馴染として思っているのだろうし、そもそも忙しくしているのだろうから、連絡さえ取るのも気が引けた。
そうしてユリと会わない期間はどんどん長くなっていき、ついに僕たちは二十代の終わりを迎えようとしていた。
ユリがいないから、今年の夏も僕は夏祭りには行かないつもりだ。
ユリがいない夏祭りなんて、行く意味がない。ユリがいたから行っていただけの話なのだ。
しかし、転機は訪れた。なんと、絵本作家として無事にデビューしたユリが、地元に帰ってくることになったと母から電話があったのだ。
こちらで一人暮らしをしていても仕事は出来るからという理由らしかった。
リモートワークが普及した今なら、確かに可能かもしれない。現に僕もそうしているのだし。
ユリが返ってくる日。八月の猛暑の中、僕は母を乗せて車を飛ばし、新幹線の駅に向かった。駐車場に車を停めて、ユリを出迎えるために改札の近くで待機する。駅の中は涼しかった。
もうすぐ、ユリに会えるんだ。
嘘みたいだと思いながらも、少し老けた姿を見て軽蔑されないかなどの心配もあった。
けれど、ユリならそんなことは思わないはずだ。だってユリは、誰よりも明るくて優しいのだから。
新幹線が到着したと、電光掲示板に文字が流れる。僕はずっとそわそわしていた。
しばらくすると、ユリは改札を通って出てきて、こちらの方に歩んできた。
久々に会ったユリは、髪が伸びて少しだけ大人っぽくなったように感じられた。
「リョウちゃん、お母さん、久しぶり」
母とはときどき連絡を取っていたらしかったことを、この日僕は初めて知った。なぜ教えてくれなかったんだと思ったが、僕があまり他人に興味を持たないから、ユリについてもそうなのだろうと思われたのかもしれない。
ユリに関しては別に決まっているのに。
母とユリは泣いて抱き合っていた。
「ずっと帰れなくてごめんなさい」
「いいのよ。頑張っていたのだもの。元気でよかったわ、おかえりなさい」
「うん、ただいま」
母とユリの感動のさなか、僕はどうしようかとまだそわそわしていた。
結果、出てきた言葉が、
「……おかえり」
という一言で。
僕がぶっきらぼうに声をかけると、ユリはにこりと笑って「ただいま」と言った。
ああ、これだ。この笑顔が好きなんだった。
東京に行って変わってしまってはいないかと思ったけれど、ユリはなにも変わっていなかった。
幼かった顔つきが少し大人っぽくなっただけ。よかった。本当によかった。僕は心の底から安堵した。
仕事は忙しくても、これからまたユリと一緒にいられるかもしれない。いや、時々会えるだけでもいい。もう会える距離にいるのだから。そう思うと胸が躍るようだった。
「今日は二人とも、家でご飯食べて行きなさい」
母の言葉に僕たちはうなずいて応える。およそ十年ぶりに一緒の食卓を囲むことになるので少しの緊張を覚えながらも、僕はそれ以上に嬉しくて仕方がなかった。
実家で一緒に食事をした後、俺はユリを車に乗せて家まで送ることにした。
「リョウちゃん運転できるんだ。カッコイイね」
「別に、田舎じゃ普通じゃない?」
「私は免許持ってないからさ」
「そっか。そんなに忙しかったんだね」
「ていうか、お金がねー! なかなか!」
「それもそっか。バイトして一人暮らししてたんだもんね、大学のころから」
「そうそう」
そこで、僕は近々夏祭りがあることを思い出した。今日は八月二十日。十年ぶりになるが、ユリがいるなら行ってもいいな、否、行きたいなと思ったのだ。
しかし、誘ってもいいものか。断られたら? 嫌がられたら? 自問自答を繰り返す。
車をユリの家の前に止めた時、ドアを開けたユリが口を開く。
「あのさ、リョウちゃん。夏祭り、もうすぐでしょ? だから、一緒に行こうよ。久しぶりに」
その発言に、僕は歓喜した。
まさかユリの方から誘ってくれるだなんて思いもしなかったから。
「うん、行こうか」
「ほんと? やったー! じゃあ、絶対だよ。約束ね。今日はありがとう!」
そう言って、ユリは車から降りてドアを閉めた。窓を開けて「おやすみ」と言うと、ユリも元気よく「おやすみ!」と返してきた。ユリが家に入っていくのを確認してから、僕は安心して車を発進させた。
夏祭りまであと十一日。楽しみで仕方がなかった。また、ユリはあの紺地に白百合の浴衣を着るのだろうか。それも含めて、僕の楽しみは膨らんで留まることを知らなかった。
そして、夏祭り当日。
仕事に打ち込んでいると、祭りの日が来るのが早く感じられた。夏祭りは相変わらず、毎年あの広い港で小規模に行われている。
車でユリを迎えに行って、それからいったん実家に顔を出す。
「今年は夏祭りに行こうと思ってさ」
母にそう伝えると、母は驚いたような顔をしてから笑った。
「あんた、ユリちゃんがいなくなってから一度も行ってなかったのにね」
「……うるさいなあ」
「照れちゃって、まったくもう。あ、そうだわ。ユリちゃんの浴衣、まだ取ってあるのよ。よかったら着て行ったら?」
「え、本当? 着ます!」
「とても似合っていたもの。着なきゃ勿体ないわ」
そんな会話をして、母とユリはきゃあきゃあと騒ぎながら奥の間に引っ込んでいった。
待っている間、僕は暇つぶしにリビングで適当なテレビを見ていた。クーラーが効いている部屋の中は涼しい。
一人暮らしの部屋だと、どうにもクーラーによる電気代が気になってしまうからあまりつけていないのだ。
こんな猛暑の日に、夏祭りか。八月も終わろうというのに、まだまだ暑い日は続いている。外に出るのがだんだんおっくうになってきたけれど、ユリと出かけられるならと辛抱する。
久しぶりにユリの浴衣姿が見られると思うと、なんだか気分が浮足立った。
しばらくすると、浴衣に着替えたユリが奥の間からやって来る。
「どうかな?」
「うん、似合ってるよ」
昔と変わらない、ユリの浴衣姿。思わずノスタルジーを覚える。紺地に映える白百合の浴衣。この姿こそが、僕の中に残るユリの代表的な姿だ。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
張り切っているユリと一緒に、あの港を目指す。元気に下駄を鳴らして歩くユリの姿は、高校生当時の者とたいした差異がなかった。
港に着くと、イカ焼きや焼きホタテの匂いとともに、海風に乗って潮の匂いが漂ってくる。
あの時となんら変わらない、夏祭りの匂い。
「リョウちゃん、私アレ食べたい!」
そして、ここも変わらない。
ユリのいうアレとは、やはりりんご飴のことで。あまりにも変わらないので、僕は少し泣きそうになりながら、ユリの横でチョコバナナを食べた。
泣きそうになったのは、懐かしさからだけではない。ユリがユリのままだったことが嬉しくて仕方がないのだ。
「美味しいねえ」
「そうだね」
「私、今幸せだあ。だって、リョウちゃんとまたこうやって夏祭りに来られる日が来るなんて、思ってもみなかったもん」
それは僕だって一緒だ。あの日、あの夏、僕の恋は終わってしまっていたのだから。
それでもまたこうしてチャンスが訪れた。今日こそ。今回こそ言ってやる。好きだってことを伝えるんだ。
そう決意し、ごみを捨てに歩き出そうとすると、腰を掛けていて立ち上がろうとしたユリが転んでしまった。
「大丈夫? けがは?」
「うん、大丈夫だよ!」
「珍しい感じだね。ユリが転ぶなんて」
「最近よく転ぶの。足に力が入りにくいっていうか……なんか、変なんだよね」
「疲れているのかな……心配だね。とりあえず、今は無理しないで、ちゃんと病院に行こう。連れて行くから」
「うん、そうだね……ありがとう」
そうして、僕たちはユリの安全を取るためにゆっくり歩いて実家に向かった。
その間、ユリが転ばないように手を繋いでおいた。不謹慎だけれど、こんな状況でも手を繋げたことだけは嬉しかった。
告白はまた今度でいい。だってユリは戻ってきたのだから。いつでもチャンスはある。
その日も二人とも実家で晩御飯を食べて、僕がユリを車で送って帰ることになった。心配なので、玄関先まで支えながら歩いた。
「ユリ、なんだか本当に辛そうだね。明日は平日だし、ちょっと大きめの病院に行ってみよう。もちろん、仕事が大丈夫ならだけど」
「うん……ちょっとしんどい、かも? ありがとう」
僕たちは明日病院に行く約束をして、さよならをした。
なにもなければいいけれど……疲れから来るものなどであってほしい。そう願いながら、僕は家路についた。
〇
翌朝。僕はユリを家まで迎えに行って、隣町の総合病院に来ていた。
僕たちの住む町には大きな病院がないので、ここまで移動する必要があった。一応、整形外科と神経内科で迷った結果、神経内科にかかることにした。
待合で、ユリは少し緊張しているというか、不安な様子だった。それもそうだ。急に足に力が入らなくなったりして転びやすくなったというのだから。
だいぶ長い時間待たされて、ついにユリの診察の番がやってきた。医者はにこやかで穏やかそうな人だった。こういった先生なら安心して任せられる。冷たい医者じゃなくて本当によかった。
「いつからの症状ですか?」
「数か月前からです」
「ふむ。どういった時に症状が出やすいですか?」
「動こうとした時などです」
問診にユリが答えていくと、医者の表情が曇っていく。問診はまだ続く。
医者の様子を見て、ユリも僕も不安になっていく。
ハンマーを使った運動神経の検査などをした後に、医者はううんと一言うなって、
「脳の検査をしてみましょうか。もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「若いのでまずないとは思われますが、念のため検査をしておきましょう」
と言った。脳の検査? CTやMRIってことか?
足に症状が出ているのに、脳の検査って……もしや重大な病気が隠れているんじゃないかと思い、僕はさらに不安になった。それはユリも同じなようで、だいぶ困惑している様子だった。
足に力が入りにくいとのことで、ユリは車いすに乗せられる。それを僕が押して歩く形で放射線科の待合に向かう。予約の合間にMRI検査をすることとなったので、放射線科の待合で順番を待った。
車いすに乗せられたユリが言葉を放つ。
「ねえリョウちゃん、私、本当に病気なのかな」
「不安になっても仕方がないよ。まずは検査してみないと。疲れから来るものかもしれないし、検査で何もないことを証明して安心出来たらいいよね」
「うん……」
「心配しすぎはよくない」
「……そうだね。まずは検査検査!」
結果が出るのは一週間程度は後とのことだった。
それまで僕たちは不安を拭うために、夜は電話などをして過ごした。
そして、一週間後、また同じ曜日に病院に行くと、医者から検査結果を聞かされた。
ユリは、筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)という病気だということがわかった。
これから筋力がどんどん低下して手の力も入りにくくなり、嚥下障害や呼吸障害も出てくる病気なのだと医者は言った。
絵本作家であるユリが、手に力が入らなくなったらどうすればよいのか。
ユリは酷く不安そうな顔をして、医者に訊ねた。
「この病気って、治るんですか?」
「治すというのは難しいかもしれません」
「じゃあ、どうすれば……」
「進行性の病気なので……ただ、リハビリなどをして進行を遅らせることは出来ますので……」
それでも、現実は厳しかった。
ユリは車いすと杖を併用して使う生活を送ることになって、症状はどんどん進行していいった。
ついには食べ物を飲み込むのも難しくなってきてしまったのだ。
こうなると、いよいよ入院も必要だということで、ユリは総合病院での入院生活を送ることとなった。
ユリが入院して、僕は病院に通い続けた。
仕事の合間を縫って、白い百合の花をお見舞いに持って行く日々。
毎日は行けないけれど、それでもユリは僕の顔を見ると喜んでくれた。時には両親も来てくれて、ユリはその度に「ありがとう」と言って涙ぐんでいた。
サポーターで手に筆を固定して、ユリは病室でも絵本を描いていた。仕事をしなければいけないから描いているのではない。描きたいから描いているのだ。
病室は絵の具と絵本でいっぱいだった。
「ユリがいるところはどんなところでもアトリエになってしまうね」
そう言うと、ユリは少し照れくさそうにして笑った。
しかし、そんな日々も続いてくれない。
ついに呼吸障害が出てきてしまい、ユリは人工呼吸器をつけることになってしまった。
人口呼吸器をつけているユリの姿は痛々しく、見ている方もつらかったが、一番つらいのは本人なのだからと自分に言い聞かせて、僕はお見舞いに通い続けた。
いつも白百合の花を持って。百合の花を見るたびに、ユリは目を輝かせて喜んでくれた。
ある日のお見舞いの日、ベッドサイドの椅子に僕が座っていると、ユリはふと声をかけてきた。
「ねえ、リョウちゃん。私、来年のお祭り行けるのかな」
僕は言葉に詰まった。
こんなに進行が速いのに、正直、来年の話を出来る余裕はないと感じていたからだ。
「行けるよ。行こう」
それでも、ユリの希望をなくしたくないから、僕は肯定の言葉を発した。
病室のカーテンが風に靡いて、それから、入ってきた風がユリの綺麗な黒髪を撫ぜていく。少しの間を開けて、ユリは「そうだね」と言って笑った。
ユリ。ユリ。どうか、来年まで、否、ずっと元気でいてくれ。なんだか泣きそうになってしまい、僕は「お手洗いに行ってくるね」と席を外した。
最近は食事もあまり摂れておらず痩せてきてしまっているし、このまま衰弱して死んでしまったらどうしようかと思うと、気が気でなかった。
病院のホールでひとしきり泣いた後、しばらく待ってからユリの病室へと向かった。
「ユリ」
病室に戻ると、そこにユリの姿はなかった。
お手洗いにでも行ったのかな、と僕は椅子に腰かけてユリの帰りを待つ。しかし、いくら待てども百合は帰ってこない。
さすがに不安になった僕は、ベッドわきのナースコールのボタンを押して看護師さんを呼ぶことにした。
すると、その時。
窓の外をなにかが通っていく大きな影が見えた。
その瞬間、どん、という鈍く大きな音がして、嫌な予感が胸をよぎった。
恐る恐る窓の外を見てみる。下を覗き込むと、そこには、ユリと思われる人物が血まみれで倒れていた。
「うわあああああ!」
僕は急いでナースコールを押した。
そして病室を飛び出し、階段を駆け下りて病院のホールを突っ切って外に向かって走る。
そこにはすでに人だかりが出来ていたので、人々をかき分けてユリのもとへ向かう。
「ユリ! ユリ! しっかり!」
足が変な方向に曲がって折れているのがわかる。でも、頭はそんなに出血していない。奇跡だ。これなら助かるかもしれない。
そんなことを考えていると、病院の職員たちがやってきて、ユリは担架に乗せられて病院内へと運び込まれる。
「身内の方ですか?」
「ええ、まあ、そうです……」
「すぐに手術をします。手術室の外でお待ちください」
「あの、ユリは助かるんでしょうか」
「わかりません。最善は尽くします」
手術室の赤色のランプが点灯する。
ユリ、どうして。どうして飛び降りてしまったんだ。
自殺したいほど苦しんでいた?
それならなぜ、僕はそれに気づいてあげられなかったんだ?
後悔の念が押し寄せて、どうしようもないやるせなさに僕は涙を流すことしか出来なかった。
ユリ……どうか、助かってくれ。
そう願っているうちに、いつのまにか手術は終わったようで、手術室のランプが消えたのが見えた。五時間ほどの時間が経っていたようで、気が付けばもう時刻は十九時を過ぎていた。
ユリが担架で運ばれていく。今日は空いている個室に入るそうだ。
「一命はとりとめました。しかし、このまま目が覚めないという可能性もありますので、覚悟をしておいてください」
「そんな……」
「ひとまず、あなたも疲れたでしょうから、今日はお引き取りを」
医者にそう言われて、僕は不安の中家路についた。
車の中で母に電話で簡単に事情を説明すると、母は電話の向こうでわんわんと大声で泣いていた。
僕だって泣きたい。僕が病院にいる時にこんなことになってしまったのだから。
翌日、僕は母も連れて病院へと向かった。心なしか病院は閑散としているような気がした。ホールを抜けてエレベーターに乗り、ユリの病室へと向かう。看護師に訊ねると、病室は元の大部屋に戻ったようだった。
元の病室へ入ると、そこには人工呼吸器をつけて眠っているユリがいた。
寝顔を見ただけでは生きているのか死んでいるのか分からなかったけれど、人工呼吸器に吐息の曇りが出来ていたので、なんとか生きているのだということがわかった。
ユリ、本当に生きてたんだ。
よかった。本当によかった。
安堵して、僕と母はベッドわきの椅子に腰をかけて、医者の巡回を待つ。やがて医者がやってきて、僕と母に説明をしてくれる。
「なんとか一命はとりとめましたが、昨夜から目が覚めない状況です。麻酔も抜けていますし、目が覚めてもいいころなんですが……」
「やっぱり、目が覚めないなんてことも?」
「もしかしたら、このまま目が覚めない可能性もあります」
「そんな……」
母が隣で涙ぐんでいる。
「植物状態になったときはどうするか、よくお考えください」
その言葉を聞いてからは、母は号泣していた。
病室にはたくさんの絵の具があり、それがまた、ユリがかろうじて元気だった時のことを思い出させる。
ああ、なんでこんなことになってしまったんだ。
僕が全部悪いのだ。
僕が早く、もっと早くユリの気持ちに気が付けていたら。
やるせない。後悔に苛まれながら、僕は、母と病院を後にした。
百合の寝顔は、こんな時でも綺麗だった。
〇
病室でユリが描いた絵本が売れた。
それはもう、大ヒットだった。
あれから数か月も目を覚まさないユリの代わりに、僕が出版社に持ち込んだのだ。
闘病に関する絵本もあったので、それが売れに売れた。『植物になった絵本作家』として、ユリの名は世に知れ渡った。
絵本が売れて入ってきた印税は、新しい口座を作り、ユリが起きた時のために貯金をした。
ユリが入院している間の病院代はすべて僕が負担した。圧倒的な余裕があるわけではないけれど、仮にも自営業だし、そこらの同年代よりは稼げているのでそこはなんとかなった。
なによりも、ユリのためだから。
安楽死なんて絶対に嫌だった。それに、ユリがまだ起きる可能性がないとも言えないのだから、殺すなんてことは考えたくなかったのだ。
でも、一つだけ。一つだけ後悔がある。
こうなってしまう前に、やはり、好きだと伝えたかった。
ユリはいつか起きて、また笑ってくれると信じている。それでも眠ってしまう前に、出来るだけ早く伝えられたらと思ってしまう。
今はそれだけが、僕の後悔だった。
いつか絶対に伝えてやる。
僕の恋はきっとまだ終わっていない。
そうして、僕はユリのいる病院に通い続け、眠っているユリに話しかけ続けた。年々細くなっていくユリの体を心配しながらも、まだ生きているからと励まし続けた。
今日はこんなことがあったとか、明日はなにをしようと思っているだとか、そんな他愛のない話もした。
そんなことをしても、ユリに僕の声は届いていないかもしれない。それでもよかった。とにかく、ユリが起きるまでにユリのためになにかしていたかった。ユリは見てくれないけれど、白百合を持ってくることも欠かさなかった。
「ユリ……」
僕は毎日のように部屋で泣いている。
そしていつしか僕たちは、三十代も後半になっていた。
あれから十年が経ったのか。早いようで、ずいぶん長い十年だった。
僕は今日もユリのもとへと向かう。
いつものように病院のホールを抜けて、エレベーターに乗りユリの病室へと向かう。ナースステーションの横を通り過ぎると、看護師が慌てて僕を呼び止めた。
「ユリさん、目が覚めましたよ!」
その一言に、僕は混乱した。
え? 目が覚めた?
ユリが目を覚ましたって言うのか? 本当に?
戸惑ったまま病室に案内され、ユリのベッドのカーテンをそっと開ける。そこには、人工呼吸器をつけたユリが横たわっていたが、ユリの目はしっかりと開いていた。
百合の瞳がこちらに向く。
「リョウちゃん……?」
涙があふれてくるのがわかった。
白百合の花束を落として、僕はユリのもとに駆け寄った。
「ユリ……!」
僕はユリのベッドに伏して泣いた。ずっとずっと泣き続けた。
ユリもまた泣いていた。それはそうだろう。死んでしまうところだったんだから。
「ごめん。ごめんね、リョウちゃん」
「いいんだ。生きてくれて、起きてくれてありがとう」
「勝手な真似してごめんね」
「いいんだ、いいんだよ。今、こうして生きてくれているんだから」
僕たちは泣きながら会話を交わした。
そして、ユリが眠っている間に絵本が大ヒットしたことを伝えた。ユリはたいそう驚いていたが、嬉しそうにして笑っていた。
落としてしまった百合の花を改めて花瓶に活けると、ユリはにこやかにそれを眺めていた。
「ずっと来てくれていたんだよね、リョウちゃん」
「うん。ずっと通ってた」
「聴こえてたよ、リョウちゃんの声」
「……本当に?」
「うん、本当」
そうすると、ユリは不思議な話をし始めた。
「あのね、長い夢を見ていた気がするの」
「……夢?」
「私、夢の中で電車に乗っていたんだけど、そこに乗っている人たちはみんな暗い顔をしていて、どんどん降りて行っちゃうの」
「うん」
「いつまで経っても私の降りる駅はやってこなくて、ずーっと降りていく人たちを見てた」
「……それで? 降りた人たちはどうなっちゃったのかな」
「わからない。でも、死んじゃった人たちなんだと思う。わからないけどね? でも、そんな気がする」
「死んじゃう人たちが乗ってる電車かあ……」
「途中で降りたら私も死んじゃうんだと思って、とにかくずっと電車に乗ってたの。そしたら、明るいところに出て、アナウンスで私の名前が呼ばれたの」
「うん」
「そしたら、降りるように言われて、怖かったけど降りたら、さっき目が覚めて……不思議だよね」
その話を聞いて、僕はそれが死人の乗る電車なのだと確信した。ユリは生死の間をさまよっていたから、降車駅がなかったんじゃないかって。
「そっか……途中で降りなくて本当によかったね」
「うん、よかった。じゃなきゃ、今こうしてリョウちゃんとお話し出来てないもんね」
「うん。本当に、生きててよかった」
「あの時はつらくてつらくて、体が動くうちに死んじゃおうと思ったんだけど、やっぱり、落ちる時は怖かった。生きていて、本当によかった」
「そうだろうさ。本当に、生きててくれてありがとう」
それから数日かけて、ユリは通常食を食べられるようにするため重湯を飲んだりして過ごした。
なにか食べられるようになったら、ユリの好きなものを食べさせてあげたい。
そう思い、頭をよぎったのはりんご飴だった。ユリといえばアレだろう。夏祭りも一か月後に控えているし、ちょうどいいかもしれない。
食べられるかどうかはわからないけれど、病院の許可が下りたら連れ出すだけ連れ出してみよう。気分転換にもなるだろうし。
僕はさっそくナースステーションに向かい、看護師に訊ねてみた。
「医師の許可が下りたら行ってもいいですよ。ユリさんの回復の状況次第ですけれど」
病室に戻ってそれをユリに伝えると、ユリは喜んでいた。
「本当? 夏祭りに行けるかもしれないの? やったあ」
「うん、本当だよ。だから、いっぱい食べて早くよくなろうね」
「うん!」
十年間眠ったままだったユリの返答は少し幼さを感じさせた。しかし、変わらないユリに僕は安心していた。
僕はきっと、ユリが変わってしまうことが一番怖いのだ。
ユリにはいつまでもそのままでいてほしい。そう願っているのだろう。
ひとまず帰宅して、僕は母にユリが目覚めたことを電話で教えた。すると母はまたしても十年前のように電話口でわんわんと泣いていた。
ユリが目覚めて喜ぶ人は僕だけではない。みんな、ユリのことを大事に思っているのだ。
愛されているのだ、ユリという人間は。
〇
一か月後。
ユリの回復の状況はめざましく、少し体重も増えて、車いすを使用して短時間なら、という条件付きで夏祭りに行く許可が下りたのだ。
「やったね、リョウちゃん!」
「ユリが頑張ったからだよ」
「うん、頑張って一か月いっぱい食べた!」
「じゃあ、浴衣も着たいだろうし、早めに出ようか。時間は有限だからね」
「うん!」
あの白百合の浴衣を、母はまだ取って置いてあると言っていた。それなら、せっかくだし着せてあげたい。それに、僕もユリのあの浴衣姿をもう一度見たい。
高校生の時までは毎年見られていたのに、どうしてこうなってしまったのだろうな。まあ、嘆いても仕方がない。なにはともあれ、もう一度ユリの綺麗な浴衣姿が見られるのならどうだっていい。
実家に到着するや否や、母は張り切って出迎えてくれた。ユリにまた浴衣を着せられるのだと楽しそうにしている。
「私、もう三十歳を過ぎてるんだよね。浴衣なんて着て恥ずかしくないかな?」
「大丈夫だよ。いくつになっても着ていいんだよ」
「そうかなあ」
そう言って照れくさそうにしながら、ユリは母とともに奥の間に入っていった。
人工呼吸器を外しての外出になるから、あまり長居は出来ないだろうけれど、それでも最低限ユリの大好物であるりんご飴を食べさせてあげられたらそれでいい。
僕はリビングでクーラーに当たって涼みながら、ユリを待った。
待っている間、僕はなんだか、高校生のころのようにどきどきしていた。
しばらくすると、浴衣姿のユリが母に支えられながら奥の間から出てくる。
「どうかな……」
「しっかり似合ってるよ」
「よかったあ」
「じゃあ、行こうか」
「うん」
ユリと車いすを車に乗せて、僕は車を発進させる。今回は港まで車で行って、駐車場に止めてから車いすで回ろうと思う。
時刻は夕方。ユリが花火大会も見たいと言ったのでこの時間からになった。花火大会が終わったら病院に戻らなくてはならない。
僕は出来るだけ早く、長くユリに楽しんでほしくて、車を飛ばした。
夏祭り会場のあの港は、昔よりも閑散としてはいるものの数個の屋台が並び、まだかろうじて祭りらしい風景ではあった。
僕にとってもユリにとっても、十年ぶりの夏祭り。昔からの思い出の場所。
なんだか感慨深くなって、僕は目頭が熱くなった。歳を取って、涙腺が緩んできたように感じる。
ユリの車いすを押しながら、りんご飴の屋台を目指す。
そんなにたくさんは食べられないだろうからと、小さなりんご飴を買った。そして僕はやはりチョコバナナを買った。ユリにりんご飴を食べさせながら、僕もチョコバナナを食べる。
久々のりんご飴にテンションが上がったのか、ユリはずっと「おいしい!」と笑顔を浮かべていた。
ユリが喜んでくれて本当によかった。
「久しぶりに食べた。久しぶりって感じがしないけど」
「眠っていたからね」
「あはは、確かにそうだね」
そんな風に会話をしていると、急にユリの表情が曇り出す。
「どうしたの?」
「うんと、えっと、リョウちゃんさ」
「なに?」
「私が眠っている間、ずっと病院のお金を払っていてくれたって……」
「……誰が言ってたの?」
「看護師さんたち」
「……そっか。まあ、うん、そうだね」
「ごめんね。負担かけちゃったね。それなのに、絵本のお金は取っておいてくれて……本当にありがとう」
「ユリのためなら、なんてことなかったよ」
「でも、悪いよ。全部きちんと返すから。私、頑張ってまた絵本で稼ぐから」
「そんなのいいよ。本当に気にしないで」
そんな会話をしていると、会場に花火大会のアナウンスが流れた。
「じゃあ、見やすいところに行こうか」
うなずくユリの車いすを押して、会場の中でも一番きれいに花火の見える場所へ移動する。
花火は海の向こうからあがるから、港の、海に向かって真正面の位置が一番よく見える。
それにしても、ユリにはいらない心配をかけちゃったかな。本当に、ユリのためならなんだって出来るくらいだから。僕はなんにも負担に感じていないのだけれど……ユリなら、気にしちゃうよな。
そんなことを考えていると、どん、という大きな音とともに夜空に大輪の花火が打ち上げられる。
赤、青、黄。どん、どん、と次々に打ち上げられる花火に、僕たちは魅了される。
花火大会の花火って、こんなに綺麗だったっけ。
高校生のころまでは、そんなに特別に感じられなかったこの花火たちも、今、一番愛しいひとと一緒に見ていると、ますます綺麗に感じられた。飛んで開いては散っていく花火を見て、昔の自分を思い出す。
ああ、今なら。
今なら、言えるかもしれない。
「ユリ」
車いすの後ろから僕が声をかけると、ユリは僕の方に振り向いた。
どん、と一つ、大きな花火が夜空に舞う。
一瞬の静寂の間に、僕は勇気を振り絞って言葉を放つ。
「結婚しよう」
そうすると、ユリは涙を浮かべて、次第にわんわんと泣き始めた。
「どうして泣くのさ」
「だ、だって、嬉しくて」
「嬉しい?」
「私、ずっと昔からリョウちゃんのことが好きだったんだもん」
「え? そうだったの? 僕だって、昔からユリのことが大好きだったよ。」
「でも、今はこんな体になっちゃったし、結婚なんてそんなの死ぬまで無理だと思ってたから……」
「こんな歳になるまで言えなかったけれど……ユリが眠ってしまって、死ぬほど後悔したんだ。なんで伝えておかなかったんだって。だから、今、もうこの先後悔しないように伝えておきたかったんだ」
「……うん」
「だからさ……」
「……うん」
「僕と結婚してくれる?」
そう言うと、ユリは涙を流したままうなずいて、僕の求婚を受け入れた。
「リョウちゃんのこと幸せにするから、私のことも幸せにしてね」
「もちろんだよ。絶対幸せにする」
僕たちは花火の中で、お互いの将来を誓い合った。
これから絶対ユリを幸せにするのだと、僕は心に決めた。
〇
僕たちの結婚を、両親は心から祝福してくれた。二人とも、ユリが本当の子供になるのだと喜んでいた。
結婚式は車いすで短時間の間に挙げた。ユリのウエディングドレス姿が見たかった。本当に綺麗で、僕はまたしても泣いてしまった。
結婚指輪はユリがデザインをしてくれたオーダーメイドだ。ウェーブ型の綺麗なプラチナリング。内側にはブルーダイヤモンド。この石には『永遠の幸せ』という意味がある。ずっと一緒にいられるよう、二人でこの石を選んだ。
ひそかにしていた貯金を使って、一軒家も建てた。ユリが車いすでも過ごしやすいような設計で、二階に行かなくていいように平屋にしてもらった。
子供はユリの体のことを考えて諦めていたから、ペットを飼うことにした。
介護をすることもいとわない。自宅でユリの介護をしながらの生活が始まったが、なんにも苦痛に感じない。
すべてはユリのために。それだけを考えて、僕は動いていた。
「リョウちゃん、いつもごめんね、ありがとう」
「なんてことないよ、ユリのためになるなら僕はなんだってするよ」
リハビリを頑張ったので、ユリは少し手を動かせるようになり、またサポーターで筆を固定して絵本が描けるようになっていた。少しずつ形になるものを作れるようになっていき、また仕事を再開し始めた。
以前のようにはいかないけれど、それでも描き込みやストーリーが評価されて、はたまた大ヒットすることとなった。
やはりユリには絵本を描く才能があるのだと実感した。
このまま幸せに暮らしていきたい。そして何年かが経過する。僕たちは四十代になっていた。
ある日の朝、ユリが寝起きに震えた声で僕の名前を呼んだ。
「ねえ、リョウちゃん、あのね、腕が動かないの」
その日から、ユリは口で筆をくわえて絵本を描くようになった。
そうまでしても描きたいという心意気に僕は応援したい気持ちでいっぱいになった。
ユリの絵本は売れ続けて、僕の年収と変わらない程稼ぐほどまでになっていた。
しかし、口で描くにも限界がやってきた。その間人工呼吸器を外さなくてはならないので、ユリはどんどん衰弱してきてしまったのだ。
「ユリ、これ以上口で描くのは厳しいんじゃないかな」
「でも」
「だって、もう体力がなくなってきてしまっているじゃないか。僕はもっとユリと一緒にいたいんだ」
「うん……」
「お願いだから、もう絵本を描くのはやめて、療養に専念しないか?」
そう言うと、ユリは少し考えこんで「うん」と言った。しかし、それに続けてとんでもないことを言い始めた。
「私、もう人工呼吸器を外したい」
一瞬、言っている意味がわからなかった。
だって、筋萎縮性側索硬化症の患者にとって、人工呼吸器を外すということは、三から五年程度で命を落とすことになる選択なのだから。
「なんだって?」
「人工呼吸器を外したいの。絵本を描くのもやめる。でも、人口呼吸器も外す。もうこれからは、ありのままの自分でいたいの」
ありのままの自分――
そう言えば、眠っていた期間もあるとはいえ、ユリは人工呼吸器をつけるようになってもう、十年以上にもなるのか。
そう考えると、彼女の気持ちもわからなくもなかった。
病院に行って相談をしてからになるとは思うけれど、ユリの意志は固いだろう。
翌日、病院に行って相談をしてみると、医者は「まだ若いのだから」と言ったが、ユリはやはりその発言に対して首を縦には振らなかった。
その様子を見て、医者も匙を投げてしまい、人工呼吸器を外す許可が下りた。否、下りてしまった。
僕にとっては最悪の展開だった。
それからは、どんどん衰弱していくユリを見るだけの毎日だった。あまりにも辛そうなので、見ているこちらも辛い日々を過ごした。一番つらいのは当人なのだけれど、それにしたって、あんまりだった。
もう、自然に死にたいのだろう、ユリは。
だんだん出来ることが少なくなって、ついに寝たきりになってしまったユリが死んでしまったのは、人工呼吸器を外してから五年目のことだった。
朝起きると、横で静かに息を引き取っていたユリの顔は、ただ眠っているようにも見えた。声をかけても起きないので、頬を触ると冷たくなっていたのだ。
ああ、ついにこの時が来てしまったかと、僕は絶望した。
静かに救急車と警察を呼んで、僕はいつも通り身支度をした。混乱を抑えるための行為だった。
それから数日後、ひっそりとユリの葬儀が行われた。
棺桶には、ユリの大好きな白百合の花をたくさん入れて見送った。
不思議と涙は出なかった。まだ、大好きなユリがいなくなってしまったという実感が湧かなかったのだ。
家に帰って初めて、ユリのいない生活を実感して、涙が出た。家のどこを探してもユリがいないという現実に直面して、僕は、泣きに泣いた。
もう嫌だな。僕も死んでしまいたい。ユリのいない人生なんて耐えられっこない。
そう思ったが、ユリの墓参りをする人間がいなくなっては困るという思いで、僕は生きることにした。
「リョウちゃん」
まだ、ユリが僕を呼んでいるような気がする。
そんなのは全部、気のせいだというのに。
それから、一か月、三か月、半年、一年と時は過ぎていく。
そうして僕は、また毎月恒例の月命日の墓参りに出かけるのであった。
〇
僕は七十七歳になった。
ユリが死んでしまってから三十年が経過した。
まだ、どこかから「リョウちゃん」という声が聴こえるような気がする。あの僕を呼ぶ声に、いつまで依存し続ける気なのだろうか。
いつまでも幻聴にすがって、その度に酒を飲んでは泣いて。そんな日々を過ごしてきた。
しかし、僕ももう寿命が近いだろうことはわかっている。もうそろそろ、ユリのところに行けるのだ。ようやく。ようやくだ。
もっとも、そう信じて数年が経過してしまったわけだが、もうすぐ、本当に僕は死ぬだろう。そんな予感が、最近しているのだ。
ここまでずっとひとり身を貫いてきて、親も死んで、一人になって。ようやく僕も向こうに行けるのかと思うと、なんだか心が躍るようだった。
八月三十一日。僕は地元の夏祭りに向かう。
ユリが死んでからは一人で毎年通っていたのだけれど、それも今年で最後だろう。
ユリが好きだったりんご飴を屋台で買って、僕は花火大会を待つことなくユリの墓参りに向かう。偶然にも今日は月末で、ユリの月命日。
ユリの墓の前に着くと、僕はりんご飴を供えて墓石に腰を掛けた。
「ねえユリ、もうすぐ花火大会が始まるよ」
いもしない死人に話しかける姿は、はたから見たら異様だろう。
「ここからでも見えるよ。高台だからね。港から見るよりは少し小さく見えてしまうけれど、それでもきっと綺麗だよ。僕たちが愛した花火だ」
そう、ユリに話しかけたとたん、僕は胸が苦しくなってそのまま墓の前で倒れ込んでしまう。蒸し暑さで熱中症にでもなったか、はたまた心臓発作か。
理由はわからないが、これが死期というものだろう。
花火がどん、どん、と大きな音を立ててあがっていく。
大輪の花火を横目に見ながら、玉砂利の上で僕は横たわっている。
だんだんと心臓が早く動いていくのがわかる。
そして目を閉じた次の瞬間、目を開けると僕は電車に乗っていた。見たことのない電車だ。
がたんごとんと電車に揺られる。数人の乗客はみな、不安そうだったり悲しそうだったりと、暗い顔をしている。
僕はかつてユリが話していた電車の話を思い出していた。
確か、電車に乗っている人は降りたら死んでしまうんだっけ。
じゃあ、すぐに降りて、死んであの世のユリのもとに行ってしまいたい。そう思い立ち上がろうとしたが、どうやっても足が動かなかった。
「なんだ? これ」
不思議な感覚だった。まだ降りるなということなのだろうな。
まあいいかと思いながら、しばらく電車に揺られる。
電車に乗ってしばらく経つと、一人の乗客が降りていった。これであの人は死んでしまったのだろうか。
そう考えると、なんだかとたんに死ぬことが怖くなってきた。
そうか、それでみんな不安だったり悲しそうな顔をしているのか。こうしてみんなが死んでいくから。
妙に納得し身構えていると、また一人、一人と乗客が降りていく。
そして、何やら聞き覚えのある地名のアナウンスが流れてきた。
「次は館浦。館浦です」
僕の地元だ。
でも、僕の地元に電車なんて通ってないし、そんな名前の駅なんて存在しない。
隣町には駅があるけれど、それだって違う名前の駅だ。
すると、突然足が動くようになって、僕は立ち上がらなければいけないという感覚に襲われた。
この駅で降りなければならない。そんな不思議な感覚に苛まれ、僕は立ち上がりドアの前に立った。
ぷしゅーと音を立ててドアが開く。
外はだいぶ暗いが、音と明滅する光で、空に花火があがっているのがわかる。
閑散とした人気のない駅だ。誰もいない。
ここにずっといても仕方がないので歩き出そうと振り返ると、そこには、なんとユリの姿があった。
高校生のころの……元気な時のユリだ。
紺地に白百合の柄の浴衣を身に纏った、懐かしいユリの姿。
「リョウちゃん」
ユリはほほえみながら僕の名前を呼ぶ。
そんな、そんなことってあるのか?
あの時死んでしまったユリが目の前にいる。その現実だけで、涙があふれてきた。
「あ、あ……」
「どうして泣いてるの? もー」
「だって、ユリ、ユリはあの時」
「うん、そうだよ。死んじゃった。でもね、それはリョウちゃんも同じ。だから今、こうして会えてるんだよ」
「え……?」
よくよく自分の手を見てみると、そこについているのはしわだらけなんかじゃない、高校生くらいの若々しい手だった。
僕も、あの頃に戻っているのか? この不思議な駅で。
ほほえみを浮かべているユリ。泣いてばかりの僕。
もう二度と会えないと思っていたのに――
「リョウちゃん、本当にごめんなさい」
「なにが?」
「あの時、私が人工呼吸器を外す選択なんてしなければ、リョウちゃんは三十年も一人で暮らすことなんてなかったのに」
「そんなの今更だよ。今会えたんだからどうだっていい」
「どうだってよくないよ」
「どうしてさ」
「私ね、本当はあの時、自分が死ぬことでリョウちゃんは他の人と幸せになってくれたらと思っていたの。でも、違った。リョウちゃんは私が死んだあと、ずっとひとり身で過ごしてた。それを空から眺めていて思ったの。ああ、私の選択は間違いだったんだって」
ユリはまくしたてるように言い、目じりに涙を浮かべる。
「ごめんね、リョウちゃん」
「そんなのいいよ! 僕が、僕が勝手にずっと一人でユリのことを思い続けていただけなんだから」
「……ありがとう」
そうして、二人で抱き合って、若い姿の僕たちは初めてのキスをした。
こんなこと、人工呼吸器をつけた闘病生活の中では出来なかったから。
「大好きだよ、リョウちゃん」
「うん、僕も、ユリのことが大好きだ」
僕たちの恋が、ここでようやく始まった気がした。
その時、次の電車がやって来るのが、駅構内のアナウンスでわかった。
「まもなく、天国行の列車が参ります」
天国行? それに乗って、僕たちは天国に行くのか?
ユリは全部を知っているようで、僕の手を引いて黄色い線の内側に連れて行く。
空にはまだ、綺麗な花火が打ちあがっている。どん、どん、と大きな音で、赤、青、黄の大輪の花火たちが夜空に咲き誇っている。
ぱああ、という甲高い電車の音がして、しばらく待つとごおっと風が吹き、三両つなぎの電車が目の前に停車する。
ぷしゅーと音を立てて、ドアが開く。
ユリは僕の手を引いたまま、
「さあ、行こう、リョウちゃん」
と笑った。
ああ、これでやっと、永遠にユリと一緒にいられるんだ。
「うん、行こう」
僕は黄色い線の外側に足を踏み出し、電車に乗り込んだ。
またぷしゅーと音を立てて、ドアが閉まる。
僕はユリの隣に腰をかけて、座席から外の花火を眺める。
赤、青、黄。たくさんの花火が夜空に咲き、それを眺めているユリが言った。
「また、隣で花火を見られたね」
僕の恋はあの夏、終わっていなかった。花火のように散ってなどいなかったのだ。
「愛してるよ、ユリ」
「私も、愛してる」
人生という物語は、今、終焉を迎える。
後悔ばかりの人生だった。それでも、ユリと今最期にこうして天国に行けることを、幸せに思う。
「ずっと一緒にいよう」
恋の花が心に咲き誇っている。
きっとその花は、白百合を模している。
白百合の君 早河縁 @amami_ch
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