不香の花
七星
前
物心ついたときから、自分が「彼」のためだけに存在していることは分かっていた。親の顔も思い出せないのに、彼が初めて自分の名を呼んだときのことは、昨日のように覚えている。
「
呼ばれて、ふ、と意識が浮上する。立てた膝に顔をうずめるようにして眠っていた少女は、ゆるゆると顔を上げた。
薄暗い空間だった。外の光が射しこむことはなく、昼も夜もない部屋だ。四隅に置かれた燭台に、かろうじて灯った炎だけが光源だった。
ゆら、と揺れる光の中心に目を向ける。
「終わったぞ、
目もくらむような美貌の男が、檻の中にいた。
否、檻と呼べるかは少し怪しい。男のいる場所は確かに樫の木で作られた格子で閉ざされていたが、中には綺麗な畳が敷かれ、隅には文机や衣装箪笥まであった。畳の中心には、人が優に三人は寝られるような寝具が置かれている。
男はそこに一人座って、
どこもかしこも白い男だった。床につくほどの真白い髪と、雪よりも白く血の気の引いた肌。すっと一筆で描いたような鼻梁、美しい切れ長の瞳。まつ毛の一本すらも、淡く発光するほどの白で構成された男だった。虹彩だけが薄く青みがかった灰色をしており、光の加減で鮮やかに光る。白皙の美貌、という言葉が形になれば、きっと彼のような姿をしている。
ときおり口から吐き出される煙だけが、かすかに彼に影を落としていた。
「不香、どうした」
はっと顔を上げる。いつの間にか動けなくなっていた体を叱咤して、少女は懐から鍵を取り出した。檻につけられた南京錠は呆気なく外れた。手拭いを持って、静かに檻の中に入る。
「お前、本当にこの顔が好きだな」
「あるじ様の顔が焼けても、わたしはあるじ様に見惚れてしまうと思いますけど……」
顔の美醜ではなく、存在そのものに目を奪われているのだ。彼は一瞬虚を衝かれた顔をして、かすかに妖しく笑った。
檻を開けたからと言って、彼が外に出るようなことはなかった。しないというよりできないのだ。檻の入口は、小柄な女性がやっと通れるくらいの大きさしかない上に――彼は、異様なほど背が高かった。立ち上がったところをほとんど見たことがないが、背丈は優に
ならどうやって彼をここに入れたのかという話だが、不香がそれを知る機会はなかった。誰も、彼本人すらも、それを教えてくれなかったからだ。
彼は上半身に羽織を引っかける程度の服しか着ておらず、その肌は汗でつややかに光っていた。彼の世話が不香の仕事だ。肌を傷つけぬよう、手拭いで汗を拭き取っていく。
ふと、あえかな声が足元から聞こえて、少女はわずかに視線を下げる。ああ、そうだ、踏まないようにしなければ――と、夢見心地の中で思う。
男のそばには、裸に剥かれた五人の女が散らばって落ちていた。
「今年は不作だな」
煙のほうが美味い、と笑う男は、七十年ほど前からこの座敷牢にいるという。
不香は自分の生まれをよく知らない。乳飲み子のときに両親が亡くなり、そのときに気まぐれで、座敷牢の男――セツに生かされたらしい、というのを、たびたび耳にするくらいだった。
当たり前のように全く覚えていないのだが、不香はどうやら、口減らしに殺されそうになっていたらしい。親のいない子供など、村では飯を食らうだけの荷物も同然だ。殺すのも致し方ないことだと、不香は今でも思っている。
「俺の世話係が必要だろう」
だが、彼の言葉は絶対だった。座敷牢なんかに閉じこめているくせに、村の人間は彼の言うことに逆らうつもりがない。彼もどうしてか、檻から出ようとしない。歪な歯車の回る村で、少女は彼に掬いあげられた。
だから、その日から誇張なく、不香の人生は彼のものなのだ。
捨てられても当然だった命を拾い上げた存在が、少女の中で絶え間なく輝いている。
「お前は
彼が自分をそう呼んだ日を、少女は鮮やかに思い出せる。どこか愉快そうに細められた目が、はっきりと自分を認識した日のことを。
不香の村は狭くもないが、かといって広くもない、雪が年がら年中降っているような場所にあった。おかげで他の土地との交流もほとんどない。作物はやせ細り、穀物はほとんど育たず、わずかな食べ物を奪い合うように貪る。
それでも年がら年中、人が死ぬ。そういう土地だった。
そんな村に、七十年ほど前に現れたのがセツだったらしい。彼の素性は誰も知らない。ただ、彼は村の長の家にある座敷牢に押しこめられ、今日までの日々を過ごしている。七十年と少し前からずっと。
理由は簡単だった。彼が、一年に一度、村に住む妙齢の娘たちの中から一人を「選ぶ」からだ。
不可思議なことに、選ばれた娘の家は例外なく幸運に恵まれる。森の中で金塊を掘り当てた家もあれば、吹雪の中で遭難していた男を助けたら、それが有名な大名の息子で、礼として家族ごと召し抱えられた家もある。無論、村にも相当な額の謝礼金が与えられた。
初めてその事実を知ったとき、彼女はあまりのおぞましさに言葉を失った。命の恩人が知らぬ間に搾取されているのを見て、正気を保っていられる人間がどこにいるだろう? 彼女はその日から、必死で彼を逃がそうとした。
結果、逃がすどころか、不香は村の人間たちから物理的に袋叩きにされた。セツから静止が入らなければ殺されていたかもしれない。だがそんなことはどうでもよかった。不香の中には怒りしかなかった。
彼に捧げるための子供をひたすらに産んで、彼の欲しいものは全て与えながら、それでも、座敷牢から出すことだけはしない人間たち。彼を逃がそうとした不香を殴りながら、どうか出ていかないでくれと彼に懇願していた人間たち。
全てが憎かった。泣きながら怨嗟を吐いた不香を、セツだけが愉快そうに眺めていた。
不香はセツの世話役としてのみ、生きることを許されている。万一にもセツに見初められることがないよう、与えられる食べ物も服も最低限だったが、心底どうでもよかった。
セツの自由が手に入らないのなら、他に何があっても同じだ。
「不香、どれがいいと思う」
ふと、不思議な引力の伴った声が響いて、不香はわずかに顔をあげた。思考は霧散して、目の前にある彼の顔しか見えなくなる。
「今回は不作だった。選べと言われても困る」
汗を拭いている途中で、彼はそう言った。不香を一瞥してかすかに笑う。
「お前は相変わらず香らなくて良いな、不香。まあ、そういう風に育てたんだが」
「香らない……」
「ああ。こいつらはダメだ。どれもひどく臭う」
不香は再び視線を足元に落とす。意識があるかも分からない女たちの姿を見る。
昨日は一年に一度、セツの元へ女が捧げられる日だった。女たちはめいめいに美しい衣装を着て、白粉をつけ、紅を引き、淑やかに牢の中へ入る。牢の鍵を開けながら、毎年のことだが吐き気のする光景だと不香は思った。普段は間違っても座敷牢に近づかない女たちが、熱にでも浮かされたような顔で牢に入るのだ。セツの美貌を思えば当然だろうか?
女たちが入り終わると、牢の中でセツが、鍵を閉めろ、と言うのも恒例だった。閉めたって閉めなくたって変わらないのだから、開け放したままにしたかった。わざわざ自分でセツを閉じこめるような真似をしたくない。
それでも、彼が言うことに、不香は逆らう意識を持たない。
「ご苦労、不香。もう眠れ」
彼が言う。檻は閉じられ、錠が回る。
そうして一晩、嬌声だけが響いた。
部屋の四隅にある燭台の炎はいつの間にか消えている。毎年、何故かこの日だけは、部屋の炎が消えるのだ。牢の中にある炎も、牢の外にある炎も、気づけば消えている。
不香はセツの世話係だ。一人で自分の身の回りの世話ができるようになった日から、座敷牢でセツと共に過ごしている。正確には、座敷牢のすぐ外で彼のために控えている。
だが、一年に一度の日、彼が何をしているのかは知らない。灯りが消えているのだから当然だ。女の高い声と、獣の唸るような声と、知らない水音が響くばかりの空間で、立てた膝に顔をうずめて眠る。そればかりを、十八になった今でも続けている。
何をしているのかと聞いたことはあったが、知りたいか? と問われて止めた。特に知りたいわけではないなと思ったのだ。
どうせ、知ったところで彼が牢に囚われている事実に変わりはない。
「お前が選べ、不香」
気だるい声と共に名指しされ、少女はぱちぱち、と瞬く。選べ? 何を?
男はおもむろにこちらを見下ろして、かすかに愉快そうに笑った。
「今年の女だ。お前が選べ」
「……私が?」
ほとんど考えたこともなかった選択肢を提示されて、不香は目を丸くした。
「私が選んでも良いものなのですか?」
「構わん。誰を選んだとて、誰が選んだとて同じことだ。俺が選ぶのも、お前が選ぶのも、さして変わりがない」
不香はたちまち押し黙った。曲げた人差し指を口元に当て、静かに黙考する。
不香が選んだことで、選んだ娘の家に幸運が訪れなければどうなるだろう? 彼女にとってはそれが最も大きな恐怖だ。自分はどうなってもいいが、セツが責められるようなことにならないだろうか?
黙りこんでしまった少女に、セツが妖しく笑う。
「不香、選べ」
口角が上がり、喉の奥を鳴らすようにして笑う。まなじりが下がって、白銀のまつ毛が揺れる。本当に気分が良いときのセツの癖だった。あまりの美しさに、不香は一瞬、呼吸すら忘れる。
唐突に気づいた。彼は誰に責められたとて、傷つくことも、憤ることも、ましてや泣くようなこともないだろう。万が一害されそうになったら、自分が盾になればいいだけだ。
気づけば女の一人を指さしていた。セツはそちらを見やると少しだけ眉を上げて、また、機嫌が良いときの仕草で笑った。
「良い子だ」
顎を撫でられ、髪を梳かれる。不香は目を細めて心地良さを甘受した。もう誰を選んだのかも覚えていなかった。
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