3 少年「おじさん、また来るね」

 翌日、仕事は無事に定時に終わった。

 昨日は遅かったので嫁さんを安心させようと早く帰った。

 いつもサークルで忙しい長男もいて、全員が揃った久しぶりの家族団らん。

 皆が楽しく笑っていて。

 僕は笑みを浮かべながら、どこか苦しかった。


 ◇


 次の日。

 プレゼンの本番。

 先輩に入れ知恵をしながら臨み、幸運にも僕たちは大型案件を取り付けた。

 部長に報告すると「良くやった! 快挙だ!」と大声で褒めてくれた。

 同僚たちが仕事中にも関わらず立ち上がって拍手をしてくれた。

 「打ち上げに行くぞ!」と肩を組まれて連れ出された。

 とても楽しく誇らしい、虚無の時間を過ごした。


 上機嫌の部長のハシゴを断って地元の駅へ着いたのが二十二時。

 酒の入った頭を冷やすのはあそこだ、と公園のいつものベンチに腰掛けた。

 こんな時間だ、大きな公園といえど誰もいない。

 僕様の特等席だと鷹揚にベンチを占領した。


 ひゅうと夜風が頭を冷やす。

 抜けていく酒気。

 この孤独感が僕の虚無を優しく撫でてくれる。

 その感触が嬉しくて安心したところで。

 へくちっ、と可愛らしいクシャミが後ろから聞こえた。


 驚いて振り向くとあの子がいた。

 目が合ってしまった。

 そのまま見なかったことにして顔を前に戻した。


 彼女は見逃してくれないらしい。

 僕の隣に座った。


「…………」


 無言のプレッシャー。

 いや、どうしてこんな冴えないおっさんの横にいるの?

 君、花の女子高生だよね? 夜は危ないよ?

 むしろ僕の冤罪の燃料になってもらっちゃ困る。

 頭の中の喧騒はついぞ言葉にならなかった。


「……今日は……」

「え?」

「今日は聴かせてくれないんですか?」

「……」


 あれは約束だったんだろうか。

 彼女が一方的に言うだけ言って去っていっただけ。

 そもそも僕はギターもない。

 ただでさえ汚い声。

 歌えと懇願されたって、誤魔化しの利かないアカペラなんてやりたくない。


「無理だよ、ほら、ギターもない」

「…………」


 僕はおどけるように手を裏返してひらひらさせる。

 すると彼女は立ち上がり、僕の手を引っ張った。


「こっち」

「え?」

「来て」

「あ、ちょっと」


 結局、引っ張られるままに公園の奥へ歩いていく。

 時計の下の芝生の山。

 その片隅にある低木の中にあのギターケースがあった。


「これ」

「これね、僕のじゃないんだ」

「でも弾いてました」

「うん、気紛れ。見てのとおりしがないサラリーマンだから」

「でも弾いてました」

「僕の声、公害だよ」

「でも、聴きたいです」


 無表情のまま。

 彼女はずっとそのケースを指していた。

 じっと僕を見つめながら。


 僕は観念して芝生にあぐらをかいた。

 乱暴に鞄を放り出してケースを手繰り寄せた。

 持ち主不明のケースからギターと黄色いピックを取り出して。

 チューンを合わせて二、三回、ぼろんと調弦を確認した。

 そうして黒歴史の上塗りを始めた。


 ――正しくなさいと 優しい言葉で 斬りつけ♪


 あの頃の、あの時代の言い回しだけを使って。


 ――世界に 僕は 笑われている♪

 ――社会に 僕は 笑われている♪

 ――学校に 僕は 笑われている♪

 ――家族に 僕は 笑われている♪

 ――友達に 僕は 笑われている♪


 ただ、それだけ。

 自分自身を貶めて、それで満足する歌。

 彼女は反対側の芝生に座って歌う僕を見つめていた。


 一曲だけ、高々五分の演奏で僕の喉が悲鳴をあげていた。

 歌い終わってケースに仕舞う。

 元の茂みの中へそれを押し込むと、目の前に彼女が立っていた。


 今日も両目を赤くして、頬を濡らして。

 なんと声をかけたものかと思っていると、彼女はそのままぺこりと頭を下げた。


「……また、お願いします……」


 その一言だけを残し、向こうの暗闇に姿を消していった。

 呆然とその後ろ姿を見送った。

 僕も帰ろう、そう思って帰る方向へ振り返って、びっくりした。


 僕を見上げる子供がいた。

 子供? いや、中学生?

 とにかく一番下の息子と同じくらいの身長の、まだ幼い男の子だ。

 よく見る学習塾の、平べったい青いバッグを背負っていた。

 塾帰りにしたって二十二時は遅いだろう。


 僕を驚かせたのはその子の存在じゃない。

 彼もまた目を赤くして涙を溜めていたことだ。

 まるで僕が泣かせてしまったかのような光景。

 誰かに見られたらやばい。


「……おじさん、また来るね」


 ちょっとがらがらとした、喧嘩の後のような声で告げると、少年は駆けて行った。

 僕の虚無は鳴りを潜めていた。

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