世界に殺される僕
たね ありけ
1 小さな嘘
僕は大手商社の営業をしている。
今日もプレゼンから帰り先輩と企画内容を見直していた。
「先方の要望に応え、この案を追加してみました」
「へぇ、さすがの仕事だな。あとは俺が仕上とくからもういいよ」
先輩はそう言って僕の手から企画書をかっさらった。
時刻は二十時過ぎ。
「お疲れさん、嫁さん安心させれよ。また
「ありがとうございます、お疲れさまでした」
仕事でこんな良い人と組めているなんて僥倖だ。
◇
「はぁ」
溜息が白い湯気となって街灯の下から逃げ去った。
地元駅近くにある広い公園。
自宅へ帰る際にいつも通り抜けている。
ここは二十一時を過ぎても若者が語り弾く歌が響く。
住宅街ばかりのこの街で、不思議とそういう人が集まる場所だった。
僕はベンチに腰掛けた。
缶コーヒーの温かさが手を慰めてくれる。
プルタブを開けると吐息よりも勢いよく白いものが曇天の夜空に消えていく。
僕は四十半ば。
二十後半で猛アタックしてきた可愛い後輩と結婚しすぐに三児の父となった。
どうしてぱっとしない僕なんかに言い寄って来たのかわからない。
友人には「できた嫁だ」「幸せ満帆」と揶揄われたほど。
それでも今は仲の良い夫婦として、知り合い皆が温かく見守ってくれている。
子供は皆、男。
大学生三年と、高校二年と、中学一年。
自分の目から見ても良い子に育っている。
成績優秀でもないけど人間性に問題はない。
彼らも彼らなりの人生を送ってくれる。
あとは独り立ちまで支えてあげれば大丈夫。
これも嫁さんの教育の賜物だ。
出世は望めないけど子供を育て上げれば静かな老後は約束されている。
今の僕はそんな立ち位置だ。
「…………」
だからだろうか。
このままで良いの? とよく頭の中で囁く。
就職するとき。社会の一員となり社会を動かせることに胸を躍らせた。
結婚するとき。僕を好きになってくれる人と永遠の約束ができることに感激した。
子の誕生。愛の結晶に血が受け継がれるという事実に涙した。
大勢の日本人から見て僕は順調だろう。
就職難とか格差社会と呼ばれて久しい日本において、とても順当な人生だ。
就職し、少しは出世し、首都圏内に駅近の家を買い。
こんな中流階級の僕なんて掃いて捨てるほどいる。
僕はその構成員の一員だ。
「…………」
だというのに。
僕には充実感がない。
家に帰れば嫁さんが笑顔で「お帰りなさい」と迎えてくれる。
この歳でも仲睦まじいなんて、大学時代の友達に羨ましがられるというのに。
僕はどうにも虚無感に苛まれていた。
毎日毎日、この公園を通るたびに甘美な虚無に遭遇する。
その正体を確かめるため。
こうしてベンチに座ってぼうっとするのが、僕のここ数日の日課だった。
――♪
ソプラノの語り弾きが聞こえる。
あちらこちらで、各々が好き放題な想いを明け透けに解き放つ。
耳を傾けその歌詞をなぞる。
恋愛だったり、友情だったり。
そういった、誰もが渇望する想いを鋭く、赤裸々に語る。
今時の言葉を使った若者特有の表現に、ほう、と感心した。
◇
しばらく聴き入っていたらもう二十二時を過ぎていた。
いつもなら遅くても帰宅している時間。
妻からSNSで心配する内容が届いていた。
『先輩の愚痴に付き合ってる。日が変わる前には帰る』
何故か僕は少しの嘘をついた。
これで二時間くらい一人でいられると思うと罪悪感はなかった。
鈍重な腰を、えい、と持ち上げて膝をぱきりと鳴らす。
もう歳だよなと自虐したくなった。
僕の身体は成長らしい成長を終えて久しい。
あとは朽ちる方向へ傾いているのだから。
健康面でいえば不安ばかりが生まれる年代だ。
そう、消えていくだけ。
順当にこのまま老人になり消えていく。
僕の残りの人生は、存在は、つまりそういうことだ。
社会にお金で貢献して消えていくだけの存在だ。
公園の傍にあるコンビニでビールを一缶買って来た。
寒空の下でもぷしゅうと冷たそうな音を耳が歓迎する。
そのまま一気に500ミリリットルを嚥下した。
かっと喉と頭が熱くなる。
あの未成年の語り弾きにはできない、大人の芸当だ。
どうだ大人は良いだろう、これが大人だ、と意味もなくひとりで粋がる。
それくらいしか彼らに勝てるものはない。
気を大きくした僕はのしのしと園内を徘徊した。
片付けをしていた語り弾きの女の子が、関わり合いになりたくないと目を逸らす。
お子様がこんな時間まで遊んでいるからだ。
そんな生意気を態度を振りまいて、公園内を闊歩した。
がつん。
気付けば地面に手をついていた。
アスファルトに受け身を取った片手は擦りむいて血が滲んでいる。
被害を確認したところで、ひゅう、と北風が吹いた。
500ミリリットルの手前勝手な紅潮が霧散した。
この惨めな怒りを足元の何かにぶつけてやろう。
そう思って暗がりの足元に何かに手を伸ばす。
が、掴もうと思った何かは大きすぎて手がするりと滑った。
「何だ、これは」
それは汚れたケースだった。
アコギのケースだ。
語り弾きの誰かが置いて行ったのだろうか。
就職する前にシンガーソングライターに憧れていたことがある。
アコギを片手にこの公園で語り弾きをしていた。
あの焼き栗のような、触れば弾けるような情熱を抱いた時代。
今の僕の人生に何の貢献もしていない黒歴史。
足元のケースがどうしてかそれを彷彿とさせた。
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