第3話

(そうしたら私は、未練なく……)


 怖さに、手が震えた。


 明日、アンドレアと話すことを想像したせいだろうか。


 それとも――この先で、自分がしようとしていることのせいか。


(もしくは……この恋が、完全に終わってしまうことを……?)


 もしかしたら、という浅はかな願いが、彼女に唯一の結婚資格である『魔力量』へと固執させているのか。


 未練は、ない。


 こんな魔力は、邪魔なだけ。エステルにも、そして――アンドレアにも。


       ∞・∞・∞・∞・∞


 翌日、エステルは両親よりも先に王宮へと向かった。


「こちらへどうぞ」


 待っていたメイド達に導かれて、すでに用意されていた式典に相応しいドレスへと着替える。


 エステルのミルクティー色の髪にもよく似合う、深いオレンジを基調とした秋らしい、城も多く使われた上品なドレスだった。


 襟もとからどうしても覗いてしまい、大きな裂傷痕の先から人々の視線をそらすように、首元には彼女の瞳と同じダークアメシストの澄んだような宝石のネックレスがされた。


 王太子の婚約者は、未来の妃。


 その装いもまた、王家の〝顔〟になる。


 それを集まった貴族や、そしてバルコニーから王家で顔を出して手を振る際の、国民へのアピールにもなる。


(こんなことに……意味などないのに)


 ドレスの金の刺繍と、デザインに組み込まれた藍色のラインを見ていると、隣に立てば誰もがアンドレアの色をまとっていると気づく。


 けれど、それを改めて姿見で映しても、惨めだ。


(彼を、不快にさせてしまうかもしれない)


 そう思うたびに、心臓がおかしくなってしまうのではないかと思うくらいの緊張に苛まれた。


 もう、何年、こんなことを繰り返してきただろう。


 ――終わりたい。


 エステルの限界を迎えた心が、恋心が、切なく悲鳴を上げている。


 彼の顔色を考え、恋した人なのにその前に出ることさえ強いストレスになっていた。


 顔を合わせることなどなくなってしまえば、どんなにいいか。


 けれどそう考えるたびにエステルの胸は締めつけられる。彼に会えなくなってしまう事実に、深い悲しみに包まれるのだ。


「さあ、行きましょう」


 姿見を前に、表情に出すまいと静かに深呼吸をする。後ろで不思議そうに待機しているメイド達を振り返り、エステルは一歩を踏み出した。


 扉の前で待っていた護衛騎士に先導され、長い廊下を歩く。


 間もなく、向こうから数人の騎士を連れて歩いて来る者の姿がある。


(あ)


 刹那、そんな自分の声を頭の中で聞く。


 つい足を止めてしまった。いや、それは正しい判断ではあった。取り繕うように頭を下げて、尊いその人がやってくるのを臣下の礼で待つ。


「わざわざいい。そんなものは、不要だ」


 ありきたりな挨拶の言葉もいらない、というわけか。


「……はい」


 ゆっくりと頭を起こすと、式典用のマントが揺れるさまが見えた。


 そこにいたのは、とても美しい一人の男性だ。


(――アンドレア・レイシー・ティファニエル王太子殿下)


 心の中で、その人の名前を唱えた。


 廊下に並んだ美しい窓から差し込む光に当たると、透けるようにしてきらきらと光って溶けていくような、プラチナブロンドの髪。視線が絡みあったその先にある彼の目は、落ち着いた色合いの藍色だ。


 式典の正装もよく似合っていた。彼は優秀な魔法騎士でもあるから、少し軍服の雰囲気も取り入れられたのを好んでいた。騎士を連れる姿は、かなりさまになる。


 二十一歳になった彼は、昨年よりまた少し身長が伸びた。


 エステルは、あまり会わないせいでその変化がよく分かった。だから1ヶ月も会わないと、また、見慣れない男のように彼をつい、まじまじと見つめてしまう。


『殿方の身長は、二十代前半まで伸びるお方もいらっしゃいますよ』


 昨年も同じ驚きを口にした際、長年いるメイドから同じ回答をされた。


 ただ一人いる兄は成長が早かったから、それ以外の男性とは距離を置いていたエステルには、やはりよくは分からないことだった。


「エステル」


 もうすぐそこまで来る彼が、呼ぶ。


 婚約者として彼に名前を呼ばれることが、エステルは好きだった。けれど自分から声をかけるのは苦手になった。


 拒絶している癖に、彼は、婚約者同士なのだから自分のことは名前で呼べと言った。


 彼の目には婚約者として映っていないのだから、そんなことはできないと――王太子である彼のあの時の言葉に背くように、態度で示していることへの緊張感。


「ごきげんよう、……殿下」


 簡略的な挨拶でいいとは先に言われていたので、少しスカートを左右から持ち上げて、いつも通りの言葉を言った。


 そばにいたメイドや護衛騎士達の空気が、わずかながら戸惑いを滲ませて緊張する。


 アンドレアが、エスコートまであと二歩必要だったのに足を止めたせいだ。


(いつもの、こと)


 エステルが思っている間にも、彼も、いつも通りマントを翻す。


「行くぞ」


 誰も見ていないのだから、婚約者の近しい距離は不要だ。きっとそのためだろうとエステルは思いながら、彼の少し後ろから続く。


 心が、また勝手に沈んでいくのを感じた。


(彼の背中が、……こんなにも、遠いわ)


 これから、もっと遠くなる。


 予感が確信へと変わるのを感じて、エステルは緊張しつつ、普段の落ち着いた素振りで確認の声をかけた。


「最近、伯爵令嬢とよい感じだそうですね」


 あくまで、雑談のような自然な口ぶりで告げた。


 アンドレアが、こちらを珍しく肩腰に見てきた。


「それが?」

「噂を耳にしただけですわ」


 エステルは静かな微笑を浮かべた。


 政略結婚で選ばれ、二人の間にはあくまで愛もないのだと見えるように。


 何も問題視などしていない、あなたもそうでしょうと見えるように――すると彼も、そう答えるみたいにふいと視線を前へと戻した。


「ああ、君より可愛げがある」


 ずぐり、と胸が重くなった。


 ああやはり、という想いで内臓がじわじわと痛むような感覚。


(それだけ、私との結婚が嫌なのね)


 伯爵令嬢みたいな子が理想なのだろう。


 彼女の話はよく聞きこえてきた。明るくて、ちょっとドジなところがあって、レディとして完璧ではないところがまた可愛い、と。


 アンドレアが、そういう令嬢が好みだとは知らなかった。



 でもアンドレアだって、エステルのことを知らないのだ。


 エステルも、完璧な公爵令嬢にはなれない、ということを。

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