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「どいて、早くっ……アスティア団長?」


若い男の魔術師が内城壁から走り出てきた。

前のめりで転びそうになりながら、橋に辿り着いた。

その手には、鳥籠ほどの大きさの三角錐の硝子の容器を抱えている。

容器の一面が、割れていた。


橋の真ん中に第三騎士団の団長が膝を付いていた。

しまった、と血が引いた表情で魔術師は足を止めた。

追いかけてきたのに、間に合わなかった。

あれと遭遇したのだ。

直接攻撃を受けたのだ。


第三騎士団の団長の周りには、瘴気と、判別が付かない魔力が漂っていた。

傍らの少女は治癒師なのか、第三騎士団の治癒師が王都にいることなど、そうか、第一隊から連れてきたのか、いや、そんなことはどうでもいい。

治癒の魔術の一種かもしれないが、あの瘴気がどうにかなるとは考えられない。

第三騎士団の団長が死ぬ。





「おまえ、こないだのエピックスの従者だな」


アデルが距離を詰めて魔術師の胸倉を掴み上げた。

見覚えのある顔は、南西の森の野営地に呼ばれもしないのに乗り込んできた魔導士団のひとりだった。

抱えている容器と蒼褪めた顔を見れば、誰だってこの騒動を誘引したのがこの魔術師だとわかる。


「なんでこんなとこに、あんな高密度の魔物がいるんだ! あれじゃまるで」


アデル、とリシュトが静かに呼んだ。

呼び掛けに反応してアデルは息を飲んだ。

突き飛ばすように魔術師を放し、リシュトの元に駆け寄る。

石の橋に駆ける乾いた足音が響く。


リシュトはアデルに籠を渡した。


「……赤ん坊」


籠の中で、あぎゃあ、あぎゃあと赤ん坊は泣いていた。

まだ首も座らない赤ん坊が顔を真っ赤に、しわくちゃにしていた。


アデルは籠を受け取って立ち上がり、幼子を抱えた母親を振り返った。

母親はがくがくとぎこちなく腕を伸ばした。

母親はもう一人の子供を助けようとして橋に留まったのだと知り、団長が身を挺して赤ん坊を守ったのだと知った。


涙をこらえて顔を歪めたアデルは、唇を一文字に結んで歩き、女性に赤ん坊を渡した。

女性は、幼子と籠を胸に抱えて崩れるように地面に丸まった。

良かった、とすすり泣く声が聞こえた。


「リシュト」


ネイが馬から降りた。

リシュトと楼子のそばに立つ。

楼子は泣き顔のままネイを見上げた。

リシュトの血が付いた楼子の白い頬を、ネイの指先が拭った。


ネイは両手を空に翳して、胸を開いた。

若草が芽吹いたようだった。

ネイの身体からそよ風が吹く。

風がリシュトを包んだ。


「ネイ、これは妖精王の」

「少しだけ」


リシュトの言葉を遮って、ネイが踊るように手首を揺らす。

柔らかな微風がリシュトの周りを舞った。


ネイの風を体に纏って額を押さえて立ち上がったリシュトに、楼子がしがみ付いている。

支えているつもりなのだろう。

ふ、と息が漏れた。

楼子にもネイにも無理をさせた。

リシュトは溜息を吐いて、楼子の髪を撫でた。


第二騎士団の騎士が石橋に駆け付けてきた。

市街を巡回していた騎士が集まったようで、騒ぎに到着は早かった。

血塗れのリシュトを見て、アスティア団長、と口々に叫ぶ。


「川に落ちた人がいる。救助だ」


リシュトは声を張って指示を出した。

騎士たちは駆け足で川岸に降りていった。


「……」


リシュトは、体の向きを変えた。

暗がりに魔術師の男の位置を知る。

顔面を蒼白にして容器を抱えて、石橋の真ん中で震えている若い魔術師の男は、アデルに突き飛ばされて尻もちをついたままの姿勢だ。

腰を抜かしたのだろう。


近付いて、リシュトは魔術師を見下ろした。

魔術師は、気配に気づいて首を上げた。

見上げると、第三騎士団長の血と魔瘴に染まった瞳があった。

魔物よりも昏い眼光。

視線を外せない。

恐怖で、動けない。


「魔導士団、鍛錬を怠りおもちゃの開発に勤しむのも自由だが」


喧噪の中、静かな声が魔術師を脅かす。


「他所でやれ」






額に皺を刻んだ医官は、大きく溜息を吐いた。

日は落ちて、大きな窓は黒色で、月明かりもない。

部屋の燭台は照度を下げてやや暗く、テーブルには燭台のほか、額の傷用に持ってきた軟膏が何種類も並ぶ。

寝台の上で、血に染まった髪を洗い流した後適当に拭きながら、第二王子は治療を拒否した。


「体内に残った瘴気は自力で分解できる程度です。ただ、抵抗力の弱い人間には影響が出るかもしれない。近付かないように」

「殿下のご判断であれば、間違いはないのでしょう」


もう一度大きな溜息を吐いて、侍医は部屋を後にした。

治療させてもらえないことに、心配と諦めの色が声に滲んでいた。

十年ぶりに聞いた侍医の声だった。

少し老けたなと、リシュトは思った。


侍医が来る前に額の傷は止血が済んだ。

視界がない目と黒ずんだ肌を覆うように、楼子に顔の半分は包帯を巻いてもらった。

ルルの呪布でもない包帯は、何ら瘴気を遮ることはできないが、ネイの施した妖精王の加護が瘴気が広がらないように作用している。

その瘴気も身体の表面に痣のように残存するのみで、臓腑を侵食する程にはもう存在していないことがわかっていた。

額の傷が治れば、視力も肌も元に戻るだろう。

楼子が浄化してしまったからだ。


膝に掛かる上掛けに手を置いた。

第一騎士団が馬車を走らせていたから王城のどこかだろうと思っていたが、着いてみればよく知っている空間だった。

王城の北西の離宮。

誰も使う者がいないはずなのに、手入れは行き届いているようだった。


楼子の気配を探した。

一緒に馬車で運ばれてきた。

リシュトは自分よりも、楼子の身体が心配でならなかった。

楼子の気配は部屋の中で動かない。

医官が去った部屋でリシュトは寝台から起き出して、楼子に近付いた。


医官と話している間に楼子は長椅子で眠ってしまっていた。

規則正しい寝息にほっとした。

リシュトは隣に腰掛けて、楼子の形を手のひらでなぞる。


楼子は、聖女の力を使ってしまった。

ほんの短い時間の発動だった。

リシュトの声が届いて、楼子の意識が戻ったのは幸いだった。

リシュトが止めなければ、あのまま、どれだけの力を使ってしまっていたことだろうか。

魔族に斬られた傷など最初からなかったように消してしまっていたかもしれない。


眠ったままの楼子の手を握って、ぽつりと、言葉が落ちる。


「……また、小さくなった」


包帯の下で、視線が苛烈な黒に燃える。


リシュトの施した結界を破られた。

単純な話だ。

どんな硬い壁も、耐性より強い衝撃が加われば破壊される。


外皮の結界では楼子の力を押さえられなかった。

もっと魔力器官に近い場所に、もっと強力な結界を張る必要がある。




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