35

 とんとん、と軽くノックをして返事を待つ。

 リシュトが中からはい、と返す。

 執務室の扉を開くのは初めてだ。

 緊張しつつ楼子はそっと扉を押した。


「失礼します」

「どうかした、そんな畏まって」


 リシュトは楼子の声に気軽に笑い掛けた。

 楼子は上司の執務室に入る気分だったのだが、中にいたリシュトのシャツがはだけていて、思わぬ色仕掛けに飛び上がった。


「……?!」


 部屋じゃないよね、職場だよね、と周囲を確認する。

 まだ濡れている髪も相まって艶っぽいリシュトが楼子に近付く。

 リシュトはようやく楼子の動揺に気付いたようで、とりあえずシャツのボタンを留めた。

 夜の訓練に参加して、湯をざっと浴びて戻ってきたところだった。

 暑くて、とはにかんだ。


 いやほんとに心臓に悪い。

 思ってから楼子は気を取り直し咳ばらいを一つした。


 リシュトは楼子を中に招いて、自分は書架の横の木製の長椅子に腰掛けた。

 リシュトの前に立ち、楼子は肩に掛かっていたタオルを取って髪を拭き始めた。

 突然のことに、リシュトはわ、と声を出した。


「ちゃんと乾かしてください。風邪引きますよ」

「大丈夫だよ」

「じゃあ、寝ぐせになりますよ」


 それは困るかな、とリシュトは言って、おとなしく楼子に髪をわしゃわしゃさせた。


「ネイは?」

「……アデルに連れ去られました」


 リシュトは少し首を傾げて、そうかと呟いた。

 どうもアデルがまた迷走したようだが、辛うじてリシュトの居場所を楼子に教えるだけの有余があったなら心配はない。


「今日もまだ終わりそうにないんですか」


 楼子はリシュトの首筋から耳の後ろにタオルを当てた。

 リシュトは王都に着いた途端働き詰めだった。

 今日も早朝から仕事をしていたのに、日もとっぷり暮れてなお執務室にいる。


「保存用の報告書の校正と、もう少し見ておきたい書類もあって」

「明日もありますよ。ちゃんと寝ないと」

「明日は休み」


 リシュトは言って、耳に掛かる楼子の手を取って顔を上げた。

 タオルが床にはらりと落ちた。


「明日出掛けよう」


 楼子は動きを止めた。

 リシュトは律義に、王都に着いて最初の日の約束を覚えている。


 最低限の生活必需品は備わっているが、買い物は行きたいと思っていた。

 時計もマグカップもリシュトから借りている状態で、鍋とかポットとか、ちょっとした皿とか籠とかのキッチン用品と、掃除道具が足りていないものもある。

 折角部屋に小さいキッチンがあるのに、まだ稼働していない。


 だけど、リシュトは忙しい。

 それがよくわかる。

 うっかり二三日の病欠のあとのデスクは、同僚のフォローは入っているが、山積みの記録を捌くだけでも残業確定なものだ。

 リシュトは半年も仕事ができないでいた。

 案件の進捗を追うだけでもどれだけの時間が必要だろうか。


 楼子は、迷って、リシュトが取った自分の手に視線を落とした。


「……リシュト」


 迷いに迷ってから呼び掛けた。

 リシュトはうん、と小さく答えた。

 楼子は俯いたまま深呼吸した。


「展望塔がふたつあるんです」

「……西と東にね」

「夕凪がお務めする聖堂も気になるし」

「うん」

「下町のマーケットにも行ってみたいです」


 リシュトは忙しいのに楼子に時間を割いてくれる。

 それがとても嬉しいことだった。

 でもリシュトの負担になりたくないと思っている。

 だけど、本当はリシュトと出かけたいと思っている。

 自分の気持ちを、リシュトにちゃんと伝えなければと、楼子はたどたどしく言葉を紡いだ。


「一緒に行けますか……?」

「もちろん」


 リシュトの答えに、胸がじんとした。

 素直に気持ちを伝えることが、リシュトの望みに叶うことならいいのに。

 これほどの幸せはないのに。




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