騎士の腕
霙座
第1章 妖精王の森
花が咲く
1
公園の堀がピンク色に染まったのもひとときのこと、事務室の三階の窓から見下ろす街路樹はすっかり葉桜で、初夏の風が若葉を揺らす。
空気の入れ替えに細く空けた窓から、裏手にある高校のグラウンドで部活中の熱の入ったランニングの掛け声と一緒に吹き込んできた風が、液晶ディスプレイにセロハンテープで張り付けたチェキの正方形の褪せた写真を撫でて、通り過ぎた。
小学校の入学式のまだあどけない弟と並んだ少し若い自分がふと視界に入り、キーボード上の手を少し止める。
事務机に積み上げられたファイルの向こうに立つ新入社員が、だって先輩、と子供っぽくほほをまん丸にして愚痴を零した。
新入社員に経験が必要だからと同席させたけれど、手続き説明をした相談者はなかなか手強い御仁だった。
手続きを全部任せられると思っていたのにと言われた。
いろんなひとがいて、事務員相手に態度が横柄になるひとも、まあいる。
社会人一か月の後輩はありえないと目を吊り上げた。
もうちょっと刺激が低いひとのとき同席してもらえばよかったなと
「わかる。わかるけど、お客さんに個人的に感想を持ってはだめ」
「でもあれはないですよ……」
彼女の愚痴は勢いよく吐き出され、五分も聞いただろうか、さすがに止めた。
「うん。まだ愚痴りたいなら、就業後。四時の便にこの書面を乗せないといけない。あなたは班長に次の指示を聞きに行く。オーケイ?」
怒りのオーラを立ち昇らせつつも「オーケイです」と渋々引き下がった後輩を見送り、眉間を人差し指でちょっと押さえて、短く息を吐いて、楼子は再びキーボードを叩き始めた。
電話の着信音が響き渡るが、コール三回誰も取れず、待って、四回目、ギリ、と思いながら受話器を取って耳と肩に挟む。
書面を作りながら電話のメモを取っているが、ちょっと複雑な内容である。
こんな時に限って、まあ、だいたいそういうもんだ。
右手に鉛筆、左手でキーボード、口は返事をしているが、頭には何も入らずに手だけがメモを取り続ける。
相手が受話器を下ろした通話終了のディスプレイを確認してから、こちらも受話器を下ろした。
「班長、家裁からレイ先生の担当のこの調停、次回期日相手方出頭しないので和解成立しないそうです。和解にかわる審判の予定で……」まとめた伝言とメモを隣の席の班長に回す。
三時五十五分、ぎりぎり書面を出力して正本、副本ハンコを押したら、上司の印鑑をもらって外回り担当に預けた。
間に合った。
デスクに戻ると未処理の記録と紙の束。書類に張り付けられた付箋が乱雑にはみ出している。
ここから証拠作成、コピーは六部。
「藤白さーん。先生から内線。明日提出の二十八条の件」
「了解です」
「あと、ごめん、相談室の電灯切れたの」
「了解です」
忙しいけれど仕事は好きだ。
朝起きて、最低限の身だしなみをして、おどろんを見終わったら家を出る。
バスの混雑は苦手だけど出勤さえしてしまえば仕事が待っている。
段取りどおりに行くことなんてほとんどなくて、駆け足であっという間に一日が終わる。
時々もらう「ありがとう」の言葉が身に沁みる。
五日働けば週末で。ひと月やりきってお給料をいただく。
人付き合いがあまり得意ではなく、本来引きこもり気質だけれども、事務職でも来客対応はするし、それなりに愛想良く話しすることができるくらいには大人になった。
例え誰かに陰口をたたかれていようとも、どこか遠い場所でやり直したいと思えるほどの辛さは感じていない。
入社数年で寿退社する後輩を何人も見送りながら、今日も硬派にパソコンに向かう。
愚痴を言いたい後輩が残業なしで飲みに行くというので、画面を終了させた。
明日早朝から作業すれば提出が間に合うだろう目途は付いた。
「藤白さん、大丈夫なの? 弟さん待っているんじゃない?」
「それが、弟はこの四月から高校の寮に入っていて」
弟と二人暮らしをしていた楼子のことを知っている同僚が、無理に飲みに誘われているのでは、と心配してくれた。それだけでありがたい。
毎日楼子の席まで愚痴りに来る後輩は、どうやら楼子に懐いているようで、話しやすいと思ってくれているのだろうし、たまには飲んで喋って……いるのを聞いてから帰るのもいいだろうと考える。
ひとり暮らしになって、ちょっと寂しく、仕事に没頭しようとしている感は否めない。
弟からは毎日ではないけれど携帯電話にメッセージが届くから、それを癒しに精進あるのみだ。
「お先にしつれいしまーす」と明るく言う後輩に引きずられるように楼子は同僚に「お先です」と力なく言いながら、上司の執務室の扉を開けた。
「先生、お先に失礼しま……」
ひゅ、と息を飲んだ。
三階の窓である。
上司の座る机の背後に、煙を出した筒とナイフを持った男が張り付いている。
爆発音がして、窓ガラスが割れる音が悲鳴のように、耳に障る高い音が糸を引くように室内に反響した。
粉々になった窓ガラスの破片が真正面から飛んできて細かく皮膚に刺さる。
喉を焼くような煙の臭いと、血の臭いがする。
楼子は、なんとなく体が動いただけだった。
一歩、足が出ると、走ることができた。
後輩が固まってしまっている横を走って男の前に立ち塞がって、おそらく、刃物を取り上げようとしたのだと思う。
ぎらりと照明を跳ね返すナイフの刃と、男の顔を見た。
あー、あの事件の相手方だなー。
そう思った。
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