理想の世界を征服しよう!
竹羽裕李
プロローグ
潮騒の憧憬
潮風が肌を撫で、堤防を打ち付ける波は白い飛沫を上げる。
頭上と眼前に広がる雄大な青に囲まれたその場では、人間という存在の矮小さが嫌というほどに目立ってしょうがない。
「よし! カルキノスたちは海に押し戻したぞ! 今がチャンスだ!」
「イリーナさん、お願いします!」
ただ、そんな辟易とする事実に抗う者たちが、その日の港湾都市バルクにはいた。
期待の言葉と眼差しを一身に受けた壮年の女性は、手に持った弓の弦を大きく引き、それを蒼穹に掲げた。
そして次の瞬間。
「任されたよ! 全員頭上注意‼」
勢いよく放たれた赤色の弾道はゆるやかに弧を描きながら上昇。そのまま最高到達点にまで至ると、そこで爆ぜた。
自然を前にした人間の如く頼りなかった一筋の光は、無数の矢へと姿を変えて大海に降り注ぐ。
空に瀑布が生まれたかのような幻想的な光景。
しかし、その下に広がるのは、海という滝壺に落ちていく滴の一つ一つが、巨大な蟹の怪物であるカルキノスの堅固な体を
「おぉ! さすがイリーナさんだ!」
「よしお前ら、一気にとどめを刺すぞ!」
誰ともなく発せられたその言葉を合図に、港に集まった五十人を超える大集団から気合いのこもった雄叫びが上がった。
魔法杖を持った者はその杖を、弓を持った者はその弓を海の方へと向ける。
また、鎧に身を包んだ者たちは、そんな攻撃の準備を行う者たちを守るべく、剣や楯を構えて警戒を崩さない。
波音を打ち消す轟音が響いたのは、そのすぐ後だ。
空気を揺らす一斉攻撃。その中でもやはり、先程猛威を振るった魔法弓が放つ一撃はひときわ輝きを放つ。
海では何本もの水柱が顕現し、陸ではイリーナと呼ばれた女性を中心に野太い歓声が上がった。
そんなどこか美しく、どこまでも破壊的な光景は、
「すっご……。かっこいい!」
一人の少年の心を奪うには十分すぎるほどの衝撃があった。
***
「――ねえ、本当にこんなので良かったの? どうしてもって言うからこんな遠くまで連れて来たけど、せっかくの休みに私が仕事してるとこ見るだけなんて」
「うん、すっごく良かった!」
「そう? でもそんなこと言ったって、王女様と遊んでた方が楽しかったんじゃないの?」
「うーん、そうかもしれないけど……。さっきもほんとに楽しかったよ!」
「はははっ! 素直でよろしい!」
売り手と買い手の賑やかな声が響く魚市場の空気に、快活な笑い声が重なる。
生魚の独特な匂い。貝が焼かれた芳ばしい香り。
カルキノス騒動が嘘のような日常が、そこには広がっていた。
「だったら今度の休み、自分から誘ってみたら? あの子絶対喜ぶよ」
「でも授業が休みの日って、レーナちゃ……さ、様が大事なお仕事する時なんだよ。二人で一日遊べることなんて全然なくて、ほんとつまんない」
「あっ、そうなの? そりゃあ大変だね……。あの子を連れ去ってでも遊べる時間を作ってあげたいけど、それがまずいことくらい流石の私でも分かるからね。困ったもんだよ」
「ほ、ほんとにやめてよ。そんなことしたら、絶対叱られるからね!」
「叱られちゃうかー。そっかそっか。私はもっと怖い罰を想像してたけど、それくらいで済むならほんとにやっちゃおうかな?」
「えっ……。ほ、ほんとに……?」
「っ! はははっ! 冗談だからそんな泣きそうな顔しないの! お姫様救出はアルトに任せるから。このかわいいい奴め!」
自分の身長大の弓を左手で持ち、逆の手で隣を歩く少年の頬を突っつく。
そんな赤子をあやすような行動をとる彼女を見上げる少年の顔は、どこか不満げだ。
「ちょっと、子供扱いするのはやめてよ! 僕もう六歳なんだよ!」
「おっと、それは悪かったね。確かに六歳は立派な大人だ。こんなにでっかい焼き魚を、一人でぺろりだもん」
「そうそう。これくらいヨユーだよ。……ふぅ、ごちそうさまでした!」
「はい、じゃあ串貸して。捨てといてあげるから」
「はーい!」
「……ふっ、ずいぶんとかわいい大人だね」
そんな何気ない会話を市場の熱気に残し、二人はその場を後にした。
少年の小さな歩幅に合わせて進む、穏やかな時間。
それは港と街の中心部を結ぶ目抜き通りでも続いたが、小さな武具店の前を通りかかった時、不意に二人の足が止まった。
「あれっ、イリーナさん。お疲れ様です」
「おぉ、誰かと思えばエーリッヒか。どうしたの、こんな店から出てきちゃって。新しい剣でも買ったの?」
「まあ似たようなもんですよ。俺の相棒が今日の戦闘で結構ガタがきて、今ちょうど修理に出したところです。せっかくいい報酬が入ってきたし、買い換えてもよかったんですけど、どうしても愛着が捨てられなくて」
「物を大切にする。うんうん、素晴らしい姿勢だね。見上げた男だよ、まったく」
「あ、ありがとうございます。……そ、そういえばイリーナさんはカルキノスの討伐報酬受け取りました? たいした活躍もしてない俺ですら結構な額だったんで、イリーナさんは、とんでもない大金だったんじゃないですか?」
「私? 実は私まだギルドに行ってなくてさ。ほら、この子がお腹すいたって言うから、さっきまで市場でぶらぶらしてたんだよ」
「この子……? あっ、ほんとだ。息子さんですか?」
「そうそう。ほらアルト、せっかくだから挨拶してみたら?」
それまでじっと話の流れを見守っていた少年は、そこでようやく、隠れていた母の背中から一歩前に出た。
「は、初めまして。アルト・オーゲン・クリーズと申します。母がお世話になっているようで。ご苦労をおかけしてしまっているかと存じますが、どうか今後ともよろしくお願いします」
「こ、こちらこそ……」
丁寧に腰を折る少年、アルトに
儀礼的なマナーだけを見れば、どちらが年上か分からないほどの差異だ。
「ど、どういうことですか? なんかイリーナさんの子供とは思えないほどしっかりしてるんですけど?」
「この子は、王室御用達のお堅―いところで毎日マナーやら歴史やらの授業を受けてるからね。私なんかよりよっぽど常識人だよ」
「へぇー。そんなすごいところで」
イリーナの説明に素直に感嘆するエーリッヒ。
彼には『お堅―い』の『―』に込められた意味が届かなかったようだ。
彼は驚きと感心で閉じなくなった口をそのままに、膝を落としてアルトと目線を合わせる。そしてそのまま、穏やかな口調で語りかけ始めた。
「アルトくん、そんなにしっかり勉強してるなんて偉いね!」
「いえいえ、僕なんてまだまだ未熟者ですから」
「未熟者……。で、でもそんなちゃんとしたところで勉強してるってことは、アルトくんの将来の夢はお役人さんかな? それともやっぱり宮廷魔術師とか?」
「夢、ですか?」
そこでしばしの沈黙が挟まった。
今まで滑らかに動いていたあどけない口が途端に固まり、視線は上がって母のもとへと向かう。
「えっ、あれっ?」
そんな様子の急変にエーリッヒは自身の失言の可能性が頭によぎり、露骨に焦りを見せるが、
「アルト?」
ぱっと花が咲いたような笑顔によって、それが杞憂であることはすぐに分かった。
「僕、冒険者になりたいです!」
「ぼ、冒険者⁉」
「……へえ、そうなんだ」
一点の曇りもない瞳に見つめられたエーリッヒは、苦笑いを浮かべながらゆっくりと立ち上がる。
想定外の返答に、保護者の意見を確認せずにはいられなかったのだ。
「な、なんかすごいこと言ってますけど、イリーナさん的にはいいんですか? 冒険者なんて、俺みたいな他の何にもなれなかった奴か、イリーナさんみたいな変わり者がなる職業ですよ」
「いやー、私も今初めて聞いたからね……。ここは久しぶりに、母親らしいことでもしてみようかな」
イリーナはそう言うと、目線を合わせてアルトと向かい合う。それと同時に、軽く手を挙げてエーリッヒに何かを合図。
その意図を察した彼は、二人に簡単な別れの挨拶をしてから、街の人混みの中へと消えていった。
これで足を止めることのない無関心な通行人たちを除けば、武具屋前にはその親子だけ。
穏やかな時間が、再び流れ始めた。
「ねえアルト、冒険者になりたいって言ってたけど、何でそんな風に思ったの? もしかして、さっきの私の勇姿がかっこよすぎちゃったのかな?」
「うん! お母さんもすごかったけど、周りの人もみんなかっこよかった!」
「そっかそっか。ってことは一目惚れだ。……だったらね」
表面が固くなってしまった手が、
「それは他の誰かに押しつけられたわけじゃない、自分の心が描いた夢なの。だからその夢を大事に見続けるのか、それとも他の素敵な夢に塗り替えちゃうのか。それを決める権利はアルトにしかないってことは覚えておいて」
「うーん、それってどういうこと?」
「おっと、大人なアルトとはいえ、さすがに六歳児には深すぎる話だったか! そうだね、簡単に言うと……。まあ、『夢に向かって頑張れアルト!』ってことだよ」
「ほんと⁉ うん、僕これから絶対頑張るよ!」
「よし、いい返事だ!」
二つの純粋な熱意がぶつかり、笑顔がはじけた。
イリーナは息子の手を取り、腰を上げる。
アルトが自らの足でしっかりと歩けるようになってからは、彼女から手を繋ぐことなどなかったが、なぜか無性にそうしたくのなったのだ。
それも、少しだけ強めに。
「……アルトとシルバー、どっちの夢が叶うか競争だね」
「ん? 今何か言った?」
「んーん、何でもないよ」
歩き出した二人はそのまま、街の日常に溶けていく。
「でも、頑張るって何を頑張ればいいのかな? お母さん分かる?」
「えっ? そう言われても、私も冒険者になる上で特別なことなんて何もしてないからなあ……。ちなみにアルトは、王城で受けてる授業は楽しい?」
「うん、楽しいよ。ちょっとだけど、休み時間にレーナ様と遊べるし」
「おお! だったらそれは続けないとだね!」
ここで響いた晴れやかな声は、さながら本に挟む栞のようだった。
振り返ったときにすぐ見つけられるよう、ゆっくり、はっきり、笑顔のまま語りかける優しい声。
「自分が楽しむことと、人を笑顔にしたいっていう思い。これは冒険者にとってはもちろん、人としてもすっごく大事なことなんだよ。だからまずは、遊びながらそこを鍛えよう!」
「楽しんで、人を笑顔に……。おぉ! それでそれで、他には?」
「今はそれくらいで……。あっでも、強いて言うなら」
最後に声のトーンが一つ明るくなり、自然と親子の目が合った。
「これからもっといろんな人と関わって、いろんな経験をして、もう少しお行儀悪くなった方がいいかもね」
「お、お行儀悪く……? それって意味あるの?」
「あるどころか大ありだよ。だって良い子ちゃんのままだと、絶対に勝てない勝負がいつかくるからね。……あっ、見えてきた」
アルトはまだ
親子は目的の場所に到着した。
「じゃあアルト、帰りの馬車は一人で乗ってね。私はまた港に戻って、シュビッカ大陸まで船で行くから」
「えっ、またどっか行っちゃうの? それに一人で乗るって……、あ、あの道を⁉」
「行きは十時間くらいかかったっけ? まあ席に座ってるだけだから大丈夫!」
「そ、そんなあ……。ていうか、馬車って僕の年齢でも一人で乗れるの?」
「……多分。駄目そうなら最悪、乗客のおじさんかおばさんを捕まえて『僕の親です』って言っちゃえ」
「ほ、ほんとにそれで大丈――」
「はいはい! これも冒険者になるための練習だよ!」
「ちょっ、お母さん⁉」
かなり都合のいいこじつけを声高に叫んでから、イリーナは息子の背中を押して馬車乗り場の列へと押し込む。
歩幅を細かくして転倒をどうにか避けたアルトが落ち着きを取り戻すと、さっきまで母と繋いでいた手には一枚の紙切れが握らされていた。
くしゃくしゃになっていた紙を開いて確認してみれば、それはフィランダ行きの乗車券。
「またねアルト! 体に気をつけて、しっかり夢を楽しんでね!」
見えなくなってしまうギリギリの距離からでもしっかり届いた、明るい激励。
しかし、別の大陸に行くということは、少なくとも数ヶ月は会えないこと意味する。
そんな状況での彼女の言葉と態度は、ともすれば軽薄と言われてしまうだろう。
だが、これも一つの親心の形なのかもしれない。
なぜならば、彼女は実際、
「うん、分かった!」
一人残されたアルトの心に、寂しさも不安も、微塵も残していないのだから。
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