レイニーデイズ・ジン

さくらば

第1話 人獣戯曲

桜尾くんへ


――前略、雨が降り続く街より。

ここ長いこと、激しい雨が降っている。まったく、陰鬱な気分になるよ。

君に手紙を書いたのには理由がある。俺の娘、ヒスイのことだ。

いずれあの子も君に世話になるだろう。だからその前に知ってほしいことがあるんだ。

まぁ、あの子は大変わがまま娘でね。この前も部屋の模様替えをしたいと言い出し、床をぶち抜いてしまった。

ケガはしていなかったが、さすがに叱ったよ。危ないからやめなさいと。

でもあの子は全く反省しないんだ。それどころか俺に反抗して部屋に閉じこもってしまった。

しばらく放っておいたんだが、あまり長いので心配になって確認しに行ったんだ。そうしたら部屋に大穴が空いていてね、あの子はその穴から外へ出てしまったんだ。

幸いにも隣町に出る直前で見つけたからいいものの。本当に困った娘だ。


ヒスイは俺の言うことを聞いてくれない。それどころか、言ったことの逆を行うんだ。反抗期にはまだ早いはずなんだがね…。

君も注意するといい。再三書くがね、あの子は話を聞かない。言う事を聞かないんだ。

きっとあの子にも何か考えがあるんだろうが、俺にはさっぱり分からないよ。

とにかく、ヒスイをよろしく頼む。あの子が危ないことをしないように見張ってほしいんだ。

俺はこれから遠くへ出ないといけないから、何かあったらこの手紙を見てくれ。

それでは、くれぐれも気をつけてくれ。また近いうちに会おう。


雨の降り止まぬ仙洳町せんじょちょうより。愛を込めて。

草々




手紙を読み終えた桜尾はため息を吐いた後、苦笑いを浮かべた。

よりにもよって、この手紙を持ってきたのは誰でもない、その娘「ヒスイ」だったからだ。

「……あぁ、ヒスイちゃん?だよね。お父さん、どうしたのかな」

桜尾は目の前の少女に訊ねた。ここ最近手紙の主、翠は事務所に顔を出していなかった。

「もうずーっとお仕事ですぅ。そのせいで、スイちゃんは一人ぼっちなんですよぉ?」

ヒスイがむすっとした表情で桜尾に訴えかける。確かに、手紙の内容通りならば、彼女の言うように翠は子育てなどほったらかして仕事に勤しんでいる。しかしながら、こんな小さな子どもを放っておくのはさすがにどうなのだろうか。桜尾は訝しんだ。


「やれやれ翠さん、仕事熱心なのはいいけどねぇ」

桜尾は困ったように笑いながら、帽子のツバを下げた。困っているときの癖だ。ヒスイはそれを見てさらに頬を膨らませた。

「も~!分かってるなら、なんとかしてくださいよぉ!」

そう言ってヒスイが机を叩く。その衝撃で、ペン立てや花瓶がガタンと音を立てた。おおよそ少女から出される力ではない。

「あはは、まいったな……。そうだね、どうにかしなきゃね」

桜尾はそう言って立ち上がった。そして部屋の隅にあるロッカーを開き、何かを取り出す。

大きなカバンと黒いレインコート。この事務所に来たときに翠からもらったものだ。特にレインコートは、雨続きの街では必需品だ。


外出準備を整えたところで、桜尾はヒスイの方を見た。彼女はいつの間にか、カエルの形をしたかわいい傘を手にしている。

「どこに行くんですぅ?」

ヒスイは目をキラキラさせて訊ねた。ぴょんこぴょんこと歩く様は、本物のカエルみたいだ。

「ちょっと隣町まで。一緒に探しに行こっか、お父さん」

桜尾はそう言うと事務所の扉を開けた。雨の音が鮮明に聞こえてくる。今日の雨は非常に強い。

外の激しい雨音に包まれるようにして、二人は外へ出る。コンクリートの地面に打ち付けられる雨粒が白く煙っていた。風がないからか、霧のように立ち込めていて視界も悪い。そんな雨の中を二人は進んでいくことにするのだった。



この地域は、いくつもの不思議な都市が集まってできている。その中でも生き物の名前がついた街は、不思議なことがよく起こる。

例えば仙洳町せんじょちょうなら蟾蜍せんじょ、ヒキガエルの名前がついている。カエルの名前のせいなのか、常に雨が降り続いている。

この街以外にも、常に夜の街や、万年アルコール臭い歓楽街など、個性的な街がたくさん集まっている。

それがこの地域、四露島よつゆじまである。


さて桜尾とヒスイがやってきたここは蟒蛇塚うわばみづか。仙洳町の隣町だ。

いつも雨降りで湿っぽい仙洳町とは違い、カラッと晴れやかな住宅街である。晴れているせいもあって、人通りは仙洳町の数倍は多い。

桜尾がここに来た理由は一つ。この街に住む情報屋を訪ねるためだ。

「やっぱり他の街は晴れてますねぇ」

ヒスイは街並みをくるくる眺めている。街をまたぐだけで天候が変わるのは、四露島ではよくあることだ。

「そうだね、仙洳町と正反対だ」

桜尾はそう言うと、情報屋を探すために再び歩きだした。

しかしなぜか今日はなかなか見つからない。普段ならば街の入口近くでフラフラしているのだが。

「おかしいな、今日は休みじゃないはずだが」

そんな呟きを漏らした桜尾の前に、人影が立ちふさがる。オーバーサイズのパーカーと、ダボついたズボン。ガラの悪いファッションだ。

いやコイツ、人型ではあるが絶妙に人ではない。そいつは大きな蛇の尻尾を引きずって歩いてきた。人相の悪い黒地の瞳が、ギラリと輝いている。

「よっ、元気してるかい桜尾」

その蛇人間は以外にも、気さくに挨拶してきた。彼こそが例の情報屋である。


ふっと桜尾がヒスイの方を見ると、その蛇人間を見て固まっている。初めて会うから人見知りでもしているのだろう、あまりに人相が悪いから警戒しているのかもしれない。桜尾はそう考えた。

だがどうやら違うようだ。

「あ……、あの、アノマルズですぅ!?」

まるで初めて野生で生き物を見たときのような驚きようだ。桜尾は首を傾げるだけで何も言わなかった。この世界にはよくいるものだからだ。


アノマルズ、正式名称を「アノマニマルズ」という。人間と動物のキメラ、ようは半人半獣と呼ばれる者たちである。動物の多様性と人間の万能性を兼ね備えた生命体だ。

尻尾や耳など、姿に多少の差異はあるが、その実態は普通の人間と大して変わらない。彼らは人間と同じように生きている。

蟒蛇塚だけでなく仙洳町にも当然いるのだが、ヒスイは見たことがなかったらしい。


「おっ、嬢ちゃんは人間さんなのか。めっずらしいねぇ」

蛇のアノマルズはヒスイに微笑んだ。挨拶のつもりらしいが、その人相(蛇相?)の悪さのせいでなかなか凶悪な笑顔を見せている。

しかしヒスイはその威嚇のような笑顔にも負けない。さらに目を輝かせた。

「ほんとに本物ですぅ!はわ~初めて見ましたぁ!」

楽しそうな様子を見て、蛇は嬉しそうだ。

「おっ、じゃあ俺が初めてのアノマルズってワケ?うれしいねぇ」

尻尾をブンと大きく振って、彼はヒスイに近づいた。肉厚の大きな尻尾が動く様は、ヒスイでなくても感動してしまうだろう。

そんな微笑ましい二人の様子を、桜尾はにこやかに見守っていた。




桜尾とヒスイ、それから蛇の彼は、話をするために近くのカフェに入った。

桜尾は紅茶、ヒスイは抹茶ラテを頼んで席につく。先に席についた蛇は、タピオカドリンクのカップを手にしていた。


「んっ、何だっけ。翠さんのことだったか?」

蛇の彼はタピオカを吸いながらそう言ったが、ヒスイを見てちょっと考えた。

「や、まずは自己紹介するか。はじめましての子もいるわけだしよ」

ヒスイはまだ目を輝かせている。楽しそうな様子は、桜尾にとってもありがたかった。

「俺ぁ、トウラっていうんだ。よろしくな、お嬢さん」

またしても人相悪く彼は笑った。

九谷トウラ。蛇のアノマルズだ。桜尾の昔なじみであり、翠と協力関係にある情報屋だ。

浅葱あさつきヒスイですぅ。よろしくお願いしますぅ!」

ヒスイは元気だ。


「そ、翠さんのことだけどさ」

トウラはまたフランクに語りだした。時折タピオカを吸っているが。

ヒスイはまた目を輝かせている。しかしトウラの話を聞くために、なんとか興奮を抑えているようだ。口がωこんなかんじになっている。

トウラはその様子に気づいてはいるようだが、あくまでも情報屋として語っている。




桜尾とトウラが情報を交換する間、ヒスイは抹茶ラテを2回ほどおかわりしていた。意外と気に入ったらしい。

さて、トウラの話では、翠は月雲つくも市という大都市に向かったそうだ。四露島から船か電車で3時間ほどのところにある街だ。ある研究施設の調査に出向いたらしく、戻ってくるまでに最低でも4日ほどはかかるだろうとのこと。

「でさ、どこに行くかは聞いたけど、何しに行くのか教えてくんなかったんだ。ひどいよな、これでもビジネスパートナーだぜ?」

トウラは暗い顔をした。蛇の彼は、意外と寂しがりなのかもしれない。昔なじみの桜尾でも、彼のそんな顔を見るのはずいぶん珍しい。


「ま、俺の情報はここまでって感じさ。どうかな、いい情報はあったか?」

彼はまた笑った。桜尾は頷く。

「そうだね、なかなか有意義だったよ。ありがとう。これは情報料だ」

桜尾は茶封筒を差し出した。トウラは中身を確認すると、中身から半分抜き出して封筒を返した。

「ん、これは今日のおごり。お嬢さんになんか買ってやんな」

ふっとヒスイを見ると、彼女は抹茶ラテに夢中で話を聞いていないようだった。それでも、楽しそうならいいかと、桜尾は思ったのだった。



トウラと別れた桜尾とヒスイは、街の出口へと歩いていた。ヒスイは色々見て回りたかったようだが、日が暮れる前にこの街を出なければならない。ヒスイはまだ幼いのだ、遅くまで連れ歩くわけにはいかない。

蟒蛇塚と仙洳町の境界。ふと、桜尾が立ち止まった。ヒスイもつられて立ち止まる。

仙洳町側の空に晴れ間が差した。雲間から光が差し込み、暗雲が霧散していく。

「わ~晴れてますぅ!」

ヒスイは嬉しそうに笑った。桜尾も微笑んでいる。空には虹がかかっていた。こんな景色は珍しいなと、二人とも思っただろう。仙洳町ではまず見れない絶景だ。

どんな事件でも、必ず解決できる。桜尾の中に、わずかな希望が見えた気がした。




事務所に戻った桜尾は、まず月雲市のことを調べだした。

月雲市は四露島から遠く離れた工業都市だ。たくさんの工場や研究施設が立ち並んでいる。

本当に翠が向かったとすれば、何らかの事件が起こったのだろう。

まず桜尾は月雲市で最近起こった事件を当たった。これは幸いにも、翠がメモを残していた。

『誘拐事件』『人体実験』『F-09番地』

ワードをパソコンで調べれば、すぐにそれらしいものがヒットした。「月雲研究所」という、何かの研究施設だそうだ。しかし表向きはただの工場として登録されているため、詳しいことは分からないらしい。

桜尾は顎に手を当てて考える。さてなぜ翠はここを調べていたのか。事務所でこんな依頼を受けていた覚えはないが、独断だろうか? いやそれよりも何よりも気になることがある。

(本当に誘拐は起こったんだろうか)

ネットの反応を見たところ、月雲研究所の周辺は治安が悪いとの声がちらちらある。だが事件が、まして誘拐が起こったという記述はどこにもない。ニュースだけでなくSNSも一通り見たが、それらしいものはなかった。

そもそも翠が調べていたこと自体が気にかかる。どこにも報じられていない事件など、どうやって知ったのか?なぜこのワードまでたどり着けたのか?

(……いや、きっとなにかあったはずだ)

桜尾は自身の考えを振り払った。今は自分のことより、翠とヒスイちゃんのことだ。この街を出てまで調査するような研究施設なら、きっと何か大きなことをしているのだろう。

桜尾が情報を集めているその間、雨が激しく窓を打つ音だけが響いていた。




日付が変わって、桜尾とヒスイは月雲市にやってきた。始発電車で、ざっと3時間の長旅だ。

この街は工業都市だけあって、工場が多い。それだけでなく、街のあちこちから煙が上がっている。

「わぁ~すごいですぅ!」

ヒスイが感嘆の声をあげる。仙洳町から出たことのない箱入り娘には、工業団地でさえ物珍しい。5時起床の寝ぼけまなこも、移動疲れも吹き飛んでしまったらしい。

桜尾はそんな様子に微笑んだ。しかしすぐに顔を引き締める。

(ここで翠さんを探さなきゃいけないのか……)

そんな不安を抱きながら、桜尾は長いコートの襟を上げた。気合を入れる仕草だ。


探偵として、まずやることは情報収集だ。やや前時代的だが、情報がないと始まらない。

トウラはあくまでも蟒蛇塚周辺の情報屋であるため、遠くのこの街まではわからないらしい。

ならば他の情報屋や、知り合いの研究者にも聞き込みした方が良いな。桜尾はそう思った。探偵になる以前から、ツテは多いのだ。

桜尾は歩きながら考える。この街の中で調査がしやすいところ、できればその「月雲研究所」に近いところ。その中ならば、月雲第三工業団地へ行くほうがいいだろう。ツテが多くいて駅からも近いから。それと、旧友がそこでカフェをしているから。ヒスイも退屈しないだろう。


ここは第三工業団地。その入口付近のカフェである。むさ苦しい工業地には似合わないほどおしゃれな外観だ。

カラリとカフェのドアを開ける。さすがに早い時間なので客はいないが、獣耳の店員がテーブルを拭いていた。

「おや、誰かと思えば桜尾じゃないか。何年ぶりかね」

そう後ろから声をかけたのはこの店の店長。桜尾とは、探偵になる以前からの知り合いだ。窓際の飾りを整えていたらしく、いくつかおしゃれな置物を持っている。

「どうもサフィー。といっても、あれからまだ1年たってないだろうに」

相変わらずな挨拶に、店主は苦笑で返す。桜尾は冗談が苦手なのだ。

「そして、見かけないお客様だ。はじめまして。ボクは佐保山さほやま。できれば”サフィー”と呼んでほしいな」

佐保山、もといサフィーは軽くしゃがみ、ヒスイに挨拶をした。ふんわりとした大きな尻尾が床につく。彼もまたアノマルズである。トウラは蛇だったが、彼はキツネだ。業務中の今は帽子で隠れているが、ふわふわの大きな耳を持っている。

「浅葱ヒスイですぅ。よろしくお願いしますぅ!」

ヒスイは今日も元気そうだ。目線は大きな尻尾に釘付けだが。


サフィーは二人をカウンター席に案内しながら、桜尾に話しかける。

「ご注文は?コーヒー?それとも名刺酒でも飲むか?」

「やれやれ、まだ朝なんだけど…。紅茶を一つ、お願い」

「あ!スイちゃんはあれにしますぅ!カプチーノ!」

そう二人が注文すると、サフィーはニコリと笑った。そしてメニューを持ってキッチンへ戻っていく。その後ろ姿にはキツネの尻尾が揺れていた。どうやら機嫌がよいらしい。

まだ幼いヒスイにカウンター席は少々高かったようで、足が宙ぶらりんになっている。バタバタと足を動かすが、うまく座れないようだ。

「おやおやヒスイちゃん、危ないよ」

桜尾はそんなヒスイを抱え上げ、カウンター席に座らせた。そのまましばらく待っていると、サフィーが二人に声をかけた。

「さてお二人とも、注文の品だよ」

ことりと音を立ててカップが置かれていく。片方はいい香りの紅茶、もう片方はかわいいアートが施されたカプチーノだ。

「珍しいお客様だからね。本来ラテアートは有料だが、特別サービスさ。翠さんにでもせびっておけよ」

桜尾は改めて考え直した。その翠さんを探しに来たのだから。


桜尾はサフィーに、事の概要を説明した。サフィーはカウンターでコップを磨きながら聞いている。

カフェに客はこの二人しかいない。カッコウの従業員がいたら間違いなく歌っていそうだ。だが今いる従業員はネコなので、歌ってはいない。代わりに、キッチンでミルクを温めている。

「なるほどね、月雲研究所かぁ……」

サフィーはそう言ってまたカップを磨きはじめた。桜尾はこくこく頷く。月雲研究所を探していることを話すと、サフィーは深く溜息をついた。

「あそこはねぇ、まぁ、関わんない方がいいよ。研究所だけじゃない。この地域、いろいろあってさ」

そう言ってサフィーは一度奥へ引っ込んで行き、ファイルを持って帰ってきた。中の書類にはいくつかの名前と顔写真、だいたいのプロフィールが書いてあった。おそらく被害者だろう。


「月雲研究所ってさ、この市の名前を冠してるけど、実際はかなりヤバいことしてるんだよ」

サフィーが言うように、月雲研究所の資料には不穏な文字が踊っている。

そもそも月雲研究所は、公害を防ぐ研究をしていたらしい。そして公害被害が少なくなってきたところで、アノマルズの生態研究に舵を切り替えたようだ。

資料に載っている研究員の中にも、アノマルズがいる。翠が知り合いだと言っていた研究者もいるようだ。

「あの研究所はねぇ、本当は人体実験なんか目じゃないやばいことやってるよ。ここはそういうところだしね」

ここは、という言葉に引っかかりを覚える。少なくとも月雲地域に危険なイメージはない。あくまでもただの工業地としてしか認識していない。

「ここ、というのはつまり、この第三工業団地のことか?」

桜尾は空のカップを差し出しながら問いた。ヒスイはその間、ラテアートを崩さずに飲む方法を模索していた。だが結局、諦めてそのまま飲んだようだ。口と鼻の間に、ラテの泡でできたヒゲがついている。

「ま、そんなとこさ。月雲研究所はヤバいとこだし、その傘下の工業団地もヤバい噂で持ち切りだ」


サフィーはとりあえず、月雲研究所の噂だけを教えてくれた。

先程も言った通り、そもそも月雲の工業地域は公害が酷かった。なので市を上げて公害防止に取り組んだ。その名残が月雲研究所。いつしかこの市が発展していくにつれ、研究所も大きくなっていた。公害被害が少なくなって以降、この研究所は畳まれるはずだった。それを危惧した研究者たちは、研究対象をアノマルズへと変えた。

そして、月雲研究所がアノマルズの研究をし始めてから、ある噂が流れ出した。実は月雲研究所は人間を誘拐し、アノマルズへと変換する研究をしていたという噂。

当時の月雲市はアノマルズの移住者が増えており、噂が流れるのも無理はなかった。今では市民全員がその噂を信じると同時に、誰も本当のことを確かめようとは思わないらしい。

サフィーは最後にこう付け加えた。

「普通の人間から見ればボクたちは、獣の構成物が生えた人間みたいなもんだ。なら、普通の人間に獣を移植すればアノマルズになりそうに思うんだろうね」

まあ当然そう思うだろう。実態はそうではないのだが。


桜尾は新しく注文した紅茶を飲みながら考える。

確かに人間から見れば、アノマルズは魅力的なのだろう。動物の特性は一種のアイデンティティになり得る。後天的にでも欲しがる者もいるのだろう。だがよく考えれば分かる通り、そもそも人間であることも一種のアイデンティティである。アノマルズが増えてきているなら尚更だ。

そして、その研究をするのは勝手だが、無関係な者を利用するのはいただけない。桜尾が一番嫌悪するのは、人間が傷つくことだ。どんなに無関係な存在だろうと、それは変わらない。前職からの悪い癖だ。

「もしかして桜尾、キミはこう思ったか?『絶対に許してはならない』とか」

サフィーの目がキラリと光る。ほんの一瞬だが比喩ではなく物理的に発光した。桜尾は軽く流したが、ヒスイは一瞬自分の目を疑った。

桜尾が頷くと、サフィーはにっこりと微笑んだ。笑顔はまるでお稲荷さんの狐像のようだ。

「そっかそっか、そうだろ?キミも翠さんと同じだね」

それからサフィーは表情を変えずにヒスイを見た。彼女は先程から、この二人の会話を神妙に聞いていた。桜尾のおかわりと同じタイミングで頼んだ紅茶ラテは、すでに泡がなくなってしまっている。

「ねぇ、ヒスイちゃんと言ったかな。キミも許せない?」

またキラリと目が光る。何かを見透かすようで、まだ幼いヒスイは恐怖を覚えるだけで精一杯だ。だがこの少女は強かった。

「……ゆるせない、ですぅ」

毅然と言葉を振り絞った少女に、サフィーはまたお稲荷さんのような笑顔を浮かべた。どうやらずいぶんと彼女を気に入ったようだ。それからこのキツネは奥に引っ込んでいき、先程より分厚いファイルを持って帰ってきた。

「翠さんから預かってるやつだよ。桜尾なら、なんとかしてくれるだろ?」

桜尾に渡されたファイルの中身は有象無象の記録だ。大量の書類とUSBメモリ、CD、記録リール(映画のフィルムリールのようなもの。音声の記録に使われる)。そして、その中にいくつか挟まれた翠のメモ。

「翠さんから、月雲研究所には近づかないよう言われてるんだ。その資料は契約料としてあの人から預かってるものさ」

サフィーはそう言って片目を閉じた。なんだかウインクに似ていたが、違うのかもしれない。どうやらサフィーは翠の協力者だったようだ。

「ありがとう。助かったよ」

桜尾はそう言いながら紅茶を煽り飲む。そしてむせた。


とりあえずやるべきことは、この大量の情報を理解し、そして整理することだ。桜尾は急いでこのファイルを読み始めた。ヒスイもそれを一緒に読んでいる。彼女には難しい内容だらけで、常に?を浮かべている。

その様子を見てサフィーはまた微笑んだ。今度はいつもの柔らかい笑顔だ。

「うんうん、やっぱりキミは翠さんの弟子だね。頑張ってね~」

桜尾はその言葉を背中で聞いておきながら、資料を読み漁っていた。なんとしても翠さんを探し出す。そしてこの事件も暴き出す。確固たる意志が、桜尾にはあった。

「あ、それとね」

サフィーがそっと桜尾の肩に手を置いて、顔を近づけた。その目は穏やかに細められている。

「くれぐれも気をつけるんだよ?君はすぐ深みに首を突っ込むんだから」

サフィーの尻尾は揺れている。なんだかんだ楽しんでいるときの彼の癖だ。そしてその笑顔のまま、ヒスイに顔を近づけた。

「お嬢さん、ちゃんとコイツの手綱を握っておくんだよ?これは”相棒”の重要な仕事だからね」

ヒスイはやや首を傾げたが、すぐに頷いた。というより、頷いておかないといけない気がしたからだ。


***

数日前、ここは月雲第三工業団地。


翠は夜道を歩く。雨も降っていないのに、大きな黒い傘を差しながら。

工業団地の中でも一番大きな工場。そこが月雲研究所だ。まばゆい電光が工場配線のあちこちについている。昼間とは違う雰囲気に、翠は少したじろぐが、足を止めずに進む。夜とは本来そういうものだから。

「ごきげんよう。我々を嗅ぎ回ってらっしゃる探偵さん」

背後からの声に振り返ると、一人の女がいた。今は夜なのに日傘を差している。

彼女は月雲研究所の関係者だ。この前会ったときはただの人間だったはずだが、今はしなやかな尻尾がある。だが今はそんなことに構っていられない。翠は努めて冷静に話しかけた。

「ええ、ごきげんよう。相変わらずですね、香坂さん」

女は相変わらず微笑んでいるが、目が笑っていない。まるで猫の瞳のようで……いや、あれは完全に猫の瞳だ。夜の明かりを反射して、鋭く輝いている。

「先日手術をしまして、夜目が利くようになりましたの。あなたの顔がよく見えますわ」

目を細めて語る彼女は、まさしく黒猫のようだった。ゆらゆらと尻尾を動かしている。猫が尻尾を振るのは、機嫌がすこぶる悪い時だ。

「私ども、被検体を探しておりますの。貴方に嗅ぎ回られると迷惑なんですわ」

女はゆっくりと歩み寄ってきた。

「でも僥倖ですわ。とっても聡明で、とっても健康な被検体が見つかりましたもの」

そう言うと、女はかかとを鳴らした。するとたちまち、翠は白衣の者たちに包囲されてしまった。

「悪いようにはしませんわ。もっとも、抵抗しないなら、の話ですが」

赤いスカートと黒い尻尾が、ふらりと揺れて消えていった。


***

前略。話を戻して、桜尾とヒスイ。

今は月雲研究所を目指して歩いているところだ。今は真夜中、工場も動いている気配はない。明かりがついているのは資料室だけだ。

そんな夜中だが、ヒスイは元気だ。軽くカフェで昼寝はしたものの、今日は早起きもしたのに。桜尾はこの元気を軽く羨むと同時に、ちょっと迷惑がった。子供としても元気すぎる部類だ。

「夜ってなんか、ワクワクしますねぇ!」

こんな夜遅くに子供を連れるのは気が引けたが、ヒスイが連れていけとワガママにワガママを重ねたので、仕方なく連れて行くことにした。


幸いにも月雲研究所に人気はないようだった。だがそれでも一応建物の裏から侵入する。念には念を入れていかないと、後で苦労するのは自分だからだ。

サフィーが「キミだけじゃ不安だし、協力者を呼んでおいたからね~」と言っていた。その人物と落ち合う場所へ急行中だ。

二人がその場所についた時、そこには影が二つあった。

「や、あんたらか。元気してるみてぇだな?」

一つは蛇の男、トウラだ。体長の半分を占める大きな尻尾を、地面につかないように脇に抱えている。昨日会ったときとは違い、暗い色のツナギを着ている。理由を聞いたところ「仕事着」とのことだ。


そしてもう一つは、大きな耳も尻尾もない。人間か、そうでなければ水生生物系のアノマルズだ。フリフリの可愛らしい、いわゆるロリィタファッションに身を包んでいる。どうやら女性のようだが、昨今のご時世、服装ごときで性別はわからない。

「あら、あなた方が探偵さんですの?」

その人物が桜尾たちに声をかけた。

「ええ、サフィー……佐保山くんから話は伺っています。貴方が、月雲研究所の協力者……ですね?」

桜尾はそう言って相手の容姿を観察する。背丈は桜尾より少し高く、やや華奢な体型だ。声は女性っぽいが、それでも男女の区別はつかない。つけないほうがいいのかもしれない。

「わたくし、月雲小夜といいますの。ここの理事長ですわ」

丁寧にお辞儀をされたので、桜尾は帽子のつばに手を添え、軽くお辞儀を返した。ヒスイもちょっとお辞儀をした。

「それで、そちらのお嬢さんは?」

小夜と名乗った女性はヒスイに視線を向ける。ヒスイは暗闇に心を踊らせながら小夜の自己紹介を聞いていた。

「浅葱ヒスイといいますぅ!よろしくお願いしますぅ!」

とても元気だ。小夜も感心しているらしい。

「あらあら、元気なお嬢さんですこと。貴方も探偵さんですの?」

小夜はかがんで、ヒスイに問いかけた。あくまでも子供に話しかけるスタンスだ。

ヒスイはややふすくれたが、ちゃんと行儀よくしている。

「そうですぅ!桜尾さんと、お父さまと、スイちゃんで探偵さんなんですぅ!」

快活に答えるヒスイに、小夜とトウラは微笑んだ。桜尾はというと、探偵としてカウントしていいのか疑問に思っていた。


自己紹介もほどほどに、二人は月雲研究所について説明を受けていた。

先程も言った通り、ここは月雲研究所。今の表向きは研究所というより製薬会社に近い。アノマルズ特有の病気の治療法を探すために研究をしているらしい。

しかし、その裏では……。

「ここで、人間をアノマルズへと作り変える研究が行われているらしいですね?」

桜尾は抜粋した資料を見ながら小夜に問いかける。そこには様々な動物の写真と、被検体と思わしき人間の写真、いくつかの専門的なデータがあるだけだ。

「それがですね……」

小夜は少し困った顔をした。

「わたくし、この研究について認可していませんの。却下したはずなのですけれども……」

その言葉を聞いて、一同は驚愕した。調査していた桜尾とヒスイは当然として、話を聞かされていたトウラでさえこの反応だ。

小夜の話はこうだ。

そも、この研究はある一人の研究員が提案したことだった。後天的にアノマルズになることができれば、生命の可能性を広げることができるとのことだった。

だが小夜は却下した。その実験は人間とアノマルズを同時に侮辱するからだ。

アノマルズはそもそも人間と動物の合成生命体だ。なので、人間がアノマルズになることができてしまえば、人間はどんどん減ってしまう。人間側はただでさえ少子高齢化で減っている。

そして、後天性アノマルズが実現してしまえば、アノマルズはその出自で差別されてしまう。そうでなくともアノマルズ同士で種類や出生地で差別がされているというのに。

それが、人間である小夜の決断だった。


「なのでわたくしは、その研究が行われているなんて思っていなかったのですわ。でも、これが行われている以上、止めなければなりません。それが理事長としての責任ですわ」

小夜は堂々と、毅然と言った。それを三人は聞き届けた。確固たる宣言だ。

「ま、そういうわけさ。俺も、アノマルズの一員として許せねぇからさ」

トウラも同じような考えのようだ。

桜尾は手元の資料をもう一度確認する。

人間に動物の部位や臓器を移植し、結合することを始めとして、人間の脳を動物に移植する手術など。おおよそ倫理が欠落していないとできない実験だらけだ。

桜尾は考える。思考はいつの間にか、どんどん悪い方向に進んでいく。

「(もしこれが事実で、そしてもし翠さんがこれに遭っているなら……)」

嫌な想像が巡っていく。どこからどう見ても、この研究はあまりにも危険だ。

翠はあくまでも捜査をしていただけだ。そう、そのはずだ。だが行方不明になっている以上。被検体にされている可能性は充分にある。

思考のドツボに嵌った桜尾は、まだネガティブな考えから抜け出せない。これで翠さんが大変なことになっていたら?もし命を落としていたら?ヒスイちゃんはどうすれば?

ぐるぐると悪い思考に囚われ続ける桜尾を、救ったのはヒスイだった。

「大丈夫ですよぉ!そんな研究だろうと、お父さまはそんな簡単にやられません!」

ヒスイが桜尾の背中をバシッと叩く。その痛みで、桜尾はハッと我に返った。

そうだ、翠さんはそう簡単にやられたりしない。あの人は強い人だ。だからきっと大丈夫……と自分に言い聞かせる。それでも不安は完全に拭えないが。

「ええ、その通りですわ。人間はしぶとい生き物ですもの」

小夜がそう言うと、トウラも頷いた。どうやらみんな同じ気持ちのようだ。そしてそれはきっと正しいのだろう。そう、人間は、特に翠さんは強いのだ。そんなに簡単に斃るようなもんじゃない。

「あ、ありがとうございます皆さん。ヒスイちゃんも、ごめんね?」

桜尾はヒスイの頬を撫でた。彼なりの慰めの表現だ。

「さ、御託はいいからさ。本拠地に乗り込むぞ」

トウラのその声に、身が引き締まる桜尾。ヒスイも気合を入れたようだ。

「ええ、参りましょう」

小夜がそう言うと同時に、桜尾たちは月雲研究所に向かって歩き始めた。



前略、ここは月雲研究所の裏口。

「わたくしも、最初はこの研究の素晴らしさに魅せられはしましたわ……」

歩きながら小夜は語る。ヒスイと桜尾はその後ろを歩いている。トウラは何も言わず、そのもう少し後ろを警戒しつつ歩いているようだ。

「でも……それは我々人間と、アノマルズを冒涜するものですわ。生かしてはおけませんの」

小夜は静かに語った。

人間と動物と、そしてアノマルズ。すべてが違う生命体でありながら、アノマルズは動物と人間の両方を持ち合わせている。なにかの可能性を感じるのも無理はない。だが、アノマルズだって一つの生命体。冒涜するなんて当然できるはずがない。

その研究が生命を脅かすものだったら、当然止めなければならない。現に、小夜はこうして実験を否認した。

結果としてこんなことが起こってしまった。ならば、これ以上被害が広がらないうちに止めなければならない。人間も、アノマルズも、もちろんそれ以外の生き物すべてが、平和に暮らせるようにする。それが月雲研究所の最たる願いだ。小夜はそう宣言した。


「さて、この先が実験棟ですわ」

小夜が指差す方向を見ると、そこには大きな鉄の扉があった。どうやらここで実験が行われているらしい。

扉の前には二人の警備員がおり、厳重に警戒をしているようだった。だが理事長である小夜と、トウラの姿を見るや否や、彼らは慌ててその扉を開けた。小夜は当然として、どうやらトウラは顔が知れ渡っているらしい。ここから遠い蟒蛇塚の者なのだが、彼はそれなりに有名だったか?桜尾は少し考えたが、結論が出なさそうなのでやめた。ネガティブな思考に対しても、こんなふうに切り捨てたいものだとも思った。

とりあえず警備員に対しては、桜尾も軽く会釈をしておくことにした。ヒスイは後ろに隠れていた。

重々しい扉を開けると、そこには地下へと降りる階段があった。

「さぁ、行きましょうか。足元にお気をつけて」

小夜が先頭を切って進んでいく。いつの間にか、彼女(?)はカンテラを持っていた。

「(……暗い)」

桜尾は懐中電灯で足元を照らしながら、慎重に下っていく。ヒスイは元気に、だが慎重に桜尾についていっている。トウラはヒスイを気にかけつつ、周囲に警戒している。小夜はそんな三人を先導しつつ、進んでいく。

やがて最下層に辿り着くと、そこは実験室になっていた。

「これは……」

桜尾は思わず息を吞む。そこには、無数の水槽に入れられた人間やアノマルズの姿があった。みな意識を失っているのか、ぐったりとしている。そしてそれらが入った水槽には、絶えず液体が循環していた。

「こんなことが行われていたなんて……」

小夜は怒りを滲ませた声でそう言った。革手袋の擦れる音がした。小夜の拳が握られる音だ。

桜尾も同感だ。こんな非人道的なことを行うなんて許せない。

調査をする以上、そういったことをやる奴らを相手にすることもあるので、多少は耐性がある桜尾だが、ここまでむごいのは初めてだ。ハッと我に返り慌ててヒスイの目を覆うが、跳ねのけられてしまった。

「スイちゃんはそんなにヤワじゃないですぅ。ちゃんと現実ぐらい……」

そういうヒスイの語気は弱々しい。さすがに、子供には刺激が強すぎる。ふるふる震えて立つ彼女を、桜尾はただ宥めることしかできない。


そんな時、周囲を警戒していたトウラからずいと顔を近づけられた。桜尾に囁きかけるときは、どういうわけかみんなこうする。ちゃんと横の耳に耳打ちしてほしいなと、桜尾は軽く悪態をついた。

「……桜尾、あんじょうしろ。誰か来る」

桜尾はとっさに、ヒスイを背中に隠して振り返った。背後の扉の向こうから、カツンカツンと靴音が聞こえる。

出てきたのは、白衣を着た若い女性研究員だった。これといって特徴的な外見は見当たらない。だが、白衣の内側でゆらゆらと何かがうごめいている。尻尾だ。形からしてネコ科のものだろう。

「あら、こんな夜中までお疲れ様ですわ。香坂こうさか研究員」

小夜はなんの躊躇いもなく話しかける。職員に対してならこういった態度にもなるだろう。しかしその顔はどこか呆れているようにも見える。

香坂と呼ばれた女性は、軽く会釈する。部屋の入口から小夜を見据えると、冷たい口調でこう言い放った。

「お疲れ様です、理事長。そして、お客様方」

香坂研究員の目がキラリと光る。比喩でもなければ、サフィーのように物理的に発光したというわけでもない。反射光だ。金眼銀眼の猫の瞳だ。

香坂は後ろ手に扉を閉めた。ガチャリと施錠音が響いた後は、シンと静寂が訪れる。

退路を絶たれた。地の利がないこの状況で、道を塞がれたのは相当な痛手だ。桜尾はヒスイを抱き寄せながら臨戦態勢を取った。なんとしても守らねば、絶対に。トウラも尻尾を床に置き、いつでも飛び出せる姿勢を取っている。

小夜は香坂研究員を見つめている。その目はどこか達観しているような、軽蔑しているような。

少なくとも、好意的なものではない。

香坂研究員は一歩前に出て、桜尾とヒスイ、それとトウラに対してお辞儀をした。そしてこう言う。

「お客様には悪いですけども、私は研究で忙しいんです」

尻尾をせわしなく振り回している。犬と違い、猫の尻尾は不機嫌なときによく動く。


「へぇ、何に忙しいんだ?生命の冒涜?」

トウラが喧嘩を吹っかけた。デフォルトで人相の悪い顔が、キレてさらに歪んでいる。そういえば桜尾は思い出した。このトウラという男は、蟒蛇塚に巣食っていたギャングを一人で壊滅させた、その筋では死神のような存在だ。こいつの琴線というか、逆鱗に触れてしまえば最後、死ぬまで追い詰めるような男だった。さっきの警備員もその筋だったのだろう。

香坂研究員はトウラのその発言に対して、何も答えなかった。ただ尻尾だけがせわしなく動いている。

桜尾がヒスイをぎゅっと抱き寄せると、小夜も一歩前に出た。

「あなたはここの職員なのですよね?ここがどういう場所か理解していますか?」

香坂はまた押し黙った。小夜の問いにも答えないどころか、敵意すら感じるような冷たい目で見ている。

小夜は軽く目を閉じ、深く息を吸ってから話しだした。

「『月は繁栄を産み、雲は恵みを与える。月雲はすべての生命に、これを捧げる』――我々の社訓のはずですわ」

彼女は続けて言う。

「ここは、人間とアノマルズ、そして動物たちの繁栄を願うために作られましたの。貴方の行っていることは、冒涜に値しますわ」

断固として許さない。そんな気迫が伝わってくる。理事長として、そして何より一つの生命体としての願いだろう。

香坂は何も言わない。ただ黙って小夜を睨みつけているだけだ。桜尾も、トウラも、誰も動けない。一触即発の事態。

小夜はゆっくりと歩を進める。そして香坂の前に立つと、彼女の頬を手袋で優しく撫でた。その目にはほんの僅かだが、慈愛がこもっていた。

「貴方はすばらしい方ですもの。どうか考えを改めてもらえませんこと?」

その言葉を聞いた瞬間だった。


香坂はにっこりと笑った。古来から言われるものだが、ネコ科の獣は、人を喰うときに笑うのだ。

「あ~あ、理事長はやっぱりお人好しですねぇ…!」

突然、香坂が小夜を殴り飛ばした。みぞおちにダメージを受けた小夜はそのまま床へと倒れ込む。ガランと金属の鈍い音がする。小夜の持ち物なのだろう。

「チッ、そっちがその気なら……」

すかさずトウラが尻尾で床を叩いて、その反動で飛びかかる。大きな尻尾と己の拳が彼の武器だ。

しかし香坂、機敏な身のこなしで躱した。ギャリンと金属の擦れる音がする。猫の拳にはいつの間にか、メリケンサックが嵌っている。


「あ~あ~、やっぱり地に足ついた人間はダメですねぇ!そんな人間、私が変えてあげるんですよぉ!」

ギャングの男を圧倒するほどの速度だ。この香坂という女はどうやら、身も心も猫になってしまったらしい。動きの節々には人間らしいぎこちなさが残るものの、その反応速度や攻撃手段は確実に猫だ。素早い猫パンチが人間の拳で、メリケンサックで殺傷力が上がった状態で飛んでくる。

だが蛇のトウラも劣ってはいない。左右から放たれたジャブから蹴りへと繋げ、その勢いで尻尾を鞭のようにしならせる。ブォンと重々しく風を切る尻尾は、遠心力を味方にして相当な火力になる。しかし速さが足りず空振りに終わった。叩きつけられた床が、凄まじい音を立てて亀裂を生んだ。もし命中していたら、確実に骨ごと粉砕されるだろう。


「あいにく、アノマルズに用はないんですよぉ!」

香坂はその俊敏さを維持しながら、トウラをすりぬけ、桜尾の元まで迫ってきた。最悪なことに、今の桜尾には反撃手段がない。このままやられてしまえば、自分はさておきとしてもヒスイが危ない。とっさに出来ることといえば、ヒスイに覆いかぶさることくらいだった。

「クソッ、させるか!」

トウラが素早く切り返し、香坂に飛びかかった。しかし相手は身軽な猫人間(?)だ。バック転で天井まで飛び上がり、そのまま桜尾とヒスイめがけてダイブを仕掛けてきた。


――その時だった。

ギィンと鈍い金属音が響き渡る。音の出処は、顔を上げればすぐに分かった。小夜だ。手袋とロリィタの袖の間から、無骨な金属部品が覗いている。それで香坂の拳を受け止めたらしい。

その目はさすがに光ったりはしないものの、怒りと軽蔑で凄まじい色をしていた。

「……こう見えてわたくし、強いんですの。少なくとも、貴方などメじゃないくらいにはね」

その殺気にひるんだのか、香坂は飛び退いた。前門には殺気立った理事長、後門にはギャングの蛇、もう逃げられない袋の子猫だ。


「……ボクも戦えたら、ちゃんと守れるのに」

現状、桜尾はヒスイを庇うことしかできていない。あの猫の凶行を凌ぐだけの力はない。戦えないわけではない。ただ、非常に分が悪いのだ。

武器を取り出すわけにはいかない。だがもしそれで、ヒスイに危害を加えてしまったら?武器を取り出したとて、守りきれる保証はないのに。桜尾はまたしてもネガティブな考えをループしている。

「どうしたんですか~?ちびっこ一人抱えて動けないんじゃ、保護者として失格なんじゃないですか~?」

二人分の攻撃を躱しながら飛び回る香坂から煽られている。だが桜尾は、この状況を打開する策を見つけられないままだ。このまま二人に任せてもいいはずだ。どうして?


そんな思考を打開したのはトウラだった。

「……ったく、ちったぁ気張れ桜尾ォ!」

思いっきり横っ面をビンタされた。ビンタだからいいものの、この勢いで殴られたら、顎の骨じゃ済まないだろう。口の中が切れて血の味がする。痛みはだいぶ後からついてきた。

「お前、武器持ってんなら戦えよ。俺だって、こんな狭い場所じゃ戦いにくいンだよ!」

言われてみれば、トウラの戦術は、その尻尾で広範囲を薙ぎ払うものだ。室内であるだけでも厳しいのに、この実験室は壁に水槽がひしめいている。振り回しにくくて仕方ない。彼は中央を陣取るように立ち回っているが、香坂の機敏な動きに対応するのは厳しそうだ。

戦う決意を固めよう。桜尾はヒスイを水槽の影に連れていき、おもむろに顔を近づけた。

「ごめんねヒスイちゃん、隠れて待っていて。ボクもやってやるから」

桜尾はコートの中に手を突っ込み、細長いものを取り出した。1m弱の鞭だ。普段はハーネスベルトとして着用している。もっとも、ヒスイはコートを着た姿しか見たことがないため、そんなものつけているとは思っていなかったようだが。


桜尾は一度ゆっくりと目を閉じて、息を吐いた。息を吸って、そしてかすかに呟いた。

モリトゥーリ・テ・サルータン死にゆく我等から、最大限の謝辞を

カッと目を見開く。彼の瞳がわずかに発光した。およそ戦闘向きではない彼なりの、戦闘前のルーチンだ。

桜尾はその目で、機敏に飛び回る香坂を捉えた。彼女はトウラの攻撃を受け流しながら、小夜に飛びかかっている。小夜が跳ね返し、それをトウラが狙いに行く。そんな流れができていた。

香坂の狙いはあくまでも小夜であり、トウラの相手はできればしたくないようだ。動き方にそれが見える。

ならやるべきことは1つだ。小夜に飛んできたところを狙う。

「小夜さん、避けて!」

その言葉とともに桜尾は駆け出す。もちろん、香坂を迎え討つためだ。すごい速度で迫ってきた香坂めがけ、彼は鞭を振るった。

助走の勢いも乗って、ヒュンと風を切って鞭が飛んでいく。短めながらも、勢いがあれば相当の威力になる。

「こんなノロマで、当たるわけないじゃないですかぁ!」

香坂はその鞭をしゃがんで避け、そのままこちらに向かってきた。確実に仕留められる勢いだ。


だが、それを見逃さない男がいた。

「トドメだクソ猫ォッ!」

香坂が標的を変えるのを見越していた、トウラの蹴りと尻尾をモロに受ける。重い攻撃が多段ヒットして、香坂の体は水平方向に吹っ飛んでいく。

水槽のない壁に叩きつけられ、香坂はそのまま動かなくなった。K.O.というやつだ。

「ギャハハッ!ざまぁみろ。その辺の野良ネコの方が、もっと骨があるだろうがなァ!」

トウラが吠えた。どうやら彼は久しぶりに戦って興奮状態らしい。苛立ちを全部叩き潰すように、尻尾がビタンビタンと床を叩く。このまま叩き続けると床が抜けそうなので、早めに冷めてもらいたい。桜尾はなんとなく理解している。このヘビ男は面倒くさいのだ。

桜尾はこの状況に苦笑いしながら、物陰のヒスイを呼びに行った。

「大丈夫かい?」

彼女はぷるぷる震えているが、無事なようだ。よかった。


倒れた香坂研究員に小夜がゆっくりと近づいていき、首筋に手を当て脈を測る。どうやら気絶しているようだ。

「さて、探偵さん方」

小夜はくるりと向き直って言った。手には研究員から奪い取ったであろう鍵が握られている。細長いアクリルブロックに『実験体保管室』と刻印されている。

「たしか、翠さんを探していらっしゃるのでしょう?これを」

それを桜尾に手渡すと、ヒスイの頭を軽く撫でてから、またくるりと香坂の方を向いた。その時の小夜の手にはなぜか小刀が握られていたが、ヒスイのために知らないふりをした。空気を読むのは、全ての生き物が持っている生存戦略だ。

「ではわたくしは、この子に責任を取っていただかねばなりませんので。トウラさん、手伝ってくださる?」

呼ばれたトウラは軽くため息をついた。そして桜尾にあるものを渡した。この研究所の見取り図だった。

「じゃ、俺はこの辺で。翠さん探しはよろしくな」

トウラはまた凶悪な笑みを浮かべた。



さて、ここは廊下。目の前には例の『実験体保管室』の扉がある。思ったより近かったからいいものの、見取り図がなければ迷子になっていただろう。

「むぅ……ようやっとお父さまに会えますぅ?」

ヒスイは疲れ切っている。さっきの戦いもそうだが、そもそも今日は遠出に早起きと疲れることだらけだ。しかも今は、日付が切り替わるギリギリである。

ここに翠がいるならば……、桜尾はいい予感も悪い予感も考えないように鍵を回した。

扉を開けて真っ先に飛び込んできたのは……。


「うわァ~~~~~~!?!?」

ドでかいカエルだった。扉を開けたと同時に、ヒスイめがけて飛んできた。彼女は必死で振り払うが、あまりにも大きくてうまくいかないようだ。

なんかこう、小さいアマガエルくらいならかわいいものの、両手に持っても余るくらいのデカいカエルだ。色はアマガエルなのに、ヒキガエルの特別デカいやつくらいある。

たぶん実験に使う予定の子だろう。そんな考えが桜尾にはあったが、その考えは即座に訂正されることになる。

「ヒスイじゃないか!どうしてここへ!?」

喋った。何だこのカエル。桜尾の脳はほんのわずかに処理落ちした。

とりあえずカエルを捕まえて、近くの机に乗せることにした。ヒスイはぴよぴよと目を回している。


――前略。

カエルの話と、そこに並んでいた書類の情報とで、桜尾はこの喋るカエルについて少しは理解した。まず、人間の脳を移植されているらしいこと。そして手術によって人語を扱えるようになったらしいこと。そしてなによりも。

「……本当に翠さん、なんですよね?」

そう、このカエルこそ、二人が探していた翠さんその人である。カエルだが。

「まったく、まさかこんなことになるなんてなぁ……」

翠は軽くしょげている。桜尾も、まさかカエルになっているだなんて思っていない。あの部屋の水槽に入っていなければ、もう亡骸として処分されてしまったのだと思っていた。

「……とりあえず、生きていてよかったです」

桜尾はまず安堵した。どんな形であれ、命があればそれでいいと、桜尾はそう思っていた。


だがヒスイはそうでもなかったらしい。

「いやですぅ!カエルのお父さまなんて気持ち悪いですぅ!」

娘からの『気持ち悪い』発言で傷ついたらしい。先程からしょげていたが、もうかわいそうなくらいにぺしょぺしょになっている。

こうなっては、桜尾は宥めることと慰めることくらいしかできない。

「まぁまぁヒスイちゃん、カエルでもお父さんはお父さんだろう?そんなこと言わないで」


こんなドッタンバッタンを繰り広げていると、部屋に誰かが入ってきた。トウラだ。小夜の件は終わったらしい。

「……気になって見に来たんだけどさぁ、なに?このクソでかいカエルは」

やはり、このカエルに目が行くのか。桜尾は事情を説明した。とりあえず「信じられないかもしれないが」と前置きを置いたが、

「アノマルズが生きてんだから、そんくらいよくあることだろ」

という謎の理論で片付けられた。桜尾にはわからないが、彼なりに思うところがあったのかもしれない。よくわからないが。


結局、このカエル……もとい翠を持ち帰ることになった。小夜にこのことを訊ねたら「どうしようもないから、ふつうのカエルのようにお世話してあげてくださいね」と言われた。その言葉に、ヒスイは露骨にすごく嫌そうな顔をしていた。




大騒動から数日後。

桜尾はカエルの世話……もとい翠の介護をしていた。大きなケージに入れられたカエルに、ピンセットでコオロギを入れる仕事だ。傍から見たら、ペットのカエルに餌をやっているだけに見える。

ヒスイはなかなかやりたがらなかったので、とりあえず事務所の掃除だけやらせている。

「月雲研究所、どうなるんですかねぇ」

桜尾はぼやいた。

騒動からすぐに、月雲研究所は記者会見を開いた。もちろん、例の事件のことだ。壇上に香坂はいなかったが、小夜が懇切丁寧に答弁していたのが印象的だった。アノマルズ関連の研究は一旦打ち止めにして、別なことをやるらしい。そんなに急な方向転換できるのかと問われていたが、

「我々月雲は、すべての生命が豊かに暮らすことを第一としていますわ。その対象が、たまたまアノマルズに傾いていただけですもの」

と言っていたらしい。新聞では悪評だらけだが、小夜の話し方からして「人間と動物にももっと焦点を当てます」という意味なのだろう。邪推かもしれないが。


玄関を掃除していたヒスイの悲鳴が聞こえる。

「ミ°~!毛虫ですぅ!?」

文字で表すのも難しい悲鳴だった。桜尾が向かおうとしたが、翠がぬっとケージから出てきた。

「さて、腹ごなしでもいくかね」

そう言いながら、翠はぴょんこぴょんこと玄関に向かっていった。カエルの本能なのか、娘を助けに行く父親の正義なのかはわからない。

とりあえず気分転換に、桜尾は紅茶を淹れた。調査の礼として小夜から貰った高級なものだ。お湯を注いだティーポットから、ふわふわといい香りが広がる。


ふっと窓の外を見た。今日も仙洳町は雨降りだ。今はだいぶ弱い霧雨が、さらさらと降っている。

なんとなく、今日はいい日になりそうだ。ノンシュガーの紅茶を口に運びながら、桜尾はにっこりと微笑んだ。

「ギャ~ッ!なにしに来たのぉ!帰れ帰れぇ!」

「酷いなぁ、せっかく助けてやるのに……。ほれ」

「ギミェ!?食べたぁ!きちゃない!ぴ~っ!」

「なんだと……」

……今日はいい日になればいいな。桜尾はそんな風に思ったのだった。


雨の降り続く仙洳町。

そこに住むゆかいな探偵たちとして語られるのは、もうちょっとだけ先のお話。

草々。

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