小瓶の悪魔
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小瓶の悪魔
朝の光が、教室の窓から静かに差し込んでいる。
窓ガラスには、夜露がついており、それが太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
教室のスライドドアが開く度に、あいさつが交わされる。
そして、また閉まると、静寂が訪れる。そんな繰り返しが続く中、一人の少年が自分の席で文庫本を開いていた。
心が遊離する感じがした。
髪が美しい。
サラサラとした細い髪は風の囁きを聞くことなく、空を旅するように流れた。
整いすぎた顔には冷淡な印象があり、その眼差しは遠くを見つめるのではなく、まるで自分の中に閉じこもっているような寂しさを感じさせた。
彼の外見は美しかった。
それは、女性的な美しさではなく、男性的な美であった。
だが、彼を見た人はみな女性と間違えるだろう。それほどまでに、彼は中性的で、見る人を魅了した。
名前を
静かに本を読む姿は、とても絵になっていた。
誰もが彼を羨ましく思うだろう。
しかし、彼には友達と呼べる存在はいなかった。
正確に言えば、彼に声をかける人がいないのだ。
なぜなら、彼は他人に興味がなく、自分から人に話しかけることをしなかったからだ。
そんな彼は、教室だけでなく、この学校では異分子でしかない。
彼は誰とも関わらないようにしていた。だから、誰も彼と関わろうとはしなかった。
昼休みになると、ほとんどの生徒が食堂に行くか、弁当を持って屋上に移動する。教室に残って昼食をとることはごく少数だ。
孤独が似合う少年だった。
だが、この日は少し違った。
教室に2人の女子生徒が教室に入って来ると、麗の席の側に立った。
日差しが強くなった気がする。
そう感じてしまうものが、少女にはあった。
見ているだけで明るく元気な気分になるような気がするのは、少女の持つ豪快な情緒からであった。
ポニーテールの髪をオレンジのリボンで結い、頬にかかる左の後れ毛を長めに、右の後れ毛を少し短めにすることで、アンバランスに見せる髪型をしている。
健康的な肌の色をした腕や脚は細く引き締まり、スレンダーでありながらメリハリがあった。身長は高くはないが、スタイルの良いモデル体型の少女だ。
名前を
その隣に、もう一人の少女が立つ。
一見して目移りしてしまうものがある。
細い筆で描かれたような柔らかで繊細な面は、花弁が開ききっていない花のような落ち着きが。そしてどこか憂いを帯びた瞳には気品すら感じさせる。
腰元まである漆黒の髪は、カラスの濡れ羽色のように艶やかでしっとりとしていた。思わず触れたくなるような、髪は緑の黒髪という表現をよぎらせる。
例えるならば、雛人形のような気品を備えた少女であった。
名前を
麗に加代と美月の二人が、彼に用事があるのは明白だったが、彼は文庫本から視線を外さない。
「……なにか用かい。加代?」
麗は、いたたまれなくなったか、少し冷たい口調だった。
3人は小学校以来の幼馴染で、中学になっても互いを名前で呼び捨てにするほど親しい仲だ。
加代は、困ったように眉を寄せると、助けを求めるように隣の親友・美月に視線を送った。
すると、美月も困ったような表情を浮かべる。
どうやら、彼女たちにも用件はあるが、麗に対してどのように話を切り出したら良いのか、分からない様子だった。
それでも、意を決して口を開いたのは、加代の方だった。
彼女は、深呼吸をしてから話し始める。
それは、あまりにも意外な内容であった。
「麗。アタシ達のサドルが無くなったの」
その言葉を聞いた瞬間、麗は意味が分からず首を傾げてしまっていた。
◆
そのまま加代と美月に人気の無い校舎裏まで引っ張られると、麗は詳しい事情を訊いた。
「サドルって、何だい?」
麗の質問に、加代が赤面しながら答えた。
「サドルと言ったら、自転車のサドル。……つまりお尻を乗せる座席のことよ」
その言葉に、今度は美月が恥ずかしそうに答える。
「私、中学になっても自転車の乗り方が下手で。それで、私と加代と二人で練習がてら河川敷サイクリングをしていたんだけど……」
そこまで言うと、2人は同時に口をつぐんでしまう。
麗は怪訝な表情を浮かべて言った。
「何となく見えてきたよ。2人で河川敷公園あたりで弁当を食べて帰ろうとしたら自転車のサドルが無くなっていたんだね」
加代と美月が恥ずかしそうに頷く。
「……そうか。それは大変だったな、オレの知っている自転車屋は中古部品を扱っているからサドルだけでも買えるから、場所を教えようか……」
麗はスマホを取り出して場所を示そうとすると、加代は急に怒り出す。
「そういう問題じゃないでしょ! 女の子のサドルが盗まれたのよ。新しいサドルを買って、自転車が使えるようになりました。それで済むような話じゃないでしょ。麗は、どうしてそんなに冷静なの!?」
加代は麗に詰め寄りながら言う。
そんな彼女の気迫に押されてしまい、麗は思わず後ずさってしまう。
「……えっと。ダメなのか?」
麗の言葉に、美月は反応する。
「ダメに決まってるでしょ! だって犯人が私と加代のサドルを使って妄想しながら、今頃、何をしているかと考えたら……」
美月は顔を覆って泣き始めてしまった。すると加代が美月の肩を抱いて慰め始める。
「怖いわよね美月……」
加代は、そのまま麗を見て続ける。
「麗は、アタシ達が変態野郎のオカズにされていて平気なの?」
2人の姿を見て、麗は自分のデリカシーの無さを恥じた。
過去には、自転車のサドル盗難事件は実際に発生している。
2013年から神奈川県横浜市中区を中心に、女性用自転車からサドルだけが盗まれる事件が続いた。
犯人は同じ中区に住む男で、犯人の自宅からは200個のサドルが発見された。
警察の取り調べに対し、
「女性の臭いを嗅ぎたかった。自分は革フェチ。ビニール製のサドルはダメ。革製だけ。盗んだサドルを家に持ち帰り、臭いを嗅いだり舐めたりしていた」
と話した。
麗は目の前で泣いている女の子2人の友人を見ていると、改めて他人事とは思えなかった。
場の空気が、事件解決に向けて動き出していた。
「これは、放っておいたらいけないことだと思う」
麗の言葉に、加代は顔を上げる。
その瞳には涙が浮かんでいた。
しかし、その表情には希望の色が灯っていた。
加代の中で何かが吹っ切れたようだった。
「そうよ。アタシ達の手で犯人を捕まえてギッタンギッタンにしてやるわ!」
加代は拳を握りしめていた。
こうして3人は自転車サドル盗難事件に対して行動を起こすことになったのだ。
放課後になり、生徒たちは帰宅の準備を始めていた。
そんな中、一人の生徒だけが机に突っ伏したまま動かない。
麗だった。
「どうしてオレが……」
そう呟く麗の前に、加代と美月が立っていた。
美月は申し訳無さそうにし、対して加代は腕を組みイタズラっぽく笑っていた。
2人の表情を見て、麗は嫌な未来しか見えなかった。
なぜなら、この2人の計画をすでに聞かされていたからだ。
3人の姿は、街のファッションレンタル店に姿があった。
「麗。すごくキレイよ」
美月は嬉しそうに微笑むと、麗は自分の姿を確認するように視線を下げる。
そこに映っていたのは、美しい少女が着るような制服だった。
スカートの裾が膝下までしかなく、そこからすらりと伸びた脚が眩しい。
ブレザーの下に着ているブラウスはあえてサイズを落としたものにしているので胸の膨らみが強調され、余計に色気を感じさせた。
髪型もウイッグを被ることで、腰まで届くロングのストレートヘアーだ。しかも艶やかでしっとりとした黒髪が麗の美しさを引き立てているように見えた。
どこからどう見ても美少女にしか見えないその姿は、女装をしているようには思えなかった。
(恥ずかしい……)
麗の顔が赤くなる。
そんな麗とは対照的に、加代と美月の表情は明るいものだった。
まるでいたずらに成功した子供のような笑みを浮かべている。
「どう麗。女の子になった気分は?」
加代に訊かれると、麗は恥ずかしそうに答える。
「何でオレが、こんな格好をしなきゃならないんだ。囮なら加代や美月で十分だろ」
その言葉に、加代は呆れたように肩を竦めると、諭すように言った。
どうやら、加代の中では麗を説得する役目を自分が担うことが決定しているようだ。
加代は、そのまま麗に言い聞かせるようにして話し続ける。
「犯人は女性用の自転車サドルだけを盗んでいることから、恐らく犯人は男よ。そんな変態相手に、アタシと美月が遭遇して襲われたらどうするの?」
確かにその通りだと思ったが、麗は反論する。
「加代は少林寺拳法をしていて、美月は合気道の使い手だろ? 二人とも武道経験者なんだから、そう簡単にやられたりはしないと思うけど……」
すると、今度は美月が言う。彼女は申し訳なさそうに頭を下げたまま話し始めた。
「ごめん麗。私も加代も、サドルを盗まれた時点で犯人に生理的嫌悪感の方が先走っちゃって。犯人が目の前に現れたら、変な妄想をされたことから、どうしたらいいのか分からなくなりそうなの……」
美月はそう言うと、さらに深く頭を下げる。
その様子を見た麗は、深い溜め息を吐くと言った。
結局、麗は加代と美月に押し切られる形で協力することになった。
3人はショップを出ると、河川敷にあるサイクリングロードへと向かった。
そこで、犯人が現れるのを待つ作戦である。
麗がレンタル自転車でシティサイクルを借り、待ち合わせ場所に到着すると、既に加代と美月の姿が橋桁下にあった。
2人は河川敷の芝生の上に座り込み、川の流れを眺めながら雑談をしていたようだ。
麗は、その様子を遠目に見ながら、ワイヤレスイヤホンをしスマホで加代に連絡をする。
「聞こえるか?」
「聞こえるわよ。じゃあ麗。打ち合わせ通り、私達がそうしたように土手の上に自転車を止めて、河川敷公園のベンチにいたようにしてね」
電話越しに聞こえる加代の声を聞いていると、麗は思わず苦笑いしてしまう。
(本当に犯人は現れるのか……?)
そう思いながら、麗はペダルを踏んで自転車を走らせる。
やがて、現場に到着して自転車を止めると、周囲を見渡しながら河川敷に降りて行く。河川敷公園ではボールなしでゴルフスイング練習をする中年男性の姿や、子供連れの母親が犬の散歩をしながら歩いているのが見えた。
また遊具で遊ぶ、何人かの小学生の姿もあった。
(怪しい奴はいないな……)
そう思った瞬間だった。
イヤホンから加代の指示が飛ぶ。
「麗。もっとおしとやかに歩いて、男だってバレちゃうでしょ」
麗は心の中で舌打ちをすると、ゆっくりと歩き出した。
(何がおしとやかに歩けだよ!)
麗は内心文句を言いながらも、二人の女友達の為、変質者を捕まえるという目的を思い出す。不安そうにしていた女子の気持ちを旨に、自分は今は女の子と思い込んで指示通りに楚々と歩いていく。
河川敷公園に着くと、周囲に注意を払いつつベンチに座ると文庫本を広げて文学少女を装う。
それからしばらくすると、遠くから声が聞こえてきた。
声の方向に視線を向けると、そこには高校生くらいの男子2人組の姿があった。
(あれが、そうなの?)
麗は内心の気持ちも女性言葉にして、緊張した面持ちで彼らを見つめる。
そんな麗をよそに、彼らは楽しそうに会話しながら歩いている。
麗の様子を見ながら、加代と美月は自転車の様子を伺っていた。
犯人は河川敷に居る者とは限らない。他に気を取られている間に、自転車のサドルが盗まれる可能性もあるのだ。
「加代。麗、ナンパされてるみたいよ」
美月の声に反応し、加代もそちらを見る。
視線の先では、麗がチャラい男子生徒に取り囲まれるよに話しかけられていた。
「何やってるのよ麗は……」
加代は、そう言って悔しそうな表情を浮かべる。
「別に麗は悪くないでしょ」
美月の言葉に、加代は反論する。
「何言ってるのよ。女のアタシらより麗の方が美人だから声かけられたんでしょ! 女として悔しくないの」
加代の言葉に美月は何も答えなかった。
しかし、それは図星だったからだ。
美月自身も、麗の方が自分より綺麗だと思っていたのだ。
しかしそれを認めたくなかったので、あえて黙っていたのだった。
一方、麗はと言うと……。
(早く、どっかに行って……)
そう願いながらも、彼らに適当に愛想笑いを振りまいていた。
そうこうしているうちに、事件は起きた。
突然、一人の生徒が麗の隣に腰掛けたのだ。
その生徒は茶髪でピアスをしており、見るからに軽薄な印象を受ける男だった。
彼は馴れ馴れしく話しかけてくる。
「なあ。俺らと遊びに行こうぜ」
それに対して麗はどう対応すれば良いのか分からず困惑していると、突然肩に手を回されて麗は切れた。
男の顔面に拳で突きを入れると、男は鼻血を噴いて転がった。
「ワタシ一人で静かに読書したいんですケド!」
ドスの効いた声で凄むと、男たちは一目散に逃げていった。
そして何事もなかったかのように麗は読書を再開する。その様子を見て、加代と美月は笑いを堪えることができなかった。
「バカな連中」
加代は爆笑し美月も同意する。
「麗は逮捕術や自衛隊格闘術の源流になった日本拳法をしてるんだから、あんな奴ら一瞬で倒せちゃうんだから」
2人は麗の強さに全面的な信頼を寄せているようだが、麗からすれば迷惑この上ない話でしかなかった。
麗は気を取り直していつ現れるか分からない犯人を待っていると、イヤホンを通して加代から連絡があった。
「麗。自転車の方を見て。様子が変なの」
そう言われたので麗は自転車の方を見てみると、サドルが今まさに上へと引き抜かれているところだった。
思わず立ち上がる麗だったが、そこに人影は見られなかった。
麗は急いで土手を駆け上がっていると、目尻に加代と美月がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
事態の変化に追いかけてきたのだ。
麗が合流すると同時に、3人は自転車のところへ駆け寄る。
すると、自転車のサドルは無かった。
「どこだ?」
麗が周囲を見る。
「麗。あそこよ」
美月が指差す。それはサドルが土手向こうの草むらに向かって転がっているところだった。
「どういうこと?」
加代は意味が分からなかった。
「とにかく追いかけるぞ」
麗の呼びかけに、加代と美月は頷く。
3人は、そろって土手の向こうへ降りていくと、草むらをかき分けてサドルを探す。
すると、すぐに見つかった。
そこにはいくつもの自転車のサドルが無造作に転がっていた。数としては10個前後程か。
麗はその一つを拾い確認する。
「麗。それ私のサドルよ」
美月は麗が手にしているサドルを見て言った。
麗からサドルを受け取ると、確かにそれは美月のものだった。
「アタシのもあったわ……」
加代も自分のものを見つけ出したようだ。
「それにしても。どうして、こんなところに自転車のサドルだけが転がっているんだ? さっきの状況を考えると、自転車のサドルがひとりでに抜けて、この草むらに転がって行ったことになるけど……」
麗は、自分の乗っていた自転車のサドルを手にする。
すると、そのサドルが麗の手から重力から解き放たれたようにフワリと浮き上がったのだ。
その光景を見た3人は思わず絶句してしまう。
やがて宙に浮いたままのサドルはゆっくりと回転し始める。
「何よ、これ」
加代は思わず声を上げた。
その時だった。
突然、そのサドルが加代に向かって飛んで来た。
加代は予想もしていなかったことに動けないでいると、彼女の前に麗が立ち右手の人差し指と中指を立て、空中に十字を切った。
そこにサドルが来るがサドルは見えない壁に衝突したかのように、その場で弾かれる。
【十字】
魔術の実行中に空中に十字を切る行為がある。
現代ではキリスト教の十字が最もよく知られているが、そのルーツは古代にさかのぼる。十字は古代人にとって、東西南北や四季、交差点などを意味し、象徴的に世界の交流点、つまりは宇宙座標の中心という概念を持っている。
四方への無限の広がりは人間の潜在能力への賛辞でもあった。
世界中に知られた十字の形は、神聖な力の象徴そのものであり、人間の潜在能力を顕在化させる大きな力を秘めている。
近代西洋儀式魔術に於いて十字を切る事が通例だが、その理由は、儀式を行う為の「場」に対する『Purification=「浄化」=穢れを祓い神聖化させる事)』を目的とした儀礼だからだ。
術式としては、儀式の「場」を『浄化』し、術者自身を『光輝化』させる為に、イメージにより呼び出した「聖光」で、身体を包む為の儀礼であり、あらゆる儀式(儀礼)の開始時には、この十字によって《自らが光りに覆われて、神聖な魔術師として儀式を行う》というイメージを明確にする。
「気を抜くな」
麗は語気を鋭くして言う。
その言葉を聞いた加代は慌てて周囲を見渡す。
周囲に不審な人影はない。
しかし、先ほどと同じ現象が起きていることは確かだ。
(一体どうなってるのよ)
美月は、そう思いながら、周囲を警戒していると美月はサドルの積まれた中に1L程の炭酸飲料用の丸形ペットボトルが混じっていることに気づいた。
それだけならば、投棄されたただのゴミだが、美月は、その瓶の中に異様な生物の姿を見たのだ。
それはまるでワニと獣を掛け合わせたような生き物であった。生物は卵に収まるかのように手と足を縮め、長い尾をゼンマイのように巻き、ペットボトルの中に収まっていた。
その姿は明らかに地球上のどの生物とも異なっていた。
体表を覆う鱗は黒く光り、瞳は黄色く光っている。
口元からは長い舌が出ており、舌なめずりをしていた。
(何なの……?)
美月はその不気味な姿に圧倒されると同時に恐怖を感じていた。
「……麗。あそこにあるペットボトルを見て、妙な物がいるわ」
美月の呼びかけに麗は、ペットボトルの中に居る生物に気がつく。
「あれは……。まさか」
そう言っている間にも、生物は目を細めると舌を出し入れしながら、3人を威嚇するように唸っていた。
それと共に、転がっていたサドルが数個、宙に浮かび上がる。
そして3人に目掛けて飛んでくるのだった。
3人はそれぞれ別の方向に飛び退いて躱すことに成功するが、サドルはそのまま地面に激突するとバウンドし、再び3人に向かって襲い掛かってきたのだった。
3人は必死で避けるが、次々とサドルたちは襲って来るため次第に逃げ場を失っていく。
そしてとうとう3人は追い詰められてしまった。
3人は背中合わせになり、サドルたちに囲まれてしまう形になる。
「まさか。サドルに殺されることになるなんてね」
加代は冗談めかしてそう言うが、その顔には焦りの色が浮かんでいた。
麗は自分の周りを囲むサドルたちを睨んでいたが、ふと視線を生物に向ける。
「元を断たないとダメだな」
麗の言葉に、美月は理解し頷く。
「なら、私と加代で道を作るわ。いいわね加代」
「了解」
加代は頷くと、2人は生物の方向を塞ぐようにあった、数個のサドルに対し走りだす。
2人が走り出したのを見て、麗もまた続くように走り出す。
加代は足刀蹴りを放つと、サドルを大きく蹴り飛ばした。
そこに美月は掌底打ちと手刀とを組み合わせた連続技で、サドルを跳ね飛ばす。腰の入った重く鋭い打撃だ。
2人の猛攻によって、サドルの包囲が崩れる。
麗はすぐに体勢を整え、生じた隙間を一気に駆け抜けると、生物に接近していく。
そこにサドルの一個が正面から襲いかかるが、麗は縦拳による突きで打ち落とす。
日本拳法では親指を上にした縦拳を使う。
縦拳は手首のスナップが効かないため、最高速で平拳に劣る。
だが、手首を捻る必要がないため、初速で平拳に勝り脇が締まるため、容易に体重を乗せた拳を打つことができるメリットがある。
麗はサドルの攻撃を防ぐと、十字を切る。
掌が輝きを放ち始める。
それを見た生物は目を大きく見開くと、口を大きく開け咆哮する。その口から覗く牙は、人間の指程度であれば簡単に食いちぎれるほどの長さがあった。
そんな恐ろしい姿を前にしても、麗の表情は全く変わらない。
むしろ余裕すら感じさせた。
麗はゆっくりと息を吐き出すと、構えを取る。
彼の周りに風が渦巻き始めたのだ。
それはまるで小さな竜巻のようだ。
「Le Olam Amen」
麗は唱えながら聖光を、生物の入ったペットボトルに叩き込む。フラッシュが焚かれたように、周囲が一瞬白くなると浮かんでいたサドルが糸が切れたように落下していく。
「麗。やったの?」
加代は麗に近寄る。
「ああ。こいつが原因だ」
そう言って麗は、加代と美月に生物の入ったペットボトルを見せた。生物は舌を垂らして動かなくなっていた。
「何なの、それ?」
美月が訊くと、麗は答えた。
「小瓶の悪魔だ」
その説明に、加代と美月は驚く。
【小瓶の悪魔】
比較的魔力の弱い悪魔を瓶に閉じ込め、使役する魔術。
金曜日の深夜、両刃の短剣を持ち、床に直径2m程の円と、その内部にペンタグラムを描いた魔法陣の中心で、所定の呪文を唱えることで悪魔を小瓶に閉じ込めることができる。
スイス出身の医師、化学者、錬金術師、神秘思想家・パラケルススもインスブルック滞在中に悪魔を策略で捉え、自分の召使いにしたと言われている。
「こいつ悪魔なの」
加代は瓶の生物・悪魔を見て言った。
「悪魔と言っても魔術で捕まえられるような下級悪魔だ。こうして捕まえることで、悪魔に命令をさせることができる。ケガや病気をさせたり程度の魔力しかないから、間違っても世界一のお金持ちにして欲しいって願っても無理だからな。おそらくどこかの魔術師が作ったけど、何かの過ちで落としたか捨ててしまったといった所だろう」
麗は説明した。
「死んでるの?」
美月の問に麗は苦笑した。
「ちょっと気絶させただけだ」
そう言って麗が、ペットボトルを指で軽く弾くと、悪魔は再び目を開けた。
そしてすぐに状況を理解すると、慌てて逃げ出そうとするが、ペットボトルから逃げることはできなかった。
「それにしても。どうして悪魔は自転車のサドルなんか集めていたの? まさか、変態じゃないでしょうね」
加代の質問に、麗はサドルとペットボトルとを見比べる。
「もしかして……」
麗は自分の考えを口にしていた。
◆
数日後。
「麗。遊びに来たわよ」
麗が自宅の部屋でくつろいでいると、加代と美月が乱入するように訪ねて来た。
2人とも両手に買い物袋を持っていた。
その中には様々な物が入っていた。
冷蔵庫に入れるべき食材や飲み物などもあったが、大半はお菓子類だった。
「遊びじゃないだろ。今日は、明日の小テストに向けた勉強会だろ」
麗はノートと教科書をテーブルに並べると、シャープペンシルを手に取った。
「もう。麗は堅物ね」
加代は残念がった。
麗の家を訪れた加代と美月は、さっそく勉強を始めたのだった。
3人は、テーブルの上に教科書を広げて勉強を始める。
数学の問題集を解きながら、時折休憩と称しておしゃべりをしていた。
話題はやはり先日の悪魔のことで、あの後どうなったのか気になっていたのだ。
もちろん麗が捕まえたのだから、当然逃がしてはいないだろうが、その後どう処理したのかまでは聞いていない。
「あいつなら。そこの棚にいるよ」
麗の説明に、2人は示された場所を見るとフラスコ台で横になったペットボトルがあった。見れば中で悪魔がクッションを背に仰向けになってくつろいでいた。薄目を開けて、美月と加代を見るが特に気にした様子はない。
「キモイけど。こうして見ると意外と可愛いかも」
加代の言葉に、美月は苦笑しながらも頷く。
悪魔もそんな2人の会話に気づいたようで、不機嫌な表情を見せるとプイッと顔を背けた。
「まさかサドルを盗んでいた目的が、ペットボトルでの寝心地を良くしたかったからなんてね。あんな狭い場所が好きだなんて変わり者ね」
加代は麗から聞かされた真相に呆れ果てていた。
確かに言われてみれば、硬く丸いペットボトル内では座りにくい。
サドルを集めたところで、ペットボトル内に入れられる訳はないのだが、それでも座り心地が良さそうなサドルを集めてしまった。あるいは、居心地良く座っている人間に対する嫌がらせも含まれていたとも考えられるが、悪魔の考えることはよく分からないというのが真相だ。
「色々できるって聞いたけど本当なの麗?」
美月が訊くと、麗は少し面倒くさそうに答える。
「部屋のエアコンを送風で動かしてくれ」
麗が指示すると、悪魔は尻尾でペットボトル内を叩いた。
すると、部屋のエアコンがリモコンを触っていないにも関わらず起動し、優しい風が部屋にそよいだ。
「凄い音声認識アシスタントね」
感心する美月に対し、麗は軽く頷く。
「まあな。簡単なことなら、やってくれるんで中々便利だよ」
そう言って、苦笑を返した。
加代と美月も、自転車のサドルが変質者に取られた訳ではなかったことに安堵して胸を撫で下ろしていた。
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