窓越しの星

 水まんじゅうが、つるりと硝子の切子のうつわにすべり込む。崩れやすい和菓子を扱うときも、僕に触れるときも、同じ丁寧さの恋人。ふたりぶんをそうして赤と青の繊細なボウルに移して、まっさらに片付いたダイニングのテーブルに出してくれる。

 ご両親にご挨拶させてくれた。ご実家に遊びに行って、おやつを食べるのもふつうになった。そうして認められるのはうれしい。

 衣真くんは水まんじゅうの透明なところだけを華奢なスプーンですくって、きれいだねぇ、と呟く。

「人間の身体で、透明な部分ってないのかな」

 恋人の、素朴で透明できれいな疑問。

「パーツごとで見ればあるでしょ。角膜とか。水晶体とか」

「ああ。窓なんだ。目は人間の窓」

 何も言えなくて、衣真くん、と呼んでみる。なに、と僕を見る。

 衣真くんのお父さんは哲学者。お母さんは美学者。穏やかなひとたちだ。

 偉大な哲学者イマニュエル・カントから名付けられた、衣真いまくん。ときどき敵わないなと思う。僕は「目は人間の窓」だなんて言わない。言えない。

 整った顔立ちというわけではない。丸っこいちょこんとした鼻。ご両親の方針で歯科矯正はしなかったという、ちょっと高さのずれた小さな前歯。

 衣真くんは、きれいだ。

 ふとした視線の揺らぎ。ぱっと目を見開いて、ゆったり目を伏せてゆくときのすべるようななめらかさ。どこか遠くを見ながら、癖で唇をつんと突き出す横顔。衣真くんの表情には、所作には、ちかっちかっと瞬く星が埋め込まれている。いつも。

 人間には窓がある。衣真くんの雨戸はされていない。僕に向いている。でもそれだけ。人間の身体はひとりで完結していて、混ざり合うことはできない。

 僕は僕の窓を通して衣真くんのちかちかの星を見る。開かない窓。開け放して本当にその星々を掴むことはできない、意地の悪い窓。

「どうしたの。上の空で。ほら、あーん」

 衣真くんの手が伸びて、口に透明なのと甘いのを一緒に入れてくれる。

「おいしいね」

「おいしい。ありがとう」

 口があって、ことばがあるから、いいのかなあ。

 あとで衣真くんに聞こう。小首を傾げたり、口をちょこんと突き出したり、顎に手を当てたりしながら、ゆっくり考えてくれる。僕はまだ衣真くんのことば全部は分からない。でも、考えて話してくれることがうれしい。

「おや。なんだろう。なにやらうれしい顔をしているね」

「うん。うれしいから」

 まっすぐに、窓を向け合って、わらう。


 梅雨の晴れ間、夏がもう来たみたいな陽射しがカーテンを透かして、赤と青の切り子の模様をテーブルに映し出す。僕たちはしばらくそれを指でたどって遊んでから、ボウルを流しに運んで洗ってしまう。

 緑茶を淹れ直していると階段を下りる足音がして、美都里みどりさんがダイニングへやってくる。

「あれ! 早暉くん髪を染めたの!?」

「そうなんです」

 僕は髪を金色にブリーチし直したことをすっかり忘れていたので、美都里さんになんと思われるか心配で急にどきどきした。

「就職先が決まったんです。だから内定式までは髪を伸ばして染めようかなって」

「そうなの! おめでとう! とても似合ってる。新鮮でいいね」

「これが早暉くんの本来の姿なんだよ? 髪を派手色に染めてハーフアップにしてピアスをたくさん着けているのが本来の早暉くんなの。就活という悪しきシステムが早暉くんを黒髪にさせてしまっただけ。この方がよほどかっこいい」

 衣真くんが僕より先に力説するので恥ずかしくなる。

「そうなんだ。確かによく似合ってる。ハーフアップまで伸びたところが見たいな」

「就職先は髪型自由なんで、内定式終わったらまた伸ばしてハーフアップでいきます」

「楽しみだね!」

 美都里さんは屈託なく笑って褒めてくれるけど、10月の内定式のあと、僕の髪がもう一度伸びるまで、僕は衣真くんと一緒にいられるだろうか? 衣真くんと1年を超えてお付き合いを続けられるのだろうか? やっぱり衣真くんの窓は鎖されていて、何を考えているのか掴み取ることはできない。

「今日の夕ごはんは何にしますか? カルボナーラはどうですか?」

「えっ。今日も作ってくれるの?」

「システムキッチンを使わせていただきたいだけです」

「いつもありがとね〜。カルボナーラがいいな」

「駅前の店でチーズが安く出てたので」

「私がサラダを作りましょう。あっ、冷凍のお刺身用のホタテがある。解凍してホタテのサラダにしよう」

 僕は去年の11月に初めて美都里さんにお招きいただいて以来、すっかりこの家に馴染んで、勝手にシステムキッチンで料理を作り出す始末。衣真くんのお父さんとお母さんのことも「孝輔こうすけさん」「美都里さん」と呼ぶ体たらく。そんなに僕を迎え入れてくれる家族が好きでたまらないのに、衣真くんとお別れしたら一生会えなくなるつながりであることを考えると怖くなる。

 衣真くんと手をつないでチーズを買いに行って、しばらく衣真くんの部屋で昼寝をしたらもう夕方。留守にしていた梅雨が帰ってきたようで、カーテンの外は鉛色に暗い。

 僕は衣真くんに借りたい本を探してくれるように頼んで、衣真くんは部屋の積読の山の中に引っ込む。その間にサラダを作る美都里さんとキッチンで話をする。

「衣真くんは『人を疑わないことが善』って思ってるじゃないですか。どうやって安全に子育てしたんですか?」

 僕は3月に「生まれ変わる」と約束したけど少しも手がかりを掴めなくて、衣真くんを一番近くで見てきたひとたちに訊いてみることにした。

「そうなんだよ、大変な苦労をしました。衣真くんがそんなこと言い出したのは中学の頃からだけど、言っても聞かないから、人と会うときは1時間に1回は連絡をして、場所を移動するときは必ず連絡することって約束に落ち着いたの」

「なるほど……」

 僕たちが学部1年生だった頃、バンドマンとデートする衣真くんはお父さんに連絡を義務付けられていたのを思い出した。

「早暉くんにも心配をかけてるんだね。ごめんね」

「いやっ……。僕がそうやって柔軟に考えられないのが悪いんです」

「……お付き合いをさ、お休みにしてもいいと思う。やめにするんじゃなくて、パートナーシップは維持しつつ、デートとか、マメな連絡とか、そういうの全部やめちゃうの。私がコウくんと衣真くんを置いてフランスに赴任しちゃったときは、結婚をお休みにしてた。子育ては2人ですることだからお休みにはしなかったけど」

「美都里さんは、すごく柔軟ですね」

「ううん。一生懸命説明して相手に妥協させてるだけ。たまたま衣真くんもコウくんも分かってくれるひとたちで、恵まれていただけだよ」


 ——僕は、衣真くんが話せば分かってくれるひとだなんて全然思えません。


 そう言ったら告げ口みたいだから、美都里さんには言えなかった。衣真くんの窓は、僕たちが人間だから混ざり合えないという具合に鎖されているのではなく、衣真くんの意思でわざと閉ざされているように思えてならなかった。



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