愛と憎

 空港まで見送りに行くなんてしなかった。「おめでとう。いってらっしゃい」と心から言える自信が少しもなかったから。衣真くんは夏が終わりかけた今日から1年間、フランスに留学する。

 3年生の6月に正式に留学が決まったと言われて僕は、衣真くんから心を離しておこうとしている。

 残暑の中を大学まで歩いて、しんとした一角にある遺跡みたいな建物の2階へ上がる。カウンセリング・ルームのデスクには植物が置いてある。土の表面は化粧石である。僕は4ヶ月ここへ通う間に、この植物が本物なのかフェイクグリーンなのかを考えてきたが、どうもフェイクグリーンな気がしてきた。

 カウンセラーに「衣真くんから心を離すように」と言われてからそう努めているのだ。僕は3年生になってからゼミに出席するのが難しくなって家に引きこもりがちで、心配した教員が大学のカウンセリング・ルームを紹介してくれたので通ってみている。衣真くんとの事情を他人に打ち明けるのは初めてで、言葉にしてみると自分がどれほど衣真くんに執着していて、衣真くんがどれほど自分の考えに固執しているかがよく分かった。

 衣真くんと距離を置くのは苦しかった。キャンパス内に花が咲いていると衣真くんに見せてあげたくなって、それからああ衣真くんから離れるんだ、と思う。最初のうちは写真を撮って送りたい気持ちがあったけど、カウンセラーに心を離すように言われたのを思い出して送らずにおく。そのうち花の写真なんて送らない方が自然に思えてきた。

 このまま衣真くんと、代え難い友人として信じ合っていられたら、それが一番いいのかもしれない。カウンセラーにそう言うと「心をケアしてあげてくださいね」と言われる。前に僕が同じことを衣真くんに言ったのを思い出す。衣真くんが自分の心に嘘をついて心を傷つけていたときに言ったのだ。僕は自分の心に嘘をついているから、カウンセラーはそう言うんだろうか。僕はようやく「代え難い友人」という正解にたどり着いて、ひと息つこうというところなのに。

 僕は衣真くんのようにはなれないし、衣真くんも僕みたいに平凡な人間にはなれない。半分星のまま「善」を信じて生きている。僕たち2人が変わらないままよい関係を築いていくには、恋人という関係は距離が近すぎる。衣真くんは最初から正しかったんだと思う。

 衣真くんのSNSもミュートした。衣真くんが僕のいない一年をおもしろおかしく過ごしている様子なんて知りたくなかったから。カウンセラーに報告したら「いいことだと思います」と言われた。

 でも僕と衣真くんは別のSNSでもつながっていて、家に帰って普段見ない方を開いたら、いつもの癖で口をキュッと結んだ笑顔の衣真くんの隣でインド系のイケメンが笑っていた。投稿には書いていないけれど、2人は恋人なんだろうと思った。そのとき僕の心はぶわっと沸き立って、カウンセリング・ルームで少しずつ積み上げた冷静な気持ちは霧散して、スマホをベッドに叩きつけた。

「好きだ」

 浅く息をつかないと死にそうだった。

「すきだ」

 ばくばくと打つ心臓から押し出された血液がその勢いのまま涙になったみたいに大粒の涙がとめどなくこぼれた。

「す、き、……だ……!」

 膝を打つ勢いで床に崩れ落ちて、ベッドに顔を埋めた。白いシーツに涙が染み込んでいく。ここで衣真くんとふたり抱き合えたらどんなにすてきだろうと思う。でも衣真くんと抱き合っていいのは僕じゃない。資格がない。

 泣きに泣いたので息をつく暇がなくて死ぬかと思った。酸素が入ってこなくてえずいてしまって、トイレに駆け込んで吐いた。このまま泣きすぎて窒息して死ぬんだと思う。衣真くんの恋のために死ねるならそれでいい。あの崇高なひとに僕の命を捧げて死ねるのが嬉しかった。

 でもだんだんしゃくり上げるのが落ち着いて、僕はただ泣きすぎて吐いただけだった。酸欠の頭で「す・き・だ」という3文字が永遠に吐き出されるレシートみたいにぐるぐる回っていた。

 カウンセラーにあったことをそのまま話して、衣真くんへの恋は殺しようがないのだと説明した。一度もカウンセラーの顔を見なかった。

 季節は冬になり、どんよりとした天気に気分は沈む一方だった。ダウンコートに袖を通すと、あの雪の日、モコモコに着込んだ衣真くんを抱きしめたことを思い出す。


 ——雪が降るたびに告白しに行くよ。


 2年生の冬、つまり去年は雪が降らなかったから、僕は衣真くんに告白しなかった。そんな単純な話じゃないんだけど。この約束は、僕のジンクスみたいになっていた。

 フランスは雪が降るんだろうか。久しぶりに衣真くんのSNSアカウントを覗くと、雪景色を投稿していてため息が出た。雪なんて、フランスではなんの特別でもないのだ。僕もフランスに飛んで毎日告白しようか。

 それでも東京に雪は降った。昼には溶けそうなぺそぺその白銀を見て僕は、それでもこれは雪が降ったうちにカウントしていいだろうと思った。衣真くんとのトーク画面を開く。この前久しぶりに連絡が来たのは、僕の誕生日のお祝いをしてくれたときだ。12月の頭のことだ。衣真くんはフランスに行っても僕のことを忘れてはいない。それだけの証拠にすがって、メッセージを送った。

『東京は雪だよ』

『僕とお付き合いしてください』

 衣真くんは、僕が1年生のときにした約束を覚えていてくれるに決まっている。あのときのキスも、絶対に。衣真くんは、僕と離れてみてどう思ったか知りたい。僕と離れてぜーんぜん平気で構わない。新しい恋人に夢中でも構わない。僕は彼のずっと前から衣真くんの人生のうちに含まれていて、僕が魔法をかけたら衣真くんは僕と過ごした時間のかがやきを思い出して僕の胸へ飛び込んできてくれる。

 僕は大学へ行く支度をのろのろと、非常にのろのろとしていて、もう雪のせいにして休みたかったのでスマホを見ると、僕の告白には既読がついていた。心臓が大きく跳ねる。今日本は朝だから、フランスは深夜なのだ。何も考えていなかった。

 返信はなかなか来なくて、僕はそれを1限に遅刻する言い訳にしてただ待った。ついに衣真くんが振り向いてくれるのを両腕を広げて待っていた。

『おはよう、早暉くん』

『今付き合ってる人がいるんだ』

『約束はしてないけど、彼と将来のことを話したりする。僕は大学院はフランスにして、彼と一緒のアパルトマンに住もうって言ってる』

 僕は床にへたり込んで、最後の長いメッセージを理解しようと何度も読み返した。

『今までずっと好きって言ってくれてありがとう。ごめんなさい』

 僕はいつもそうだ。恋人がいても僕を選んでくれるなんて、どうしていつも無根拠に信じてしまうんだろう?

 返信する気力なんてなかった。僕は既読無視のかたちのまま、何をどう着たかも判然とせず着替えて、遺跡のような建物に着くまでに3回雪道で転んだ。カウンセリングの予約をしていなかったから長く待って、ようやくカウンセラーと話をすることができた。

「伊藤さん。彼から心を離せない自分を責めないようにしてみてください」

「心を離すとか離さないとかじゃなくて、ただ衣真くんが憎いんです。めちゃくちゃにしてやりたい。衣真くんの人生を台無しにしてやれたらどんなに楽になれるだろうと思います。好きなひとをこんなに憎んでるのが苦しいんです」



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