きいろの薔薇

 薔薇の庭を歩く。

 初夏の気配はまだ遠い春、首筋を風が通って、伸ばした髪が肌をくすぐる。先をゆく二人は書評の会の濱田さんと関根さんである。二人とも薔薇園だからということなのか、ロマンティックなワンピースを着ている。僕の隣をつかず離れずの距離で歩くのは細い眼鏡をかけた齋藤さんである。

 齋藤さんは春に書評の会を卒業したばかりなのだが、そもそも最初に濱田さんと齋藤さんの間に薔薇園に行く約束があって、それから書評の会でほかの参加者を募った結果、僕と関根さんと榎本さんと田辺さんも着いていくことになった。大所帯である。

 衣真いまくんは用事ができたと言ってキャンセルしたのだけれど、「早暉くんから離れたい」と言っていたから僕がいる場にいたくなかったんだろう。僕も衣真くんにムカムカしていたから会いたくなかったし、僕たち二人がぎすぎすしていたらサークルの雰囲気が悪くなるからこれでよかったと思う。

 僕たちの関係が壊れる前に、衣真くんと薔薇園を手を繋いで巡れていたらどんなによかっただろう。でも衣真くんの手を握れるのは僕じゃなかったし、これから先も僕じゃない。僕の知らない誰かさん。

 濱田さんと関根さんは結構学年が離れているけれど、割と仲が良いようだ。僕と齋藤さんはあまり話さないので、黙って薔薇を見る。榎本さんと田辺さんは一年生同士で静かに話している。書評の会はだいたいこういう空気感である。

 先を行く女性二人は薔薇の花と名前を見比べて、ああだこうだと言っている。

「フリルが多いからプリンセスだなんて、安直すぎる」

「そうですね。女性の名前ばっかり」

 僕は会話を聞きながら、衣真くんがここにいたらなんて言うだろう、と考えている。

「薔薇は思ったよりとげが多いね」

 急に齋藤さんが僕に話しかける。

「……確かに。茎だけ見ると凶悪ですね」

「花屋の薔薇は棘を抜かれて大人しくされてるわけだ」

「そうですね。まさに」

 会話はそこで終わった。齋藤さんはそういう話し方の人だから、別に気まずくはない。

 齋藤さんは花屋で薔薇を買ったことがあるんだな。僕はない。誰に贈ったんだろう、なんて考えるのは野暮なことだけど。

 衣真くんは棘ごと薔薇を愛するだろう。棘を抜かれて大人しくされた薔薇なんかじゃなくて。薔薇が望むなら棘ごと抱きしめてやるだろう。僕の知らない衣真くんの恋人も、きっとそうして包み込んであげるんだろう。

 衣真くんは少しも変わらなくていいから、ただその薔薇の真紅より深い優しさを、抱擁を、自分に向けることを知ってほしかった。衣真くんの愛の深さが、自分自身に棘を向けて否定することの上に成り立っているのがつらかった。

 哀しいひと。綺麗なひと。

「好きだな」

 僕のひとりごとに誰も反応しなかった。そういう距離感のサークルだから。

 それでも僕は、口をついて衣真くんへの恋慕が漏れたことに動揺した。薔薇が好きだと言ったのだと思われるように、目の前の薔薇を見つめた。

 クリーム色から先にかけてピンクに変化していくグラデーションの花弁だった。春の青空と羽毛を一度滑らせたような細い雲の下で、ぱっと華やかに開いていた。


 ——好きなのかな。まだ、好きなのかな。


 どんなに失望しても軽蔑してもさよならできない恋なんてあるだろうか。衣真くんがふっと伏せていた目を上げて僕を見るところが脳裏に蘇る。そのまつ毛の先にはちかちかの星が飛んでいる。


 ——ああ、哀しいほどに綺麗なひと。棘のある薔薇でも抱きしめてやるところが好きなんだ。ほんの少しだけ自分に棘を向けるのをやめてくれたら、僕はあなたを心の底から愛せるのに。


 開きすぎてしおれそうな花もあった。花弁の先がちりちりになって、茶色くくすんでいる。触ったらばらばらになってしまいそうだ。

 薔薇が散る。今年の春が終わる。今年も、衣真くんが隣にいない春が。夏は? 秋は? 冬は? 僕はいつか衣真くんと手を繋いで季節を巡れるのだろうか? 僕はそれを望んでいるのだろうか? 僕はこんなめちゃくちゃな恋心をいつまで抱えていればいいんだろうか?

 濱田さんと関根さんが、スカートをひるがえして白いゲートをくぐる。薔薇園の出口だった。


 そうは言っても書評の会はゴールデンウィークに開催される文芸系同人誌即売会に出店することになっていて、僕が正責任者で衣真くんが副責任者なんだから、僕たちは話をしないわけにはいかなかった。衣真くんはサークルの集まりには来なくて、僕たちはオンラインで打ち合わせることになった。というか衣真くんは頑固さを発揮して僕に会わない決意を固めているようだから、仕方なくオンラインにしたのだ。

「やあ、こんばんは」

 二人のアクセスがつながると衣真くんはいつもの挨拶をする。「やあ」なんて言うけど別に気取ってないところが僕は好きで、また衣真くんに恋してるかもしれなくなる。

「こんばんは」

 嫉妬の具合はどう? 僕がほんとに榎本さんとくっついちゃったら後悔しない? 今の恋人より僕の方がすてきだって認めた方がいいんじゃないかな?

 そんなこと言えるわけなくて、画面越しに衣真くんのぱちぱち瞬く目を盗み見てる。僕は急に気づくのだけれど、僕は衣真くんの顔がすごく好きなんだ。タイプなんだ。一年焦がれた結果、僕は衣真くんの顔だけでどきどきできるくらいに衣真くんの顔まで好きになってしまったらしい。

「早暉くんは、このあと予定はある?」

 僕が衣真くんへのいらだちを忘れてどぎまぎしている間に、衣真くんは僕に訊ねる。

「何もないよ。寝るだけだよ」

「打ち合わせの前に、この間の話の続きをしたくて。僕が榎本さんに嫉妬してしまう話」

「うん」

 僕は怒っているわけでもないのに、相槌を打つことしかできなかった。

「恋人がいるのに別の人に焦がれて嫉妬するのは、とても悪いことだ」

「『とても』と言うまでではないけどね。ねえ衣真くん。衣真くんが周りの人に向ける優しさを、どうして自分に向けてあげられないの?」

「自分には厳しくあることが、僕の『善』だから。『善』であることは気持ちいいから。そして僕は気持ちいいことが好きだから」

 この前と議論が堂々巡りして、僕は付け足す言葉を思いつかなくて黙った。

「でも、早暉くんが言うように、自分に優しさを向けたら苦しみが減るかもしれないね。僕は『善く』生きることで気持ちいいけど、同時に苦しいんだ。前に早暉くんが言ってくれたよね。僕の魂には傷がたくさんあるって。僕は半分星のまま人間になったんだって」

「衣真くんが苦しいなら、その苦しみを衣真くん自身がケアしてあげるべきだ。僕も、衣真くんが胸を開いてくれるなら衣真くんの苦しみを少しだけ引き受けたいと思う。でもその決断も含めて、衣真くんが最初にケアしなきゃ始まらない」

「『善く』生きずに、自分の心に優しさと思いやりを向けてあげることで、気持ちよさは減るかもしれないけど苦しみも減るかもしれない」

「そうだよ。プラスが減るのを恐れないで。マイナスをゼロに近づけていこうよ」

「僕が『善い』人間でなくなっても、早暉くんは僕の『とっても大切』でいてくれる?」

「いるよ。ずっと衣真くんのいちばんの友人でいるよ」

 僕は「それ以上を望んでいるのも知ってるくせに」と言いたかったけど、衣真くんが話し始める方が早かった。

「なら僕は、少しだけ『善』から離れてみようか。そう自分に許してやろうか」

「友人として、そうしてほしいと思うよ。現象学的に言うなら、『善』から離れた状態を『生きて』みてほしいと思う」

「『生きて』みるよ」

 衣真くんは画面の向こうでぱっと笑って、僕は薔薇園で見た黄色のシンプルな薔薇が衣真くんに似合うと思ったのを思い出した。フリルやグラデーションが鮮やかな株が咲き誇る中で、少し陰になったところに咲いていた、華奢なシャンパングラスのようなかたちの黄色い薔薇。顔を近く近く寄せると花弁はサテンのようにつややかに光を反射するのが分かった。一見素朴な容姿に星のようなきらめきを隠した衣真くんによく似合う。

「早暉くんが、僕のことを分かってくれないなんて思ってごめんなさい。早暉くんは誰よりも僕のことばを分かろうとして、ずっと哲学なんてものに付き合ってくれていたんだ」

「そうなんだよ。僕がいちばん衣真くんの言うことを分かってあげられる。これから先も勉強を続けてもっとそうなる。だから僕にしなよ」

 ようやく、ようやくのことで、衣真くんは僕がずっと衣真くんに理解してほしかったことが伝わったので、僕は慌てて言葉を重ねた。

「……恋人になれば100パーセントお別れする。友人ならもしかして80歳になっても交流が続くかもしれない。そう思ったら、早暉くんがとっても大切な僕は後者に賭けてしまうよ」

 僕はわっと叫び出して衣真くんの家に飛んでいって肩を揺すって正気か問いただしたかった。でもここが大事なところなので、気づかれないように深く息をして気持ちを整えた。

「嫉妬してる自分の心をよく見てあげなよ。僕が衣真くんを結婚式に招待しても平気かよく考えてみなよ」

「友人の幸福を祝福するのは当然のことだよ。僕の気持ちは関係ない」

「また『善く』生きようとしてる!」

「ほんとだ。難しいな」

「ちょっとずつ、『善い』生き方から外れた世界を『生きて』みなよ。まずは僕が好きかどうか、自分の心の中だけでこっそり考えてみなよ。秘密にすればいいんだから」

 僕は大いに譲歩して、内心では衣真くんを褒めて伸ばすぞと企んでいた。衣真くんの心は僕に向いているのだから、あとは衣真くんが覚悟を決めるだけだ。タイミングの問題だ。衣真くんは100パーセント今の恋人と別れるのだから、その瞬間に滑り込めばいいのだ。そして80歳になるまで一緒にいて、僕がいちばん衣真くんを分かってあげられる男だったってことを笑って「そうだったね」って言い合うのだ。

「うん。秘密にして考えてみる。心をケアしてあげるよ」

「苦しいのを減らしてね」

「うん。早暉くんは、まだ僕にがっかりしている?」

「そんなことない! きついことを言ってごめんなさい。衣真くんが少しだけ変わってみようと思ってくれてよかった」

「よかった。ありがとう。僕の大切なひと」

 どきっとした。愛の告白かと思った。すぐにそうじゃないんだと分かった。衣真くんは、友人であれ大切だと思う人には「大切なひと」と言う。そんなところが眩しくて、また衣真くんの光のうしろに落ちる影を思う。

 僕たちは即売会の打ち合わせに移って、決めることはそんなになかった。僕が組んだシフトに衣真くんが賛成するとか、そのくらいだった。

 そして打ち合わせを終えてミーティングを退室するというとき、衣真くんは笑顔で手を振って言った。

「早暉くん。ありがとう。僕はこれから、早暉くんを信頼して早暉くんと喧嘩ができるよ」

「そうだよ。僕は衣真くんのことを分かりたくて仕方ないんだから」

 衣真くんは「ありがとう」と言ってミーティングを退室した。僕は「すぐそこだ」と思って、指先が震えるくらいだった。

 僕たちはひとつの仲違いを乗り越えた。衣真くんは、僕を信頼できる相手だと思ってくれたのだ。

 そうなんだよ、衣真くん。僕はほかの奴らとは違う。衣真くんのことばを分かろうと勉強してきたんだから、100パーセント決裂するなんてことはないんだ。今は99パーセントって思っていてよ。そしてまた喧嘩しよう。そして仲直りをしよう。そのときには、決裂の可能性は98パーセントって思っていてよ。

 少しずつ僕を信頼する間に、少しずつ『善く』生きることから離れて、自分に素直になってよ。僕が次に告白するときには、そのとき誰と付き合っていようとも、結婚式から脱走する花嫁みたいにそいつを後ろへ振り捨てて僕の胸に飛び込んできてくれるよね。



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