⑤不穏な影

 とあるマンションの一室。男はその一室に鍵を使って入ると、玄関まで出迎えてくれた女……片桐里奈の頬に口付けをした。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 彼は里奈に上着を預けると、リビングのソファに座って寛ぐ。


きょう。お風呂湧いてるわよ」

「ああ。そうなの? 気が利くね」

「うふふ。お背中流しましょうかあ?」


 里奈は後ろから男、真見さなみきょうを抱きしめて、耳元で囁く。


「それもいいね。あ、そうそう。そう言えばさ」


 鏡は里奈の真っ赤な唇を指でなぞって、思い出した事をふと口にした。


「君の義理の娘だっけ? あの可愛い娘を見かけたよ。男と一緒だった。君の唇みたいに真っ赤になっちゃってさ……」


 鏡が里奈の唇をなぞれば、真っ赤なリップは薄くなり、彼の指にその口紅が付着する。


「あの娘も男を侍らす歳になったんだな。羨ましい」


 。その単語を聞いた里奈の表情は暗かった。嫌悪と怒りが滲んだその顔で、鏡を睨む。


「ああ、勘違いしないで。僕は里奈を愛しているよ。でもねえ、流石に歳には敵わないだろ? あの娘は格別に美しい。若くて艶のある肌。男を知らない純真な表情に、あの単純そうな仕草。きっとまだ処女だね。あれは。やっぱり羨ましいなあ……」


 恍惚な表情でそう言った鏡に、里奈はギリッと歯ぎしりをする。その表情は憎悪に歪んでいた。


。。。


 ある日の学校の帰り道。真純は、いつも通りバイトのために宝石カフェまでの道のりを歩いていた。今日はトパーズのシフトもある日なので、隣には縁が一緒にいる。


「今日も来てくれるんじゃない? 森山の奴」

「どうかしら。何も聞いていないけど……」


 来てくれたら嬉しい。そう思いながら、真純はほんのりと頬を染める。それだけでも隣の縁に気づかれるくらいに赤くなってしまっているので、からかうような縁の視線に気づいた真純はもっと顔を赤くしてしまう。流石に恥ずかしかった。


「縁ちゃん……」

「最近、本当に仲良いよねー? お似合いよー?」

「そ、そんな……。彼の気持ちも確かめず、失礼よ」

「あっれえ? それって、真純ちゃんは満更でもないってことー?」


 縁は更に楽しそうに、真純をからかった。真純の頬はまるでりんごのように真っ赤に染まる。


 からかわれながら歩いていると、目の前の信号が真純の今の顔色のように赤になる。真純は立ち止まろうと足を止めた……はずだった。


「きゃあっ!?」


 背中を何かに押され、思わず両の足を前に突き動かしてしまう。車道に出る段差で滑って、真純は道路の真ん中に倒れ込んだ。


「真純ちゃん!!」


 縁の焦った叫び声が聞こえる。周囲の人の「危ない!」「いやあっ!」という悲鳴が聞こえる。


 真純は、車に轢かれた。と思って、目を瞑った。が、いつまで経っても衝撃は来ない。恐る恐る目を開けると、目の前には車のナンバープレート。


 間一髪のところで、急ブレーキをかけた車が止まってくれたらしい。慌てて降りてきた運転手が、怒りと怯え。焦りの混ざった顔で、真純を覗き込む。


「あんた。大丈夫か!?」

「……は、い」

「体調でも悪かったのか? 急にふらついて……道路に倒れるなんてよ」

「い、いえ……。その……」


 彼の車の助手席に乗っていた男性が警察と救急車を両方呼んでくれたようで、真純は軽傷だと言うのに救急車で運ばれるとになった。


「背中が押されたような気がするんです」

「んー。周りにいた人にも話を聞いてみたが、みんな君が急に飛び出して倒れたって言うんだ」


 警察の人との会話は堂々巡りで、これ以上はなんの進展もない。


「私も、分からないんです。友達とは横並びだったし、周りに知り合いの人なんていませんでした」

「うーん……。もう少し調査はしてみるが、君の証言も曖昧だからね。あまり期待はしないでくれ」

「は、はい……」


 今日の出来事は、結局不注意による事故ということで処理されることとなった。


。。。


 真純はモヤモヤとした気持ちになりながらも、あれから一週間後にはバイトに復帰して、ずっと元気に過ごしている。


「お帰りなさいませ。ご主人様」

「オパールさん、久しぶり」

「が、学校で毎日会っているのに……。来てくれて嬉しいです。ご主人様」


 真純は照れくさそうにそう言うと、貴之をいつもの席に案内する。


「今日もオパールさんを指名していいかな? ケーキと飲み物も、いつもと同じ物で……。それから、快気祝いに今日は一緒に食事をしたい」

「まあ……」


 気を遣わせて悪いと思いつつも、真純は純粋に嬉しくて、頬が緩んでいくのを感じた。


「ありがとう。本当に嬉しいわ」


 その様子を、窓の外から見ている女がいた。片桐里奈である。彼女はやはり歯ぎしりをして、悔しそうに真純を睨みつけていた。


。。。


 それからまた一週間後。真純は休日の買い物に行く途中で、キョロキョロと辺りを見回して困った様子でいる男性に気づいた。


「あの……どうかなさったのですか?」


 真純がそう聞くと、男性はパァっと明るい顔をして、真純に言う。


「実は落し物をしてしまって。探しているのです。このくらいの大きさの、長くて黒いポーチを見かけませんでしたか?」

「いえ……。すみません。見かけてないです」


 真純はしょんぼりと眉を下げ、申し訳なさそうにそう伝える。男の方も大袈裟に残念そうな顔をすると、更に言った。


「実は、ポーチの中身は持病の薬と水の入ったペットボトルなんです」

「まあ、それは大変! 私も探すのを手伝います」


 真純は両手で口元を覆うと、そう言った。


 それが、その男の罠だとも知らずに……。真純は純粋な善意で、その男について行く。


「来た道を辿って見ているのですが、なかなか見つからず……」

「そうなのですね。おじさんはどちらからいらしたのですか?」


 真純は人気のない道へとまんまと誘導され、暗い空き倉庫に辿り着いても、全く気づかずに地面を探している。


「……あんた。まだ信じてるのか」


 空き倉庫を中から完全に閉めた男は、そう呟いた。


「え?」

「こんな暗い倉庫に人が立ち寄る理由もないだろう。違和感を感じなかったのか?」


 男に言われて、やっと気づく。真純はオロオロと彼に問いかけた。


「おじさんは誰ですか……? 私に何か用なんですか……?」


 震える彼女は可愛らしい。男はそう思った。そして、彼女が狙われる理由も何となく察した。


「俺はあんたを殺すように言われた。あんたは、実の母親に殺されそうになってるんだ」


 同情するような表情でそう告げた男に対し、真純は一瞬目を見開くと、瞳を伏せて言う。


「実の母親じゃない。あの人はお父さんの後妻で、義理の母親だった人なんです……」


 真純の悲しげな顔につい絆されてしまい、男は古臭い鉄箱の上に座って、聞いた。


「あの女に何かしたのか?」


 真純はふるふると首を横に振って、震える声で話す。


「私は、あの人の前で喋るだけでも怒られましたから……。が来ている時は特に……」


 真純の零した一滴の涙は、暗い話題にはそぐわないほどキラキラと光って、美しいと感じた。


「お客さんが優しくしてくれると、あの人はもっと怒りました。だから、お客さんがいる時は隠れていないといけないんです。お客さんの視界に入っちゃいけないんです……」


 真純は純粋で、憐れで、なんとも可哀想な少女だった。


「俺にはあんたを殺せない……。あの女は俺にいい蜜を吸わせてくれるって持ちかけてきたが、そんなもんよりあんたへのこの憐憫の方がずっと強い。あの姿だけが美しい女より、あんたのその純粋な心の方が美しい」


 男はそう言うと、閉じた倉庫の鍵を開き、シャッターを上げてくれた。


「家に帰んな」


 真純はオロオロと戸惑った顔をしながらも、急いで倉庫から出て、必死に走って知っている道まで出る。後ろを振り向いてみても、あの男はどこにも見当たらなかった。

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