オーロラの雨
ミドリ/緑虫@コミュ障騎士発売中
オーロラの雨
水底から天を見上げる。
キラキラ光る七色の陽光が、海中に踊っていた。海上はよく晴れているみたいだ。
寒い所から泳いできた黒くて大きな魚が、以前教えてくれた。
日中に空に浮き上がる半円は虹。夜空に掛かる虹のヒラヒラは、オーロラと呼ぶのだと。
じゃあ水の中に降り注ぐ雨みたいな光は何ていうのって聞いたら、「さあねえ」とだけ答えて、またどこか遠くの海へと泳いで行ってしまった。
そこからまた、私はここにひとりきり。
海底に広がる岩場の丘の中にぽっかりと空いた大きな穴。他の魚より身体が大きな私でも入れるここが、私の寝床だ。
私はそれを『隠れ家』と呼んでいる。
私の父さんと母さんが、昔そう呼んでいたから。
もう大分前、私がまだ今ほど立派な尾鰭を持っていなかった時のことだ。
晴れ渡った空が見たくて海面に出ようと母さんと上に向かっていると、突然黒くて大きな物が投げ込まれた。
私と母さんは、必死に藻搔いた。私たちが騒いでいると、狩りをしていた父さんがもの凄い速さでこちらに向かってきた。
「これは人間が作った網だ! くそっ! 今切る!」
「父さん! 助けて!」
「あなた!」
父さんは刃物を使って網を切ろうと必死だった。そうしている間にも、網は上へ上へと引き上げられていく。
ぶつり、と網が数箇所切れた。
「アリヤ! 手を伸ばせ!」
「うん!」
私が父さんに向かって両手を伸ばすと、父さんが網の外へと引っ張り出してくれた。
「ラーナ!」
続いて父さんが、母さんに向かって手を伸ばす。
だけど、母さんが抜け出せるほど穴は大きくなくて。
「いやあっ! あなた、アリヤー!」
「ラーナ! 絶対行かせない!」
父さんは網の穴を広げようと網にしがみつきながら必死で刃物を動かした。
「……父さん! 母さん!」
私はどうしていいか分からなくて、動けなかった。
すると、父さんが私を見下ろして叫ぶ。
「アリヤは『隠れ家』に戻るんだ! 絶対に捕まらないよう、隠れるんだ!」
「……うん!」
私の中で、父さんはとんでもなく強くて格好いい存在だった。だから、私は絶対大丈夫なんだと思って『隠れ家』に必死で泳ぎ戻り、二人が戻ってくるのを待った。
待って、
海面が夕焼け色に染まっても待って、
暗くなった水中に月明かりが差し込んできても待って。
でも、そのあと何度太陽が昇っても、二人とも帰ってこなかった。
その時は、目の悪いウツボのララが私に寄り添ってくれた。
「私が一緒にいるよ。だからアリヤの父さんと母さんが言っていたように、空が明るくて水中が輝いている間はここで私とじっとしていよう」
「うん……人間がいるから、でしょ」
「そうだよ。アリヤは賢いいい子だねえ」
そのララも、もういない。この間突然動かなくなって、その後周りの魚たちに突かれて骨だけになってしまった。
私は大人になった。私と同じ、魚の尾鰭に人間のような上半身を持つ魚は、両親以外に会ったことがない。
昔、母さんが言っていた。私たちの種族は人魚と呼ばれていて、大好きな歌をただ歌って暮らしていたのだと。
だけど、人間は人魚の歌声が大好きで、寄ってきては勝手に海に飛び込んでくる。
するとある日、大きな船がやってきて、仲間を次々に殺してしまったんだって。
「私たちは歌って仲間に『ここにいるよ』と伝えているだけなのに」
母さんは悲しそうだった。
「アリヤは歌っては駄目。母さんとの約束よ」
そう言われて、私は頷くしかできなかった。
――でも。
ひとりきりは、寂しすぎる。
母さんに歌っては駄目と言われていたから、私は歌ったことがない。
もし歌ったら、もしかして自分と同じ人魚が応えてくれないだろうか。
ララがいなくなってしまってから、私は寂しくて寂しくて死にそうになっている。
――少しなら。
もし人間が近寄ってきたなら、すぐに隠れ家に逃げ込めばいいんじゃないか。
誰でもいい、誰かに私の存在を知ってもらいたくて、とうとう決心をする。
オーロラの雨のように光り輝く海面を、上へ上へと泳いでいった。
海面から、目の高さまで顔を出す。ぐるりと見渡しても、人間の姿はどこにも見えない。
今なら歌っても、大丈夫なんじゃないか。
水面から顔を出し、最初は小さく喉を震わす。
小さい頃、母さんがごく小さな声で子守唄を歌ってくれた。だから、歌が何かは知っている。
歌うのをやめると、波がさざめく音だけしか聞こえなくなった。
もっと、もっと大きな声で歌おう。
息を吸い込み、人魚の歌を歌い始める。
仲間に呼びかける旋律。私はここにいるよと訴える音階。
歌って、歌って、喉が痛くなるまで歌って。
空は徐々に暗くなり、海中のオーロラの雨も消え失せる。
「……応えないか」
お腹も空いてきたし、隠れ家に戻ろうかな――。
そう思った時だった。
私よりも低い旋律が、耳に微かに届く。父さんのような力強い声だ。
その声が、泣いている。
会いたいと。ひとりは嫌だと。
私は声に応えるように、枯れ始めた声で必死に歌いながら、声がする方へと泳いでいった。
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