第24話:ある男の追想

 今から五年前、全てが始まった吉原事変の日。


 鏑木正孝かぶらぎまさたかが、自分のキャバクラの女が死んだと聞いたのは、深夜の呑みの席だった。


 上代かみしろ、という名前を聞いてすぐに顔は思い出した。名前も性格もろくに憶えていなかったのだが、その整った顔立ちだけは憶えていた。


 そして、その女がどうしようもない阿呆で、客との間にできた子を堕ろさなかったことも。


 しかし、子供はどうなった、とは訊かなかった。その子供の存在を知っているのは、自分を含めてごく限られた人間だけだった。聞いたところで誰も分かってなどいまい。


 なぜ死んだのかとも訊かなかった。深く踏み込んではならない何かがあると、夜の世界で培ってきた直感が働いたのだ。


 そして翌日。結果として、彼は渋々ながら、主のいなくなった上代のアパートを訪れていた。


 別に子供が飢えて死のうと構いはしないのだが、関係のあった自分に警察の手が及ぶのは非常に困る。


 因みに、鏑木は自分の店の女の住所や電話番号を、粗方知っていた。この業界では当たり前のことだ。


 吉原の裏通りに建つそのアパートの二階で、鏑木は目当の部屋のドアノブを回す。だが、当然のように鍵が掛かっていた。


 特に躊躇うこともなく、上代本人から預かっていた合鍵を使い、ドアを開ける。


「それでね……」


 部屋の中に居た幼い少女が、玄関を開けた見知らぬ男を見上げる。誰かと話していたようだったが、部屋の中には誰もいなかった。


 しかし、鏑木にはそんなことは気にならなかった。


 使える、という確信。それだけが彼の胸中にあった。


 酷くやせ細った、見ずぼらしい風貌の少女。しかしその容姿は、母に似たか、もしかしするとそれ以上になる可能性を秘めている。


「……紫月しづき、だったか」


 かつて一度だけ、母親から聞いたことのある名前を言うと、少女は頷いた。


「よく聞け。お前の母親は死んだ」


 そう告げるが、少女は何の反応もしない。


「お前は今、二つ選べる。ここで飢え死にするか。それとも、俺と来るか」


 鏑木は構わず、少女を見下ろして続けた。


「お前は金を生む花になる。俺と来れば、腹いっぱいの飯をくれてやる。望めば学校も行かせてやろう。どうだ」


 念を押すようにそう言うと、少女は何もいない自らの隣の見上げた。


「……うん」


 そして、頷く。


 気持ちの悪い子供だ、と。鏑木はそれだけ思った。


 たいして教育の施されなかった子供は、育ってもなお、おかしな行動をする。そんな人間を、鏑木は何人も見てきてた。


「いく」


 少女は鏑木を見て、それだけ言った。


 こうして、鏑木は上代紫月という少女を引き取った。


 その家には紫月のものといえるものは殆どなく、靴がないと言った彼女を抱き上げてもなお、鏑木は随分と身軽だった。


 その夜のことだ。


「……悪いな」


 その日、鏑木の店は定休日だったが、カウンターの奥に鏑木が、席には二人の男が座っていた。


 片や、長身痩躯に眼鏡の男。片や、小太りで童顔の男だった。


「構わないが……。どうしたんだ」


「酒が呑めるなら俺はいいけどね」


「拾い物があってな」


 鏑木は、そう言いつつ、バーボンを三人分ロックで注いだ。


「この店の女が一人、死んだ」


「物騒だな」


「事故だと聞いてる。真実は違うかもしれないが、深入りしなければ、ただの事故だ」


「それが?」


「馬鹿な女でな。子供がいた。今、十ほどだ。碌に世話もしていなかったようだが」


「それを拾ったというのか? どういう風の吹き回しで……いや、まさか」


「花にしようってこと?」


「ああ。まだつぼみ……いや苗か。まあ、そこから育てるのも一興だろう」


「面白がっている場合か。親など、それ以上に重い仕事などあるまい」


 眼鏡の男の言葉に、鏑木はよこしまな笑みを漏らす。


「まともな親になる必要も、まともに育てる必要もあるのか?」


「でもどうせ、苧環おだまきは教養がどうたらって学校に行かせるんでしょ? 大変だと思うよー」


「投資だ。あれは、今まで一番、金を生む花になる」


「お前の投資は当てが外れることがあるからな……」


「で。僕たちをここに集めたのは、それを自慢したいから?」


「それもあるがな。鬼灯の言った通り、親というのは過酷な仕事だ。俺が受け持っている仕事を、少しばかり代わってもらいたい。鬼灯ほおずきにはラムネの調達、弟切おとぎりには水切り周りを頼みたいが、どうだ」


「私は構わない」


「バックはどれくらい?」


 童顔の男が訊く。


「俺の売上の二割」


「まあ、割りには合うか。うん、乗った」


「……では。苧環の投資の成功を願って」


 眼鏡の男がグラスを持つ。


 カチン、と三つのグラスが鳴った。


 ――そして、鏑木の子育て、もとい『花育て』が始まった。


 それは鏑木の想定よりは容易く、しかしある意味では難しいものだった。


 紫月は、おおよそ意思というものを持っていなかった。流石に言葉は分かるようだが、そこに、彼女の意思はなく、思考も極めて希薄で茫洋としている。


 だが、鏑木にとってはそれよりも、彼女の行動や所作の方が大きな問題だった。


 紫月は、きちんとした形で食事をしたことがなかったのだろう。箸は使えず、スプーンを渡せば握り締めるように持った。また、字は読めるが、ペンや鉛筆は使えなかった。


 それをどうにか直そうとしても上手くいかず、鏑木が強い言葉を使えば、与えた部屋に引き込もり、ずっと独り言を言っていた。


 結局、鏑木は彼女に対して優しく接するしかなくなった。そこで放り出さなかったのは、情が湧いたからなどではなく、ただ自分の投資を仕損じるわけにはいかないからだった。


 いつしか、紫月は鏑木に懐き、心を開くようになり、そう呼べと教えていないにも関わらず、彼を父と呼ぶようになった。


 その頃には、紫月の性格は段々と明るくなり、所作も普通の人と遜色なくなっていた。


 気付けば、鏑木が紫月を引き取って、既に二年が経っていた。


 一方で、もう一つ問題があった。彼女の学力である。


 鏑木は紫月を学校へと通わせようとしていた。彼女は今まで、自身の母と鏑木としか話したことがなく、それでは精神の成熟に限界がある。鏑木はそう考えていた。


 鏑木は「親戚が亡くなり子供を引き取った」という体で児童相談所に相談し、紫月に家庭教師を付けた。元々、日がな一日見ていたテレビから知識は吸収できていたようで、学力にムラはあるものの、何とか中学へ入学しても問題ないほどになった。


 また、紫月に戸籍はなかったが、区役所に相談したところ、それでも入学できるように取り計らってもくれた。戸籍を取ることは難しいだろうという話だったが、鏑木の元々の目的を考えればその方が都合が良く、そのままにしておいた。


 ただ、紫月を急に学校という集団の中へ入れても大丈夫かというのは気掛かりだったが、不思議と紫月は人と話すことに慣れていた。


 春を迎え中学校へ入学しても、浮いてしまうのはある程度仕方ないこととして、しかしそこそこに馴染めていたようだった。


 だがそんなある日、紫月が泣きながら帰って来たことがあった。


「クラスの人に、お前は捨て子だって言われたの」


 大方、言った子供は、憶えた言葉を使ってみたかっただけなのだろう。それがどういう結果を生むかも考えずに。だから鏑木は子供が嫌いだった。


「そうだな。ある意味では、お前は捨て子だ。それも娼婦の子だ」


 鏑木がそう答えると、紫月は驚愕と恐怖の混じった顔を彼に向けた。


 信頼する父にそんなことを言われると思っていなかったのだろう。


「だが、それがどうした」


 すぐ、鏑木は続ける。


「そんな人間、何人も見てきた。俺は何とも思わない。お前の生まれを貶すような人間の相手はしなくていい。そうじゃないか?」


「……うん」


 安堵した表情で紫月は頷き、自分の部屋へと入って行った。


 部屋の扉がパタンと閉まり、それと同時に鏑木は小さく息を吐いた。


 ――ようやく、蕾まで来ただろうか。


 鏑木は紫月の部屋の扉を眺め、僅かだけ考え込む。


『花』となるにはまだ早いだろうが、少なくともこのままで問題はないだろう。それ程には、上代紫月という少女は支配下にある。


 しかし、それからしばらく経った頃。宮内庁実動祭祀部という見慣れない差出人から、封書が届いた。


『上代紫月さんには、生箭日女いくさひめの適性があります。ご都合の良い日時に、日女ひめ神社までお越しください。宮内庁実動祭祀部』


 戸籍も住民票もないはずの紫月の名が記されたそれは、後から思えば凶兆だった。


『――どうした、苧環』


 そして時間を飛ばし、現在。


 鏑木は自宅で、仕事支度をしながら電話を掛けていた。相手は、紫月を引き取った日に話をしていた、長身痩躯に眼鏡の男――鬼灯だった。


「突然で悪いが、水切りを頼みたい」


『弟切ではなく私にか?』


「ああ。あいつは、あれに随分とご執心のようでな。花になる前に壊されては困る」


『……なるほど。だが、例のイクサヒメはどうするんだ』


「辞めさせる」


 鏑木正孝――華屋はなやの苧環はそう言い切った。


 生箭日女はその給与を目当てに始めさせたものだ。紫月に花として客を取らせるのも、結局のところは稼ぐという目的のためだ。手段に拘ることはない。そう考えていた。


 しかしこれ以上、あの蕾に外を歩き回られてはならない。生箭日女を辞めた後、結局花にはさせるつもりだ。無駄に知識を付けられては、逃げられる危険性がある。


『……そうか。了解した。いつになる?』


「可能ならば今夜。ラムネを使ってくれ」


『それではどの道壊れるぞ』


「壊さない程度にだ。あれは、少し光に当て過ぎた。自分が何者かを、一度――」


 その時、不意にベランダを視界に入れた鏑木は、目を見開いた。


 音もなくいつの間にか、その男はベランダに立っていた。マンション高層階であるこの部屋のベランダに、である。


 季節外れの黒のモッズコートに、癖毛と糸目の男。


 その男は、ニヤリと笑うと、懐から武骨な拳銃を取り出し、鏑木へ銃口を向けた。


「じゃあな、クズ野郎」


 炎と、割れる窓。


 それが鏑木の最期に見た光景だった。




 紫月と出掛けていた戒に突然電話を掛けてきた福井警視は、続けて言った。


『マル暴から連絡ありました。鏑木正孝が、殺されたと。淡島あわしまの犯行です』

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