第42話

「よ、とーる」

「おはよう、うみくん。ってあれ? 珍しい。休みなのに制服だね」

 いつものようにとーると挨拶を交わす。とーるはいつもとの違いに早々と気づき、疑問符を浮かべた。ああ、ちょっとな、と俺は言葉を濁した。

 とーるはそれ以上追及することもなく、花壇の整備に戻った。なんとなく物足りなさを感じた俺が声をかける。

「帰り、一緒に行こうぜ」

「え? でもうみくんと僕ん家って逆方向だよ?」

 確かにそのとおりだ。

「いや、今日は自転車屋に行こうとも思ってたんだ。だからさ」

 苦し紛れにも聞こえる言い訳に、しかしとーるは「そっか」と納得し、待ってると言ってくれた。

 俺は花壇を後にし、美術室へと向かった。


 からからから。

 扉の開く音が乾いている。中に入るとクーラーが効いていて、ひやりとした。

「あ、みーくんおはよう」

「……おう、リン。早いな」

「まあね」

 予想よりもいつもどおりな反応に虚を衝かれつつ、俺は勧められた椅子に座る。リンはキャンバスを挟んで向かい側に座った。いつも放課後にモデルになるときと同じ配置だ。

「じゃ、始めますか」

「始めるって?」

「いつものやつよ。モデルお願いね」

「……リン」

 反論が出かかったが、続く言葉がない。視線だけはしっかりリンに固定される。リンの口元のほくろに。

 くるくるくる、と鉛筆を何事でもないようにやたら回し、リンはしげしげとキャンバスを眺めた。目は一点を集中して見ている。

 本当にスランプなんだな、と思った。リンが集中しようとして集中するなんて。

 そもそもこいつは天才肌なのか、筆を走らせ始めれば、意識しなくたって集中できるのだ。一点を見つめることなんてない。調子のいいときのリンの目はきょろきょろと忙しなく動き回る。

 十分。沈黙のまま時間が浪費される。リンの鉛筆はペン回し以外の働きをしていない。そういう意味でもずっと膠着状態だった。

 リンが何も描き出さないのなら、と俺は息を吸った。

「昨日の話」

 勢いで出たのは単語だった。けれど的確に本題を語っていた。リンのペン回しがぴたりと止まる。

「昨日の話の返事、した方がいいか?」

 答えなどわかっているのに、疑問形で放ってしまい、顔をしかめる。リンは意外と落ち着いた様子で首を縦に振った。

 どくん

 一度だけ、やたら大きく自分の心音が響いた。

「俺はお前が嫌いじゃないよ」

 色々な表現を考えた。けれど結局、どんな言葉で表しても、残酷な響きしか持たない。今選んだ言葉は中でもいっそうそう聞こえた。

 続けなければならない言葉がこれより酷いのかと思うと、口の中に苦いものが込み上げてくる。その苦みを堪えながら、決定的な言葉を紡ぐ。

「ただしそれは人間として、だ」

 考えた言葉はそこまで。それ以上を言わない選択をしたのは、逃げだろう。

 リンは真っ直ぐ俺を見つめ、ことりと手近な机に鉛筆を置いた。

「ありがとう」

 その唇がそう動いたことに俺は驚愕した。予想外すぎて。

「困らせたのに、ちゃんと答えをくれた。それだけで嬉しいよ。ありがとう、みーくん……美好くん」

「リン……」

「ごめん。さすがにきついから、今日は帰るわ。また、必要なときは呼ぶから」

 さくさく仕度を済ませて帰るリンを止める言葉が浮かばなかった。

 泣かせた、だろうか。

 けれど伝えた気持ちは正直だったから、後悔はなかった。



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