第13話

「小学生の頃から、僕は写真を撮るのが好きだった。父さんが好きだったからかな。小さい頃からよく触ってたんだ。一眼レフ。父さんから譲り受けたそれを使って、写真を撮るのは特に楽しかった」

 話を聞いて驚愕する。

「お前、一眼レフで撮ってたの!?」

 うん、と誇らしげに頷く半澤。デジカメよりよほどすごいじゃないか。

「大切に、していたんだ。父さんからもらったものだから、尚更。たまに休日、出歩いて写真を撮るとき、写真部の活動のときなんかは、そのカメラを持ち出していた。

 それで撮る写真は、やっぱりデジカメと何か違って、世界が綺麗に見えた。僕は、濁った世界の中でも綺麗なままであり続ける花を撮るのが好きだった。でも、父さんのカメラで撮るときは、どんなものを、どんな景色を撮っても、綺麗に写った。そのときはまだ僕、現像してたから──現像された写真を見るのが好きだったし」

 きっと、その中学時代が半澤の大きなターニングポイントとなったのだろう。

 半澤は蛍光灯の明かりの中、俯き加減に続ける。

「写真は、部活でコンクールに出したりもした。たまに、賞をとったりして、嬉しかった。ただ、僕ばかり、と思う人はいた」

「それがあの先輩たちか」

 半澤が静かに頷く。

 妬み──いいカメラ、受賞、後輩のくせに──要因など、いくらでも思いつく。本人にとってはいい迷惑に他ならないが。

「先輩はね。別に僕に何か意地悪をしたわけじゃないんだ。たださりげなく、"お前のカメラ貸してくれよ"って言ってきただけ。僕はこのカメラに興味を持ってくれたんだって嬉しくて、貸した。

 そうしたら先輩、どうしたと思う?」

 問いの形で放たれたそれに、一瞬頭が凍りつく。その答えはあまりにも容易に想像できた。けれどそれはきっと、半澤の心をずたずたに引き裂くものだ。

「……どう、したんだ?」

 とても口には出せない。そう思って訊き返す。

「僕の目の前で、地面に落としたんだ。ぱしゃーんって、すごい音がしたよ」

 半澤が虚ろな笑顔で答える。その表情を見て、俺は失敗したことに気づいた。

 半澤だって、そんな辛いこと、思い出したくないだろう。口にしたくもないだろう。胸を裂かれるような思いが蘇るにちがいないのだ。そんなこと、進んで言いたいわけ、ない。

「見るまでもなく、カメラは壊れたよ」

 それでも、俺は敢えて口を挟まず、半澤の話を聞いた。訊ねたのは俺だ。それが義務だと思った。

「先輩は"悪い、落としちまった"ってさ。僕は怒らなかった。──違う。怒れなかったんだ。なんか、そんな気力はどこかに消えてしまった。どうしようとも、考える余裕さえなかった。別に、先輩を責めようという気はあのときもなかったし、今もないよ。僕はあのカメラが壊れて、あのレンズの向こうでしか見られなかった綺麗な世界が見渡せなくなったのが、ちょっと悲しくなっただけ。

 でも、ね。傷ついたのは、それから。その日はちょうど、先輩たちの卒業アルバム用の写真を撮る日だったんだ。部活の集合写真。賞をとった実績もあるから、と写真部のは僕が撮ることになっていた」

 半澤が更に俯き、表情が見えなくなる。徐々に半澤の声からは感情が失せていったので、俺は気が気でない。もう既に、胸が抉られるように苦しい。

 だが、半澤の言葉は続いた。

「手の震えが止まらないまま、写真撮影に入った。カメラが壊れたから、普通のデジカメで撮ることになった。

 そのときの写真は、散々な仕上がりだった。僕から見ても。全然、綺麗じゃない。初めて知った。世界は、レンズ越しだから綺麗だったんじゃない。あのカメラだったから、綺麗だったんだ、と。

 先輩たちの集合写真は、先輩たちが笑顔なのに、とても暗く、どろどろした写真だった。一度見ただけでもう見たくないと感じるほどに」

 レンズが元々灰色の闇だったみたいに、と半澤は呟く。障子の向こうの薄暗がりが、途端に怖くなった。半澤が撮った先輩たちの写真というのは、こんな色なのだろうか、と。

「でね、先輩もそれに気づいたのか、僕に言ったんだ。"お前には写真を撮る才能なんてない"って」

「おい、それは」

「いいんだ! あんな写真を見せられたら、誰だってそう思う。僕も納得してる」

 半澤はこう言うが、明らかに先輩は言い過ぎだ。そもそも、半澤のカメラを壊して、心をぐらつかせたのは先輩だろうに。半澤が写真がだめだったと自覚しているだけで充分なはずだ。

 ところが、先輩の言葉はそれだけに留まらなかった。

「"お前の腕には期待していたのに、全部あのカメラのおかげだったんだな"って。そう言われて、僕は──そうなんだなって思った」

「なんで!」

「君だって、あの写真を見ればわかるよ。一目見ただけで納得できる。あれは最悪だよ。全然、綺麗じゃない」

「綺麗なだけが写真じゃないだろう?」

「でも、人の心を打つのは、綺麗なものだよ」

 悲しげに返された言葉に、俺は反論が浮かばない。俺が閉口するのを見、半澤は続けた。

「だから僕は写真部をやめて、写真を現像するのもやめた。怖くてできなくなったんだ。写真を撮るのが好きなのは変わらないけど、またあんな写真を撮ったらって、あんな写真を人の目に触れさせたらって思うと、怖い」

 嫌なんだ、と半澤はぽつり、呟いた。

「嫌なんだ。自分の撮った写真で、他人が嫌な思いをするのは。カメラはね、父さんが僕にくれた一番の宝物だよ。それを、どれだけ素晴らしいものか、みんなに知ってほしいだけ。喜んでほしかっただけ。でも、あんなに不快にさせるなら、僕一人だけが楽しむものでいい」

 そこで半澤が顔を上げる。黒い瞳には諦めが漂っていた。

「じゃあなんで、その先輩方は高校でまでお前に絡むんだ?」

 俺はちりちりと胸を焦がすものをそのままに、言葉を吐き出した。

「きっと、先輩たちは僕が写真を撮るのをまだ続けていることが腹立たしいんだよ。カメラすら手にしてほしくないんだ。でも、それはできないし、だからって、先輩たちの気持ちもわかるし……だから僕はあんなことになってた」

 納得がいかない。

 何故、半澤ばかりが苦しみ続けなければならない?

 あいつらの中で納得がいかないからだなんて、半澤が苦しまなければならない理由にはならない。

 それを半澤自身が唯々諾々と受け入れているのも気に食わない。何故そこまで自分を過少評価するのか。

 だが、反論しようとして気づく。俺はまだ、半澤が撮った写真を見たことがない。半澤の写真が、そんなに悪いものなのか、判別のしようがない。知りもしない奴が何を言っても、暖簾に腕押しだ。

「半澤」

「何?」

 俺は静かに要求した。

「今日撮った写真、見せてくれよ」

 半澤が言葉を失う。ひゅっと息を吸い込む音がした。その顔に浮かぶのは、恐怖。

「いやだよ。人に見せたくない」

 頑なに首を横に振り続ける半澤。振っているのか、震えているのか、わからない。両方なのかもしれない。今にも泣きそうな顔をしていたから。

 それでも。

「今日の夕暮れ」

 半澤がぴくりと反応する。

 それでも俺は見たかったから。

「特に綺麗だったからさ。見たいんだよ。もう一度」

「き、れい……」

 綺麗だから、お前は写真に撮ったんだろう?

 呆然と繰り返すその瞳に俺は問いかけた。

「それとも、お前は気に入らなかったか?」

「ううん!」

 卑怯な訊き方だ。この問いで、こいつが首を横に振るはずがない。

「なら、見せてくれよ」

 そっと半澤のカメラに手を伸ばすと、添えられていた手に拒絶されることはなかった。



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