第11話
「わあ……」
長い坂を上って辿り着いた我が家の庭を見て、半澤は感嘆の声を上げた。
それもそうだろう。一面緑に茂り、ちらりほらりと白い花が咲く地面に、下の方に生えた木々の向こうにある街並み、そして時間帯としては日の入りのため、街並みの向こう側にちょうど太陽が沈んでいくところだ。坂の上ならではの絶景である。特にこの夕暮れ時はここが家でよかったと思えるくらい見事だ。
「撮って、いい?」
学校から、首に吊り下げていたデジカメを握りしめ、半澤が振り向く。俺に断る理由などなかった。そのために連れてきたのだから。
俺の了解を得るなり、ぱしゃりとシャッターを切り始める半澤。俺は引いてきた自転車を置きながら、知らず、心がすっと晴れていくのを感じた。
本当は、半澤から色々と訊きたいこともあったし、俺も何か、言った方がよかったはずだ。けれど道中、言葉が出てこなくて、長くて急な坂を息苦しく思いながら上ってきた。家に誘ったのは考えなしだったな、と少し後悔していた。
きっと半澤は俺よりずっと気まずかったはずだ。それが、ここの景色を見て、笑って写真を撮っている。そのことがなんだか嬉しかった。
さて、と一つ息を吐き、俺は家の戸を開けた。すると中からぱたぱたと駆け回る音。俺がただいま、と声を上げると、ほどなくして母親がやってきた。
「あら美好、おかえりなさい。遅かったわね」
「ん、そう? あーと、友達、連れてきた」
「えぇっ!?」
驚きながらも特に何も確認するでもなく、母は奥へ去っていった。他に誰かが出迎えるわけでもないので、俺は自室に行き、鞄を放って縁側の戸を開けた。
外を見れば傾いてきたオレンジ色の日差しの中でぱしゃりぱしゃりと半澤がシャッターを切っている。夕日を撮ったり、白詰草を撮ったり。
ふと、デジカメを持つ左手の袖が落ちて、白い包帯が一巻きされているのが見えた。とん、と胸を衝かれる。信号での一幕と学校での出来事が重なり合って蘇る。
半澤は、何故……
「へぇ、あれがよしの友達」
暗い思考に陥りかけたところに、どこか気の抜ける声が闖入してきた。声がした方を見れば群青色のスウェットを着た姉貴が物珍しそうな顔で半澤を眺めていた。
半澤もこちらに気づいたようで、カメラを切り、近づいてくる。俺ははっとして手で半澤を示す。
「こいつ、半澤」
「半澤通です」
半澤が折り目正しくお辞儀をする。俺は今度は姉貴を示した。
「こっちが俺の姉貴」
「随分と礼儀正しい子ね。美好の姉よ。よろしく」
姉貴は妙に上機嫌で手を差し出す。半澤が戸惑いを見せつつ、握手を交わした。顔にはぎこちない気もするがどこか清涼感漂う笑みが浮かんでいる。
愛想笑いなのだろうが、姉貴は充分ご満悦のようで、嬉しそうな笑みを閃かせ、しきりにうんうんと頷いている。
「やー、まさかよしがこんな爽やかで可愛らしい友達連れてくるとは思わなかったわ」
「男に向かって可愛いってのはどうかと思うぞ」
じとっとした目線を姉貴に送り、はぁ、と溜め息を吐く。
「ま、姉貴に比べりゃ何十倍も可愛いな」
「何をぅ! そーゆー意味じゃないっつの!」
ではどういう意味なのだろうか。半分は"面食いな姉貴にドンピシャな顔"というつもりだったんだが。当然、残りの半分は憎まれ口だ。
「っていうか、あんたに友達がいること自体、意外だったわ。あんた、自分から家に友達連れてきたことないし」
「あぁん? 俺の交友関係舐めんなよ。友達くらいフツーにいるっつの。友達は家に連れてくるもんだって決まりがあるわけじゃねーし。それを言ったら俺だって姉貴が友達連れてきたの見たことねんだけど」
「何よ! あたしにだって友達くらいいるわよ。それはもう数えきれないくらい、たーっくさんね」
「どーだか。そのたーっくさんいるうちの一人も見たことないからなぁ」
「連れてくるだのこないだの、そんなのあたしの勝手でしょ! あんたにとやかく言われたくないわ」
「じゃあそちらさんにもとやかく言わんでほしいもんだ」
「ぐぬぬ……」
姉貴が握り拳を一つ、返答に窮するのを見、ひとまず勝負が決まったと息を吐く。
ふと、半澤が静かだな、と気づいてついと視線を向ければ、彼は呆然と俺を見ていた。つい姉貴と普通に口喧嘩をしてしまった、と少し反省する。かち、という何かを握りしめる音に、俺の思考は後悔に染まる。半澤が左手で握りしめていたのは首から下げたデジタルカメラ。握る手は小刻みに震えていて、シャツの袖から出た手首には包帯の端が僅かに見える。
しまった、と俺は思った。今の会話が半澤の琴線に触れてしまったらしい。──友達の話。学校の出来事を思い出す。今日話したあいつらは、おそらく"友達"ではないだろう。それにもし"友達"がいたとしても、今、こいつは幸せじゃない……
空気が少し固まったのを感じた。少なくとも、俺は思い至ったことを後悔するくらいには凍りついていた。
「とりあえずよし、早く晩ごはん作ってよ。あたし、お母さんのしょっぱい味噌汁なんてヤだからね」
けれど姉貴はそんな空気を完全に無視して緊張感なく俺に言った。
「あーはいはい」
溜め息が出るほど空気はぶっ壊れたが、今回ばかりは姉貴に感謝しよう。俺ではあの空気は断ち切れなかったにちがいないから。
「ってか姉貴が台所に立ちゃいいじゃんか」
「だってあたし、家庭科二ですもーん」
「威張って言うなよ」
「じゃあよしはあたしの手料理食べたいの?」
「御免被る」
「即答はなにげ傷つくんですけど……ま、そーゆーことよ。お客さんも来てることだし、よろしくねっと」
ぱし、と俺の肩を叩き、立ち去る姉貴を見送り、短く息を吐く。半澤に目を戻せば、いつもの爽やかスマイルでこちらを見ていた。
「ま、とりあえず、中入れよ。玄関こっちだ」
縁の下から出したサンダルをつっかけ、半澤を案内する。
「お姉さん、仲良いんだね」
不意に半澤が口を開く。
「はあ? どこが」
「喧嘩できる相手がいるって、羨ましい」
"喧嘩するほど仲がいい"──そんな言葉がふとよぎった。思わず振り向き、半澤を見やれば、少し寂しそうな笑い顔に出会った。
深くは訊けない。情けないことに俺には線の内側へ踏みいる度胸はなかった。
その代わり、少しふてくされたようにそっぽ向いて言う。
「喧嘩なんてそんなの、これからすりゃあいいじゃん」
「え?」
「俺、お前のこと"友達"として招いてんだけど?」
はっと半澤が息を飲むのが聞こえた。それとほぼ同時に玄関に着き、戸を開ける。再び半澤に振り向いて訊ねた。
「お前は、認めてくんねーの?」
俺は実際、少しふてくされていた。出会った日に信号前であったこと、左手首のリストカット痕、時折笑顔に混じる陰、校舎裏での一幕。色々なことがぐちゃぐちゃに混ざって、言い訳めいた言葉が頭にあるけれど、結局のところはそうなんだ。
俺は半澤の友達になりたい。
半澤に"友達"だと認めてほしいんだ。
理由は結構単純だ。趣味が同じだったから。写真を褒めてくれたから。カップケーキを美味しいと言ってくれたから。
初めて会ったとき、少し笑われたけれども、手を差し伸べてくれたから。
心の翳りを減らそうなんておこがましいことは思っちゃいない。危うさを感じるから、繋ぎ止めておきたいとは思っているけれど。
俺は半澤が笑っているのを見たい。
「うん」
すると半澤は。
「ありがとう」
陰のない笑顔で笑った。
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