自葬
杉浦ささみ
手順
中年男がいた。つい先月までサラリーマンをしていたが、𠮟られてばかりの日々に嫌気が差し、辞表届を出した。自分探しをしようと決心し、今に至る。在宅での働き口が見つかれば。スーツやズボンは洗わずに四畳半のすみっこへ押しやり、豆腐やカップ麺を食べながら、ネットサーフィンに日々を委ねはじめた。
イラストや小説、投資などに興味を持ったが、上辺だけなぞると熱が冷めてしまった。親からの仕送りも断ち切られ、生きる意味が遠ざかっていく。あのまま仕事を続けるべきだったのではと思いながらも、やがて通販で除霊セットを購入した。
『努力しても努力しても、あなたの人生が上手くいかないのは、見えない怨霊が足を引っ張っているからです』という売り文句に妙に心を惹かれ、思わずクリックした。たしかに最近肩が重い気がするし、何事も不自然なほど長続きしない。
自分の努力が実らないのは、このボロアパートにすまう悪霊のせいだと断定した。
グッズが届くまで木の板数枚と、クギ、トンカチもホームセンターで揃えておいた。散らかった部屋に木材の妙なにおいが満ちた。立派な本棚が作れそうな組み合わのそれらは、どうやら除霊の儀式に必要だったらしい。商品ページに太字で記載されていた。
数日後に商品は届いた。包装を剝がすと小さな箱。その中にお香と説明書の冊子が入っていた。お香の容器は半透明な紫色で、アルコールランプに似たものだった。もうひと箱、魔除けの像が入れられた冷蔵庫くらい大きなダンボールも届いたが、重すぎたので玄関先に放置してきた。
ビールの缶が転がる部屋で、男は早速儀式の準備に取り掛かった。説明書にはこう書かれている。
『まず、ネット回線や電話のコードを断ちましょう。これらは、憎しみを流通させるものです』
男は初手からためらった。男にとっては数少ないストレス発散のツールだったから。
しばらく男は天井の汚れを眺めて呆然としていたが、何かの拍子に思い立つと、スマートフォンとパソコン、つぎにゲーム機を冷蔵庫の縁に何度も叩き付けて壊した。液晶が砕け、電源がつかなくなったのを確認すると、安心して次の手順に移った。どのみち、除霊すれば全てが好転する。そう思ったのだ。
『次に玄関先へ魔除けの木像を置きましょう。悪い空気の侵入を防いでくれます』
木像の入ったダンボールは外に置いたままだった。男はアパートの通路に出た。赤茶けた手すりにはスズメがとまっていた。空は青い。
箱を開けた。置物は鉄塊のように重かった。扉の傍にやっと立てたとき、ふと思った。業者はどうやって、二階までこれを運んできたのだろう。──まあいいか。
その木像は爬虫類と魚を足して二で割ったような、なんともいえない二足歩行のものだった。危ういバランスで立たされてるが、転倒する気配はない。ダンボールと梱包材をその場に置いて部屋に戻った。
『窓に板を張って、ガラスをすり抜けてくる悪霊を防ぎましょう』
大胆な方法だったので男は驚いた。幸いにも、今は正午。アパートに人はいない。窓から見えるのも、ほとんど臨家の壁で、外から怪しまれることは恐らくない───恐らく。工具を打ち付けるときの騒音にも気を遣う必要はないだろう。男は作業に取りかかることにした。
板を全て張り終えると、外光が完全に消え、辺りは秘密基地のような雰囲気に包まれた。男は一息ついた。
『これが最後の手順です。お香を焚いて、煙の中で呪文を唱えましょう。室内の悪霊を滅することができます』
お香を袋から取り出し、ライターで火をつけた。呪文の欄には『さんさんさんさん、と繰り返す』、とだけ書いてあった。どれくらい唱え続けるべきかはわからなかったが、とりあえず口を開くことにした。
「さんさんさんさんさんさんさんさんさん……」
お香のにおいが強い。次第に紫の煙が充満していく。容赦なく広がる濃霧。気分が高まってきた。もっと声を張り上げて唱えることにした。
「さんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさん」
「さんッ…」
詠唱を止めた。隣室から物音が聞えたからだ。男は舌打ちした。いつもなら隣人は夕方頃に帰ってくるはずだった。壁の向こうから遠慮がちな声が聞えてきた。
「あのーっ、申し訳ないのですが、声のボリュームを下げてくれませんか。昼時なのはわかるのですが、少し限度が」
男は、帰宅時間をずらして自分が幸せになる道を妨げてくる住人へ底なしの下劣さを感じた。男は怒りに任せて壁に蹴りをいれた。向こうから驚いた声が聞えた。貧弱な足裏が入れる一撃は薄い壁を破るほど強くはなかったが、それに共鳴するように何かが倒れる音がした。玄関の向こうでゴトリと。それは男の耳にも入ったが、男自身ははさほど気にしていなかった。
どしりとあぐらをかいた男は、親にわがままを突き通す子どものように「さんッ!さんッ!さんッ!さんッ!さんッ!さんッ!さんッ!」と力強く繰り返した。
もう隣室からは何も聞こえない。白昼堂々、男は誰もいないアパートで詠唱を続けた。汗がぽたぽた床を濡らすがタオルに手を伸ばす気はない。
「さんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさんさん」
その大声も、日が傾いた頃には静まり返っていた。頬のこけた女が男の部屋の前を通った。大きな像が横倒しになっているのに驚いたが、疲れから立てる気にはなれなかった。空は赤く、アパート全体が濃い影に蝕まれていた。そこにカラスの鳴き声が加わった。
説明書がせせら笑うかのようにひらめく。
『これにて儀式は終了です。除霊は済みました』
それでもなお、お香はもくもく煙を出し続けていた。
自葬 杉浦ささみ @SugiuraSasami
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