どんな空だって、澄み渡る青空に変えていけるよ。
呪禍の全身から、どす黒い魔力が噴出する。
迷宮にあふれるすべての魔力を吸い上げたような、非常識な魔力量。それを操る呪禍は、とてもこの世の生き物とは思えない風体をしていた。
片目は潰れ、鎌はへし折れ、羽を失い、体はあちこち溶け落ちて、ひび割れた甲殻から魔力が吹き出す。
「生き物として、破綻してんだろ……」
ルリリスが言う通り、あの獣は生物として決定的に壊れていた。
多量の魔力を吸収しているが、その魔力が呪禍の体を癒やしている素振りはない。
迷宮中から吸い上げた魔力は、そのまま呪禍の体外に抜けていく。まるで、穴の空いたバケツに必死になって水を注いでいるようだった。
生き物として破綻している。生命のシステムが壊れている。
それでもまだ、生きている。
あの怪物は、死にすらも適応してしまったのだろうか。そんな考えが、頭をよぎった。
「……おい楓。ここまでだ、退くぞ」
ルリリスは一歩後ずさる。
「ありゃバケモンだ。相手する必要はねえ、ほっときゃ自滅する。それに、お前も限界だろ」
ルリリスの言うことはわかる。
私だって同じ判断を下す。不要なリスクを背負うなんて、探索者としても、救命士としても、間違ったことだから。
だけど。
「……ごめん」
私は限界なんじゃない。
限界なんて、とっくに踏み越えてるんだ。
「ちょっと、動けない、かも」
「お前……。無茶しすぎだろ、バカ」
もう、立っているだけでもやっとだった。
呪禍もひどい有り様だけど、私が受けたダメージだって尋常じゃない。気を抜けばすぐにでも意識が途切れそうだ。
インカムがなくて本当によかった。こんな有り様、真堂さんになんて言われるかわかったもんじゃない。
「しゃあねえ、乗り心地にケチつけんなよ!」
叫んで、ルリリスは箒にまたがった。
飛翔した彼女は手を伸ばして、私の襟首をつかもうとする。
その時。呪禍が、動いた。
それはまだ叫んでいた。絶叫と悲鳴の別もなく、無我夢中で叫び続けていた。
血を振り乱し、がむしゃらに叫びながら、獣が迫る。
知覚が加速する。体感時間が引き伸ばされる。
反応はできた。どうすればいいかもわかっていた。
だけどもう、体が、動かない。
「…………っ」
高速で迫り、呪禍は腕を引き絞る。
半ばからへし折れた断面。割れた外骨格の鋭利な断面と、その先端から吹き出すどす黒い魔力。
呪禍はそれを思い切り、私に突き刺そうとして。
ルリリスが。
ルリリス・ノワールが。
私と呪禍の間に、強引に割り込んできた彼女が。
ぱっと。
きれいな。
赤くて。
赤い。
花を。
血のように。
咲かせて。
「かっ……」
呪禍に刺し貫かれたルリリスは、短く悲鳴を上げる。
ちょうどみぞおちのあたりだった。心臓の少し下だった。
バイタルゾーンのど真ん中だった。
呪禍はルリリスを高々と持ち上げる。彼女の華奢な体が、宙に浮く。
スローモーになった世界で、私はそれを見ていた。
「な、めんな……っ!」
呪禍の腕を掴み、ルリリスは魔法を放つ。
至近距離で放たれた爆破魔法。腕の関節を爆破された呪禍は吹き飛んで、ルリリスはその場に落下する。
地面に横たわる彼女の腹には、砕けた呪禍の腕が、今も深々と突き刺さっていた。
「る、りり、す……?」
「あー……。クソ、が。人間なんざ、かばうなんて……。私もいよいよ、焼きが回ったか……?」
赤い血を流し、赤い血を吐きながら、ルリリスはぼやく。
どう見ても致命傷だ。すぐにでも処置しないといけない。
動かない体に無理を言わせ、風祝のシリンダーを抜く。
「やめとけ」
諭すように、ルリリスは言う。
「私は、魔物だ。人間とは、体の作りが違う。回復魔法なんて、効かねえよ……」
そんなの、やってみなきゃわからないじゃないか。
残った力を総動員して、なんとか風祝を発動しようとする。
だけどもう、そんな力すらも、私には残っていなかった。
奇跡は起こらない。魔法は紡がれない。
風すらも死に絶えた無風の世界で、ルリリスは。
「楓」
かすかに、笑って。
「勝てよ」
そして彼女は塵になる。
ルリリスの体が魔力に分解される。体の端から魔力の燐光が溢れ出し、揺らぐように、霞むように消えていく。
それを留める術は、私にはなくて。どれだけ救おうとしたって、すべては無意味で。
最後には、純黒の魔石を一つ残して、ルリリスは消えてしまった。
「…………」
魔石を拾って、立ち上がる。
頭の中は真っ白だった。
ひどく空虚だ。
世界は何もかも雑音で。リスナーのコメントも目に入らなくて。真堂さんの声も聞こえなくて。蒼灯さんもここにはいなくて。
ルリリスはもういなくて。
ここには、私しかいなくて。
一人ぼっちの世界で、私は。
私は。
「…………」
呪禍は私から距離を取って、今も叫び続けていた。
思わぬ反撃をもらったヤツは、遠くから魔力を吸い上げる方針に切り替えたらしい。
私の魔力はもうほとんど残っていない。すべての魔力を吸いつくされたら、体の生命力が魔力に分解されて、それも奪われる。
だけどもう、そんなことはどうでもいい。
「ルリリス」
生きるためか。
殺すためか。
守るためか。
奪うためか。
頭の中はぐちゃぐちゃだけど。
約束は、守らなきゃいけないから。
「勝つよ」
私は、ルリリスの魔力核を、飲み込んだ。
白の中に黒が混ざる。溶けて、混ざって、ぐるぐると回る。
私の中に、何かが生まれた。
それは灼熱を伴い、張り裂けそうなほどに暴れまわって、ぐちゃぐちゃにかき乱す。炎のように、嵐のように。とてつもない力を持った何かがこの身に宿る。
失われていた魔力が体中に駆け巡る。恐ろしいほどの力が体を満たす。
制御できるかなんて、知らない。
使い物になるかなんて、わからない。
それでもこれが、唯一の勝ち筋だと言うのなら。
決着をつけよう、呪禍。
お前は、ここで、終わらせる。
手をかざし、魔法を編む。
シリンダーは必要ない。そんなものがなくたって、魔法は使える。
やり方は知っている。前に、ルリリスから聞いたから。
頭の中で術式を構築し、取り込んだ魔力核に演算させる。
使う魔法は決まっていた。
呪禍の力の源は魔力だ。迷宮中から吸い上げた無尽蔵の魔力があるからこそ、やつは不死身の怪物と化した。
だったら、その魔力を壊せばいい。
そのための魔法を、私は知っている。
魔力を別の形態へと、不可逆的に変質させてしまう魔法。
魔物には発想すらもできない、反魔法術式。
それが、回復魔法だ。
「…………っ!」
演算が終わり、魔法が生まれる。癒やしの風が吹きすさぶ。
魔力を巻き込み、変質させ、命の光に変えながら、輝く風が吹き荒れる。
呪禍の呪いと、私の風。生命力を魔力に変換する術式と、魔力を生命力に変換する術式。
真逆の性質を有する二つの魔法が真正面から激突する。生命力と魔力は、相互に変換を繰り返しながらせめぎ合う。
この期に及んで私と呪禍の実力は拮抗していた。油断なんて少しもできない。一瞬でも気を抜けば押し返されそうだ。
だけど。
――やるぞ、楓。
私は、一人じゃないから。
「……うん」
私の手に、誰かの手が重なったような、そんな気がして。
風が吹く。
雲を蹴散らして。
風が吹く。
雨を吹き飛ばして。
風が吹く。
呪いを祓うように。
均衡が崩れる。吹きすさぶ風は嵐となり、呪いもろとも呪禍を飲み込んだ。
あまねく呪いが光の風へと昇華する。呪禍が吸い上げたおぞましい魔力も、空を閉ざす灰色の雲も、迷宮を包む呪いの雨も、すべては一つの風になる。
灰色の雲が吹き飛んで、空は青く晴れ渡る。差し込んだ陽射しの下、呪いの獣は風の中に消えていく。
雨が消える。呪いが消える。呪禍が消える。
澄み渡る迷宮の青空に、輝く風が天高く舞い上がって。
風が吹く。
青いくるみも吹きとばせ。
風が吹く。
すっぱいかりんも吹きとばせ。
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
風が吹く。
風が吹く。
風が吹く。
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