たとえ曇り空がぐずぐずと泣き出して、

 風属性最上位魔法、天つ風。

 重力という呪いから世界を解き放つ、神風の魔法だ。

 三次元空間の全方位から吹き荒れる乱気流が、あらゆるものをあらゆるベクトルに吹き飛ばす。上に、下に、右に、左に。上に飛ばし、下に押さえつけ、背中を押して、向かい風となる。

 全方位に吹きすさぶ運動エネルギーの大嵐。この嵐の中では、重力すらもそよ風に等しい。

 自由と混沌の具象化。常識を吹き飛ばす、嵐という異界の顕現。


 この領域では距離という概念は意味をなさない。

 嵐を乗りこなせば、交戦距離なんて好きなように操れる。懐に潜り込むのも、距離を離すのも、まばたきするより簡単だ。

 重力のない世界ではすべてが自由だ。斬ろうと思えば斬れる。避けようと思えば避けられる。すべての攻撃が射程内で、すべての回避が確定する。いっそ駆け引きが意味をなさないほどに、行動という行動に制限がない。

 無法なる自由の前で、強さの指標は単純化する。

 速さだ。


「……っ」


 斬る。斬る。避ける。

 斬る。避ける。斬る。斬る。

 斬る。斬る。斬る。避ける。斬る。斬る。

 相手が三回行動する間に、十の攻撃を叩き込む。そのうちの二回は回避されるが、八の斬撃は綺麗に入った。

 すべての回避が確定するとしても、行動回数には限度がある。なら、それが飽和するほどの速さを押し付けるだけだ。

 まずは十。次は五十。百でも千でも斬り続ける。

 速く、鋭く、鮮烈に。

 斬って、斬って、斬り刻む。


:わああああああああああああああ

:え、あの、なんですかこれ

:お嬢が人間やめちゃった

:もう何がなんだかわかんねえ

:残像とカメラワークで絵面ぐちゃぐちゃすぎる

:すみません、探索者の方に解説をお願いしたいのですが

:いやあ、これはちょっと何やってるかわかんないっすね……

:プロとしての見解を述べると、意味わかんないっす

:おい本職が理解を諦めたぞ

:画面にお嬢が二十人くらいいるんだけど

:一人もらってもいい?

:まだだめ


「っと」


 九秒。

 天つ風を維持できた時間だ。

 あれだけの魔力を注いだというのに、たった九秒で効果が切れてしまった。

 この燃費の悪さは風属性魔法に共通する欠点だ。最上位魔法ともなると、冗談みたいな魔力消費を要求してくる。

 それでも、九秒もあれば十分だった。


「おわり」


 風が弱まり、世界に重力が戻る。着地する寸前、最後に一閃叩き込んだ。

 だいたいざっくり、千回ちょっと。

 この九秒での攻撃回数だ。


:うおおおおおおおおおおおおおおおお

:やっぱくっそつえーわこの人

:GGEZ

:まだ三人くらい残像残ってるけど

:どれが本物のお嬢?

:ほっぺがぷにっとしてるから右

:判断基準がおかしい

:あ、残像消えた

:本当に右やん

:ほっぺ鑑定士兄貴すごいけど気持ち悪い


 嵐がやむと、呪禍はその場に崩れ落ちた。

 原型を保っているだけ大したものだと思う。並の魔物なら、血霧になるくらいの攻撃は加えたつもりだ。

 呪禍は全身からおびただしい量の血を流し、倒れ伏す。

 それでも。まだ、やつは生きていた。


:え

:は?

:おい嘘だろ

:まだ動くのか……


 ボロボロの体をぎこちなく動かして、呪禍は立ち上がる。

 錆びた機械人形のような、いびつな動き。全身からぼたぼたと血を流し、傷ついた甲殻がばらばらと脱落する。

 だけど、瞳がまだ死んでいない。


:どういう生命力してんだこいつ……

:さすがに化け物か

:お嬢、まだ油断しないで


 剣を構え、風研ぎを纏いなおす。

 わかってる。とどめを刺すまで油断なんかしない。

 おもむろに動き出した呪禍は、地を踏みしめて、大きく吠えた。

 これは……。あの、呪いの叫びか。


:またこれか

:魔力奪うやつね

:今さら叫んだところでどうしようもなくない?


 一度破った手だ。対処法ならすでに確立している。

 風刃でカウンターを潰してから懐に潜り込み、顎下を蹴り上げて咆哮を止める。

 しかし呪禍は、天を仰いで再び叫んだ。


「こいつ……っ」


 なんなんだこいつ。一体何が目的だ。

 蹴っても斬っても、呪禍は叫ぶのを止めない。ダメージを無視して、執拗に気味の悪い叫びを上げ続ける。

 命を削るような壮絶な叫び。意図は読めないが、猛烈に嫌な予感がした。

 すぐにでも、この叫びを止めなければならない。


「……っ!」


 魔抜きナイフを胸に刺す。呪禍の体内から魔力が噴出するが、それにも構わず、呪禍は叫び続けた。

 それは、あまりにも異様な光景だった。

 呪禍はありとあらゆる魔力を吸収した。私の魔力も、魔抜きナイフが放出させた魔力も、黒い雨が吸い上げた魔力も。

 魔抜きナイフに刻まれた放出魔法なんて何の意味もなさなかった。抜けるよりも圧倒的に多くの魔力が呪禍の体に吸い込まれる。

 迷宮二層に渦巻くすべての魔力が、呪禍の体に集約する。

 そして。莫大な魔力を得て、呪禍の傷が癒えていった。


:はあ!?

:おいおいおいおい冗談だろ

:無茶苦茶すぎねえかこいつ!?

:なんでもありじゃん


 あまりにも異質な魔法だったが、目的はこれ以上なく明瞭だった。

 これは、呪禍なりの回復魔法だ。

 もしかすると、前に戦った時に学習したのかもしれない。回復魔法の戦術的優位性を。


「ふっ、ざ、けんな……っ!」


 使う分には頼れる魔法だが、相手に使われるとこんなに腹が立つ魔法もない。

 戦闘中にダメージを回復するなんて反則だ。しかも、魔力まで補充するなんてインチキにもほどがある。

 なんとかして詠唱を止めようとするが、それらの努力はすべて無駄に終わる。呪禍は延々と叫び、魔力を吸い上げ、傷を癒やした。


「く、そ……!」


 体を癒やし終えた呪禍は、鎌を振るっておもむろに私を吹き飛ばす。

 一歩下がった場所から見た呪禍は、今までよりも一回り大きく見えた気がした。

 傷は消え去り、魔力はなみなみと漲っている。消耗なんて少しもない。

 成体となり、十分に魔力を食らって腹を満たした、異星の怪物。

 これが完全体。

 これが、真の呪禍だ。


「白石くん!」


 私のインカムに、真堂さんの声が聞こえる。


「呪禍の魔力量が急増した! もはや六層の水準すらも超過している! 君の前にいるのは、超六層級の怪物だ! 作戦は中止、撤退しろ! 繰り返す、作戦は中止だ! すぐにその場から――」


 真堂さんの警告を、最後まで聞くことはできなかった。

 神速で動いた呪禍は、何かをした。

 攻撃に類する何かだ。しかし、何をしたのかは、私の目でも捉えられなかった。

 こいつ……。

 私より、速い。


:*****!?

:*********!


 とっさに防御できたのは、ほとんど本能のなせる技だった。

 体が大きく吹き飛ばされる。壁を突き破り、巣の外へとはじき出される。

 世界樹の頂上から、私の体は自由落下を始めた。


:*********! *********!!

:************!

:*********、***************!

:*************************!!


 落ちる、落ちる、落ちる。

 重力に引かれるまま、まっすぐに体が落ちていく。

 視界がかすんで、コメントもよく見えない。痛みもあったが、それ以上に頭に衝撃があった。

 速さには絶対の自信があった。速さだけなら、誰にも負けないと思っていた。

 それがまさか、私よりも速い魔物がいるなんて。

 そんなことって。

 そんなことって……。


「なあ、楓」


 くいっと。

 襟首を掴まれて、自由落下していた体が持ち上がった。


「やっぱさぁ。お前の言うセカンドプランってやつ、どうしても気に入らねえんだわ。だから代わりに、最高にイカしたプランを考えてきた」


 そこにいたのは、箒にまたがる黒い魔女だ。

 純黒のローブを身にまとい、黒い帽子は風に揺れる。不思議なことに、降りしきる黒い雨が彼女の身を汚すことはなかった。


「お前と私で、呪禍をぶっ潰す。どうよこれ、名案だろ?」


 悪童のように笑う彼女の目には、臆するところなんて一つもない。

 彼女の名前はルリリス・ノワール。

 私の、大切な友人だ。


「ルリリス」

「おう」

「強いよ、あれ」

「はん。私ほどじゃねえよ」


 世界樹の頂上まで飛翔したルリリスは、呪禍が座す神鳥の巣に私を降ろした。

 ……きっと、真堂さんの言う通り、撤退するのが正しい選択なんだと思う。

 敵の戦力は想定を大幅に超過した。正直、私一人じゃ勝てるかどうか怪しいくらいだ。

 だけど。


「サードプランだ。行くぞ楓ッ!」

「ん」


 ごめん、真堂さん。今回も命令無視させて。

 だって私、まだ負けてない。

 それに、負ける気もしないんだ。

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