五章 たとえ曇り空がぐずぐずと泣き出して、

「それじゃあ、見せてもらおうか。君には期待しているよ」

 #18 さて


 深い森を、息を潜めて歩を進める。

 木の葉の落ちる音に足音を重ね、影の中を滑るように気配を断つ。足音一つ、呼吸一つを殺しながら、丁寧に、丁寧に。

 迷宮二層。樹海迷宮エバーリーフの奥部、眠れる昏き森。

 その場所で、私は隠密行動を取っていた。


「そろそろだ。気をつけろよ、白石くん」


 インカム越しに聞こえた声に、無言で頷く。

 先日、オペレーターの真堂さんが発見した、六層魔物に匹敵する巨大な魔力反応。その正体を突き止めるのが今日のミッションだ。

 日本赤療字社が持つ観測計器によると、件の魔物はここにいるらしい。

 計器の信頼性はそこまで高くないらしいけれど、実際に足を踏み入れると嫌でもわかった。

 些細な魔力の乱れ。野生動物たちのざわめき。ほのかに漂う死臭。

 ここには何かがいる。

 とても悍ましい、何かが。


「その先だ。注意しろ」


 木の影に身を潜め、そっと覗き込む。

 異様な光景だった。

 打ち捨てられた魔物の死骸。体の柔らかい部分を乱暴に食い尽くされた食べ残し。そんなものが、木々の間にいくつも転がっている。

 周囲には血や肉片が散乱して、静かなる迷宮の一角で色濃い死臭を放っていた。


:うわ

:えっぐ

:すっげぇグロい……

:いやでも、なんかおかしくね?

:なんで死体が残ってるんだ……?


 目を背けたくなるほどの惨状だが、注意を向けるべきはそれではない。

 真に警戒するべきは、ぴちゃぴちゃとした水音だ。

 打ち捨てられた死骸の奥にいる、黒い獣。こちらに背を向け、死骸の一つに取り付いて、一心不乱に口を動かす。

 ぺきぺきと骨が割れて、ぴちゃぴちゃと血が滴る音がした。


 そこまで大きな魔物ではない。目測にして体長は二メートルほど。猿のようにひょろりとした長い手足と、のたうつ長い尾を持つ。肉食獣のように小さな頭部には、捕食に適した獰猛な牙があった。

 見覚えがない。初めて見る魔物だ。


「……反応を確認した。白石くん、間違いない。そいつが、例の魔物だ」


 言われなくても、肌でわかる。

 この魔物は、強い。どう考えても二層にいてもいいようなヤツじゃない。

 最低でも五層、おそらくは六層クラスの化け物だ。あの日相対したリリスにも匹敵する、凄まじいプレッシャーを放っている。


「よし、調査は十分だ。交戦の必要はない。白石くん、見つからないうちに引き上げろ」

「……いえ」


 魔物が振り向く。

 私も、木の裏から踏み出した。


「もう、見つかってます」


 見ればわかる。小細工が通じる相手じゃない。

 私がヤツを認識したのとほぼ同時に、ヤツもまた私を認識していた。自身に匹敵する脅威がそこにあると。

 第二迷宮にそぐわない、強者と強者。

 私たちは、出会ってしまった。


:なんだこの魔物……

:見たことない魔物だ

:調べてるけど、交戦記録どころか名前すら出てこない

:もしかして新種か?

:お嬢、気をつけて


「…………」


 情報のない未知の魔物だ。何をしてくるのかまったくわからない。

 わかっているのは、六層相当の力があるということだけ。

 リリスの時はまだ事前情報のアドバンテージがあった。しかし、今はそれすらもない。

 それなら、優先するべきは情報収集。まずは相手の出方を見るべきだ。

 最大級の警戒を向けつつ、私は鞘から剣を抜いた。


 戦いは、音もなく始まった。

 するりと振るわれた爪は音もなく空を切り、私の刃は虚空を裂いた。

 ――速い。それが、ファーストインプレッション。

 スピード型の魔物だ。長い脚で地を蹴り、木々の間を飛び回って、速度を乗せた一撃を急所めがけて振るってくる。

 力任せの攻めではない。暗殺者のように狡猾な戦術だ。

 そのまま数度切り結ぶ。互いに有効打はなく、様子見の内に最初の攻防が終わった。


「…………」


 強いな、こいつ。

 わかっていたことだけど、やはり強い。並の魔物とは格が違う。

 速度は私の方が上だが、それでも速い。小手調べではかすりもしなかった。

 こいつを斬るには殺意が要る。もっと真剣に、殺意を籠めて、殺すために殺さなければ殺せない。

 手加減なんてありえない。手心なんてもってのほかだ。

 斬るか斬られるか。殺すか殺されるか。奪うか失うか。

 魔物と探索者。結局、行き着く先は二つに一つだった。


「……ふぅ」


 気を鎮め、集中する。

 少しずつアクセルを開き、順番にギアを上げていく。

 二層暮らしで鈍ってないだろうか。そんな不安を、自分で否定した。

 大丈夫。私は、戦える。


:あ、マジモードだ

:見ろよお嬢の顔、やる気に満ちあふれてやがる

:え、そう?

:普段通りにしか見えないんですが

:口元とか見るとわかりやすいよ

:この画角で口元なんて映ってねえよ


 さて、どこから切り崩そう。

 相手は私と同じスピード型だ。速度差を押し付けるいつもの戦法は効果が薄い。それなら、スピード屋がやられて嫌なことをするべきか。

 頭の中で戦法を組み立てていると、突然、魔物はけたたましく吠えた。

 呪いのような悍ましい声が迷宮にこだまする。鳥たちが一斉に飛び立って、木々がざわめく。

 黒い魔物は四足で荒々しく大地を踏みしめ、そして。


「……え」


 大きく跳躍し、木の間を点々と飛び移りながら、高速でここから離れていく。

 そのまま、魔物はどこかへと飛び去っていった。


「ええー……」


:あれ

:逃げた?

:どっか行っちゃった

:え、どういうこと?

:戦う気はないのか……?


「……逃げちゃった」


 つぶやきは暗い森のざわめきに溶けていく。一応警戒は続けるが、ヤツが戻ってくる気配はない。

 ……なんだかちょっと不完全燃焼だ。せっかく、やる気になったのに。


「えと、その」

「ふむ……。逃げた、か。魔物にしては珍しい行動だが、考えるのは後だ。白石くん、ひとまず帰ってこい」

「わかりました」


 残されたのは、食い散らかされた魔物の死骸だけ。

 それが、私とヤツのファーストコンタクトだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る