第33話 僕はこの世界に責任なんてない件

 ヴィセア王国の種族分布は、王族をはじめとする人間が多数を占めるが、人狼ウェアウルフ獣人サテュロス樹人トロルといった種族も人類の一員としてのんびりと生活を営んでおり、他国よりも異種族への感情はずっとおおらかだった。西から人馬ケンタウロスも思索の旅に訪れ、北から鍛治民ドワーフもよく仕事を求めてやってくる。街中で見知らぬ異種族を見ても「へえ、そんな種族もいるのか」程度の認識だ。


 だから、アスベルも赤い尻尾の少年を見て「何だ、知らない種族だな」くらいにしか思わなかった。まるで警戒心がない。


 湯船のへりにやってきたアスベルは、赤い尻尾をつんつん指先で突いて、その謎の硬質鱗をまとう尻尾に感心していた。


「硬い尻尾だな。へー、茹でられてエビみたいだな」

「エビ……失礼なやつめ、頭が高いわ」


 プンスカとばかりに少年は赤い尻尾をブンと振り、水面を叩いてアスベルの顔面めがけて湯を大量にかける。思いっきり正面から湯を被ったアスベルは、おもむろに少年の深紫の頭を掴み、少年もまた不機嫌そうに尻尾で応戦する。子どもじみた取っ組みじゃれ合いが始まった。


「はあ〜えらっそうだなおい、このちんちくりんめ!」

「アスベルと言ったか無礼者。お前、臭いぞ」

「く、臭くないわ! カツキ、臭くないよな!?」

「ノーコメントで」


 巻き込まれそうになったカツキは華麗にスルーする。そして、ちょっと離れたコルムが勝敗を決める一撃を放った。


「いや、臭いよ、アスベル。すっごく臭い、鼻曲がりそう」


 鼻の鋭敏な人狼ウェアウルフにそう言われては、ひとたまりもない。


 半月にも及ぶ旅と過酷な肉体労働と特殊な環境は、すっかりアスベルの体に一度洗った程度では落ちない汚物系悪臭を染み込ませていたのだった。


 少なからずショックを受けるアスベル、勝ち誇る赤い尻尾の少年、カツキとコルムはアスベルを洗い場へ追い返す。


「ほらね、コルムのお墨付き」

「分かったよ分かった! もっと洗ってくる!」

「しっかりお湯で流してね」

「そこの洗剤使っていいよ。浴槽洗い用だけど」

「やかましいわ!」


 傷心のアスベルが大股でもう一度体を洗いに帰っていく。体を冷ましたコルムがまた湯船に浸かり、まったりと溶けるような幸福の表情を浮かべていた。


 カツキは赤い尻尾の少年へ問いかける。


「サルキス」

「何だ」

「本当に尻尾ってお風呂で出汁が出たりしない?」

わたしが知るか」


 少年——魔王サルキスは、やっぱり不機嫌そうだった。

 






 つい先日、アイギナ村初の共同浴場が落成した夜のことだ。


 アイギナ村の皆が楽しんだ浴場を、カツキが一人デッキブラシと洗剤で掃除していた。お湯をすべて抜き、丁寧に隅々までブラシで擦る。


 皆が同じお湯を使い、汚れを落とす浴場は清潔にしておかないとさまざまな感染症の汚染源となる。常に掃除をしていなくてはならないが、生憎とまだアイギナ村の人々は湯船に慣れていないため、きちんとした掃除の仕方を教えるのはまずお湯に浸かる気持ちよさや清潔を保つ重要性を知ってからだ。そうしないと、押し付けてばかりでは億劫になって手抜かりが出てしまうかもしれない。そのため、カツキは今のところ、一人で掃除を担当している。


 ランプを三つ、浴場の出入り口と湯船のへりに置いてもなお薄暗い中、カツキのほかにもう一人がいた。浴場用の小さな木製椅子に座る、サルキスだ。彼はカツキの動きを目で追いながら、語りかける。


わたしが思うに、お前たちが異世界の故郷に戻ることはできないだろう」


 サルキスの魔王としての見解が、どれほど大きな意味を持つのか。この世界の神と同じく祝福ギフトを人類へ与える力を持つ存在は、他の誰よりもこの世界の仕組みに詳しいに違いなかった。


 カツキは特に感情を露わにせず、デッキブラシで音を立てながら答えた。


「やっぱりそっか。しょうがないね」

「落胆しないのか?」

「そう都合よく帰れるとも思ってなかったから。僕はともかく、城にいるクラスメイトたちは……納得するのに時間がかかりそうだけどね」


 当初のカツキたちを召喚した王女の説明では、カツキたち異世界から来た英雄は魔王を倒せば元の世界へ帰れる……という話だったはずだ。しかし、カツキはその希望を早々に捨てていた。非戦闘職系の祝福ギフトしか持たないカツキでは、魔王の討伐など不可能だからだ。たとえクラスメイトたちと協力したところで何の貢献もできないと分かっていたからこそ、アスベルやルシウスを通じてアイギナ村へと逃げるようにやってきたのだから。


 討伐すれば帰れるようになるはず——の当の魔王は、その希望など初めからなかったことを明かす。


「お前たちを召喚した術式を推察するに、祝福ギフト持ちとして呼ぶことに精一杯で、この大陸に残る神の力の残滓を使い果たしたのだ。召還の術式はおろか、もうこの世界に新たな祝福ギフト持ちは生まれまい」

「サルキスが与えれば別でしょ?」

「そのつもりはもう失せた。この世界に祝福ギフトなど必要ない、あれは人類が増長する原因だと知った」

「そうだね。うん、正しいと思うよ」


 初対面の日から、カツキとサルキスは少しずつ互いの情報を持ち寄り、認識のすり合わせを慎重に行なってきた。それを提案したのはカツキで、理解し合えなくても情報交換は悪いことではないし、もしかしたら仲良くなれる可能性だって残っているかもしれないから、とサルキスを説得したのだった。


 一方でサルキスは、『農耕神クエビコの手』を持つカツキをイルストリアへ連れて帰ることを、まだ諦めていなかったのだろう。『話し合い』は双方の合意のもと、毎日暇さえあれば行われていた。新しいログハウスの住人を皆はすっかり受け入れ、ルネだけが「ふぅん、まあいいわ」と何か勘づいた様子を見せていたが、特に何もしてこない。


 カツキはリオから伝え聞いていたクラスメイトの様子も、サルキスへ話していた。一度は魔王討伐へ出かけて失敗したこと、リオたち三人だけが魔物を倒したりすり抜けたりしてイルストリアへ到達していたこと、それらは縄張りに足を踏み入れられたサルキスもある程度は知っていた。


 しかし、祝福ギフト持ちの英雄たちがあまりにも無力で到底魔王を討伐するなど不可能だと判断し、ヴィセア王国の城へと打って出てきた経緯をカツキへ伝えると、サルキスは何か新しく考えを持ったらしく、ポツポツとカツキへこれからのことをよく話すようになった。


 そうして、魔王サルキス以外、誰も生存していないイルストリアという小さな大陸を、サルキスは復興させたいのだと本心を露わにしたのだ。


わたしは……イルストリアへ戻ろうと思う。お前の言うとおり、移民を募る。できればあの荒廃した環境でも生きていけるよう、祝福ギフト持ちたちを多く連れて行きたいのだが」

「クラスメイトたちを説得できればいいかもね。もう帰れないなら、魔王を討伐するより……って方向にリオを説得して、あとは向こうで考えてもらう形にしよう。直接何か言うとヴィセア王国だって横槍を入れてくるだろうし、ルシウス大臣にはこっそり伝えておくとして」


 ああでもないこうでもないと思いついたことを口にするカツキを、サルキスはじっと見ていた。


 カツキは、すぐにその意図を汲んだ。


「当然だけど、僕も行くよ?」

「ああ、無論だ」

「アイギナ村でやることをやったら、だけど。お世話になったから、何か残していきたいんだ」

「そうするといい。お前が来てくれるならわたしに文句は何もないぞ」

「ついでに肥料もたんまりと持っていけるしね」


 肥料、と聞いてサルキスは端正な顔をしかめた。昼間に草木を燃やした草木灰、砕いた獣の骨に硫酸を混ぜた過リン酸石灰を見て、サルキスは不気味がってあからさまに避けていたのだ。


「……なぜそんなものを大地に撒く? ゴミではないか」


 心底嫌そうな顔をしていたので、カツキは丁寧に肥料の存在とその役割を教え、農場に生い茂る作物たちはこの肥料のおかげで元気なのだ、ときちんと説明したのだが、やはりサルキスは嫌そうな顔のままだった。


「イルストリアでは生物の死骸を魔物たちが回収し、分解する。魔物の生成に必要な成分を抽出し、余すところなく利用するのだ」

「もしかして、それって枯れた植物も全部回収するの?」

「ああ」

「だからイルストリアは荒れた土地になったんだよ、それ」

「そうなのか……?」


 ある意味では、サルキスはとても潔癖症で、ゴミをとことん嫌うからこそ魔物を生み出してリサイクルしていたのだが、それが仇となって生物環境の循環がなくなったイルストリアは荒れていったのだ。イルストリアの大地が極度に痩せて荒れた遠因を、カツキはいずれ治してやろうと固く誓った一件だった。


 とはいえ、サルキスは自在にあらゆる魔物を生成し、統率する力があるようだ。それは今後、イルストリアの復興のためには大いに役立つことだろうし、イルストリアで必要な物資を賄えるなら人類側の大陸へ遠征する必要はないようだった。元々はそのために人類側へ和平を申し込んで、有無を言わさず開戦してしまったせいで今の惨状となったわけだから、やはり世界平和のためにはイルストリアの復興が必須だ。


 もっとも、追い詰められた人類側に立って考えるなら復興など論外、魔王を倒せ、魔物を全滅させろ、という話になるのだが——そこに至るまで過去に起きた数々の件を、カツキは追及する立場にはない。その責任さえないのだ。


 だってそれは、この世界の人々がやったことだ。異世界からやってきたカツキたちは、そこに一切関与していないし、サルキスと人類双方から距離を置いて物事を俯瞰できる。命のやり取りがあった、ひどい事件があったと言われても、必要以上に心を寄せる義理はない。人類、特にカツキはルシウスから恩を受けたとはいえ、それは魔王を倒すために受けたものではないし、カツキも何やかやと貢献したのだから、イーブンだろう。


 それを表明するためにも、カツキは言語化して、サルキスにきちんと伝えなければならなかった。


「サルキス、僕に話しづらいことは言わなくていいよ。君は人類とは殺し合いをしたんだから一応は人類側の僕には言えないことだってあるだろうし、お互い様だ。誰が悪いとかいいとか、そういうことじゃないし、僕には関係ない」


 おそらく、人類側、ヴィセア王国の人々、アイギナ村の人々が聞けば、カツキを冷酷な人間だと見做すだろう。人間なのにひどい目に遭った自分たちに味方しないなんて、と蔑むかもしれない。


 だが、大勢の意見に、一時の感情に流されてしまうことを、カツキはよしとしない。この世界に召喚され、王女の演説を聞いていながらもその気にならず、さっさと隠遁しようとしたのもそのためだ。


 そして、それが嫌われる要因なのだと分かってもいる。分かっていても直せない性分だから、カツキはクラスメイトたちと仲良くなれず、何のしがらみもない生物科学部に入って遊んでいたのだ。


 カツキが割り切った性格だと理解しはじめたサルキスは、全面的にその意見を歓迎するでもなく、あくまで冷静に今後と大局を見ていた。


「皆が皆、お前のように考えられるわけではない。人類はこれより何百年、何千年も私を恨むだろう」

「じゃあ、そのあいだはずっと接触しなければいいんだよ。そうやって忘れて、魔王の存在だって言い伝えから消えるくらい未来で考えればいい」

「簡単に言ってくれるな。だが、そのとおりだ。積年の恨みつらみは、忘却以外の方法では消えぬ」


 うん、とカツキはデッキブラシを止めて、頷く。


 カツキのいた元の世界でだって、戦争は常に起きていた。もちろん利害関係は開戦の大きな要素だったが、それよりも人々の恨みつらみが引き金となるものだった。それさえなければ、たかが利害関係だけで大きな戦争を起こせはしない。


 なら、恨みつらみを失くすか、消え去るまで待つしかない。現在の出来事が文字にも残らないほどの未来でなら、気が遠くなるがそれは可能だ。


「いずれまた、イルストリアの作物とか君の力でこっちの人類を助ければ、印象が変わるんじゃない?」


 しれっと言ってのけるカツキへ、サルキスはそのとおりだとばかりに微笑んだ。


「ああ。どうせわたしはこの先ずっと生きていく。お前たちが死んで骨になって、その骨が風化し大地に砕け散ってもなお生きるのだから」

「ならサルキスが寂しくないよう、イルストリアにも住人を増やさないとね。そっちはちゃんと友好的に接して移民を募るんだよ、いい?」

「善処はしよう。ふっ、しかし……魔王に友好的に接しろなどと言えるのはお前くらいだぞ、カツキ」


 何のことやら、とカツキはわざとらしく肩をすくめる。


 真夜中の共同浴場に、少年たちの笑い声が響いていた。

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