第9話 僕がいないところで何かあった件

 この世界に召喚されたカツキのクラスメイトたちのうち、血気盛んな十人の男子たちが城を出て、魔物に占領された大陸西へ向かって一週間。


 貴重な事前情報では、十年前に現れた魔王は西の果ての島にいて、そこから魔物をこの大陸へと送り出しているという。


 ならば、西に向かえばいい。たったそれだけの情報を鵜呑みにして、ヴィセア王国からの支援物資となる食糧や武具、旅の必需品である地図や方位磁石などを持って、彼らは西へ出発した。


 それがどれだけ甘い見通しなのか、誰も分かっていなかった。


 運動部所属の男子を中心とした十人のパーティは、人類の生存圏から離れてたった三日で迷子となってしまったのだ。正確には魔物の占領地のおぞましさ——足を踏み入れた直後に溢れかえる死骸や骨を目の当たりにして混乱をきたし、当初の予定を変更して魔物との接触を極力控えて慎重に進んだ結果、現在地が分からなくなってしまった。


 彼らに星を読んで方角を明らかにすることなど当然できず、人類がいなくなった大陸西の領域では道を尋ねられる人間も存在せず、荒廃した村落や焼失した街はあてにならず、楽観的に意気揚々としていた彼らの精神は徐々に削られていく。


 そして——先日、彼らは初めての魔物との正面からの遭遇を経験した。


 相手はいわゆるゴブリンたちで、たった五匹しかいなかった。


 しかし、恐怖に駆られ、人類の土地をしてしまった魔物への憎しみが心を満たし、彼らは半狂乱になりながら虐殺オーバーキルした。十人で五匹を取り囲み、ただひたすらに剣を鈍器のようにして殴る。祝福ギフトによる精神高揚、腕力増強、狂戦士化……気付けば、彼らは逃げ出していた。ゴブリンの半壊した死骸を見つけた他の魔物たちが怒りの咆哮を絶え間なく全方向に響かせている中、必死で夜の森に逃げ込み、見つけた半地下の洞窟に息を殺して耐え忍んでいた。


 魔物の報復、彼らは誰一人、そんなことを考えもしなかった。


 魔物とて、同胞を思う気持ちはある。傷つけられれば怒り悲しみ、殺されれば復讐を誓う。


 そんなことを、考えもしなかった。


 まるでゲームのようにただ敵を殺せばいいと考え、緊張しながらも実行し、そうやってやっと現実と向き合わざるをえなくなった。


 これは、己の命と種族の命運を懸けた、純粋なる生存競争である、と。


 太古の昔よりすべての生物が経験してきた淘汰の過程、未来へ命を繋ぐ通過儀礼。人類は生物の頂点に達するまでにどれほどの他の生物を殺害し、繁栄を享受できるようになるまでの礎となった人類の犠牲者は星の数ほどいて、それらは元の世界で何不自由なく現代を生きていた彼らには想像もつかない。


 もらった服で剣に付着したゴブリンの血を落としながら、さして深くもない洞窟の奥にいた十人の男子は、皆一様にうなだれ、壁に背を向け、敵地のど真ん中ですっかり意気消沈していた。


 彼らの中心となる川村タイラは、ここまで彼らを引っ張ってきたが、限界をとっくの昔に悟っていた。サッカー部のレギュラーだったタイラは、元の世界では自信に満ち溢れ、クラスの人気者だった。小さいころから背が高く、運動神経も抜群だったためずっと憧れの存在としてクラスの中心にいたし、恵まれた家庭に育って、来年からは地元のサッカーチームのユースに誘われて入団することが決まっており、学校だけでなくすでに社会でも活躍を期待されていた。


 要するに、彼は常に持ちつづけてきた万能感を手放せず、慎重さとは無縁だった。そうある必要がない人生を送っていた。


 タイラが初めて逃げる、撤退することを真剣に考えはじめたころには、すべてが遅すぎた。自分一人で戦うことはかまわなかった、祝福ギフトの『黄泉防人ヨモツイクサの槍』は強力だったし、一対多でも十分やっていけることを確信していた。


 だが、膨れ上がる魔物の数は、タイラが対処できる数をとっくの昔に超えていた。万を超える数の魔物の到来を感じ取った瞬間、タイラは考えるよりも先に体がその場から離れようとしていた。震える足を隠して、自分よりも弱い他の九人を急いで誘導して森の洞窟に逃げ込む。


 そこで二日を過ごし、ついにタイラも絶体絶命であることを認めざるをえなくなっていた。


 ランプ一つが灯るだけの洞窟の中で、誰かが弱音を吐く。


「うぅ、ちくしょう、こんなはずじゃ」


 タイラはようやく、重苦しい方向へ空気が変わることを恐れた。隣にいた、暗くて顔も見えにくい誰かに声をかける。


「おい、大丈夫か?」


 タイラが無意識のうちに手を伸ばそうとしたとき、その誰かは思いっきりタイラの差し出した手を叩き落とした。


「触るな! お前のせいで、こんなとこに来る羽目になったんだろ! 責任取れよ!」


 タイラはその声で分かった。こいつはタイラにずっとついてきた中島ユウセイだ。タイラの腰巾着のようにどこへでもついてきて、自分の貧弱な顔をネタに自虐の笑いを取る。正直タイラはユウセイのことが好きではないが、突き放すと何を言い触らされるか分からないため放置していた。


 そのユウセイ——タイラよりも立場が弱いはずの彼——が、タイラを責めた。今の状況は、お前のせいだ、と。


 その一言で、タイラは我を忘れて激昂した。


「何言ってんだ! お前らだって喜んでついてきたじゃねぇかよ!」


 タイラは怒りに任せて、ユウセイを突き飛ばす。壁に当たってもがき、悲鳴に近い泣き声を上げる芋虫のような彼を、タイラは侮蔑の視線で見た。


 しん、と一瞬だけ洞窟内は静まり返った。しかし、すぐにユウセイの泣き声に誘発されたのか、すすり泣く声があちこちから上がる。


 その中に、誰もが胸に秘めていた弱音を吐き出した者もいた。


「どこまで行ったって人はいないし、野宿ばっかりだし、飯もなくなってきたし……もうやだ、帰りたい」


 もはや、この集団に戦闘意欲も士気も存在しない。何とか集団としての崩壊を押し留めているのは、ここが壁のある洞窟だからだ。箱庭のように安全であると信じ、こもっていることが少しでも心を安らげる。


 そんなときだった。洞窟の入り口の方向、外からの足音がした。


 十人全員が恐怖に顔を引きつらせ、ざわつく。


「ひっ!?」

「ま、魔物か!?」


 タイラはようやく、彼らをなだめる言葉を口に出した。


「静かに」


 その言葉を聞いたわけでもなく、彼らは押し黙る。もうタイラは自分がこの集団のリーダーであるとは思っていない、ここまでの統率の失敗から、自然とその任からは降ろされたようなものだ。


 ただ、静かになったのは、彼らの視線が注がれる先に見慣れた三人組の顔が現れたからだ。


「いたいた。大丈夫か、川村、みんな」


 場に不釣り合いなほど陽気で穏やかな声は、以前と何も変わっていなかった。


 小学校のころのあだ名をいまだに使われている、いいんちょこと堂上どうじょうリオ。その後ろから神田かんだナオ、別当べっとうアリサがやれやれといった表情でやってくる。


 何よりも洞窟にいた十人の男子が驚いたのは、彼らの風貌だ。


 学校指定のジャージ姿だった面影はなく、まるでこの世界の住人のように毛皮と鎖かたびら、鎧小手を付けて剣を帯びているリオ。丸がいくつも重なった不思議な形の杖を持った黒装束のナオ、腕や足などあちこちに黒い短剣をベルトで固定している同じく黒装束のアリサ。


 普通の中学生だったはずの男女三人は、すっかり大人びた顔をしていた。よく見れば服や鎧のあちこちに血の跡や傷跡が見える。


 もしかして、ここまで戦ってきたのか。それよりも、タイラの口からは期待を込めて別の言葉が出た。


「い、いいんちょ……どうしてここに?」

「そりゃお前らが心配で、急いで追いかけてきたんだよ。ほら、とりあえずみんな集まれ。ナオが治療の祝福ギフト持ってるから」


 リオの呼びかけに、十人は亡霊のように従い、集まってきた。動けないほどの負傷はなく、全員がただ極度の疲労と足の痛みを訴えているだけで、瞬く間にナオが祝福ギフトの『医薬祖神スクナ薬湯』を杖から溢れさせ、十人の患者に有無を言わさずぶっかけていく。


「まったく、いいんちょは甘ちゃんなんだから!」


 そう怒りつつも、ナオは手を抜かない。アリサが耳元でこんなささやきをしてからかう。


「文句言いつつも正妻はちゃんとついてくるんだよねぇ?」

「はあ!? 誰が正妻だ!」

「ひっひっひ」


 余裕たっぷりのやり取りは、いつもクラスで起きていた。ほんの少し昔のことを懐かしみ、力ない泣き笑いを浮かべる者さえいる。


 リオとナオの友人以上恋人未満の関係をからかうアリサ、それを見て笑うクラスメイト。


 そんな風景は二度と失われたとさえ思っていた十人全員を勇気づける。


 とはいえ、リオはこれからのことをしっかりと考え、その勇気は現在不要なものと判断した。


「しっかし、想定外が多すぎる。全員、一旦戻るぞ」


 十人の誰もが反対はしない、しかし不満をその顔にあらわにしていた。


 それを見てナオがより不満を顔どころか言葉として表そうとしたのを、アリサが食い止める。


 ここまできておいてもったいない、いわゆる埋没費用サンク・コスト、コンコルド効果による誤った気持ちはどうしても存在してしまう。だが、それにこだわっていては生きて帰れなくなるのだと、誰かが決断しなくてはならない。


「態勢を整えて、もういっぺん挑もう。今度は失敗しないように」


 タイラから自然とリーダーを引き継いだリオが、全員を洞窟から連れ出し、城へと戻すことに成功したとしても——この十人の失敗は城の人間たちに失望を与えるだろう。


 そこからどう挽回し、チャンスを活かすか。それはリオも常に考えていた。考えなくては魔物をスムーズに倒せない自分たちには魔王討伐のための切り札という存在意義がなくなり、ヴィセア王国という異世界において唯一無二の後ろ盾を失うからだ。


 そんな悩みはおくびにも出さず、リオたちは安堵して泣きじゃくる十人の男子を慰めながら、アリサの祝福ギフト千代女クノイチの技』で魔物との遭遇を回避しつつ帰還の途を辿る。

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