第四十五話 失意の底

 時が凍ったように遅く。音が吸い込まれたように静かに。

 ニッグは倒れた。

 誰もが混乱する中最も冷静だったのはエタだ。本人は認めたくないだろうが……仲間を失った経験があるからこそぎりぎりで踏みとどまれたのかもしれない。

(さっき、クサリクの首飾りを食べると強くなった。やっぱりアラッタの魔物にとって装飾品は掟に関わる重要なもの。それを壊されて生きているのは……そういうことか!)

 血がにじむほど唇をかみしめてから、口を開く。

「ミミエル! 多分、どこかにもう一つ宝石があるはずだ! それを壊して!」

 ミミエルははっとする。

 あまりにも単純な詐術だ。あたかも宝石が一つしかないように振る舞い、倒されたふりをして不意を突く。

 気づいてしまえばなんということはないが、詐欺とは単純なほど引っかかるものなのだ。

 ミミエルが目を凝らす。

「尻尾の真ん中に何かあるわ!」

 ご丁寧に鱗の色に似せられた糸に宝石が括り付けられていた。とはいえ今までなぜ気づかなかったのか不思議なくらいなのだが、心のどこかで宝石は首元につけるものだと思い込んでいた。

 その心理すらもアラッタの魔物は周知していたのだろう。

 ターハがぶんと棍棒を振り回し、気をひく。それに襲い掛かったウシュムガルの隙をついてミミエルが足元に肉薄する。

 先ほどよりも動きが鈍かったのはやはり、首元の宝石がなくなった影響もあったのかもしれない。

 ミミエルの掬い上げるような一撃は確かに宝石を砕いた。

 再び倒れるウシュムガル今度は油断せず、ターハとミミエルは念入りに頭を叩き潰す。

 その間に負傷者を安全な場所まで運んだラトゥスはニッグの元に駆け寄った。

「ニッグ? ニッグゥ! 返事して!」

「ら、と……ごめ……もう、無理かも……」

「そんなこと言わないで! き、君は……この……」

 何か言いかけたラトゥスの口をニッグはそっと塞ぐ。

「もう……き、みは……自由に……なって……」

 胸から零れ落ちる血は止めようがなく。同時にラトゥスの瞳からも涙があふれていた。

 そこに沈痛な面持ちのエタもニッグに駆け寄った。あふれる血のせいでエタは今にも気を失いそうだったが、拳を限界まできつく握ることでなんとか堪えた。

「エタ……この、ほうせ、き」

「宝石? 何かあるの?」

「こ、れ、つめたかった。でも、熱く……」

 ニッグは決死の思い出アラッタを攻略するための鍵を渡そうとしてくれている気がした。

 とぎれとぎれの言葉をつなげて考える。

 宝石を奪ってすぐはまだ冷たかった。しかしウシュムガルから離れると熱くなった。

 逆ならわかる。

 熱した石がやがて冷めるのは神が定めたものの道理だ。

 だがこの宝石はその法則をさかしまにしている。そこには常ならざる法則がある。

 すなわち神々が地上に遺した、掟。

 その核心に触れた気がした。

「ニッグ。ありがとう。必ずラトゥスを守ってこの迷宮を攻略してみせる」

 エタがそう言うとニッグは苦しそうに、でも精いっぱいの笑顔を作った。

 そしてふっと表情が消える。

 彼の魂は冥界に迎えられたらしい。

(何度、こんなことを繰り返せばいいんだ……?)

 人はいつか死ぬ。それはやむを得ない。それでも……脂ぎった強欲が交錯する陰謀で誰かが死ぬことをよしとしなければならないのだろうか。

 それさえも神々から定められた運命だというのだろうか。

 ラトゥスがすすり泣く声はようやく戻ってきた部隊の鬨の声にかき消されそうだった。

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