第四十三話 死線
何とかして負傷者を運んでいたエタとラトゥスのうち、先に異変に気付いたのはラトゥスだった。
「何? この音……?」
カストラートとしての聴覚なのか、ウシュムガルの足音を敏感に察知した。しかし彼は戦闘経験がないため、それを危険なものだとは認識できなかった。
その疑問のおかげで耳を澄ませたエタは徐々に近づいてくる振動を察知してぐるりと首を回し、まだ遠い影を視界に納めた。不運だったのはエタの片目と片耳が機能していないため、正確な距離を把握できなかったことだ。
「ラトゥス! 急いで! 何か来てる!」
肩を貸している負傷者もそれを聞いていたのか、ほんの少しだけ足を速める。
しかし近づいてくる音の方が明らかに速い。
「振り向かないで! そのまま走って!」
ある程度実戦慣れしているエタは素人がもっとも恐れるべきなのは恐怖と混乱だと知っている。
だからこそラトゥスには何も見ないように警告したが、見るなと言われれば見てしまうのが人としての性である。
恐怖のあまり振り向いたラトゥスは甲高い悲鳴を上げた。
(まずい!)
それに不快感を覚えたのか、それとも目に入った虫を潰そうとしたのか、わずかに進路がずれていたウシュムガルはエタたちにぶつかるような軌道に変更した。
「走って!」
恐慌していたラトゥスだったが、エタが力強く単純な命令を下すとほとんど反射的に歩みを速めた。
一心不乱に涙をにじませて前へと進むラトゥスとは違い、ちらちらと後ろを見るエタはあれが竜に近い外観をしていることに気づいた。
突如として脳裏をよぎったのはわずかに、しかしはるかな遠くの過去の記憶。
ザムグ、カルム、ディスカール。
三人は石の戦士の一体、『竜』によって、否、エタのせいで死んだ。
ぐっと奥歯をかみしめ、足に力を入れる。
(あんな思いはたくさんだ!)
だがもちろん気迫や思いで足が速くなるわけでも力が強くなるわけではない。
みるみるうちにウシュムガルとの距離はつまり、その爪が三人にかかる寸前にエタはぐいっと二人をひっぱり、横倒しにした。
ウシュムガルは急旋回が苦手なのか、間一髪躱すことができた。
口の中に入ったざらついた砂を吐き出しながら、目を上げ、遠くなる影にほっと胸をなでおろす。
しかしその安堵は長く続かない。
今まで進路をわずかに変えたことはあっても走り続けていたウシュムガルは一度立ち止まった。
何かを探すように鼻をひくひくさせる。
嫌な予感がしたエタは有無を言わさず負傷者とラトゥスを立ち上がらせる。
「逃げるよ!」
「ど、どこに!?」
「わからないけど、ここにいちゃだめだ!」
エタとラトゥスでウシュムガルに勝つ見込みはない。
誰かが救援に駆け付けるまで逃げ続けるしかない。
だが。
本当に。
本当に何の脈絡もなく、エタは上を見た。
見なければよかったかもしれない。
ウシュムガルが巻き上げたと思しき岩混じりの土砂が降り注ごうとしていた。
反射的に顔を腕で庇う。
「うわあああ!?!?」
「きゃああああ!?!?」
二人まとめて悲鳴を上げる。またしても横倒しになる体。
幸運にも大きな岩には誰も当たらなかった。
だが落下する細かい石は容易くエタとラトゥスの柔肌を傷つけた。
さらに大量の土砂のせいで砂煙が起こり、まともに視界が利かなくなった。
「ラトゥス! 無事!?」
「う、うん!」
動揺しながらも返答するラトゥス。だが。エタは妙なことが気になった。
(今の声、ラトゥス? いつもより低かったような……)
しかし疑問に拘泥している暇はない。
声の方向に手を伸ばす。
ざらりと、岩のような手ごたえ。人肌でも、服でもない。まるで鱗のような。
恐る恐る見上げると、凶悪な顔つきのウシュムガルがいた。
(もしかして、耳に砂が入って、足音が聞こえなかった?)
もはや絶望する暇さえない。
ゆっくりと口を開けるウシュムガルに。
「おおおおおお!」
横合いからニッグの剣が叩きこまれた。
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