第十八話 漂流
夏だがヒヤリとする涼気を感じるのはこの場所のせいなのか、エタの焦りのせいなのか。
それを判断することはできなかった。
ひとつ確かなことは、今まさに絶体絶命の窮地にあるということだ。
ウウウウ。
不気味な唸り声が夜の闇から響く。
そちらに松明を向けるときらりと光る目がいくつも並んでいた。
(でも、ミミエルの方が怖いかな)
ふと、オオカミの瞳をもつ少女を思い返し、少しだけ緊張が解ける。
それを見透かしたのかオオカミは獰猛な声で吠える。
びくりとそちらに視線を向ける。
そう。
今エタはオオカミの群れに囲まれていたのだ。
数は正確にはわからない。
木につないでいたロバが急に暴れだしたので飛び起きたのだ。
奇襲される前に気づけたのは本当にただ運が良かっただけだろう。
オオカミたちは一息でとびかかれる距離で遠巻きに吠えたてるだけで致命的な距離には近づいてこようとしない。
おそらくこちら側を警戒しているのだろう。
(ロバはともかく僕は戦えないんだけどね)
エタは過去のトラウマから血を見るのがとても苦手だ。
それゆえに血につながる暴力を他者に振るうことができない。
ありがたいことにオオカミはそんなことを知らない。オオカミからすればつい先日群れで通りかかった気持ちの悪い二足歩行の生物がなぜか一人とロバが一頭いただけなのだろう。
じわりと汗がにじむ。
オオカミは一気に襲い掛かるような真似はせず、こちらが疲れるのを待っている。
そしてもともと体力がなく、病み上がりのエタはそう遠くないうちに音を上げる。
女王蟻や、石の巨人、それに加えて魔人と戦ってきた自分がこんな獣相手に殺されてしまうのだろうかと自問する。
(僕が戦ったわけじゃなくてその場に居合わせただけみたいなものだけど)
こんな時でも自虐的な感想はエタの脳裏をかすめる。
そうしてたいてい結局自分一人では何もできないのだろうなという結論に至るのだ。
だからこそ。
とてつもないほど非道な決断を下すことができる。
「覚悟を決めないとだめだね」
ロバの手綱をぎゅっと握りしめる。
ちらりと今にも暴れだしそうになりながら、それでもオオカミを睨みつけるように堂々と立っているロバを見る。
歯を食いしばり、手綱を近くの低木に括り付ける。
それからオオカミのいない逆側に向かって全力疾走する。エタを追うように、ロバも走るが、びんとはった手綱がそれを押しとどめた。
歯を、より強く噛みしめる。
むごい仕打ちだ。
数日とはいえ、愛着もあり、荷物を持ってくれていたロバをオオカミのエサのように扱うなど。
しかもロバは本能かもしれないが、自分を追ってきていた。
もしかすると自分を仲間のように思っていたのかもしれない。
そんな相手を自分の命惜しさにオオカミに差し出した。
ふと、自分のためにその命を散らしたカルム、ザムグ、ディスカールの姿を思い出す。
(僕はあの時と同じことをしているんだろうか。こんなことをしなくていい日は来るんだろうか)
心の中の問いに答えたわけではないだろうが、ロバが夜闇をかき回すような、叫びをあげる。
恨みがこもっているような、あるいは病に苦しむ人が咳き込むような叫びだった。
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