第三十二話 最後まで

 茫然としていたターハはくるりと振り向いたミミエルのオオカミの瞳の鋭さによって意識を取り戻した。

「おばさん? 何か用でもあるの?」

 その表情も、声音も、ターハがよく知るミミエルのものだったが、だからこそそれが不気味だった。

 ひとまず先ほどの独り言についてはなかったことにするべきだと悟った。

「あー……いや、なんだ。あんた、あたしらを恨んでねえかと思ってよ」

「は? なんで?」

 心底わからないという顔だった。

 だからこそターハにはミミエルが理解できなかった。下山したラバサルやターハを責めないことを。

「いや、あたしはあんたと違ってすぐに迷宮から逃げ出したろ。あんたやザムグたちと違ってエタを助けようともしなかったしな」

 この一日、ターハが気にしていたことの一つだったが、ミミエルにとっては何でもないことだったらしい。

「別にいいでしょ。エタも逃げろって言ったし」

「まあそりゃそうだがよう。どうしてそう割り切れんだよ」

 ミミエルは年少の仲間を失い、あれだけ執着しているエタも失うところだった。怒り散らして当然だろう。

「どうしても何も、どうしようもなかった。それだけじゃない」

 少しだけ、ターハはミミエルの人となりを理解した。

(こいつ、根本的に諦めてんだ。だからエタに期待してんだな)

 ミミエルは悪い意味で頭がいい。すぐに結論を出す。無理だと悟れば悩みながらも諦める。

 反対にエタはいい意味で頭が悪い。いや、要領が悪いというべきか。無茶苦茶な状況でももがき続ける。だからこそ誰もができないと思ったことを実現できる。

 それがどんな犠牲を払うことになっても。

 自分にないものを求めているのだろうか。

「もうういいかしら。あたし、まだ疲れてるんだけど」

「ああ。もういいぜ。体調はもう平気なのか?」

「ええ。ちょっとだるいだけよ」

 実のところ、ターハやラバサルも気分の悪さがあったが、下山したミミエルはそれ以上に疲弊していた。

 外傷は少なかったが(石の戦士と戦ってそれなのも驚きだが)悪態をつき、平衡感覚を失いながら、水すら飲めずに吐き戻していた。

 しかし時間がたってもエタが戻らないことを聞いてすぐさまエタの捜索に戻り、結局エタを見つけたのはミミエルだった。

 信じがたい執念だった。

 すたすたと歩き去る背中を見送る。

 だが何より、ターハはミミエルが極めて危険な台詞を言っていたことを聞き逃していなかった。

「エタはあたしの神、か。それがどんだけ危険な思想なのかわかってんのかね?」

 ウルクに、あるいは都市国家群において、神は天上の権力者であり、人の世の存在であってはならない。

 かつて王でありながら神を僭称した男が突然の天災によって死亡したという伝説もある。

 死して神の末席に加えられるのならともかく、人を神とみなすのは禁忌に等しいのだ。

 確固たる法があるわけではないが、例えば今の発言をイシュタル神殿あたりにターハが密告すればミミエルはイシュタル神の信徒ではいられなくなるだろう。

 人を好きになるのもいい。

 愛するのもいい。

 尊敬するのもいい。

 だが崇めるのはダメなのだ。

「やるなって言われたらやりたくなるのが人ってもんだがね」

 どうしたものかと頭を掻きながらなるようにしかならねえな、と結論を出した。




 ミミエルがいなくなった天幕の中はエレシュキガル神が治める冥界のように静まり返っていた。

 シャルラはエタにどう声をかければいいのかわからず、エタも立ち上がれずに下を向くだけだった。

 そこに現れたのはラバサルだった。

「わしは口がうまくねえからな。率直に聞くぞ。エタ。おめえはどうしたい?」

「ラバサルさん。今そんなことをエタに聞くのは……」

「いいんだ。シャルラ。これは……僕が決めないといけないことだから」

 人形のようにぎこちない動作ながらもエタはようやく立ち上がった。

「先に言っとくがな。わしはおめえがここでやめるつもりなら別に構わねえと思ってる」

「そういうわけにもいきません。僕は……最後までやり遂げないと」

 最後。

 それは戦士の岩山を攻略することか。

 イレースを弔うことか。

 あるいは……人生の終わりまでか。

「……なら、知らせとくぞ。どうもトラゾスの教祖を捕まえる動きがあるらしい」

「……! やっぱり今回の件ですか?」

「そこまでは知らん。だが、まずは落とし前をつける必要があるんじゃねえか?」

 ラバサルの問いに、エタは……しばし熟考してから結論を出した。

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