第二十七話 

 三人とも振り返ることはなかった。

 それはカルムにとって侮辱だったと思ったからだ。

 石のイナゴが追いかけてくることはなかったが、一方でいまだにそこかしこに石のイナゴがいたため進路をかえつつ、何とか戦士の岩山の外へと向かっていた。

 太陽の位置から逆算したおおよその方角でしかないが、霧があったころよりはましな道筋であるはずだった。

「多分、もうすぐ外に出ると思う。そこまで何とか頑張ろう」

 弱弱しい励まし。

 しかしそれでもカルムの奮戦が彼らに勇気を与えていた。

「エ、エタさん! あ、あれ!」

 ディスカールが指さした方向には、またしても石の戦士がいた。

 蛇のような頭。魚のうろこ。獣の脚。鳥の翼。それらが組み合わさった巨大な土気色の怪物。

「『竜』! 走ろう! 僕のことは置いて行って……」

「馬鹿な事言わないでください! 全員で脱出しましょう!」

 息を切らせて全力疾走する。

 振り向かない。振り向いてもどうにもならないからだ。

 人生でもっとも辛い駆けっこ。

 後ろから巨大な足音が迫る。

 汗と涙をまき散らしながらももがき続ける。

 そしてやはりそれは無理な走りだったのか。三人のうちだれかが足をもつれさせて転んでしまった。

 今日いったい何度転んだだろうか。

 しかし今度こそ終わりだ。

 短い人生の終わりを覚悟して。


「え……? こない?」

 倒れたまま後ろを振り向くと、『竜』はエタたちの十歩ほど前で立ち止まっていた。イライラするようにこちらを睨みつけている。

 よく見ると足元に何か文字が刻まれているようだった。

「これ、エタさん。ディスカール。もしかして……」

「め、迷宮の外に出た?」

「うん、うん! そうだよ。ぎりぎりで間に合ったんだ!」

 迷宮で生まれた魔物は迷宮の外に出られない。だから『竜』はどんなに追いかけたくても追いかけられない。

「早く出よう。ここは安全だけど長居は無用だ」

 まずザムグとディスカールが立ち上がり、エタを起こす。

 先ほどと同じように肩を借り、エタは歩く。しかし先ほどと違い、希望にあふれた歩みだった。

 緩い傾斜を登り、視界が開けた。

 眼下には見慣れた荒涼とした大地。


 ここは崖だった。


 へなへなと力が抜け手と膝を地面につけるエタ。

 他の二人も似たり寄ったりだった。

「そんな……ここまで来て……」

 目の前の崖はかなり険しい。とてもではないが手持ちの縄で降りられる高さではない。飛び降りるのはただの自殺だ。

「戦士の岩山はあたりの地形をなだらかな山に変える。でも、ここはその範囲外だから……影響を受けないんだ……」

 外に出られたからこそ脱出不可能な地形に突き当たってしまった不運を嘆くべきか、あるいはこれこそが運命だったのだろうか。

「引き返す……のは無理ですよね」

 ちらりと背後を窺うと『竜』が大口を開けてこちらを狙っていた。どうやらかなりしつこい石の戦士らしい。

「な、ならここで救助を、ま、待てば……」

 ディスカールの提案はほぼ唯一の回答に思えた。

 だがエタは信じがたいものをみた。

「いや……だめだ。『竜』が少しずつこっちに近づいてる」

 ザムグとディスカールも目を向けると、確かに『竜』がこちらににじり寄っていた。

「これ、何が起こってるんですか?」

「迷宮が成長してるんだ。だから迷宮の範囲が広がっている。僕たちが攻略に失敗したことで迷宮が成長する条件を満たしたんだと思う」

 つまりこの窮地を抜け出すには『竜』を倒せるほどの救援が迅速に来てくれる幸運に期待するしかない。もちろんあたりには誰もいない。

 視界が開けているからこそ絶望もまたよく見えた。

 『竜』はゆっくり近づいてくる。

 先ほどは三十歩ほどの距離だったが今は十五歩もない。

「エタさん。俺は感謝してるんです」

 ザムグが唐突に言った。

 エタは遮るつもりはなかった。

「毎日毎日酒を運んで売るばかり。きっとこの先もこんな生活が続くと思ってました」

 エタは遺言を聞いていると感じた。おそらくそれは正しかった。

「俺、ニントルと二人でいたころの記憶ははっきりしないんです。いや、違うかな。同じような毎日だったから昨日と今日の区別がうまくつけられなかったんです。でも、カルムやディスカールが来てくれて辛いけど希望が湧いてきて……エタさん、ミミエルさん、ターハさん、ラバサルさんに出会えて数日でしたけど、すごく毎日が輝いていたんです」

「ぼ、僕も同じ気持ちです。た、多分カルムも」

「そうか。それならよかったな」

 ザムグとディスカールは笑顔だった。

 これから死ぬとしても、少しの間二人を……いや、四人を笑顔にできたのだとしたら、少しは人生の価値があったのだろう。

「だから……エタさんには生きていてほしいです」

 え、という暇もなかった。

 ザムグとディスカールは素早く縄でエタを縛り上げ、手足と口を封じた。

「? !?」

 もがくエタ。

 不吉な予感が胸を締め付ける。

 ザムグは背嚢から巨大な綿毛のようなものを取り出した。

「これはニントルの掟です。『種を運ぶ』掟。普通の掟は他人に貸し借りできないんですけど……これは例外みたいですね。これを取り付けるとものを浮かせることができます。人間くらいの重さだと厳しいですが……運があればここから落ちても助かるかもしれません」

 もがくことでエタは抗議したが、もともと衰弱していることもあってまともな抵抗はできなかった。

 ちらりと向こうを窺うと、『竜』はもうずいぶんと近づいていた。

「エ、エタさん。生き延びるべきは、あ、あなたです」

「そうです。あなたなら俺たちよりも偉大なことができるはずです」

 そんなことはないと叫びたかったが、口を封じられて何もしゃべれない。

 二人は身動きできないエタを強引に崖の縁に立たせた。

「これも託します。何かの役に立つかもしれません」

 ザムグは自分の携帯粘土板をエタの懐に差し込んだ。すっきりとした、でも物悲しい顔だった。

「では、お先に冥界に行きます。あなたにエンリル神の加護を。ああ、でも……」

 エタを突き落とす。

 生き延びさせるために。

「できたら、ニントルのことは頼みます」

 落下するエタが見たのはザムグとディスカールの笑顔。

 そして背後に迫る『竜』の咢だった。

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