第三十六話 森のしじま

 エタは掟によって粘土板に表示される蟻の位置を逐一確認しながら森を歩いていた。

 ミミエルによるとこの辺りは普段なら数歩進むだけで蟻が襲ってくるような危険地帯らしいが、森は不気味なほど静まり返っていた。

「ねえエタ。あのお嬢様には言わなくていいの?」

「シャルラのこと? シャルラに伝えたら多分リムズさんの耳にも届いちゃうからね」

「ふうん? あいつのこと信用してないんだ」

「ん? いやそういうことじゃなくてシャルラは今ここに社員として来てるから会社の不利益になることはしないってだけ。僕にニスキツルを雇う財力があればきちんと協力してもらえたんだけどね」

 それだけの財力があればそもそもすぐに借金を返すこともできたので、やはり金は洪水に匹敵するほどの最大の武器なのだろう、とエタは自問していた。

「あたしが今からあいつらを雇うのはありかしら?」

「だめだね。企業は一度結んだ契約と相反する契約は結べない。だからやっぱり僕らだけで女王蟻を倒さなくちゃいけない」

「がきんちょ。女王蟻ってのは強いのかい?」

「誰ががきんちょよ、おばさん。はっきり言ってかなり強いわ。普通の大蟻よりもさらに大きいし、皮も硬い。五級冒険者が十人くらいいないと難しいわね。ちなみに私は六級。実際の実力は四級か五級くらいって言われてるけどね」

 二人ともおなじみの悪態をつきつつも冷静に戦力を分析する。

「あたしは四級」

「わしの階級は三級だ。衰えてっから今ならせいぜい五級くらいだな。女王蟻が弱ってなきゃわしらは全員冥界送りってことか。一応いくつか武器は持って来てるっつっても、不安はあるな」

「ラバサルのおっさんはよくそんな荷物持てんな」

 ターハの言う通り、ラバサルはこの中で一番の荷物を背負っていたが、軽々と歩いていた。

「この鞄はわしの掟でな。持ち物を軽くする掟だ」

「うわ。便利。頂戴」

「断る。ついでに言っておくとわしから三十歩くらい離れると効果を失うから奪っても意味ねえぞ」

「つまんないわね。ちなみにそれってあんたの三十歩? あんた結構足短いから誤差が出そうなんだけど」

「……わしの三十歩だ」

 ラバサルの表情はあまり変わっていないように見えたが少しだけショックを受けているようにも見えた。

「おい。がきんちょ。もしかしてラバサルのおっさん、足が短いのを気にしてるんじゃねえか?」

「はあ? 男のくせにみみっちいわねえ」

 ……さっきまで悪態をつきあっていたはずだが、なぜ女子という生き物は噂話をするときに限って素早く団結するのだろうか。

 男には永劫理解できなさそうな真理だとエタはしんみりした。

 しかしそんな気持ちは一瞬で吹き飛び、ぴたりと立ち止まってしまった。

「エタ。どうかしたか」

「尾行していた蟻がいなくなりました」

「死んだのかよ」

「……違うわね。そこに女王蟻がいるのよ」

 どのような根拠かはわからないが、ミミエルの断言を誰も疑わなかった。それほど確信に満ちている口調と表情だった。

 緊張をほぐすため、あえて行っていた会話が止まる。だがエタは切り出した。

「距離と方角は覚えています。ここから見える、あの丘ですかね。多分、あそこに穴を掘って住処にしているのでしょう」

 指さした方向には小高い緑に覆われた丘があった。和に見えるが、エレシュキガル神の配下であるガルラ霊が顕れそうなほど、不気味な気配があった。

 おそらく、小虫一匹いないからだろう。生の気配にあまりにも欠けていた。

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